エペソ人への手紙3章 「聖徒たちへの願いと祈り パート2」


アウトライン

1A キリストの奥義 1−13
   1B 恵みの務め 1−7
      1C 啓示によって 1−5
      2C ともにあずかる者 6−7
   2B 世々隠されていた知恵 8−13
2A 神の満ち満ちたさま 14−21
   1B キリストの愛 14−19
   2B 豊かに施す方 20−21


本文


 エペソ人への手紙3章を学びたいと思います。前回私たちは、3章の前半部分1節から12節までを学びましたので、今回は13節から最後までを学びたいと思います。ここでのテーマは、前回と同じく「聖徒たちへの願いと祈り」です。

 パウロは、今、エペソにいる聖徒たちを励まそうとしている。というのは、パウロは今、ローマにて軟禁状態にあり、鎖につながれている状態だからです。エペソの信徒たちが落胆しているのではないか、と察しています。エペソの町において、神はパウロをとおして、目覚しい働きをなされました。主のみことばがエペソから少アジヤ中に広まり、悪霊が追い出され、病人がいやされました。しかし、今、そのパウロが牢屋に入れられているのです。そこで、あの神のみわざがどうしたのか、という失望感も抱いていたかもしれません。しかし、パウロは、「いや、私が囚人となっているのは、まさにあなたがたの光栄なのです。」と言って励ましています。

 というのも、パウロが捕まえられたのは、彼が異邦人に福音を宣べ伝えることにユダヤ人がねたんだからでした。彼は、イエス・キリストご自身から啓示を受けました。それは、異邦人もユダヤ人と同じように神の相続人となり、ユダヤ人と一つのからだになり、そして神の約束にあずかるものになるという啓示です。しかも、それは、キリストのうちにある、という神秘的な結びつきによって、ユダヤ人たちが神と持っていた関係よりも、さらに深い、直接的な関係となりました。ユダヤ人が神を礼拝するために、いけにえをたずさえて神殿にまで来なければなりませんでしたが、なんと私たち自身がその神殿になっていると、パウロは話しています。神との間の隔ての壁、また人との間の隔ての壁が、キリストの十字架によって完全に取り除かれてしまったのです。だから、パウロは、「大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。(3:12)」と言いました。

2A 神の満ち満ちたさま 14−21
 こうして、このようなすばらしい計画を神はあなたがたのために立てておられたのですよ、と言って、次に、そのことが私たちの内において霊的な現実となるように祈りをささげています。それが13節から始まるパウロの祈りです。

 前回の学びで、私は、この祈りが、クリスチャンにとっての最も大きな課題の一つであると話させていただきました。それは、神のご計画があまりにも偉大で、栄光に富み、恵みに富んでいるので、地に足をつけているこの私たちが、その霊的祝福の中にどのように生きていけばよいのかが分からなくなってしまう、という問題があるのです。あたかも、豪華な何百万円もする衣装を身に付けて、雪上がりのドロドロになったグランドでラグビーをしなければならないような感触を持ちます。そこで、パウロはキリスト者が、神のご計画の中に生きるための祈りを始めるのです。

1B キリストの愛 14−19
 こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

 パウロは祈りを始めますが、そのときに、「ひざをかがめて」います。これは神に対する畏敬を表すものです。そして、祈っている相手を、「」と呼んでいます。単に神を知るだけではなく、神のご計画を知るだけではなく、私たちを愛してやまない人格を持った父として、私たちに接してくださることを願って祈っています。そして、この父を、「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である」と言っていますが、これは教会のことを指しているのでしょう。神の家族である教会は、地上にあるだけではなく、天上にも存在します。覚えていますか、黙示録4章には、24人の長老が冠を投げ出して、神の御座の前にひれ伏して礼拝していましたが、天にも教会があるのです。パウロは、地上と天上の神の家族すべてを意識して、その元である父の前に祈っています。

 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

 これがパウロの第一の祈りです。私たちの内なる人を強くしてくださるように、と祈っています。強くするのは、「栄光の豊かさ」に従って、です。神の栄光の豊かさについて、私たちはこれまで学んできました。この栄光を私たちがどれだけ見つづけているか、にかかっています。コリント書第二には、「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。(Uコリント3:16)」と書いてあります。そして、そのとき、主の栄光を鏡のように反映させながら、栄光から栄光へと主の似姿に変えられます。したがって、神の栄光の豊かさを知ることが私たちクリスチャン生活の始まりです。

 そして内なる人が強くされるのは、「御霊により、力をもって」とあります。私たちは、あまりにもかけ離れた、二つの世界の狭間の中で生きています。神の栄光とこの世の空しさです。ですから、私たちが自然に考えつくような発想では、決してクリスチャン生活を送ることができません。私たちが「右」と言っているときに、神は「左」とおっしゃっていることが、多々あるのです。そこで御霊の啓示が必要になります。また御霊の力が必要になります。御霊の知恵と力によってのみ、私たちは強められることができます。

 そして強められるのは、外なる人ではなく「内なる人」であることに注目してください。パウロは他の個所で、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされます。(Uコリント4:16)」と言っていますね。ここの理解がとても大切です。エペソの人たちがパウロの外なる人を見て、落胆したかもしれません。「これほど偉大な神のご計画があるのに、パウロは牢屋の中にはいっている。」と。私たちも、これほどすばらしい神の約束があるのに、どうしてこうなっているの、という問いかけを持っています。しかし、神がご自分の栄光の豊かさにしたがって、私たちを強めてくださるのは、内なる人であることをおぼえておく必要があります。私たちの周囲の状況は、さほど変わることはないかもしれません。けれども、内なる人はどんどん変えられていきます。同じ状況の中にいるのに、その中にいても喜び、平安が与えられ、愛に満たされる自分を発見します。神にゆだねることを覚えていきます。

 そして、このように内なる人が強められる結果、私たちが得られるものは、キリストのご臨在です。次をごらんください。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

 私たちの心が神の栄光によって満たされてくると、その栄光であられるキリストが私たちのうちにおられることが、ますます現実のものとなってきます。キリストが私たちの心のうちに「住んで」くださるのです。これは、家の中の置物のようにイエスさまがじっとしておられるということではなく、私たちと奥深い会話をし、生活を共にしてくださるということです。

 このイエスさまとの生活を可能にするのは、私たちのゆだねた心です。私たちは、イエスさまが、家の中にある引き出しを開けたいと願われても、そこには鍵がかかっています。イエスさまにきれいにしていただけばよいのですが、私たちはどうしても、鍵を渡したくないと思います。これは、自分だけの場所としておきたい、と思っているからです。そうすれば、イエスさまは開けることはできません。私たちの自由意思に反してまで、私たちの心の奥底に入って来ようとは思われないからです。しかし、イエスさまは意地悪な方ではありません。愛に満ち満ちた方です。イエスさまが私たちの心のお住みになるのは、私たちがどこまで、キリストの愛に信用しているかにかかっています。

 そこでパウロは次に、キリストの愛を私たちが知ることができるようにと祈っています。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。

 パウロは私たちのことを、「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」と言っています。根ざす、というのは、養われると言い換えても良いかもしれません。私たちが、日々の生活の中でキリストの愛によって養われているかどうか。みことばの学びの中で、自分の根幹の部分において愛を感じていているかどうかです。そして、愛に基礎を置くというのは、具体的な生活の中で愛を実践しているかどうか、ということであります。キリストが私たちを赦してくださったのであれば、その赦しの中に生きているかどうか。自分の罪の赦しだけではなく、他人の罪の赦しも信じているかどうか。自分の救いだけではなく、他人の救いも願っているかどうか。自分の心の奥底で起こっていることが、自分のうちからあふれ出て、まわりに浸透するように、という祈りであります。

 そして、「すべての聖徒とともに」とあります。先ほども、地上と天上の教会のことを意識して祈り始めましたが、ここでのキリストの愛をすべての聖徒とともに知ることを祈っています。私たちは、個人的にキリストの愛を知るだけでは不十分です。いや、すべての聖徒とともに知るという過程を経て始めて、キリストの愛を知ることができます。ゆえに、聖徒との交わりが非常に重要な要素となるのです。

 そして、愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」について述べています。愛の広さとは、全人類に広がっているキリストの愛です。キリストは全人類のなだめの供え物となるために、死なれました。どのような人であっても、キリストがその人のためにいのちをお捨てにならなかった、ということはないのです。こう考えると、私たちは絶えず、キリストの愛の広さを自分のものとしていく必要があることを知ります。自分に気が合わない人、自分が無関心であった人、そのような人々にも、キリストの愛を見ていく必要があるわけです。キリストの愛の広さです。

 次に、キリストの愛の長さです。神の愛は永遠の愛であり、十字架の上で御子を通して成されたことは、二千年前のパウロであっても、現在の私たちであっても同じなのです。ルターは、「キリストが死なれたのは、つい昨日のことのように感じる。」というようなことを話したということを聞いたことがあります。あの時代にキリストの十字架と復活を経験した人たちと同じように、私たちもその愛を自分たちのものとすることができるのです。

 そして、キリストの愛の「高さ」です。先ほど天上にいる聖徒たちも、この祈りに含まれていることをパウロが述べましたが、キリストの愛は天よりも高くあります。天国において、ほふられたと見える神の小羊がいると、使徒ヨハネは言っています(黙示4:6)。つまり、イエスさまは、地上におられたときと同じように、その両手には釘の跡が、足にも釘の跡が、そしてわき腹が裂かれているのです。賛美にも、このような歌あります。「手足に釘がある。これが神の愛を伝えてくれる。額にはいばらが。これが、私を愛するために、どれだけのものを背負ってくださったかを知る。そして天が過ぎ去るが、それでもその傷は残っており、永遠に、どれだけ私を愛してくれているかを知らせる。」キリストの愛は、天にまで及んでいるのです。

 そして、キリストの愛の「深さ」です。キリストの愛は、それを知ったときもありますが、それで終わるものではありません。さらにさらに深く、キリストの愛は私たちに迫ります。私は、クリスチャンになったときにキリストの愛を知りました。当たり前ですが。それからは必要ではないと思いました。きよい良いクリスチャンになるのだから、と。しかし、クリスチャンになってから、自分がとてつもない罪人であることを気づかされることが起こりました。キリストは、その罪のためにも死んでくださいました。今の自分も、キリストの愛がなければ、たちまち滅ぼされているでしょう。キリストの愛は、さらに深められていきます。

 そしてパウロは、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」と祈っています。これは普通に読んだら、矛盾する言葉です。人知をはるかに越えているのに、知ることができるように、と祈っています。キリストの愛は、知性では計り知ることはできませんが、しかし、私たちの霊によってそれを体験することができます。キリストの愛がどうしても分からない、と悩んでおられる方は、− いや、すべてのクリスチャンがこのことで悩んでいるのですが、− パウロのように霊によって、キリストの愛を体験することができるよう、ますます祈っていこうではありませんか。キリストの愛は、私たちが把握して、自分の頭の中にしまっておくことができるようなちっぽけなものではありません。満たされて満たされて、それでもあふれていくような奥の深いものなのです。

 そしてパウロは、最後の祈りをしています。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 これが、パウロの祈りの終着点です。私たちがどのような姿になればよいのかをパウロはここで描いています。神の満ち満ちたさまにまで満たされるというのが、クリスチャンの終点です。私たちが、まだ満たされていない部分があるでしょう。先ほど話しましたように、自分の殻を作ってしまって、そこに神さまを入れさせない領域があるでしょう。そこを満たしていただきましょう。けれども、神に満たされるだけでは不十分なのです。神の満ち満ちたさまに満たされなければならないのです。つまり、今私たちが知っている神さまの姿だけではなく、さらにさらに神さまのことを知って行き、神さまの栄光を見つめ、今まで知らなかった神さまの姿を見ていく必要があると言うことです。

 パウロは、「私はすでに得たのでもなく、すべに完全にされているのでもありません。(ピリピ3:12)」と言いました。私はようやく到達した、という安心感は、クリスチャンの歩みにとって危険なことです。私たちはいつまでも、求道者であるべきです。キリストを追い求め、神の御姿を追い求め、そしてますます満たされ、またさらに追い求める、このようなクリスチャンでありたいものです。

2B 豊かに施す方 20−21
 そしてパウロは祝祷をします。どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

 ここにすばらしい神さまの約束が書かれています。私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて、豊かに施してくださる、という約束です。神は、私たちの願いを聞いてくださるだけではありません。私たちが願っている以上に、その願いに応えて豊かに施してくださるのです。

 私たちの祈りは、必ず神に届けられています。イエスさまは弟子たちに、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネ15:7)」と言われました。また使徒ヨハネは、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(Tヨハネ5:14)」と言っています。私たちと神との間にある隔ての壁は、キリストにあってすべて壊されているので、私たちはキリストにあって神の子どもであり、その願いは必ず聞かれているのです。これをぜひ確信してください。イエスさまは、私たちのことをご自分の友まで呼ばれています。イエスさまが父なる神に願って、その祈りが聞かれるように、私たちも父なる神に祈り、その願いか聞かれているのです。

 そして、パウロは一歩進んでいます。願いが聞かれるだけではなく、願い以上に豊かに施してくださる、と言っています。イザヤをとおして主は言われました。「わたしの思いと、あなたがたの思いは異なる。天が地よりも高いように、わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い。」私たちが思いもつきもしない方法で、神は私たちの願いを聞いてくださいます。ここには忍耐が必要です。私たちは、自分たちの理解にたよることはできません。信仰によって約束のものを待つのです。ああ、このことはなんとすばらしいことでしょう。神は、最前のご計画を持っておられます。それを私たちをとおして、実行されようとしています。私たちには理解できません。けれども、神は、陶器師として、陶器である私たちを練り、形造られ、そしてご自分にとって喜ばしい作品にしてくださいます。

 そして、「栄光が、教会により、またキリスト・イエスにより、ありますように」と祈っています。キリスト・イエスによって、神が私たちのうちに働いてくださることによって、神さまの栄光が現われます。このようなちっぽけな私であっても、そうなのです。むしろ、ちっぽけだからこそ私をキリストにあって選んでくださったのです。神の恵みの豊かさが現われるためなのです。

 どうかパウロのこの祈りを、私たち自身のものとできますように。落胆しそうになったとき、神の栄光を見ましょう。そして内なる人を御霊によって強めていただきましょう。そうしたら、キリストが私たちのうちに住んでおられることを知ります。そして、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知っていきましょう。そして、神の満ち満ちたさまにまで満たされるのです。


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