エペソ人への手紙1章 「キリストにある霊的祝福」

アウトライン

1A 三位一体の神への賛美 1−14
   1B 父なる神 1−6
      1C あいさつ 1−2
      2C 天的祝福 3−6
         1D 選び 3−4
         2D 予定 5
         3D 子なる身分 5−6
   2B 子なるキリスト 7−12
      1C 贖い 7
      2C みこころの奥義 8−10
      3C 御国の相続 11
   3B 聖霊 13−14
2A 神を知るための祈り 15−23
   1B 私たちに働く神 15−19
      1C 神の召し 15−18
      2C 神の全能の力 19
   2B キリストに働かれた神 20−23
      1C 死から昇天 20−21
      2C 教会のかしら 22−23

本文

 エペソ人への手紙1章を開いてください。ここでのテーマは、「キリストにある霊的祝福」です。
 
 私たちはこれまで、ガラテヤ書を学びました。ここにおいては、キリストにある神の恵みから離れてしまったガラテヤ人に対して、パウロが彼らをキリストのうちに引き戻そうとしているところを学ぶことができました。その中で、私たちが信仰によって、アブラハムの子孫であり、神の相続人であるという話が出てきました。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。(ガラテヤ3:26)」と言っています。私たちが神の子どもであるとは、どのようなことなのか。キリストのうちにある、とはどういうことなのか。キリストにうちにある霊的祝福は、いったい何なのか。この問いに答えてくれるのが、エペソ書であります。

 パウロは、この手紙のはじめから、心からあふれ出るばかりの賛美を神にささげています。なぜなら、その霊的祝福があまりにもすばらしく、豊かであり、栄光に富んでいるかを知ったからです。そして、信者たちについて、「ああ、このことさえ知れば、あなたの生き方も変えられます。」と祈り求めています。

1A 三位一体の神への賛美 1−14
1B 父なる神 1−6
1C あいさつ 1−2
 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 パウロの典型的な手紙の書き始め方です。自分が、キリスト・イエスの使徒であることを紹介して、そして、エペソにいる聖徒たち宛てに書いています、と言っています。そして、恵みと平和があなたがたの上にありますように、と言っています。

 送り先は、「エペソ」という町にある教会でありました。この教会は、アポロの宣教によって建て上げられました。アポロはたいへん雄弁な説教者であり、力強くイエスがキリストであることを論駁しました。ところが、彼はバプテスマのヨハネが宣べ伝えていたイエスしか知りませんでした。イエスの名によってバプテスマを授けること、そしてイエスを信じる者に聖霊が与えられることを知りませんでした。けれども、アクラとプリスキラという夫婦がこの町にやって来ました。この夫婦は、パウロがコリントにて天幕作りをしていたときに、同業者であったユダヤ人です。この二人が、アポロにイエスさまのことについてさらに正しく説明しました。そこでアポロは、さらに力強くイエスを宣べ伝えるようになりました。

 その後に、第三回目の宣教旅行の途上にいたパウロがやって来ました。彼は、エペソにいる信者に、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と聞きました。聖霊については、アポロが教えていなかったので、彼らは知りませんでした。そこでパウロは聖霊について話し、彼らに手を置いて祈ると、聖霊が彼らに臨まれました。ある者は異言を語ったり、預言を語ったりしました。そして、パウロは、エペソに2年以上滞在しました。そこで神の国について論じましたが、アジヤ中の人たちがイエスを信じました。エペソは貿易中継都市であり、アジヤ中の人たちがそこに来るからです。そして、そのときに、パウロをとおしてさまざまな奇蹟や不思議が行なわれました。手ぬぐいから悪霊が追い出され、病気は去りました。けれども、エペソには、アルテミスという女神が祭られていました。それが、多くの人が創造主とキリストを信じたため、アルテミスの神殿の模型を買わなくなってしまったのです。そこで、銀細工人が騒動を起こして、町中が大騒ぎになりました。そのため、パウロはエペソを離れざるを得なくなりました。そして、パウロはコリントのほうに行き、そしてエルサレムに帰る途中に、ミレトというところでエペソにいる教会の長老たちを呼び、彼らに最後のメッセージを送りました。狼たちがあなたがたの中に忍び込みます、という警告でした。

 彼らはこのパウロの警告を、しっかり聞いていたようです。黙示録を読むと、イエスさまが、エペソの人たちが、使徒と自称している人の偽りを見抜いたことをほめておられます。けれども、初めの愛から離れてしまったので、悔い改めて初めの行ないをしなさい、と諭しておられます。

 これがエペソの教会です。そしてパウロは、この手紙を、ローマで軟禁状態になっているときに書きました。他にピリピ人への手紙、コロサイ人たちへの手紙も書きました。パウロは、激しい宣教活動の中にあって、ますます霊的に豊かにされたのでしょう。今、軟禁されている家の中で、神がキリストによって与えてくださったところの霊的祝福を思い巡らしながら、この手紙を書いています。

2C 天的祝福 3−6
1D 選び 3−4
 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

 パウロは賛美を始めています。原語のギリシヤ語では、なんとこの3節から14節まで一文になっています。パウロは、「父なる神がほめたたえられますように」と賛美してから、その賛美が心から次々と湧き上がり、ついに14節まで途切れることがなかったことを知ることができます。それほど、この霊的祝福がすばらしいことが分かります。

 ここで父なる神が「キリストおいて」祝福を注いでおられることに気づいてください。これから読む個所にも、何回も何回も、「キリストにあって」とか、「キリストによって」とか、「御子のうちに」とか、キリストにあることが強調されています。これがガラテヤ書にも語られていた「キリストのうちにある者」です。英語では、たった二つの言葉"In Christ"でありますが、この真実がいかに偉大であるかを知ることができます。

 そして、パウロは、この霊的祝福が「天にある」ものであると言っています。このエペソ人への手紙では、天にあるものがかなり意識されています。その天に、天使がおり、堕落した天使たちとの霊の戦いにおいて、この手紙をしめくくっています。私たちの霊的祝福は「天における」ものなのです。

 ああ、このことをクリスチャンが、もっともっと分かってくれればなあと思います。私たちクリスチャン、とくに日本に住むクリスチャンの問題は、この地上のことしか思わないことです。仏教思想があるからでしょうか、ソロモンが書いたところの「空の空」「日の下には新しいものはない」というような、地上にある目に見えるものがほとんどであり、天は付け足しと考えてしまいがちです。しかし、天は地が現実であるように、同じように現実であり実在しているのです。いや、むしろ、地における出来事は、実は天における霊の出来事によって支配されているのです。私たちは抱く希望は、「天国は良いところかもしれないなあ。」という希望的観測ではありません。私たちはまさに天国人であり、天に属している者であり、この地上での生活はひとときのもの、仮住まいの身であるということです。このことさえ分かれば、いささかの悩み、苦しみなども、すべて主にあって耐え忍ぶことができるのです。

 そしてもう一つ、「祝福してくださいました。」と時制が完了形になっていること注目してください。父なる神は、私たちをこれから祝福するのではなく、すでに祝福されたのです。ここも大事なことなのです。なぜなら、私たちの過ちは、これから神から祝福されようと思って、それで自分の行ないに頼ろうとするからです。この過ちについては、ガラテヤ書において細かく学びました。けれども、神はすでに私たちにすべての霊的祝福を与えられました。この完全な状態から私たちは出発します。この霊的祝福がいかに私たちの現実の生活に現われ出るか、というところが勝負どころなのです。けれども、私たちがこれから、自分たちの頑張りで、勝ち得ていくものではないのです。

 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

 具体的な霊的祝福の一つ目は、神がキリストにあって、私たちを選んでくださったことにあります。御前で聖く、傷のない者にするために選ばれました。私たちは旧約聖書の学びで、聖いものだけを主が受け入れて、汚れたものは退かれることを学びました。汚れた者、たとえば、らい病をわずらっている者や、死体にふれた者は、宿営の外に追い出されました。また、傷のない子羊のみが、神が受け入れてくださるいけにえでありましたが、もし傷があれば受け入れられませんでした。しかし、私たちが神の御前に出るときには、そのようなかたちで退かれることはありません。キリストが私たちを父なる神に差し出してくださいます。そのときには、聖く、汚れのない者として差し出してくださいます。ああ、なんとすばらしいことでしょうか。私たちは、父なる神に受け入れられるのです!

 そして、これは、私たちが一生懸命祈って、良いことを行なって、神に従うことを選び取って勝ち得るものではないのです。世界の基が置かれる前から、私たちをそのような者として選んでくださったのです。イエスさまは弟子たちに言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)」私たちがイエスさまを選んだのではなく、イエスさまが私たちを選んでくださいました。ここが私たちに深い安心を与えてくれます。救われるのか、救われないのかが分からないということはないのです。と同時に、私たちは、自分中心ではなくキリスト中心に生きていかなければいけないことを教えてくれます。自分が選び取ったのであれば、自分が好きなように、イエスさまの良いところだけを受け入れて、自分で改良してやっていけばよいのです。しかし、選ばれたのはイエスさまであり、私たちではありません。イエスさまが言われることが私たちにとってすべてであり、イエスさまのすべてのみことばに耳を傾ける必要があります。

2D 予定 5
 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

 父なる神による二つ目の霊的祝福は、私たちを神の子どもにするよう、あらかじめ定められたことです。(ここにも、「イエス・キリストによって」という言葉が出てきますね。キリストにあって、すべての祝福があるのです。)

 あらかじめ定めること、「予定」とも呼ばれますが、悲しいことに、激しい神学論争によって、この霊的真理のすばらしさを見えなくさせています。人は、永遠の昔から、救いに定められている者と滅びに定められている者がいる、という予定論があります。それに反対して、神はすべての人が救われるのを望んでおり、その人の運命は、その人がキリストを信じることを選び取るかどうかに関わる、という自由意志を強調します。しかし、ここでは、そのような論議をするのではなく、ただ単純に、神が、私をご自分の子どもにされることを予め定められたということに素直に驚き、喜んでいればよいのです。

 みなさんが、だれかに誘われて、何らかのパーティーに行くとしましょう。自分自身は招かれていません。ですから、その主催者もあなたのことを知りません。だから、自分は一生懸命、自己紹介をして、自分がその仲間に受け入れられるようにしなければなりません。これは、あらかじめ招かれていなかった、突然の出来事だったらです。けれども、前もってあなたが、そこのパーティーに招かれていたとしましょう。その場に入ったら、あなたはみなから喜ばれて、主催者も喜びます。「よく、いらっしゃいました。」と声をかけてくれるでしょう。これが、予定なのです。

3D 子なる身分 5−6
 放蕩息子の話しを思い出してください。あれが、まさに、5節でパウロが言っていることなのです。この息子は、父からの財産の分け前をすべて使い果たしてしまいました。今は、ぶたよりもひどい生活を送っています。そして彼は悔い改め、父のところに戻ります。息子の財産は使い果たしたのですから、もちろん、息子としての身分として受け入れてもらおうとは思っていません。「しもべの一人のようにしてください。」と彼は父に言いました。しかし、父は、この子に一番良い着物を着させて、手には指輪をはめさせ、足にくつをはかせました。父は、この子を遺産を受け継がせる息子の身分にすることを、彼が戻ってくる前から、予め定めていたのです。私たちが、神の子どもとなり、神の家族に入れられるとは、なんとすばらしいことでしょうか。そのことを感謝し、賛美しましょう。

 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

 パウロは、神の栄光のことを、「恵みの栄光」と呼んでいます。私たちが聖く、傷のない者になることも、また神の子どもになることも、私たちではなく、神が行なってくださいました。私たちは決してこのような祝福を受け取るに値しません。ですから、「恵み」なのです。そしてこの恵みが注がれるときに、栄光を受けるのは恵みを注いだ本人です。神がお受けになります。もし私たちのほうで、何らかの貢献をしたのであれば、私たちにも栄光が与えられるでしょう。しかし、すべて神が行なってくださいました。だから、栄光は神に至るのです。

2B 子なるキリスト 7−12
 パウロは、次に、父なる神から、子なるキリストへの賛美にうつります。ここで気づいていただきたいのは、パウロが、三位一体の神のそれぞれの位格に賛美をささげていることです。3節から6節までは、父なる神に賛美がささげられていました。そして7節から12節までは、キリストに賛美がささげられています。12節をごらんください。「キリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる」とありますね。そして、13節から14節までは、聖霊に対する賛美がささげられています。聖霊が神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられる、とあります。父なる神、子なるキリスト、ご聖霊のそれぞれに賛美がささげられています。むろん、この神はひとりです。

1C 贖い 7
 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

 神の霊的祝福は、御子による贖いがあります。贖いというのは、「買い戻す」ということです。神が、私たちを買い取って、ご自分のものとしてくださったという真理です。みなさん、自分が買い取られるほどに大事にされていることを考えてみてください。けれども、まず、神によって造られた者であることを考えてください。私たちは、自分がよく考えて作り上げたものと大切に扱います。神の私たちに対する思いはそうなのです。ご自分が造られたのですから、私たちは高価で尊いのです。しかし、神が抱いておられる私たちへの思いは、さらに大きく、深いのです。

 ご自分が造られたものが、ご自分の手から離れていってしまいました。悪魔のささやきに、人が聞き従ったからです。人は失われてしまいました。神から離れたものになってしまいました。しかし、神はキリストを遣わし、さまよい歩いている私たちを見出されました。私たちは、イエスさまがよくたとえで用いられた、「迷子になった羊」のようであります。しかし、私たちはすでに悪魔のものになっていました。しかし、神は、悪魔から私たちを買い取りました。ご自分のひとり子の血という代価を払って、再び私たちをご自分のものにされました。これだけの代償を払って私たちを買い取ってくださったのですから、どれほど私たちを慕っておられるかを想像できるでしょうか。神は、ねたむほどに私たちを愛しておられます。なぜなら、ご自分が造られた被造物だからだけではなく、ご自分が買い取られた子どもたちだからです。

 そして、その代価が御子の血によって支払われたことに注目してください。ヘブル書には、「血を注ぎ出すことなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル9:22)」とあります。人の罪は、残酷ですが死をもってのみ償われます。罪はそれほどの大きな代償をともないます。アダムが罪を犯したときに、主は、着物として皮の衣をアダムとエバに与えられましたが、それは動物が殺されているからこそ与えることができるのです。そして、カインとアベルが二人の間に生まれましたが、アベルがささげた羊の初子は受け入れられましたが、カインの土地の作物は受け入れられませんでした。それは、罪が、どのような人の努力によっても決して償われることのないという厳しい現実を示しています。血を流すことによってのみ、罪の赦しが可能なのです。昔は動物の血が流されていました。しかし、それは罪を覆うことはあっても、罪を取り除くことはできませんでした。しかし、今、動物ではなく、神の御子ご本人の血が流されました。これによって、神は完全に贖いのみわざを成し遂げることがおできになったのです。

 そして、「これは豊かな神の恵みによります」とあります。ローマ書5章には、「罪が増し加わるところには、恵みが満ちあふれました。」とあります。私たちが罪人であるにも関わらず、いや、罪人だからこそ、とてつもない祝福を受けました。「ちょっと待ってください!正しい者が祝福を受けるのではないのですか。正しいからこそ、祝福を受けるに値して、正しくない者は罰を受けなければいけないのではいのですか。」と聞くかもしれません。「悪い者だから祝福を受けるなんで、それは不公平ではありませんか。」そうなんです、神はその不公平をあえて行なわれたのです。むろん、神は不公平な方ではなく、公平な方です。えこひいきなく罪人をさばかれます。しかし問題は、だれひとり義と認められないことなのです。だれも救われることはありません。そこで、神はあえて不公平なことをされました。それは唯一正しい方であるキリストを罪人として数えられ、罪人である私たちを正しい者とみなされたのです。キリストの義が私たちに転嫁され、私たちの罪がキリストに転嫁されたのです。罪を犯したことのない方を打たれて、罪を犯したものをまるで罪がないようにみなされたのです。これが恵みであり、私たちにこの恵みを注いでくださいました。

2C みこころの奥義 8−10
 そしてパウロは、御子による二つ目の霊的祝福を話します。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。

 「奥義」とありますが、奥義とは、昔の時代には知らされていなかったけれども今、啓示された真理のことであります。昔の預言者には知らされていなかった神のご計画です。これが、今、神のあらゆる知恵と思慮深さをもって、私たちに知らされたのです。聖書には、いろいろな奥義が書かれています。イエスさまは、天の御国の奥義について語られました(マタイ13:11)。パウロは、ローマ書11章で、イスラエルが救われることを奥義と言いました。コロサイ書においては、うちにおられるキリストの奥義を話しました(1:27)。テサロニケ人への手紙第二には、「不法の秘密」あるいは奥義、とあります(2:7)。そして黙示録には、バビロンの秘められた意味(17:5)、とあります。これらは、昔は隠されていてだれも知ることができないのですが、今や、私たちには知らされているのです。なんと、私たちはすばらしい時代に生きていることでしょうか!

 多くのクリスチャンが、この恵みについて知りません。聖書の分かりにくいところは、分からないままにしておこうとするのです。しかし、今話したような奥義は、むしろこの時代にあって、神がすべての知恵と思慮深さをもって、私たちに知らせてくださったのです。ペテロの手紙第一には、御使いでさえも私たちの救いについて知りたがっていたことであると書いてあります。

 それでは、ここでパウロが話しているところの奥義は何でしょうか。次をご覧ください。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

 キリストにあって、すべてのものが集められる時が来ます。今、キリストは神の右の座に着いておられるのですが、すべてのものがこの方に従っているのをまだ見ていません。しかし、時が来ると、天にあるものも地にあるものも、すべてのキリストをかしらとして集められます。キリストが私たちの主であるばかりでなく、あらゆる被造物の主となられるのです。

 これはいつのことでしょうか。ここには、「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行されて」とあります。簡単に言うと、神のご計画が完成されるときです。他の聖書の個所によると、これはイエス・キリストが再びこの地上に来られるときであります。コリント人へ手紙第一15章によると、キリストの再臨があって、「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。(15:24)」とあります。イエスさまがこの地上に戻られると、地上を荒らしまわっていた反キリストと偽預言者はゲヘナに投げ込まれて、キリストに反抗する諸国の民も、同じくゲヘナに投げ込まれます。悪魔は底知れぬところに鎖につながれ、すべての反逆分子はここで制圧されるのです。正義と平和の王であるキリストが、世界に君臨されます。

3C 御国の相続 11
 このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。

 御子における霊的祝福の三つ目は、御国を受け継ぐということです。天と地にあるいっさいのものが御子に服従するとき、私たちはその神の国を相続することになります。ローマ書8章においては、私たちはキリストの共同相続人になる、と書かれています。キリストとともに統治するとも、他の聖書個所には書かれています。今の私たちには信じがたいことですが、しかし、神のみことばがそう言っているのですから、必ずそうなるのです。

 私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められているのです。

 神は、ご自分の計画の中に、すべてのものがキリストのもとに集められるように、その順序や配置を整えながらそのご計画を立てておられます。神は初めに、イスラエルをお立てになりました。ご自分の民を造られて、この民と契約を結ばれて、そしてこの民をとおして、世界にご自分を証しされようとしました。しかし、神は同時に、彼らが不従順になることも知っておられました。そこで神は、その不従順を用いて、今度はイスラエルではない民、つまり異邦人に救いをもたらすように定めておられました。そしてその異邦人を用いて、今度はユダヤ人たちにねたみを起こさせ、彼らが救われるように定められました。このことが完成するのは、キリストが再び来られるときです。イスラエルに、哀願と恵みの霊が注がれて、自分たちが突き刺した方、つまりナザレ人イエスが、来るべきメシヤであることを悟り、悔い改めてこの方をメシヤとして受け入れます。そして、彼らは救いにあずかるわけですが、一方で人を不従順にして、もう一方であわれみをかける、という方法を取られたのです。今、私が話したことは、ローマ書11章後半部分にあります。このように、神は、すべてのものがキリストに来るように、あらかじめご計画を立てられていたのです。

 それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。

 ここでキリストについての賛美が終わります。次から聖霊についての賛美ですが、時間が来ましたので、来週にお話したいと思います。ここまで霊的祝福を見ただけでも、私たちは驚き喜んでいることと思います。これがパウロの意図なのです。私たちが、何も持っていないかのよう乞食のようにふるまうのではなく、霊的な大金持ちのように生きることを願っているのです。事実、私たちはキリストにあって、あらゆる霊的富を持っているのです。