使徒行伝3章 「イエス・キリストの名」

 使徒の働き3章をお開きください。ここでのテーマは、「イエス・キリストの名」です。「イエス・キリストの名」です。この3章から4章まで一つの話しが続いています。それは、ひとりの足なえの男が立ちあがったことについての話です。今日は、その前半部分の3章を学びます。

 私たちは前回、2章において教会が誕生したことを学びました。教会の誕生は、ひとりひとりが聖霊に満たされたところから始まりました。そして、イエス・キリストが宣べ伝えられて、人々がキリストの弟子となりました。その弟子たちは、集まって、使徒の教えを守り、交わりをし、パンを裂いて、祈りました。こうした活動の中から、使徒たちが多くの不思議なわざとあかしの奇蹟を行ないました。人々には神への賛美が沸き起こり、救われる人々が仲間に加えられたという話でした。これが、教会が誕生した話です。そして、2章42節をご覧ください。「使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。」とあります。3章では、その多くの不思議なわざと奇蹟のあかしのうちの一つが載っています。

1A 御名の力 1−10
 それでは、まず1節から10節までを一気に読んでみたいと思います。ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

 足の利かない人が、完全に直りました。それは、イエス・キリストの名によって直りました。イエス・キリストの御名に、人を直す力がありました。

1C 何の変哲もない背景 1−3
 この出来事が起こった背景を調べてみたいと思います。1節から3節に時は午後三時の祈りの時間です。これは、ユダヤ人が守っていた祈りであり、ペテロとヨハネは、他のユダヤ人と同じように祈りの習慣を守っていました。午前九時、正午、午後三時の三回ありましたが、午後三時の祈りはその後で夕に行われる祭壇でのいけにえがあります。その煙を見ながら祈っていました。

 これからペテロとヨハネが大いに用いられますが、彼らが祈りの習慣を持っていたことに注目してください。祈っている人を神は用いられます。主の事柄に自分を満たしている人を、神はご自分の器として用いられます。

 そして、生まれつき足のきかない男がいつものように運び込まれてきています。「美しの門」とは、神殿の東門です。彼は働くことができないので、人々の施しによって生きていました。この光景は、今でもエルサレムで見かけることができます。私たちに当てはめてみれば、いつも同じところにいるホームレスの人を思い浮かべてみれば良いかもしれません。このように、とくに何の変哲もない、ごくあれふれた光景がこの出来事の背景になっています。

2C 理由 4−6
 そして、この奇蹟が起こった理由を調べてみましょう。その理由については、4節から6節までに書かれています。ごくありふれた日常生活の中で、なぜ、このような不思議が起こったのでしょうか。

 それは、ペテロが、ヨハネとともに、この男を「見つめた」から始まります。じっと見たのです。弱っている人、病気を持っている人、問題がある人を見過ごすことなく、じっと見つめることができたので、この奇蹟が起こりました。これは、もともと誰が行なっていたことか思い出せますか。イエスさまですね。福音書を見れば、イエスさまが、病気の人、社会的な弱者、罪人などに目を留められて、彼らをいやされました。(例:ヨハネ9章参照)その時の弟子たちの反応は、だいたい邪魔者扱いです。「いやだなあ。こんな人たちのために、なんで時間を使わなければならないのだろう。」という態度でした。けれども、ここでペテロは、イエスが人々をご覧になったように見ることができたことです。イエス・キリストが物事を見るように自分たちも見ることができるようになりました。

 けれども、その能力は、自分たちで身につけることはできません。いや、身につけてはいけないのです。ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言いました。私たちには金銀はない。これは文字通りそうであったのですが、「私たちには何もできない。」と言いかえることができるでしょう。十字架につけられる前のペテロがどうだったでしょうか。「あなたのためには、いのちも捨てます。(ヨハネ13:37)」と言ったのです。「私にはできる。」と言っていたのです。

 そしてペテロはここでおそらく、「起き上がらせなさい」という強い促し、あるいは御霊の声を聞いたのであろうと思います。起き上がらせなければいけないと思ったのではなく、聖霊によって強い促しを受けたから、そのように言ったのです。自分にはできないけれども、あなたがそう言われるのですから、行ないましょうという、従順な態度の現われだったのです。これをコリント第一12章では、「信仰の賜物」と呼んでいます。信仰の賜物はいつも秘伝のように使うことができるものではなく、ある特定の時に、「これができる」という信仰が与えられて、それを行動に移すことを言います。

 そして、彼らはイエス・キリストの名の力を知っていました。かつてイエス様が何度も強調して、弟子たちに後の祝福について教えられました。「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。(ヨハネ14:13」またこう言われました。「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。(ヨハネ16:26-27

 ですから、イエスの御名にある力です。使徒たちがそのような不思議と奇蹟を行なっていたのではなく、イエスさまが聖霊によって続けてご自分の働きをされています。だから、使徒たちをとおして、そのような驚くべきわざが行なわれて当然なのです。そして、イエスは、私たちをとおして、ご自分のわざを行なおうと願われています。自分が神に用いられることを願うのは、決して高ぶった態度ではありません。むしろ、イエスは、私たちを用いたいと願われているのです。ご自分の力ある働きを、私たちを通して行ないたいと願われているのです。

3C 結果 7−10
 そして、7節から10節までに、この奇蹟が起こった結果について書いてあります。この男はたちまちまっすぐに立ち、歩き出し、はねあがりました。興味深いのが、「足とくるぶしが強くなり」という言葉は医学的な説明になっているそうです。著者ルカは医者なので、ここに彼特有の表現が出ています。

 そして神を賛美しました。イエス様が、「父が子によって栄光をお受けになるためです。」と言われた通りですね。そして喜び踊っています。彼は四十年余り、この状態だったのですから当たり前です。私たちも同じイエスの御名の力が与えられています。たとえ生まれつきであったとして、神がそれを直してくださいます。

2A 御名による回復 11−26
 それでは、11節以降を読みましょう。

1B 源 − イエスの復活 11−16
 この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」

 ペテロがこれから、自分たちのところにやって来たユダヤ人たちに説教をします。「ソロモンの廊」というのは、外庭の東門側にある一角です。彼らは、足が直った人がペテロとヨハネにつきまとっているので、この二人がこの男をいやしたのだと思ったのです。それで、今、この二人をあがめるようにして見つめています。そこでペテロは、「私たちの力とか、信心深さによって、この人を歩かせたのではない!」ときっぱりと言っています。

 これは、神に用いられる人にいつもともなう危険です。私たちは神に用いられなければいけないし、神がそう願われているのですが、神に用いられると必ず、人々は神をあがめるのではなく、その器をあがめるようになります。しかし、このペテロのように、そのような行動を取ってくる人々に対して、きっぱりと、「私たちではない。」と言うべきなのです。事実、本当に神に用いられた時は、決して自分ではないことがはっきりと分かります。ですから、神に用いられる人は祈りの人であり、そして信仰の人であり、そして決して神の功績を自分のものにしない人です。

 そして、ペテロが、「信仰深さ」という言葉を使っていることに注目してください。後で、「信仰によって」と出てきますが、信仰深さと信仰は、まったく別の類いのものです。クリスチャンの多くが、信仰を信仰深さと混同しています。そのことは後でお話しましょう。

 そして、ペテロは、自分ではないと言ったすぐに、イエス・キリストであると言っています。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。

 ペテロは、相手がユダヤ人なので、はっきりとこの方がイスラエルの神であることを述べています。

 あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。

 ペテロは単刀直入に、「あなたたちは、人を殺したのだ。」と言っています。彼はあえて、その罪を対比によって際立たせています。きよい正しい方を、殺人者バラバの赦免と引き換えに殺した。殺人者を殺さずに、いのちを与える君を殺した。罪人や悪人を殺したのではなく、聖なる方、正しい方を殺し、いのちの君を殺しました。これはものすごい、告発です。

 けれども、「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。」という言葉がすばらしいですね。人間がどんなに悪事を働いても、不義がどんなにはびころうとも、人間がどんなに神とキリストを排除しようとしても、決して取り除くことはできません。イエスは、圧倒的な勝利を収められました。よみがえられました。

 このように初代教会の福音説教は復活が中心でした。同じペテロが書いた手紙にはこう書いてあります。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(1ペテロ1:3

 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

 ここが大事です。あの男を立たせたのは、ペテロが一生懸命信じて、その信心深さによるものではなく、御名を信じる信仰によるのです。神はイエスを死者の中からよみがえらせました。この回復の力が、イエス・キリストにあることをペテロは知っていました。だから、イエスさまは、生まれつき足のきかない40歳以上の人も立たせることができる、という論理が成り立ったのです。

 ペテロは何と言いましたか?「イエスによって与えられる信仰が」と言っています。この信仰でさえ、イエスによって与えられなければいけないのです。ですから、先ほど、ペテロは、聖霊の強い促しを受けて、この男を立たせたと言いました。この男は立つことができる、イエスが直してくださる、という確信は、聖霊から来るのです。ですから、私たちは、聖霊に満たされなければいけません。聖霊がどう導いておられるのか、聖霊が何を語っておられるのか、私たちは敏感でなければいけないのです。

2B 条件 − 悔い改め 17−26
1C 招き 17−21
 ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行ないをしたのです。

 ペテロは、少しトーンを落としています。「あなたが、キリストなるイエスを殺したのだ。」と非難しましたが、それは無知だったからなのだよ、とここで話しています。パウロも同じことを言っています。「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。(1テモテ1:13」神は、私たちが無知のゆえに行った恥ずかしい行為を、ご自分の憐れみによって赦してくださいます。

 そして後に彼らは五千人の人がバプテスマを受けます(使徒4:4)。イエス様は、十字架の上で、ご自分をあざけっているユダヤ人に対してこう祈られました。「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。(ルカ23:34」この祈りが聞かれているのです。

 そこで、ペテロがこれから、彼らに聖書の知識を教えます。無知であった部分を教えるのです。しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。

 2章でも、十字架は神の予知と定めによって起こったことであることを話しました。神は人が悪を計ってもそれを良いことのために用いてくださるのです。

 そしてその神の定めは、聖書で、預言者たちによってキリストの苦難が語られていたところに表れています。創世記からマラキ書に至るまで、キリストの預言で満ちています。受難については詩篇22篇とイザヤ書53章がその代表的な箇所です。けれども、当時のユダヤ人たちは、栄光に輝くキリスト、力ある王の王、主の主としてのキリストについては文字通り信じていましたが、メシヤが主のしもべとして立ち、自分を低くし、人々にさげすまれ、むち打たれ、釘を打たれて死なれることについては、文字通り受け止めなかったのです。そのため、彼らは、このイエスがメシヤであるはずはないと思い、ご自分をメシヤであると主張するイエスを、神への冒涜の罪を犯したとして十字架につけたのです。

 ですから、無知であることはとても恐ろしいことです。ユダヤ教は、苦難のメシヤを文字通り信じない過ちを犯しましたが、キリスト教は、栄光のキリストを信じない過ちを犯しています。キリストは心の中の王であり、この地上で王として君臨されることはないと考えたのです。今でも多くのキリスト教会が、栄光のキリストにはあえて触れなかったり、比喩的に解釈します。けれども、聖書ははっきりと、神の国について、栄光のキリストについて述べられています。

 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。

 ペテロは、「悔い改めなさい。」と言いました。あなたがたは罪を犯したが、悔い改めれば罪をぬぐい去っていただけるのだよ、と言いました。罪がぬぐい去っていただくことができるのです。私たちが神の前に立つときに、神さまの持っている書物の中には、私たちの名前が記されています。そして、そこには、私たちの行なったすべてのことが書かれています。生まれた時から、自分が行なったこと、思ったことなどが記されています

 しかし、クリスチャンのページに入ったら、それはキリストの流された血で真っ赤になっています。その記録はまったくなくなっています。自分たちがしたことの代わりに、キリストが行なってくださったことが記されています。拭い去られるのです。そして、ペテロは、すぐに、イエス・キリストの再臨の話をします。

 それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。

 回復の時が来る、万物が改まる時が来る、とペテロは言っています。先ほどは、足なえの男が回復しましたが、それは、後に来る万物の回復の前触にしか過ぎません。私たちは今、後に起こることを少しだけ経験しているのです。でも、主イエス・キリストが来られるときには、イスラエルについての預言がすべて成就して回復します。聖書には、とくに旧約聖書の預言には、至るところに、神の国がどのように祝福に満ちたものかが書かれています。ですから、クリスチャンはまず罪が赦されることによって祝福され、この神の国に入れることで祝福を受けます。

 そしてその時までは天にとどまっておられます。今は、神の右の座に着いておられます。

2C 約束の実現 22−26
 モーセはこう言いました。「神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。」

 これは、申命記にあるモーセの預言です。預言者の中でもモーセほど偉大な人は出ませんでした。そのような預言者が、ユダヤ人の中から出てくる、彼の言うことを聞きなさい、という預言でした。それは、イエスにあって実現しました。

 また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。

 他の預言者たちも、メシヤあるいはキリストについて預言されています。実に旧約聖書は、この一人の人物が出現することを予告する書物なのです。

 あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、「あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける。」と言って、あなたがたの先祖と結ばれたあの契約の子孫です。神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。

 ペテロは、聖書には、キリストが来られると言うことだけではなく、そのキリストにあって祝福を受けるのは、まずあなたがたなのだよ、と言っています。特別な契約の中に入っているユダヤ人であるあなたが、まずこの祝福にあずかることができます、と言っています。だから、悔い改めなさい、そして、邪悪な生活から立ちかえりなさい、と言っているのです。罪の赦しが神の与える、もっとも大きな祝福の一つです。

 そして4章4節を読むと、このペテロのことばを聞いて、約五千人の男性がイエスを信じたと書いてあります。ですから、ペテロは、彼らが自分とヨハネに目を留めていたところから、イエス・キリストに目を向けさせる事に成功しました。イエス・キリストが、あの男を直すことができたし、あなたたちも、イエスにあって罪が赦され、祝福を受けることができるのだ、と言っています。イエス・キリストの御名です。まず、キリストの御名によって、私たち自身が神に用いられる事を知りましょう。イエスは、私たちを用いて、ご自分のわざを行ないたいと願われています。そして、イエスによって、罪の赦しがあります。悔い改めれば、罪が拭い去られます。そして、イエス・キリストによって回復の時が来ます。終わりの日にキリストが再び来られて、神の国をこの地上に立ててくださるのです。お祈りしましょう。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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