使徒行伝9章 「選びの器」

アウトライン

 

1A パウロ − 異邦人福音宣教者として 1−31

   1B 神の恵み 1−19

      1C 迫害者 1−9

      2C 按手 10−19

   2B 苦しみ 20−30

      1C 同胞の民からの憎しみ 20−25

      2C 聖徒たちの無理解 26−30

2A ペテロ − 異邦人の救いの証言者として 32−43

   1B 中風のいやし 32−35

   2B 死者のよみがえり 36−43

 

本文

 

 使徒の働き9章を開いてください。ここでのテーマは、「選びの器」です。神さまは、ご自分の計画を実行されるときに、人を選んで、その人を用いて実行されます。それでは、さっそく本文を読んでいましょう。

 

1A サウロ(パウロ) − 異邦人福音宣教者として 1−31

1B 神の恵み 1−19

1C 迫害者 1−9

 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。

 
この個所は、前回学んだ8章の続きになっています。ステパノの説教を聞いて、怒りと憎しみに燃えたユダヤ人が彼を石打ちにしました。その先導をきったのはサウロであり、彼によってエルサレムの教会で激しい迫害がありました。この彼が、今度は、エルサレムから離れて、ダマスコにいるクリスチャンたちを滅ぼそうとしています。このことは、ダマスコにいる人々にも広く伝わっていました。ちなみに、「この道」とありますが、当初はクリスチャンがこのように呼ばれていました。

 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

 
この迫害者サウロに現われたのは、まぎれもない主イエスご自身です。このサウロ、後にパウロという名前に変わりましたが、パウロはこのときのことを思い出して、月足らずで生まれた者と同様なこの私にも、復活のキリストが現われてくださいました、と証言しています(Tコリント15:8)。神は、迫害者サウロに現われてくださり、彼を、福音宣教者として選ばれました。


 私たちは今、イエス・キリストの福音がエルサレムから、ユダヤ・サマリヤの地域に広がっているところを学んでいます。伝道者ピリポが活躍して、サマリヤの地域に福音が広がってきました。そして、私たちは今、使徒行伝において、いや、聖書全体において大きな分岐点にいます。この福音の広がりが、イスラエル人を越えて、異邦人にまで及んでしまうところにいるからです。このことは、だれも予期していませんでした。ユダヤ人にも異邦人にも、また、神の預言者でさえも理解できていなかった出来事であります。神とはイスラエルの神のことであり、契約とは神がイスラエルと結ぶものであったからです。ですから福音もユダヤ人のものであり、異邦人は関係のないこととされていました。けれども、神はユダヤ人だけではなく、異邦人の神でもあります。神は、異邦人にもご自分のあわれみを注ぐために、福音を異邦人にも与えようとされています。そこで必要なのが人間です。この福音をたずさえる人間が必要だったのです。そこで神が選ばれたのがパウロでした。

 けれども、人間的な判断では、サウロはもっとも選んではいけない人物です。神の教会を迫害していたのはこの人物です。こんな人物を選んだら、人々からの非難を浴びることになるでしょう。現に、サウロに手を置くようにと主から命じられたアナニヤは、異議を申し立てています。ダマスコにいたユダヤ人は、イエスを宣べ伝えるサウロを見て、殺す計画を立てました。エルサレムにいるクリスチャンは、サウロを受け入れませんでした。彼こそが、神に選ばれてはいけない人物でした。けれども、神はあえて選ばれたのです。なぜでしょうか。それは、神の恵みの啓示を人々に与えるためです。恵みとは、受けるに価しないものを受けることを意味します。本来なら、さばかれて、罰せられなければいけない人が、その罰を免れるどころか、大いなる祝福を受けることを恵みと言います。もし、教会を激しく迫害している者が、その罪が赦されて、変えられて、福音宣教者になるのであれば、他にどんなに罪深い人でも神によって変えられることが分かるでしょう。神がパウロを選んだというのは、このようなとてつもない豊かな恵みを私たちに啓示するためだったのです。みなさんが、自分がこんなに神に反抗してきたのだから、神に背を向けているのだから、神は自分には目を向けておられないだろう、あまり関心がないであろう、と考えるかもしれません。けれども、そうした考えを払拭するために、パウロは存在します。

 そして、神がパウロを選んだ他の理由は、彼が、きっすいのユダヤ人であり、厳格な律法の教育を受け、ほんとうにとことんまで律法を守った人だったからです。彼は自分のことを、「律法の義については非難されるところのないものです。(ピリピ3:6)」とまで言い切っています。けれども、イエスは、律法とは人の心の態度までが含まれることを語られました。パリサイ人は外面の行動では律法を守っていましたが、心の中のことまでは守っていませんでした。ですから、このパウロが、人は決して律法をすべて守ることができないことを一番良く知っている人物でした。人の行ないによって絶対に、神との和解をすることはできないことを知っていた人なのです。このことは、異邦人に福音を伝えるときに、とても大切になります。異邦人はユダヤ人のように律法を行なわなくても、ただ信仰によってのみ救われることを伝えなければいけなかったからです。聖書が教えている根幹は、この信仰による神と人との関係です。神のことばを守り、それを行なうことはもちろん大切ですが、どのように守るのかが問題になります。これを、一つの規則のようにして守るのか、あるいは、神との人格的な、個人的な交わりの中で語られたことばとして守るのかは大違いです。ロボットのように言われたことを行なうのは、神のみこころではありません。全人格的な関わり合いがあって、そこから出てくる従順こそが大事なのであり、それが信仰なのです。ですから、この原則をほんとうに理解できる人が必要なわけで、律法の行ないではだれひとり義と認められることはできないことを知らなければならず、それを知っていたのはパウロでした。

 さらに、神がパウロを選ばれたのは、彼がギリシヤ文化にふれていたからです。彼が生まれたのはタルソという町で、そこはギリシヤ文化の影響が強いところでした。ですから、福音の真髄を変えることなく、ギリシヤ人に合わせて語ることができたのはこのパウロだったのです。以上のような理由から、神はパウロを選ばれました。

 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。

 ここの「声」というのは、「音」と訳すことができます。イエスさまはサウロにヘブル語で語られていたので、同行している人はその音を聞いていても、内容は理解することができませんでした。

 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。

 
彼は目が見えず、飲み食いもできず、3日間を過ごしました。けれども、これがサウロには必要でした。彼の膨大な聖書の知識が、今、イエスさまによって照らされて、まったく違った意味を持つようになりました。今までの理解が、まるででたらめであることを知りました。そして、イエスこそが、この聖書が証言しているキリストであることを知りました。この方のすばらしさを、この聖書の知識があるからこそ深く感じ取ったのです。ですから、外界から遮断された形で3日間を過ごすのは、有益だったのです。ローマ書12章には、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえるために、心の一新によって自分を変えなさい。(3節)」と書かれています。心の一新が私たちには必要なのですが、パウロのように、短期間でほぼ完全に変えることができる場合と、また、次の章に出て来るペテロのように、失敗をしながら段階を経て変えることができる場合があります。私がクリスチャンになったとき、大学のクリスチャンの先輩で、教育学部にいて心理学を一生懸命べんきょうしていた人がいました。けれども、心理学によっては人の心はいやされず、神の御言葉のみが人を回復させることを知ったとき、すぱっとその勉強をやめて、聖書の学びに専念しました。そのため、学校の成績はかんばしくなかったようですが…。パウロも、このような人だったのです。自分が人生で求めているものが、180度変わってしまったのです。


2C 按手 10−19

 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」

 主は、サウロに現われたあと、アナニヤを呼んで、彼をサウロのところに遣そうとされています。アナニヤが、「主よ。ここにおります。」と、すぐに答えているところはすばらしいです。主が何を語っておられるのか、私たちはいつも耳をすましていないといけません。そして、主は、実はサウロにも幻を見せておられて、アナニヤが自分のところに来て、自分の上に手を置くことを示されていました。

 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」


 これは当然の反応でしょう。先ほど説明しましたように、サウロは教会の敵、迫害者なのです。

 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」

 
今までサウロがクリスチャンに苦しみを与えていましたが、今度は、自分が苦しみにあいます。これは、もちろん、自分の行なったことの報いを受けるからではありません。イエス・キリストの名を宣べ伝えるので、それに反対し、ねたみ、憎む人たちが現われるからです。


 そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

 
アナニヤは、自分では到底理解できませんでしたが、主の御声に聞き従って、サウロの泊まっている家にやって来ました。そして、「兄弟サウロ」と呼びかけています。これを言うのは、勇気が要ったことでしょう。サウロだけではなく、アナニヤも心の一新が必要でありました。サウロは私たちの敵である、という思いを捨てて、神の選びの器であり、私たちの兄弟である、という思いを身に付ける必要があったのです。そして、サウロの目が開けて、聖霊に満たされるように手を置きました。

 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。

 
アナニヤの按手によって、サウロは聖霊に満たされました。ここではとくに、異言を語ったとか、超自然的なことが伴なった記述はありません。とくに何の兆候もなく聖霊に満たされたのかもしれません。私たちは聖霊のバプテスマを受けることを考えるとき、超自然的な出来事を期待しますが、そのようなものは伴なわないときもあります。サウロが次から、勢いよく大胆に福音を宣べていますが、イエスの証人になることが聖霊のバプテスマを受けた証拠です。そして、サウロは、聖霊に満たされたあと、水のバプテスマを受けて、食事を取りました。


2B 苦しみ 20−30

 そして、サウロの苦しみの生活が開始します。


1C 同胞の民からの憎しみ 20−25

 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」

 アナニヤだけではなく、ユダヤ教徒たちも驚き怪しんでいます。ここに来て、イエスの名を呼ぶものたちを捕縛するはずだったのに、この名を宣伝しているではないか、と言っています。

 しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。

 
それはそうでしょう。サウロが持っていた聖書知識は、他の人よりも格段に上です。今や、イエス・キリストのすばらしさを味わい、聖霊に満たされたサウロは、だれも論駁することができないほど、説き伏せることができました。論駁されれば、本当は信じるしかありません。でも、それをしたくありません。

 そこで次のようなことが起こります。多くの日数がたって後、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、その陰謀はサウロに知られてしまった。彼らはサウロを殺してしまおうと、昼も夜も町の門を全部見張っていた。そこで、彼の弟子たちは、夜中に彼をかごに乗せ、町の城壁伝いにつり降ろした。サウロは殺されそうになり、ダマスコから逃げました。


 私がクリスチャンになったばかりのころ、イエスさまを、自分の知っているいろいろな人に伝えました。ある人は、いつもはやさしい明るい人なのに、恐ろしい顔になって、私を脅かしました。またある人は、泣いてしまいました。私はそのとき思いました。「あなたに言われていることを行なっているのに、なんでこんなことになるんですか。せっかく良い関係が、これじゃだめになってしまうじゃないですか。こうして私は、苦しい、悲しい道を歩まなければいけないのでしょうか。」と思いました。パウロもそう思ったのでしょうか。いや全然。彼の手紙を読むと、そのような自己憐憫的な、暗い雰囲気はこれぽっちもありません。むしろ、喜びと希望と愛をパウロの手紙から感じ取ることができます。しかも、その手紙の多くは、牢屋の中から書かれているのです。それは、パウロは、周りの状況ではなくて、キリストにある霊的祝福に満たされていたからです。エペソ書1章3節には、「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」とありますが、パウロはこれを享受していたのです。そして、外側から受ける苦しみは、キリストにあって喜びへと消化されています。「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。(ローマ5:3)」とパウロは言いました。ですから、聖書が語っている恵みというのは、周りの状況が良くなること、物質的に恵まれることではなく、イエス・キリストを知っていくことなのです。

 ところで、25節と26節の間には、3年間の空白期間があります。彼は砂漠であるアラビア地方に行っています。そこで、彼は、主イエス・キリストご自身から啓示を受けていました。律法の行ないではなく、信仰によって義と認められることについての啓示を受けていました。それからエルサレムの教会に行きます。

2C 聖徒たちの無理解 26−30

 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間にはいろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。

 
サウロは、同胞のユダヤ人からだけではなく、兄弟である主の弟子からも良く思われていませんでした。これも辛いですね。私がクリスチャンになって、教会にいる人々が疑いの目で見たら、さぞかしがっかりするだろうと思います。でも、ここで、神がサウロに、貴重な同労者を与えてくれます。

 ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。

 バルナバは、教会が財産を使徒たちのところに持っていったとき、自分の畑を売って、その代金を持ってきた人です。バルナバは、慰めの子という意味です。さぞかしサウロが慰められたに違いありません。


 それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。そして、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていた。しかし、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れて下り、タルソへ送り出した。

 またもやサウロは殺されそうになって、今度は生まれ故郷のタルソに向かいます。そこで、次にアンテオケからバルナバが来るまで過ごすことになります。

 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。

 
サウロがいなくなったことで迫害がなくなり、教会は平和を保ちました。イエスさまが言われた、「ユダヤとサマリヤの全土でわたしの証人となる」というみことばは、このようにして成就しています。


2A ペテロ − 異邦人の救いの証言者として 32−43

 このように、迫害者サウロは、神に選ばれた福音宣教者となりましたが、最初から神に大きく用いられたわけではありませんでした。サウロのメッセージを受け入れるには、まだ時間が必要だったのです。不信者のユダヤ人だけではなく、おそらくはエルサレムにいる兄弟たちにも、サウロの語るメッセージを全面的には受け入れられなかっただろうと思われます。まだ時間が必要だったのです。まだ、この神の啓示を受け入れるためには、信者も心の準備が出来ていませんでした。そこで、次からサウロの他に、神に選ばれた器が登場します。ペテロです。教会の指導者として主イエスさまに任命を受けたペテロが、異邦人にも福音を宣べ伝えるのは神のみこころであるという啓示を受ける器となります。ペテロが異邦人伝道を受け入れることによって、他のユダヤ人信者も受け入れることができるように導かれていくのです。次回読む、10章において、異邦人コルネリオが主のみことばを信じて、聖霊のバプテスマを受ける場面が出てきます。この出来事に至るまでのいきさつが、次に記されています。


1B 中風のいやし 32−35

 さて、ペテロはあらゆる所を巡回したが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。

 ルダとは、エルサレムの北東に位置する町で、今のイスラエルの国際空港の近くにあります。ペテロは、あのサマリヤで聖霊を受けるために手を置きに行ったときから、このようにエルサレムを離れて巡回していました。すでに信じている人々のところに行って、ミニストリーを行ないました。

 彼はそこで、八年の間も床に着いているアイネヤという人に出会った。彼は中風であった。ペテロは彼にこう言った。「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」すると彼はただちに立ち上がった。ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返った。


 中風で思い出すのは、イエスさまが中風の人を直された出来事です。ペテロは、イエスが行なわれたことを目の前で見ていましたから、このように、自分に今も生きて働いておられるイエスさまによって、この病を直すように導かれたのでしょう。この地域は、異邦人が多くいる場所です。ペテロは、ユダヤ人だけに囲まれた環境から離れて、しだいに異邦人に接近しています。


2B 死者のよみがえり 36−43

 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。

 
ヨッパは海岸の町で、今のテルアビブの上に位置します。タビタという女の弟子がいました。

 ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください。」と頼んだ。そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。

 もうタビタは死んで、人々は泣き悲しんでいます。これ、どこかで聞いたことがあるような場面ですね。イエスさまが、ヤイロに連れられて、その娘が死んでいるのをご覧になった場面です。イエスは、ペテロとヨハネとヤコブ、そして、家族の者以外の人たちを外に出して、「タリタ、クミ。」つまり、少女よ、起きなさい、と言われました。ペテロは、そのことを思い出したに違いありません。


 ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい。」と言った。

 イエスさまは、「タリタ、クミ」と言われましたが、ペテロは、「タビタ、クミ」と言っています。

 すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。


 ここでも、多くの人が主を信じました。ペテロに主がともにおられます。

 そして、ペテロはしばらくの間、ヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に泊まっていた。

 皮なめしの職業をしている人は、いつも動物の死体と隣り合わせにいますから、律法によれば汚れたものとされます。けれども、ペテロはこの人に家に泊まりました。だんだん、ペテロが、律法の領域を越えて、これから会うコルネリオの家に入る準備がなされているようです。


 こうして、二人の選びの器を見てきました。サウロとペテロです。迫害者サウロが、180度変えられて福音を伝えたこと、また、ペテロをとおして死者が生きかえったことは、ほんとうに主が今、異邦人への伝道を開始させようとしている意図を伝えています。私たちも、同じように、キリストにあって、この世から選び出された聖徒です。パウロやペテロのように、キリストが私たちの中で現われるように、私たちに働きかけてくださいます。預言者エレミヤも、またパウロも、私たちは陶器で、主は陶器師であることを話しました。主がご自分の栄光のために、私たちを用いられるのです。そのときに、私たちがしなければならないのは、器に徹するということです。自分たちの判断や思惑で生きるのではなく、主の判断と思惑をいつも気にします。自分のこれまで抱いていた思いを捨てて、主から与えられた啓示を受け入れる、心の一新が必要です。人生には、自分たちには理解できないことがたくさん起こります。けれども、神は私たちを準備してくださっているのです。あらゆる状況を用いて、ご自分の栄光が私たちから現れるように整えていてくださっています。今週、また、これから一生、自分がキリストにあって選ばれていることを思いながら歩みましょう。