おもだった人たち 2001/02/18

今日の聖書の学びは、ガラテヤ書2章でした。以下、メッセージ原稿を一部引用、編集したものを掲載します。

「そして、おもだった者と見られていた人たちからは、・・彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。・・そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。 (6節)」

パウロはここで、ペテロとヨハネ、また主の兄弟のヤコブのことを「おもだった者と見られていた人たち」と呼んでいます。それは、彼らが教会の最高指導者であり、彼らが重要人物であるような考えが教会の中にあったのを意識していたからです。ペテロもヨハネも、主が地上におられたころにともに生活していたものでした。ヤイロの娘がよみがえったのも、また、高い山にて主の変貌の姿を見たのも、彼らでした。ペテロに対しては、「この岩の上に、わたしの教会を建てます。」と言われました。そして、彼らは主のよみがえりも見ました。このように、彼らは主に愛された者であり、また聖霊がお降りになってからも、教会の指導約役割を果たしていました。そこで、彼らが神により近いような人物という見方が教会の中にあったのです。むろん、ペテロやヨハネ自身は、そのような考えをまったく持っていませんでした。ヨハネは、黙示録において、「あなたがたの兄弟であり」と自分のことを呼んでいます。彼らも同じ人間であり、主にあってすべての者は同じ神の子どもであることをよく知っていました。けれども、全体の雰囲気の中で、彼らが一番上に立っていて、より重要な人物であるというような霊的階級制度があったようです。

しかし、イエス・キリストの十字架の死は、私たちのほうには、何ら神に良い印象を与えたり、好意を寄せられるようなものは何一つないことを教えています。事実、ペテロは主が死に渡されるとき、とんでもない罪を犯したことが、福音書の中で明らかにされています。キリストの死は、すべての人が、どのような重要人物であろうとも罪人であり、神のさばきに服する者たちであることを教えます。そして、キリストの死による罪の赦しによって、神の御前に立つことができるようになりますが、立つことができる条件はただ一つ「信仰」であることが分かったのです。したがって、だれがより神にとって重要であるとか、神により近いとかいう話は、恵みの福音の中には存在しないのです。すべての人は、キリストにあって大切な存在なのです。

私たちはみな、キリストの十字架の御業のみを誇りとします。天において、だれがより優れたことを行なったかというような話題は少しもありません。天国には、ただイエス・キリストをほめたたえる賛美のみが聞こえるのです。


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