使徒の働き22章 「福音の弁明」

アウトライン

1A 復活の主との出会い 1−21

   1B 同じところからの出発 1−5
   2B 回心 6−16
      1C 告白 6−11
      2C 洗礼 12−16
   3B 召命 17−21
2A 恵みによる神の選び 22−30
   1B 生まれる前 22−29
   2B 信じる前 30


本文

 使徒の働き22章をお開きください。ここでのメッセージ題は、「福音の弁明」です。前回の21章の学びにおいて、パウロがエルサレムにおいて、ユダヤ人の民衆から殺されそうになった出来事を読みました。神殿の中における出来事だったので、監視をしていたローマ兵たちがすぐにやって来ました。そして、パウロを捕えて兵営に連れて行こうとしましたが、パウロが、そのユダヤ人民衆に話させてほしいと願い出ました。私たちはここから、パウロはユダヤ人が救われることを願っていた、ユダヤ人を愛していたことを学びました。彼がエルサレムへ向かわせたのは、このキリストの愛によるものであることを知りました。そして、21章の最後の節には、「千人隊長がそれを許したので、パウロは階段の上に立ち、民衆に向かって手を振った。そして、すっかり静かになったとき、彼はヘブル語で次のように話した。」とあります。これから22章が始まります。

1A 復活の主との出会い 1−21
 1節をご覧ください。兄弟たち、父たちよ。いま私が皆さんにしようとする弁明を聞いてください。

 パウロがこれから語ろうとすることは、「弁明」でありました。彼に反対し、彼を殺そうとした者たちに対して、自分を弁護する説明をします。実は、この
22章から使徒行伝の最後まで、パウロの弁明の話が載せられています。22章では、ユダヤ人民衆の前で弁明しました。23章では、ユダヤ人指導者たちの前、つまりサンヘドリンにおいて弁明します。そして、24章では、カリザリヤにおいて、総督ペリクスの前で弁明しました。25章では、同じくカイザリヤにおいて、総督フェストの前で弁明しましたが、フェストが彼をエルサレムに送ろうとしたので、パウロは、ローマ皇帝つまりカエザルに上訴します。そして、26章では、フェストがヘロデ・アグリッパ二世にパウロの弁明を聞いてくれるように頼み、パウロはアグリッパの前で弁明します。そして、27章と28章は、ローマへの旅と、皇帝ネロの前で弁明するときを待っているパウロの姿が描かれています。ですから、この22章からパウロの弁明について描かれているのです。

 パウロは、これらの弁明を、ピリピ書1章7節において、「福音を弁明する」と言いました。彼は、なぜこのように捕えられ、訴えられているのかを弁明するときに、福音のためであると答えたのです。自分の生き方に説明が求められたので、自分が生きている福音について弁明したのです。私たちも、日常の生活の中で福音の弁明を経験しますね。なぜ私たちがクリスチャンなのか、人々はある程度、興味があります。日本人であれば、たいてい、クリスチャンの家庭で生まれ育ったからだと思うのですが、そうではないですね。そうではない、と答えると、人々はますます、ではなぜなのか、と興味を持ちます。だからこそ説明が必要であり、ペテロは、その手紙の中でこう言いました。「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(ペテロ第一3:15」パウロは、今、ユダヤ人民衆の前に立っています。彼らは、パウロが律法と神殿に逆らう者として考えていました。だから、今からそうではないことを説明しますが、それは、パウロが主イエス・キリストと生きた出会いをしたからだ、という説明です。

1B 同じところからの出発 1−5
 パウロがヘブル語で語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。そこでパウロは話し続けた。

 パウロはヘブル語で語りかけています。ヘブル語は、もちろんユダヤ人の言語です。そのため、人々の心は開かれて、ますます静かになりました。

 私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。

 
キリキヤのタルソは、小アジアの地中海に面する海岸都市です。ギリシヤ文化が色濃い町でもありました。けれども、パウロの教育は、ここエルサレムにおけるものでした。ガマリエルは、当時知られたラビの中で、もっとも著名な人の一人でした。パウロは、自分が「みなさんと同じである。」と強調しています。

 私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。

 この道とは、キリスト教のことです。当時は、キリスト教は、「この道(This Way)」と呼ばれていました。

 このことは、大祭司も、長老たちの全議会も証言してくれます。この人たちから、私は兄弟たちへあてた手紙までも受け取り、ダマスコへ向かって出発しました。そこにいる者たちを縛り上げ、エルサレムに連れて来て処罰するためでした。

 
パウロの神への熱心さは、教会を迫害するほど激しいものでした。ダマスコは、今のシリヤの首都となっており、エルサレムからかなり遠いところですが、それでもパウロは執拗に、クリスチャンたちを追いかけました。

 ここまでが、彼が主イエスに出会うまでの話です。彼がここで強調したかったことは、「私は、あなたたちとまったく同じだったのだよ。」と言うことです。ユダヤ人の民衆は、パウロがどこか遠くのところで、異邦人といっしょに新しい宗教を作って、自分たちがとても大切にしている律法と神殿をめちゃくちゃにしてしまっている、と考えていましたから、このことは以外だったでしょう。彼らと同じヘブル語を話し、エルサレムでなんとガマリエルの下で教育を受け、しかも、この道を迫害するほど神に熱心であった、では、私たちの仲間ではないか、という印象を持ったかもしれません。同じところにいたのだ、というのがパウロの訴えたかったことです。主イエスとの出会いは、他の人たちと同じ生活の中において、同じ境遇の中で起こったことなのです。ですから、私たちの存在は、イエスさまを証しすることにおいて、とても大切になります。キリスト教の福音テレビ番組において、いろいろな人が登場して救いの証しをしますが、その多くは、弁護士の人、会社の経営者、芸術家など、何かしら人目につく生活をしています。これは、テレビという性格上、仕方がないことであり、テレビにおいては限界があるのです。けれども、普通のサラリーマン生活をしている、普通の主婦の生活をしている、学校生活をしている、その中での救いの証しは、この私たちが分かち合うことができる大きな特権なのです。その証しをすることによって、聞いている人々は、主イエスとの出会いが自分たちの土俵の中で起こり得ることに気づくのです。

2B 回心 6−16
 パウロは次に、自分の回心の体験を説明します。

1C 告白 6−11
 ところが、旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞きました。

 イエスさまは、サウロ、サウロ、と名前を二回呼びかけています。

 そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。』と言われました。


 パウロは、教会を迫害していたのですが、イエスさまは、「わたしを迫害している」と言われています。これは、イエスさまが教会とご自分をいっしょにしている、ご自分のからだにしているからです。

 私といっしょにいた者たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。

 
「聞き分けられませんでした」とあるとおリ、音は聞こえていたのですが、その意味していることが理解できませんでした。パウロだけが理解できています。

 私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる。』と言われました。

 パウロは、イエスさまのことを「主よ」と呼んでいます。彼はこの時点で、すでに回心していました。イエスが、自分の生活と人生を支配される方であり、この方に従わなければいけないという認識を持っていたのです。ところで、イエスさまは、ただ、「ダマスコに行きなさい。」とだけ言われました。ダマスコに行ったときに、次のステップが示されます。主は、このように私たちを一歩、一歩導かれます。すべての計画を示されることはありません。なぜなら、私たちがいつもイエスさまとともに歩んで、イエスさまからいつも御声を聞いて、イエスさまに拠り頼まなければいけないからです。

 ところが、その光の輝きのために、私の目は何も見えなかったので、いっしょにいた者たちに手を引かれてダマスコにはいりました。

 
パウロは、まさか、このようなかたちでダマスコに行くとは思っていなかったでしょう。殺害の念に燃えてダマスコへ向かっていたのですが、今は何も目が見えず、手を引かれてダマスコに入りました。

 このように、パウロの回心は、イエス・キリストとの個人的な出会いでした。「サウロ。サウロ」という呼びかけから始まり、パウロはイエスさまを「主」と呼び、これからの生き方は、一歩一歩、イエスさまに導かれました。生活も180度転換し、目が見えない状態でダマスコに入ります。この個人的な関係を、ユダヤ人たちに説明したのです。私たちが説明するのも、この個人的な関係です。主イエスと出会ったという体験を他の人々に説明します。そして、実際に生活が変えられたことを説明して、クリスチャンとは、単に信条や哲学を信じている人ではなく、イエスを個人的な救い主として主として受け入れている人々であることを知らせるのです。そのような人々が集まったのが教会ですから、イエスさまは、教会が迫害されるときに、ご自分が迫害されていると感じられます。個人的な関係を持っているので、イエスさまと教会がそのように結びついているのです。

2C 洗礼 12−16
 次にパウロは、キリストの弟子であるアナニヤから水のバプテスマを受けたことを説明します。すると、律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判の良いアナニヤという人が、私のところに来て、そばに立ち、『兄弟サウロ。見えるようになりなさい。』と言いました。すると、そのとき、私はその人が見えるようになりました。

 パウロはアナニヤを、「律法を重んじる人」「ユダヤ人全体の間で評判の良い人」として紹介しています。彼はふたたび、このことが仲間のユダヤ人の間で行なわれたことを強調しています。

 彼はこう言いました。『私たちの先祖の神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。


 これは、とても大切な言葉です。先ほどのイエスさまとの個人的な出会いとは、具体的にどのようなことであったのかを教えてくれます。三つの動詞が使われていますね。一つは「知る」こと。もう一つは「見る」こと。そして、「聞く」ことです。この三つの行為によって、パウロは神との関係を持っているのです。

 私たちは、神のみこころを知ることによって個人的な関係を持ちます。私たちの人生は、神の意志に自分のすべてが調和していくことによって完成します。自分の意思が、神の意志に従属することによって、神との生きた交わりを保つことができるのです。多くの人は、自分の願いがかなえられることが信仰だと思っていますが、それは違いますね。神が願われることを受け取ることが信仰であり、そこに神との親しい交わりが実現されるのです。だから、毎朝、「主よ、今日、あなたのみこころを私のうちで行なってください。あなたが願われていることなら何でも、私に行なってください。」と祈ることが大切でしょう。そして、義なる方を見ること、つまり、イエス・キリストを見ることによって個人的な関係を持ちます。私たちの人生は、まさに、イエス・キリストという方がどのような方であり、どのようなことを行なわれているのかを見ていくことに他なりません。キリストの栄光の姿が、私たちの思いの中でますますはっきりされるときに、その個人的な関係はさらに深まるのです。そして、神の御声を聞くときに、個人的な関係を持ちます。「こうしなさい。」「ああしなさい。」という神の命令を聞きます。また、「わたしはあなたとともにいる。」という神の約束を聞きます。双方が黙っている関係など、本当の個人的な関係とは言えません。神の御声を聞くことによって、初めて神を自分の神とすることができるのです。ですから、みなさんが神のみこころを知っているとき、またイエスさまの姿がはっきりと見えるとき、そして神の声を聞いているときに、神の体験をしているのです。

 あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。見たこと、聞いたこととは、先ほどのイエスさまとの出会いのことです。さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』

 
バプテスマですが、これは、ユダヤ人がいつも行なっていたきよめの儀式であり、ユダヤ人にとって真新しいものではありませんでした。イエスの御名を呼んで、自分の罪が洗い流されますが、それを外にあらわすためにバプテスマを受けます。

3B 召命 17−21
 そして、パウロは、主が自分をどのように召しておられるのか、自分に対する使命は何か、神の召命について、その体験を説明します。こうして私がエルサレムに帰り、宮で祈っていますと、夢ごこちになり、主を見たのです。

 
これは、パウロが回心してから、3年後の出来事です。3年の間、パウロはアラビヤの砂漠にいました。けれども、こうして今、エルサレムの宮で祈っています。パウロは、自分がユダヤ人であることを捨てたのではなく、彼らが行っている、宮を汚すようなことはしていないことを説明しています。

 主は言われました。「急いで、早くエルサレムを離れなさい。人々がわたしについてのあなたのあかしを受け入れないからです。」幻の中で主が語られました。そこで私は答えました。「主よ。私がどの会堂ででも、あなたの信者を牢に入れたり、むち打ったりしていたことを、彼らはよく知っています。また、あなたの証人ステパノの血が流されたとき、私もその場にいて、それに賛成し、彼を殺した者たちの着物の番をしていたのです。」

 
パウロは、主に言い返しています。自分の考えのほうが、主が考えておられることよりも優れていると思っているわけです。こんなことありませんね。私たちはとかく、主が言われることに言い返してしまいますが、預言者ヨナを思い出してください。自分の乗っている船は嵐に見舞われ、その海の中に投げ込まれ、大きな魚に食べられて、悲惨な思いをしました。みこころに逆らうことほど、不毛で無益なことはありません。

 すると、主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。』と言われました。」

 
これが、パウロに対する神の召命でした。異邦人に福音を宣べ伝える使徒として、神はパウロをお選びになっていました。パウロは、なぜ自分が、異邦人の間で聖書を教えているのかを伝えたかったのだと思います。けれども、それは不発に終わりました。


2A 恵みによる神の選び 22−30
1B 生まれる前 22−29
 人々は、彼の話をここまで聞いていたが、このとき声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない。」と言った。

 ユダヤ人のパウロが、異邦人に遣わされる、つまり、ユダヤ人と異邦人が一つになることは、彼らにとって決して考えることができないことでした。ユダヤ人は、自分がユダヤ人であることを保つことによって、神の救いがあると信じていたからです。聖霊が臨まれて、教会が誕生した五旬節には、ユダヤ人は二個のパンをもって主の前に揺り動かします。ユダヤ人であり、クリスチャンであるデービッド・ホーキングという聖書教師は、友人のラビたちに、そのパンが何を意味しているか聞いたそうです。だれも答えることができませんでした。デービッドは言いました。「それは、ユダヤ人と異邦人のことを表わしています。ユダヤ人と異邦人が御霊によって一つにされること、教会の誕生を祝っているのです。」と言ったところ、ラビがこう答えたそうです。「もし、パンの一つが異邦人を表わしているなら、私の手からそのパンはずれ落ちてしまうだろう。」これだけ、ユダヤ人は自分たちのアイデンティティーを守ろうとします。だから、神が異邦人に遣わされることを考えることは決してできなかったのです。

 そして、人々がわめき立て、着物を放り投げ、ちりを空中にまき散らすので、千人隊長はパウロを兵営の中に引き入れるように命じ、人々がなぜこのようにパウロに向かって叫ぶのかを知ろうとして、彼をむち打って取り調べるようにと言った。

 ローマの兵士たちは、パウロが話していることを何一つ理解できませんでした。ヘブル語で話しているからです。そのとき、とつぜん、ユダヤ人たちが発狂したようになり、何が起こったのか分からなくなりました。そこで、むち打ちによって取り調べようとします。このむち打ちは、イエスさまがお受けになったものと同じものです。犯罪人から、無理に自白させるために作られたものでした。その人の両手は、棒に巻きつけられて、背中を出しているようにさせられます。そして、骨やガラスの破片が入っているむちで、その背中を打つのです。背中の肉がちぎれ飛びます。近くに人がいて、囚人から出てくる自白を記録します。自白をすれば、それだけむちの勢いは軽くされ、自白しなければむちの勢いは大きくされます。これが
39回まで続けられます。イエスさまは、何一つ言わず、この39回のむちをお受けになったのです。

 彼らがむちを当てるためにパウロを縛ったとき、パウロはそばに立っている百人隊長に言った。「ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むち打ってよいのですか。」これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところに行って報告し、「どうなさいますか。あの人はローマ人です。」と言った。ローマ市民には、奴隷とは異なるいろいろな権利が与えられていました。千人隊長はパウロのところに来て、「あなたはローマ市民なのか、私に言ってくれ。」と言った。パウロは「そうです。」と言った。すると、千人隊長は、「私はたくさんの金を出して、この市民権を買ったのだ。」と言った。そこでパウロは、「私は生まれながらの市民です。」と言った。

 
ローマ市民には、そうたくさんの人がなっていたわけではありません。この千人隊長のように、市民権を得るのはたいそうなことでした。けれども、パウロは何と、生まれながらの市民でありました。おそらく、パウロの父親か親戚の人がローマに大きな貢献をして、家族全体にローマ市民権が付与されていたと考えられます。

 このため、パウロを取り調べようとしていた者たちは、すぐにパウロから身を引いた。また千人隊長も、パウロがローマ市民だとわかると、彼を鎖につないでいたので、恐れた。

 
こうして、パウロはむち打ちをまぬかれることができましたが、そのために次から始まる数々の弁明を行なうことができ、さらにローマにまで行くことができたのです。パウロは、小アジヤやヨーロッパに宣教旅行をするにあたって、この市民権はたいへん役に立ったに違いありません。ローマ市民権を持っていなければ、あのような広範囲の、大規模な宣教活動はできなかったと考えられます。ですから、実は、パウロが生まれる前から、神は、パウロをご自分の器として用意しておられたのです。パウロは、ガラテヤ書1章で、神が、生まれたときから自分を選び分け、恵みをもって召してくださった、と話しています。ローマ市民権のほかに、パウロは、タルソというギリシヤ文化の影響が強い町に生まれていました。それゆえ、彼はギリシヤ人が何を考えているかを知ることができ、福音を異邦人にも分かりやすく伝えることができました。また、彼は、他のだれにもまして、聖書に通じていました。福音は聖書の知識に基づいています。神のみことばを本当に良く知っている人が、イエス・キリストの福音を語ることができましたが、パウロは、聖書にもよく通じていたのです。このようにして、神は、生まれたときから彼を選び、整えていてくださいました。今ここで、パウロは、ローマ市民であることによって、続けて弁明をすることができるようになったのです。

2B 信じる前 30
 その翌日、千人隊長は、パウロがなぜユダヤ人に告訴されたのかを確かめたいと思って、パウロの鎖を解いてやり、祭司長たちと全議会の召集を命じ、パウロを連れて行って、彼らの前に立たせた。

 パウロはサンヘドリンに連れられて来ましたが、ここは、彼がよく知っているところです。自分がサンヘドリンの一員だったのですから。そのことを生かして、
23章において、パウロは再び弁明をします。ここでも、彼が信じる前の立場が生かされることになります。生まれる前から、信じる前からの神の恵みが、神の選びがあるのです。

 ですから、私たちは、生まれたときからのことを人々にあかしすることができます。神がいかに、自分をクリスチャンにされたのか、そのいきさつを話すことができるのです。人々は、なぜ、私たちがクリスチャンなのか、その説明を求めています。彼らが考えている、クリスチャンについての間違ったイメージや考えを、私たちの体験をとおして、払拭することができます。そして、彼らの心が開けて、彼ら自身も主イエス・キリストを信じるきっかけを作ることができるのです。ですから、「福音の弁明」です。この弁明を、いつでもできるように、心の中で主イエスをあがめながら生きていきましょう。


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