ヘブル人への手紙1章4−14節 「御使いよりすぐれた方」

アウトライン

1A 礼拝を受ける方 4−6
   1B 御名の相続 4
   2B 復活 5
   3B 御使いの礼拝 6
2A 御座に着かれている方 7−14
   1B 仕える御使い 7
   2B 世々限りない支配 8−14
      1C 油注ぎ 8−9
      2C 万物の創造 10−12
      3C 右の座 13−14

本文

 ヘブル人への手紙1章を開いてください。今日は、1章4節から最後の節まで学びたいと思います。ここでのテーマは、「御使いよりすぐれた方」です。

 私たちは前回、このヘブル人への手紙のテーマである、1章1節から3節までを学びました。この手紙のテーマは、「イエス・キリスト」そのものであります。神は、昔は、先祖たちに、預言者をとおして語られたが、終わりの時は御子を通して語られました。それは、御子は、神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現われであり、この方のことばによって万物が保たれています。また、イエスさまは、罪のきよめを行なわれて、今、いと高き所の大能者の右の座に着かれました。このように、キリストがどのような方なのかを、はっきりと、しっかりと知ることができるのが、この手紙です。もし救いの道を知るには、ローマ人への手紙がもっとも大切であると言うのであれば、ヘブル人への手紙は、私たちの信仰の対象である、イエス・キリストを知っていくことに他なりません。

 そして4節から、この手紙の著者は、イエス・キリストを御使いと比べ、御使いたちよりもはるかにすぐれた方であることを論じることで、イエスさまがいかにすぐれた方かを教えています。

1A 礼拝を受ける方 4−6
1B 御名の相続 4
 御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。

 御子が、御使いよりもまさる方となられたという理由として、この著者は、 − 私はパウロだと思っていますが、− 御使いたちよりも、さらにすぐれた御名を相続されたからだ、と言っています。これの意味しているところは、ピリピ2章9節から11節までに書いてあります。「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」イエスさまが、死者の中からよみがえられ、そして天に昇られましたが、そのときに神は、この方を、あらゆる名にまさる名を与えられた、とあります。すべてのもののなかで、はるかにすぐれた方とされた、ということです。そこで、エペソ人への手紙には、パウロはこう言っています。「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。(1:21)」今読んだ、「すべての支配、権威、権力、主権」というのは、天にある霊的存在、つまり御使いたちのことを指しています。それらの御使いよりも、はるか上にイエスの御名を置かれたということです。

 御使いについて、私たちは、しばしば誤解を受けています。羽がついたキューピーちゃんのようなほんわかな、何となく浮いているような存在であると考えたら、大間違いです。聖書を読むと、たしかに御使いが行なっていることは、とてつもなく力強く、支配と権威と主権と権力を持っていることを知ることができます。例えば、創世記においては、ソドムとゴモラを火と硫黄で焼き尽くしたのは、主ご自身と二人の御使いによってでした。また、正しい人ヨブは、堕落した御使いであるサタンによって、自分の財産や家族を失い、自分自身の健康までも失ってしまいました。ダニエル書を読むと、10章ですが、そこにはペルシヤの君やギリシヤの君などが登場します。ペルシヤやギリシヤは、当時の世界の中でもっとも大きな国であり、帝国でした。帝国全体を動かすことのできる主権を、御使いが持っていたのです。また、モーセが神から与えられた律法は、神から御使いをとおして与えられた、と書いてあります(使徒7:53;ガラテヤ3:19)。イエスさまがよみがえられたとき、大地震を起こしたのはだれだったでしょうか、主の使いでした。そして黙示録には、地上に下る神からの災いを引き起こすのは、御使いたちによってです。これが、羽がついたキューピーちゃんでは決してないのです。御使いは、とてつもなく力強い存在であり、神の働きの中で中心的な役目を果たしています。神が何かを行なわれようとするとき、この御使いに託して行なわれることが多いのです。けれども、この御使いたちよりも、はるかにすぐれた御名を相続されているのが、御子キリスト・イエスです。

2B 復活 5
 神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」

 これは、イエスさまが神の御子であることを宣言する旧約聖書の個所です。「あなたは、わたしの小。きょうわたしがあなたを生んだ。」というのは、詩篇二篇からの引用ですが、有名な個所なので、一度読んでみましょう。「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』」この部分が引用されています。「『わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」(2:1−12)

 「生んだ」という言葉は、私たちは、どうしてもこの方が神によって造られたもの、被造物であるかのように聞こえてしまいます。そこで、エホバの証人は、「生まれる」という言い回しから、イエスは最初に神によって造られた被造物であり、イエスによって他のすべてのものが造られた、と考えます。けれども、それはあやまった解釈です。使徒行伝13章を開いてください。この個所を引用して、パウロが福音をユダヤ人に宣べ伝えています。13章の33節です。「神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と書いてあるとおりです。」わたしがあなたがたを生んだというのは、イエスさまがよみがえってくださったこと、復活のことを意味しています。そしてローマ人への手紙1章4節に、パウロがこう言っています。「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマ1:4)イエスさまが、死者からよみがえられたことによって、この方がたしかに神の御子であることが示されました。復活が、この方の神の子であり、神ご自身であることを証明しています。

 そして、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」とありますが、これは、サムエル記第二7章14節からの引用です。ここも有名な個所ですね。12節から読みます。「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。(12−16節)」ダビデの王座から出てくる子が、わたしの子であり、またわたしは彼の子である、と言われています。とこしえの王座とありますから、これは人の国ではなく、神の国です。ですから、神の子であることは、神の地位と権威と支配をすべて持っている、ということになります。これほどまでに、高い地位なのです。

3B 御使いの礼拝 6
 これに比べて、御使いはどうなのでしょうか。さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」

 「長子」とここに書かれていますが、これはイエスさまのことです。この「長子」という言葉からも、エホバの証人は、イエスさまは造られたものであると言います。けれども、長子というのは、初めに生まれたという時間的な順番ではありません。旧約聖書を読みますと、兄ではなく弟なのに、「長子」と呼ばれている人たちがいます。それは、長子というのは父の二倍の分け前を受け継ぐ人であり、他のすべての兄弟にまさっている、という意味があるからです。そこで、コロサイ書において、この方がどういった意味で長子であられるのかが、書かれています。1章15節からです。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」ここの「先に生まれた」というのが長子と同じ言葉です。「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。(15−18節)」万物をすべて造られて、万物はイエスによって成り立ち、またすべての権威の上に存在し、死者からのよみがえりにおいても、初めとなられて、それですべてにおいて「第一のもの」となられています。この「第一」というのが、長子が意味していることで、すべてにまさっておられる存在という意味なのです。

 そして、この長子をこの世界にお送りになるとき、とありますが、新改訳の聖書の脚注をごらんください。別訳として、「長子を再びこの世界にお送りになるとき」とあります。これは、イエス・キリストが再臨されるときのことを意味しています。その再臨のときに、「神の御使いたちはみな、彼を拝め。」と神は言われました。黙示録22章をお開きください。聖書の最後のページです。イエスさまがすぐにでも戻って来られることが書かれてあるところで、ヨハネは御使いを拝もうとしてしまいました。そしてこう言っています。9節です。「すると、彼は私に言った。『やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。』」神を拝みなさい、とヨハネに戒めています。黙示録5章には、万の幾万倍、千の幾千倍の御使いが大声でこう言いました。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。(5:12)」御使いが小羊なるイエスさまに、賛美をささげています。ですから、御使いは力強い存在でありながら、御子ははるかにすぐれた方であり、御使いもこの方を礼拝しているのです。

2A 御座に着かれている方 7−14
1B 仕える御使い 7
 それでは御使いがどのような存在なのでしょうか?また何の目的のために造られているのでしょうか?それが次の7節に書いてあります。また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、

 旧約聖書のヘブル語では、息とか風とか訳されているものと、霊は同じです。ですから、神は御使いたちを霊とし、と訳すこともできます。御使いは霊です。そして、御使いは「仕える者たち」とありますが、神の目的を実行するために、神に仕えている存在です。そしてこの1章の最後にありますが、御使いは私たちにも仕えています。

2B 世々限りない支配 8−14
 7節の言われました“が”と書かれている部分は、ギリシヤ語では、とてもつよい対比の言葉になっています。「メン」と「デ」という接続詞がそれぞれ、7節と8節に使われています。これは、「一方ではあれこれだけれども、もう一方ではこの通りなのだ。」という対比です。そこで御使いが仕える霊であるけれども、御子は次のとおりだ、と強い比較を行なっています。

1C 油注ぎ 8−9
 御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。」

 これは、父なる神ご自身の御子に対する呼びかけです。父なる神が、御子を「神よ」と呼びかけています。主語は、5節の「神は」ですね。これはイエスさまが神であることを、もっとも明瞭に表した個所です。他にも明瞭に宣言されている個所がいくつかありますが、例えば、ヨハネの第一の手紙5章20節です。「それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」イエスさまは、神ご自身です。そして、先ほど説明しましたように、イエスさまは、神の国の御座に着かれている王です。

 あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。

 あなたは義を愛し、不正を憎まれます。」というのは、イエスさまが神の右の座にいることがおできになっている、その資格について書かれています。義を愛して、不正を憎まれたので、義なる神の座におられるのです。イエスさまは地上におられたとき、何一つ罪を犯されませんでした。だれも、この方から罪や責めを見出すことはできませんでした。

 そして、「神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」というのは、イエスさまが罪なき生活をまっとうされて、よみがえり、天に昇られた後、神の右の座に着かれたことを意味しています。油注ぎというのは、旧約において、祭司と王、また預言者が受けているものでした。アロンが大祭司として任命を受けたときに、頭から上等な香油を注がれて、そのひげも油がしたたり落ちるほどでした。王も油注ぎを受けましたが、このヘブル人への手紙では、イエス・キリストが天における大祭司となられたことが、大きなテーマとなって書かれています。イエスさまが天に昇られた後、父なる神がイエスさまに油を注がれて、大祭司とされたのです。

2C 万物の創造 10−12
 またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。」

 これはもちろん、イエスさまが天地万物を創造した、創造主であることを宣言している言葉です。エホバの証人が言うような被造物ではなく、創造者なのです。

 これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。

  ここに、すべての事象が、万物が滅んでいくことが宣言されています。私たちは、今、自分たちが目にしている秩序が永遠に続くものだと思ってしまいますが、決してそうではありません。太陽、月、星、地球は、いつか滅んでしまうものです。ペテロがこう言いました。「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」(2ペテロ3:10)天の万象も、地のすべてのものも焼き尽くされます。今、私たちが知っている最小単位は原子、いやもっと小さい単位も見つかっていますが、これらのものが消えてなくなります。しだいに古びてしまうのです。けれども、イエスさまは、この天地の万象が滅んでしまっても、何一つ、ほんの少しも影響されず、残ってしまわれたのです。「あなたはいつまでもながれえます。」とありました。

 あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。

 これらの天の万象や地がなくなっても、それはイエスさまは着物を取り替えるように、新しい天地を造られます。黙示録21章で、ヨハネは、こう書いています。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。(1節)」まったく新しい秩序が、将来に用意されています。にもかかわらず、イエスさまは、変わることなく、その年は尽きることがありません。

3C 右の座 13−14
 神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」

 これは詩篇110篇からの引用ですが、一番初めには、創世記3章15節にて、神が、キリストについてこのように言われました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」おまえの子孫とは悪魔のこと、あるいは反キリストことであり、女の子孫はイエス・キリストのことです。キリストが、反キリストのかしらを砕かれる時があり、その結果、キリストが彼をご自分の足の下に置かれて、そこで反キリストがキリストのかしらにかみつきます。つまり、もっと簡単に言えば、キリストが再び戻ってこられて、悪魔と反キリストの支配を終わらせて、神の国を立てられる、という意味です。そのときまでは、神の右の座に着いていなさい、ということです。

 私たちはまだ、すべてのものがキリストに従っているのを見ていません。すべての人がクリスチャンではないし、社会で起こっていることは、悪いことばかりです。決してすべてがキリストに服していません。けれども、やがてそのような時が来ます。それは、キリストが戻って来られて、悪魔の仕業をやめさせるときです。

 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

 御使いは、神に仕えているだけではなく、救いを得ている私たちにも仕えています。あまり、天使のことを私たちは考えていませんが、実は私たちの周りには、たくさんの天使がいて、私たちを守り、助け、仕えているのです。

 私たちが「救いの相続者」と呼ばれていますが、これは驚くべきことです。御使いたちは、このようなどうしようもない私たちが、神によって選ばれて、そして神のものを相続することになっていることに、驚きを隠していません。なぜ、あの人が救われて、そして神の子どもとなっているのか、不思議でしょうがないでしょう。それほど不思議な恵みであり、人も御使いも考え付くことのできなかった、とてつもない恵みなのです。使徒ペテロがこう言いました。「そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。(1ペテロ1:12)」そこで、次週学ぶ2章には、イエスさまによって与えられた、その救いの偉大さについて書かれています。

 このように、イエスさまがいかに偉大な方であるかを知ることができたかと思います。私たちは、神以外のイエス・キリスト以外のすばらしいものを見て、それはなんとすぐれているのだろうと思い、そしてイエスさまから目を離してしまうことがあります。けれども、イエスさまのすばらしさを知れば知るほど、これらのすばらしいと思っていたものが、ちんけなものであることに気づきます。


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