使徒行伝21章 「一番すぐれているもの」

A 兄弟の忠告 1−14 − 神への愛
   B 御霊の示し 1−6
   B 預言 7−14
A キリストにある自由 15−26 − 弱い者への愛
A 自分のいのち 27−40 − 不信者への愛
   B 宗教者 27−36
   B 権力者 37−40

 使徒の働き21章をお開きください。ここでのメッセージ題は、「一番すぐれているもの」です。

A 兄弟の忠告 1−14 − 神への愛
B 御霊の示し 1−6
 私たちは彼らと別れて出帆し、コスに直航し、翌日ロドスに着き、そこからパタラに渡った。そこにはフェニキヤ行きの船があったので、それに乗って出帆した。やがてキプロスが見えて来たが、それを左にして、シリヤに向かって航海を続け、ツロに上陸した。ここで船荷を降ろすことになっていたからである。

 私たちは前回、パウロの一行がギリシヤからエルサレムへ向けて旅を始めたところを読みました。マケドニヤのところを通って、アジアのミレトという港に到着しましたが、パウロは、エペソにいる長老たちを呼んで、最後の勧めをしました。それは、「自分の行程を走り尽くす」ことを知らせたものであり、私たちに、自分の行程とは、生きるのもキリスト、死ぬのもキリストという生きる姿勢そのものであることを学びました。

 そして、パウロたちは、彼らと別れて出帆しました。彼らは、コス、ロドス、パダラと行きましたが、フェニキヤに行く直行便があったので、それに乗りました。ちょうど、各駅停車の電車から、特急電車に乗りかえるように、なるべく早く行ける船に乗り継いだのです。彼らはエルサレムへの道を早めていました。ツロというのは、今のレバノンにある海岸都市です。

 私たちは弟子たちを見つけ出して、そこに七日間滞在した。彼らは、御霊に示されて、エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告した。

 ツロから次に出る船便を待っている七日間、彼らは弟子たちを探して、そこで寝泊りしました。なぜ、ここに弟子がいるのでしょうか。使徒の働き1119節によると、「さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。」とあります。ステパノの殉教によって散らされた人が、初めてここでみことばを語ったのです。ステパノの殺害を指揮したのは、このパウロに他なりません。彼の激しい教会への敵意によって、エルサレムにいるクリスチャンたちは、各地に散らばらなければいけなかったのです。今、ここで、彼らはパウロを迎えて、パウロを慕っています。神さまは、私たちの思いをはるかに超えたところで、すばらしい事を行なってくださいます。

 ここで、ツロの弟子たちは、御霊に示されて、パウロにエルサレムに上らぬようにと、しきりに忠告しています。彼らは何を示されたのでしょうか。パウロが、エペソの長老たちにこう話しました。「ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。(20:23」なわめと苦しみがパウロを待っていると、はっきり示されたようです。ご聖霊は、パウロだけではなく弟子たちにも示されて、これから起こることを公にされました。

 しかし、滞在の日数が尽きると、私たちはそこを出て、旅を続けることにした。彼らはみな、妻や子どももいっしょに、町はずれまで私たちを送って来た。そして、ともに海岸にひざまずいて祈ってから、私たちは互いに別れを告げた。それから私たちは船に乗り込み、彼らは家へ帰って行った。

 最後までパウロを見送ったこと、ともに海岸にひざまずいて祈ったことから、彼らの間にすばらしい兄弟愛を見ることができます。

B 預言 7−14
 私たちはツロからの航海を終えて、トレマイに着いた。そこの兄弟たちにあいさつをして、彼らのところに一日滞在した。

 トレマイは、イスラエルの北の海岸都市、アッコのことです。ここでも、兄弟たちのところに泊まりました。パウロたちは、エルサレムに行くまでずっと弟子たちのところで宿泊しましたが、こうした兄弟たちの間のもてなしは、とても大切なことです。

 翌日そこを立って、カイザリヤに着き、あの七人のひとりである伝道者ピリポの家にはいって、そこに滞在した。

 ピリポが登場しています。「あの七人のひとり」とは、エルサレムの教会において、食事の配給で割り当てられた七人の執事のことです。覚えていますか、ギリシヤ語を話すユダヤ人が、ヘブル語を話すユダヤ人に対して、自分たちのやもめが食事の配給でなおざりにされていると訴えたことがありました。使徒たちは、祈りとみことばの奉仕がおろそかにならないために、食事配給の役目を七人に任せたのです。その一人がステパノで、彼は聖霊と信仰に満ちた人で、力強い働きをしました。そして、ユダヤ人たちに石打にあって殉教しました。

 もう一人、神に用いられた人物としてピリポがいました。彼はサマリヤ地方に行って福音を宣べ伝え、多くの人が信じて、バプテスマを受けました。そして、御霊によって命じられて、ガザのところにいたエチオピヤの宦官を救いに導きました。それから、御霊によってこのカイザリヤの地域に来て福音を宣べ伝えたのです。おそらく、このカイザリヤに彼は住み始めたのでしょう。

 このピリポのところにパウロが来たことは、とても意義深いです。ユダヤ人が嫌っていたサマリヤ人に福音を伝えたのはピリポでした。異邦人への福音宣教に、きっかけを作った人です。そして、パウロは、異邦人への福音宣教の道を切り開いた人です。この二人が用いられて、イエスさまのみことば、「サマリヤの全土と、および地の果てまで、わたしの証人となります。」というみことばが成就しました。

 この人には、預言する四人の未婚の娘がいた。幾日かそこに滞在していると、アガボという預言者がユダヤから下って来た。

 ピリポの娘は預言の賜物を持っていました。使徒パウロは、「私は、女が教えたり男を支配したりすとことのを許しません。ただ、静かにしていなさい。(1テモテ2:12」と言いました。したがって教会の監督が女性になるというのは、私は個人的には聖書的ではないと思っています。女性で牧師をやっている人は数多くいますが、その方々を尊重はしますが、私は聖書的ではないと思っています。

 けれども、いっさい教えてはいけないということではありません。女が教えていることを示す箇所はたくさんあります。旧約時代にも女預言者はいましたが、ここでもピリポの娘は預言者でした。そして、十二使徒ではなく使徒の働きをしている人は多かったですが、その中に女使徒もいました(ローマ16:7)。そしてコリント第一には、女が祈りや預言をする時のことを話しています(11:5)。そして信仰歴の長い女性が若い女性を教えることも教えています(テトス2:3)。

 けれども彼女たちは語らずに、アガポがやって来ました。なぜ預言をしなかったかはよく分かりませんが、彼女たちは、このアガポが来ることを前もって御霊に知らされていたかもしれません。アガポはユダヤに住んでいる預言者で、以前、アンテオケの教会に行き、全世界に飢饉が起こることを預言しました。その預言によって、バルナバとパウロが救援物資をエルサレムにいる兄弟姉妹に持っていきました。

 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。』と聖霊がお告げになっています。」と言った。

 ご聖霊が再びさらにはっきりとパウロの行く末を示しておられます。パウロを縛るのはユダヤ人で、異邦人によって捕らえられる、という預言です。預言者は、このアガポのように体で示して神の言葉を伝えることがあります。

 私たちはこれを聞いて、土地の人たちといっしょになって、パウロに、エルサレムには上らないよう頼んだ。

 再び、信者たちは、パウロにエルサレムに行かないでくれ、と頼んでいます。今度は、同行していたルカたちまでが、パウロを引き止めようとしました。

 するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と答えた。彼が聞き入れようとしないので、私たちは、「主のみこころのままに。」と言って、黙ってしまった。

 ここでもまた、パウロは聞き入れませんでした。ここで、なぜ弟子たちはパウロを引き止めようとしたか、また、なぜパウロがエルサレムに行く決心が堅いのかを考えてみたいと思います。パウロは、御霊に言われることに逆らっているのでしょうか。神のみこころに反して、自分の思い入れでエルサレムに行こうとしているのでしょうか。

 パウロではなく、弟子たちが人のことを考えていて神のことを考えていなかったのです。ご聖霊は、パウロが苦しむこと、縛られることのみを示されました。けれども、パウロがエルサレムに行ってはならない、と命じてはおられませんでした。これはあくまでも、弟子たちの判断です。彼らはパウロを愛していました。ツロにいる弟子たちは、海岸までパウロを見送って、いっしょにひざまずいて祈りました。誰もがパウロがそのような苦しい目にあってほしくない、もしかしたらパウロは殺されてしまうではないか、と思ったのです。これは、すばらしいことです。パウロのことはどうにでもなれと考えるのではなく、キリストにある兄弟として、彼らはパウロを愛していました。

 しかしながら、パウロに苦しんでほしくない、というのは、彼ら自身の思いであって神のみこころではないのです。パウロが回心したとき、主イエスさまは、弟子のアナニヤにこう言われました。「しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。』(使徒9:15-16」苦しまなければならない、というのは、パウロを引きとめる理由にはなりませんでした。

 パウロは、エルサレムにおいて主イエス様を証しするようにはっきりと確信していたので、その啓示にそむかないようにする神への従順から、エルサレムに向かっていたのです。パウロは、コリント人に対して、「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。(新共同訳 Uコリント5:14」と語りました。パウロをエルサレムへ押しやっていたのは、パウロの主に対する愛のゆえであり、自分にどんなことが起こっても、自分が理解できなくても、主に命じられたことを行ないました。

 私たちが、「本当にこのことは神の御心なのか?」という議論をしている時に、陥っている過ちがあります。難しい言葉を使うなら「功利主義」です。計算して全体の益になるかどうか、その損得勘定をして物事を判断します。「ここの人々は福音に対して心が開かれていないから、私はそこには行かない。」と言ったりします。「ならば、心が開かれたところに行くことが神の御心である。」と言います。そこに欠けているのは神の愛なのです。イエス様は、功利主義のものさしで計れば失敗者でした。なぜなら百匹の羊のうち、一匹の失われた羊を捜すために九十九匹を置き去りにしたからです。愛は計算しないのです。愛は犠牲を払っても、それを誇ることさえ知らない情熱なのです。

 ここで大切なのは、パウロは神への愛を第一にしたということです。兄弟はパウロのことを思って引きとめようとしました。けれども兄弟愛も大切ですが、それ以上に神に対する献身、神への愛がまさっています。

A キリストにある自由 15−26 − 弱い者への愛
 こうして数日たつと、私たちは旅仕度をして、エルサレムに上った。カイザリヤの弟子たちも幾人か私たちと同行して、古くからの弟子であるキプロス人マナソンのところに案内してくれた。私たちはそこに泊まることになっていたのである。

 カイザリヤからエルサレムは、かなりの道のりがあります。イスラエルの国際空港であるベングリオン空港からヨッパまでが、車でだいたい30分、エルサレムからベングリオン空港までは1時間かかりましたから、車で2時間近くかかる道のりを歩きました。もちろん、一日で行けない距離なので、途中、マナソンという弟子のところで宿泊しました。

 どこにいってもキリストの弟子がいますね、すばらしい神の働きです。単なる信者ではなく、キリストに従う弟子です。そのような兄弟たちが、私たちも旅をすればいろいろなところで見つけることができます。

 そして、とうとうエルサレムに着きました。エルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで私たちを迎えてくれた。次の日、パウロは私たちを連れて、ヤコブを訪問した。そこには長老たちがみな集まっていた。

 長老たちも来ていますから、大事な会合として集まっていたようです。ヤコブですが、彼は、イエスさまの半兄弟であり、主の復活の後に信者になった人です。使徒行伝15章によると、このヤコブの判断によって、異邦人がただ信仰によって、ユダヤ人にならなくても救われることが決定されました。ペテロなど使徒たちの姿が出てきませんが、おそらく他の使徒は世界各地を巡って、福音を宣べ伝えていたのであろうと思われます。

 彼らにあいさつしてから、パウロは彼の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ話しだした。彼らはそれを聞いて神をほめたたえ、パウロにこう言った。

 エルサレムの教会は、パウロに対していたって友好的でした。けれども、一つ問題がありました。

 「兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で信仰にはいっている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。ところで、彼らが聞かされていることは、あなたは異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセにそむくように教えているということなのです。

 彼らが聞いていたことは、間違いでした。パウロは、救われるために異邦人は異邦人のままで良いことを教えましたが、ユダヤ人が律法を捨てなさいと教えたことはありません。

 それで、どうしましょうか。あなたが来たことは、必ず彼らの耳にはいるでしょう。ですから、私たちの言うとおりにしてください。私たちの中に誓願を立てている者が四人います。この人たちを連れて、あなたも彼らといっしょに身を清め、彼らが頭をそる費用を出してやりなさい。そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、みなにわかるでしょう。

 この誓願は、もしかしたらナジル人の誓願です。髪を剃って、ある一定期間が過ぎると、その伸びた分をまた剃って、動物のいけにえといっしょに祭壇の上にささげて、火で燃やします。

 信仰にはいった異邦人に関しては、偶像の神に供えた肉と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けるべきであると決定しましたので、私たちはすでに手紙を書きました。

 異邦人については、この規定以外におきてとして課せられるものは何一つないが、ユダヤ人は別です、と言うことです。

 そこで、パウロはその人たちを引き連れ、翌日、ともに身を清めて宮にはいり、清めの期間が終わって、ひとりひとりのために供え物をささげる日時を告げた。

 パウロは、彼らの忠告に聞き従って、神殿に入りました。けれども、パウロは自由な人でした。律法の行ないではなく、信仰によってのみ救われることを、彼より知っていた人はいません。彼は律法を守り行っても、行なわなくてもよかったのです。彼は、ローマ人への手紙で、「兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。(14:13」と言いました。彼は自分の信仰的な確信よりも、エルサレムにいるユダヤ人の兄弟たちにつまずきとなるものを置きたくない、と思ったのです。つまり、彼らを愛しているがゆえに、きよめの儀式を行なったのです。ここでも自分の信仰的確信よりも、もっと大事なことは愛でした。パウロは、ここにいるエルサレムの信者たちを愛するがゆえに、自分の信仰的確信を横に置いたのです。ここでは、信仰の弱い兄弟に対する愛を示しました。

A 自分のいのち 27−40 − 不信者への愛
B 宗教者 27−36
 ところが、その七日がほとんど終わろうとしていたころ、アジヤから来たユダヤ人たちは、パウロが宮にいるのを見ると、全群衆をあおりたて、彼に手をかけて、こう叫んだ。「イスラエルの人々。手を貸してください。この男は、この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。そのうえ、ギリシヤ人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所をけがしています。」彼らは前にエペソ人トロピモが町でパウロといっしょにいるのを見かけたので、パウロが彼を宮に連れ込んだのだと思ったのである。

 アジアから来たユダヤ人が、パウロに手をかけました。ギリシヤ人を神殿の中に入れた、と叫んでいます。エルサレムの神殿は、いくつかの場所に分かれていました。まず、もちろん聖所があります。祭司のみ入ることができる、神に対して奉仕する場所です。その外側に洗盤や祭壇が置かれているところがあり、そこで動物のいけにえがささげられました。その外側に、「イスラエルの庭」がありました。ユダヤ人の男性のみが入ることが許されているところです。さらに、その外側に「女の庭」というのがありました。ユダヤ人の男性と女性のみが入れるところです。そして、一番外側に、「異邦人の庭」がありました。そこはユダヤ人でも異邦人でも行き来できました。今、パウロと四人は、この女の庭か、イスラエルの庭にいたものと思われます。そこにエペソ人トロピモを連れて来たのだ、と叫んだのです。けれども、パウロはユダヤ人を連れて入ったのであって、異邦人ではありません。単純にアジヤから来たユダヤ人の判断ミスです。

 そこで町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕え、宮の外へ引きずり出した。そして、ただちに宮の門が閉じられた。彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた。彼はただちに、兵士たちと百人隊長たちとを率いて、彼らのところに駆けつけた。人々は千人隊長と兵士たちを見て、パウロを打つのをやめた。

 ローマ兵がすぐに駆けつけました。神殿には、アントニオ要塞というローマ兵が神殿の敷地内を監視するところが隣接していました。今は五旬節ですが、その他過越の祭りや仮庵の祭りというユダヤ人の祭りのときは、通常より多くの兵士を配置させていました。祭りのときに、ユダヤ人の民族意識が高まり、ローマに対する反乱が起こる可能性があったからです。

 千人隊長は近づいてパウロを捕え、二つの鎖につなぐように命じたうえ、パウロが何者なのか、何をしたのか、と尋ねた。しかし、群衆がめいめい勝手なことを叫び続けたので、その騒がしさのために確かなことがわからなかった。そこで千人隊長は、パウロを兵営に連れて行くように命令した。パウロが階段にさしかかったときには、群衆の暴行を避けるために、兵士たちが彼をかつぎ上げなければならなかった。大ぜいの群衆が「彼を除け。」と叫びながら、ついて来たからである。

 パウロのいのちは、もう少しで取られるところでした。ところで、ここでエルサレムの教会の兄弟たちがパウロを救うために入り込んできた形跡がありません。彼に対する愛はどこにあるのでしょうか?これが、エルサレムにいるユダヤ人の信者たちに忍び込んでいた問題でした。

 確かに、ユダヤ人が救われるためではなく、ただユダヤ人として生きるためなら律法を守っていても問題ではありません。例えば、これまでハムを食べていなかったユダヤ教徒の人がイエス様を信じて、ことさらにハムを食べなければいけないということはありません。けれども、いつまでもその枠組みの中にいたらどうでしょうか?いつまでも、キリスト者にある自由があるのに、自分はキリストにつく者ではなくユダヤ人の枠組みの中で生きていたらどうなるのでしょうか?キリストではなく、ユダヤ人共同体の中に埋没してしまいます。その心にある動機は「恐れ」です。自分がユダヤ人から離れることになるのではないかという恐れです。

 この問題を取り扱ったのが、ヘブル人への手紙です。私はおそらく使徒パウロが書いたのではないかと思いますが、そこにはキリストが、ユダヤ教ですぐれているとされるあらゆるものよりも、さらにすぐれた方として説明されています。ユダヤ教の中に留まることによって、キリストの偉大さを見逃している彼らが、信仰そのものから離れていることを非常に危惧していました。

 そして、その現れとして彼らには愛が欠如していました。「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。(ヘブル10:32-35」ユダヤ人の不信者からの迫害を恐れて、他に苦しんでいる兄弟に救いの手を指し伸ばすことを止めていたのです。

 私が教会の中で起こることで、最も恐れるのはこれです。愛がなくなることです。まず、神に対する愛がなくなることを恐れます。人々が窮地に立たされるからといって、福音の真理から妥協して異なることを教えてよいでしょうか?私たちが人間的に用いる「愛」の中には、打算であったり、妥協と言い換えられるものがたくさんあります。そして、兄弟たちに対する愛がなくなることを恐れます。私たちが律法的になると、痛んでいる兄弟、信仰が弱まっている兄弟、その他、忍耐を働かせ、重荷を負わなければいけない兄弟に対して、無関心になります。

 そして次にパウロが示す愛は不信者への愛です。自分たちの中に閉じこもるなら、ちょうどエルサレムにある教会のように、周りにいる不信者がキリストなしで滅んでしまうという切実な思いをなくしてしまうことになります。

B 権力者 37−40
 兵営の中に連れ込まれようとしたとき、パウロが千人隊長に、「一言お話ししてもよいでしょうか。」と尋ねると、千人隊長は、「あなたはギリシヤ語を知っているのか。するとあなたは、以前暴動を起こして、四千人の刺客を荒野に引き連れて逃げた、あのエジプト人ではないのか。」と言った。

 千人隊長がパウロを逮捕した理由は、彼が暴動を起こしたエジプト人だと思ったからです。そのため、ユダヤ人がこの暴徒に怒って、パウロを打ち叩いていたのだと思っていました。千人隊長も、あのアジヤからのユダヤ人と同じように判断ミスをしたのです。パウロはこれからずっと、何年間も、牢屋の中に入れられたまま生きていきます。人間的に考えたら、パウロがもともと神殿に入ってこなければ良かった、ということになるでしょう。ヤコブと長老たちの忠告を聞く必要はなかった、と考えてしまうかもしれません。また、そもそも、兄弟たちの忠告を聞いて、エルサレムに来なければ良かった、ということになってしまうかもしれません。

 しかし、パウロは違いました。次をご覧ください。パウロは答えた。「私はキリキヤのタルソ出身のユダヤ人で、れっきとした町の市民です。お願いです。この人々に話をさせてください。」千人隊長がそれを許したので、パウロは階段の上に立ち、民衆に向かって手を振った。そして、すっかり静かになったとき、彼はヘブル語で次のように話した。

 なんと、パウロは、これから主イエス・キリストのあかしを始めるのです。たった今、自分を殺そうとしていた群集に福音を語ろうとしています。パウロは、ユダヤ人とローマ兵の双方の判断ミスなど問題にはしておらず、むしろこれを、福音を語る機会としてしまったのです。

 パウロが、なぜ、そこまでして福音を語ろうとしたのでしょうか?それは、ユダヤ人の救いを願っていたからです。ローマ書9章をお開きください。パウロは、ローマ8章において、どのようなものも、キリストにある神の愛から私たちを引き離すものはない、と断言していますが、次のように話しています。9章の1節からです。「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(9:1-3」パウロは、もしユダヤ人が救われるなら、自分が神の愛から切り離されて、地獄に行っても良い、と言っています。ここまで彼は強く、深くユダヤ人の救いを願い、祈っていたのです。

 続けて、その理由を話します。「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。(9:4‐5」神のうちにある、あらゆる霊的祝福と遺産は、すべてユダヤ人のものです。まずユダヤ人がこの祝福を受けてしかるべきなのです。そのことを考えれば考えるほど、彼の心は痛み、悲しみがありました。この同胞の民への愛が、パウロを自分のいのちを取ろうとした人々に対し福音を語らせてしまったのです。

 私たちが、不信者をどのように愛せばよいのか、最も愛することができるのは、その人が救われることを願うことです。その人の物理的、精神的な問題が解決されても、死ねば地獄に行ってしまいます。だから、本当にその人のことを愛しているなら、その人が罪から救われることを祈り求めます。ですから、パウロが、エルサレムへ来たのは、このキリストの愛だったのです。

 まず、彼は神への愛に満たされていました。兄弟たちは、パウロのことを思ってエルサレムに行かないように忠告しましたが、パウロは神のことを思いました。また、エルサレムに来たときは、ユダヤ人の兄弟たちのことを愛して、きよめの儀式を守りました。そして、今、ユダヤ人の救いのために、自分のいのちさえ失うことも覚悟していたのです。彼がもっとも大事にしていたのは、このように「愛」なのです。信仰と希望と愛、その三つでもっともすぐれているのは愛です、とパウロは言いました。キリストの愛に駆り立てられた人生、これがクリスチャンの道しるべです。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
HOME