ヘブル人への手紙11章1−16節 「信仰とは」



アウトライン 

1A 信仰のあかし 1−7
   1B 信仰の説明 1−3
      1C 望んでいることがらの実体 1
      2C 称賛 2
      3C 神の創造 3
   2B 信仰の足跡 4−7
      1C アベル − 良いささげ物 4
      2C エノク − 神を喜ばす歩み 5−6
      3C ノア − 神への恐れ 7
2A 約束の相続 8−16
   1B 他国人 8−12
      1C 召しへの応答 8
      2C 天幕生活 9−10
      3C 子を宿す力 11−12
   2B 天の故郷 13−16
      1C 喜び迎える信仰 13
      2C ふり返らない故郷 14−15
      3C 彼らの神 16

本文 

 ヘブル人への手紙11章を開いてください。今日は前半部分、1節から16節までを学びます。ここでのテーマは、「信仰とは」です。信仰とは何であるか、学んでみましょう。

1A 信仰のあかし 1−7
1B 信仰の説明 1−3
1C 望んでいることがらの実体 1
 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

 ここから、有名な「信仰」についての章を学びます。英語では、Hall of Faithあるいは「信仰の殿堂」と呼ばれるところです。けれども、この章がしばしば、あやまって解釈されることが多いです。強く念じるように信じることによって、自分の願っていることがかなえられる、など、信仰に信仰が置かれる、あるいは信仰への信仰が語られることがあります。けれども、私たちは、ヘブル人への手紙、1章から10章までを学んできました。著者がここで語っている「信仰」は、1章から10章までの話しの続きであることを、私たちは知っています。とくに10章では、神に近づくときに、「全き信仰」をもって近づきましょう、と勧められていました。また、「私たちは、恐れ退いて滅びるものではなく、信じていのちを保つ者」であることも、学びました。神を信頼して、神に近づくときに必要なのが、「信仰」です。では、この「信仰」とは、いったいどのようなものなのか、というのが11章の話題なのです。

 著者は初めに、信仰とは何であるか、その説明をしています。それは第一に、「望んでいる事柄を保障する」ことです。「望んでいる事柄」というのは、今話しましたように、自分が望んでいることではありません。「私は、これこれのことをしたい。神さまにお願いして、それがかなえられるように信じよう。」ではないのです。ヘブル書には、「望み」とか「希望」という言葉が出てきましたが、それは、神ご自身のことを指しており、またキリストご自身のことを指しています。キリストを知り、キリストに望みを置く、ということです。ですから、御子がどんなにすぐれた方かを知れば知るほど、キリストに対する望みが、自分のたましいの錨の役目を果たすことになります。そして、「望んでいる事柄」は、天における報いを意味します。10章の最後のところで、「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」とあります。天において、信仰によって歩んだ人が報いを受けるのですが、それが私たちの希望です。したがって、望んでいると言っても、私たちが望んでいるのではなく、むしろ神が私たちにすがってほしいと願っておられる事柄を指しています。

 そして、「保障する」とありますが、これは「実体」とも訳すことができます。望んでいる事柄の実体、あるいは確固たるものにすること、と言い換えることもできるでしょう。ギリシヤ語では、元々、「下から立たせる」という意味があります。建築物の土台、また契約するときの条項など、物事を成り立たせるための根拠や、実体を意味します。したがって、信仰が望んでいる事柄の実体というのは、神やキリスト、また天における報いというものは、信仰をとおして成り立つものであり、信仰がなければまったく成り立たないものである、ということです。信仰の反対語は、疑い、恐れなどです。私たちが、神がおられること、また約束してくださっていることを、疑いながら聞いていたら、あるいは、そんなことを信じたら人に変に思われるなどの恐れを抱いたら、その希望は希望ではなくなります。私たちを支える希望ではなくなり、まったく意味がなくなります。すなわち、信仰によってすべての霊的事柄が実体化するのです。信仰によって、希望が希望となり、生きて働くものとなります。

 次に、「目に見えないものを確信させる」という意味を考えてみたいと思います。私たちが希望として持っている事柄は、みな目に見えないものです。神、キリスト、そして天にあるものは、物理的に見ることはできません。しかし、それらは科学的に検証することもできません。物理学では、電磁波など、目に見えなくとも、それらが存在することを証明することができます。しかし、霊的な事柄、たとえば、罪の赦しは、どのようにして証明することができるでしょうか。例えば、私は自分の罪が赦されたのでしょうか?どのようにして、罪が赦されたことを証明すればよいでしょうか?できませんね。しかしながら、自分は罪が赦されたことを知っているのです。証明できずとも、それを確信し、経験しています。このことを行なっているのが「信仰」です。自分の罪を言い表し、イエスの御名を呼び求める者には、神のみことばによって、罪の赦しが約束されています。私は、罪の赦しについての神のみことばを信じているので、罪が赦されたことを知っているのです。証拠がなくても、実体験することができる。これが信仰です。

 したがって、「信仰」とは、自分が願っているものを何回も自分の心に言い聞かせて、それがかなえられることを神に押し付けることではありません。そうではなく、神が言われたこと、また神が願っておられることを、そのまま自分の心に受け入れて、なんの疑問も提示せず「しかり」と納得し、確信することなのです。私がクリスチャンになって間もないころ、非常に大切なたとえを、ある先輩のクリスチャンから聞くことができました。彼は、目の前にある机の上にあるペンを持って、それを下に落としました。聖書が語るところの信仰は、「ペンが落ちることを信じます!」と念じることではなく、「ペンは落ちます」と確信していることである、と言いました。神が言われることが、「そのとおりである」と受け入れることが信仰であり、信仰の結果、その目に見えないことが自分の中で体験されていることになります。

2C 称賛 2
 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。

 今、著者がヘブル人に対して手紙を書いていることを思い出してください。彼は、自分が話した信仰について、ヘブル人の聖書から語りつげます。旧約聖書の中で、称賛に値する人々、あかしを残している人々を列挙して、彼らがいかに信仰によって生きていたのかを表します。

3C 神の創造 3
 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

 神は、天地を造られるときに、「光よ、あれ」ということばによってお造りになりました。また、これは、無から有の創造であって、何もないところから造られたのです。したがって、目に見えるものが、目に見えるものからできたのではないことも知っています。私たちはこれを、信仰によって知っています。科学的に検証したり、論理的な帰結ではなく、神がそう言われているから、そう信じているのです。そして、神が創造主であるという真理が、他のすべての信仰の歩みを決定します。神が永遠であること。全知であり全能であること。神が遍在し、かつすべてを超越しておられること、などです。

2B 信仰の足跡 4−7
1C アベル − 良いささげ物 4
 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

 天地創造から、アベルとカインの話しに移しています。アベルが子羊のいけにえをささげて、カインが土地の作物をささげましたが、神はアベルのいけにえを受け入れられました。このことについて、なぜなのかという疑問を多くの人が持っています。その疑問に対する答えが、ここに書いているのです。それは、アベルは信仰によってささげた、ということです。信仰によって、カインよりもすぐれたいけにえをささげて、そのいけにえによって、アベルは義人として認められたからです。

 アベルとカインの話しは創世記4章に出てきますが、その手前3章において、アダムとエバに、神が皮の衣を着せさせました。ここから、神さまはいつも、犠牲のいけにえによって、罪を贖う方法をもっておられることを知ります。裸であることを隠すために、自分たちでいちじくの葉をつづり合わせましたが、それによって恥ずかしいという思いが解決したわけではなく、アダムは、神から恐れ退いたのです。自分たちで罪を贖うことはできません。神は、血が流されることによって犠牲となるものを、望まれているのです。一方は、神は、アダムに土地はのろわれたものとなった、と宣言されました。地からはのろいしか刈り取ることはできず、すべて良きものは天から与えられます。

 そこで、アベルは、神が罪をお赦しになる方法は、いけにえによるものであることを、おそらくアダムから教えられていたのだと思います。アベルは、神が自分を受け入れてもらうために、自分が飼っている子羊を、神の方法でささげたのです。ここに信仰があります。神が望まれていることを、そのまま受け入れたのです。一方カインは、神がアダムに、土地はのろわれたものになったと言われていたのに、土地からの作物を神にささげました。神が願っておられないのに、自分が良かれと思ってささげたのです。私たちは、自分が考えていること、自分が感じていることがまず初めにありきで、それから神に近づこうとしているでしょうか?それとも、自分は無心のままにして、神が言われていることをとりあえず聞こう、という姿勢を持っているでしょうか?以外に、まじめな人、熱心な人ほど、自分の思い込みが強くなります。神がなんと言われているのか、それを念頭に置くとき、それが信仰となります。

2C エノク − 神を喜ばす歩み 5−6
 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

 アベルとカインの話しは創世記4章に出てきますが、エノクは創世記5章に出てきます。アダムからの系図において、「だれだれが生まれた。そして彼は死んだ。」という言葉が繰り返されている中で、エノクのところでは、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。(24節)」となっています。彼は死を見ることがなかったのです。生きたまま、天に移されました。その理由が、神とともに歩んでいたことであり、また神に喜ばれていたことであります。

 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 エノクの歩みは、ここに書かれている信仰によって神に喜ばれていた歩みでした。エノクが生きていたときには、ノアの時代と同じように、人々が悪いことばかりに傾き、良いものがない状態でした。その中で、彼は神がおられることを信じていました。神がおられることを信じていたので、罪から離れた歩みをしていました。さらに、神を求めていました。自分が罪の中で生きれば、それだけの満足があるかもしれないけれども、天に報いを用意しておられる神を求めよう、と思っていたのです。そのために、彼は神に喜ばれていたのです。私たちが、地上における歩みにて、このように、神がおられることを信じつつ歩んでいるでしょうか?また、天からの報いを期待して神を選び取ることをしているでしょうか?

 エノクは天に引き上げられましたが、今日も、キリストのうちにある者は、主が天から戻って来られるときに、空中に引き上げられるという約束が与えられています。この地上において神とともに歩んでいた人は、天上に入っても、なんら違和感なく過ごすことができるでしょう。

3C ノア − 神への恐れ 7
 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

 エノクの次に出てくる信仰の人は、ノアです。ノアは神から、「これから地上に生きているものを、消し去ろう。あなたは、箱舟を造りなさい。」と命じられました。ノアは、そのときに、洪水が起こるような兆しがなんらなかったのにも関わらず、洪水が起こることを前提して箱舟を造っていました。そして箱舟の中にはいり、家族が箱舟によって救われました。このときにノアが持っていた信仰は、「用意する」信仰です。まだ目で見ていない、神のさばきを、必ず起こるものとして、それを前提にして用意していました。同じように、今日生きている信仰者たちも、来たるべき火によるさばきに備えて、用意していなければいけません。これは、核シェルターを作ることではなく、自分のわざを改めることです。暗やみのわざを打ち捨てて、光の武具を身につけ、機会を十分に用いながら賢く生きます。間もなく、この地上に神の怒りがくだるからです。

2A 約束の相続 8−16
 そして創世記において次に出てくる信仰の人は、アブラハムです。パウロは、アブラハムのことをローマ書で、信仰によって義と認められる人々の父であると言っています。

1B 他国人 8−12
1C 召しへの応答 8
 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

 アブラハムの生涯は、生まれ故郷であるウルから、神が示してくださることを信じて、出て行ったことです。ここから私たちが学ぶことができるのは、「従順のともなう信仰」です。私たちも、その人生や生活の中で、神にこれこれをしなさい、という呼びかけを受けることがあります。その時に、私たちの身の回りで用意されているものは、何もありません。ただ、神のみことばと、内なる声しかありません。けれども、神が言われたからという理由で、行動に移します。

2C 天幕生活 9−10
 神から呼びかけられた時だけでなく、呼びかけられた後も信仰が必要です。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

 アブラハムが神の示しにしたがって来たところは、先住民カナン人がいるところでした。神は、「あなたの子孫が、ここを所有する。」と言われましたが、アブラハムは土地を所有することなく、テント生活を行なっていました。同じように、イサクとヤコブも、神から土地の所有の約束が与えられつつ、なおかつ自分の生活は他国人であったのです。このような状況の中で、彼らは忍耐が試されたことと思います。約束が実現していないけれども、その約束をかたく信じて、カナン人の地にとどまりつづけたのです。私たちも同じです。神さまから「これこれをしなさい。」と言われてやって来たのに、一向に神が約束してくださっているものを目にすることがありません。そこで忍耐というか、ちょっと難しい言葉ですと「堅忍」が必要になります。(英語では、perseverance)です。堅く保って、耐え忍ぶことです。

 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

 アブラハムがカナン人の土地において、他国人のように生きるのを耐えられたのは、天において設計されている都があることを知っていたからでした。むろん、将来、カナン人の土地がイスラエルのものになることを知っていましたが、さらに天のエルサレムが天から降りてくることも、知っていたようです。地上のものではなく、天に対する望みが、彼の天幕生活を支えていたのです。

3C 子を宿す力 11−12
 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

 アブラハムは、土地の所有について、その約束の実現を見ることがなかっただけでなく、子が星の数のように、海べの砂のようにふえるという約束も、その実現を見ることがありませんでした。星の数のような兆しがあっても良かったものですが、なんと妻サラは不妊であり、しかもすでに年老いていたのです。しかし、彼らは信仰を持っていました。サラは、神の使いから、「来年の今ごろ、あなたは子を産んでいる。」という言葉を信じて、それで妊娠しました。

 ここで学ぶことができるのは、「神の力を信じる信仰」です。年を過ぎた身であっても、主に不可能なことはないのだから、子を宿すことができる、という信仰です。また、神は偽りを言う方ではなく、真実な方であり、決して裏切るようなことはないという信仰でもあります。私たちは、神がイエスを死者の中からよみがえらせる力を持っておられることを信じるならば、死んだ行ないから離れ、新しい歩みをすることができるようになります。「いや、これは生まれつきの性質でして、直すことはできません。」と言い訳しているのは、神の力を疑っている不信仰です。死んだからだをよみがえらせたのだから、死んだ行ないから立ち上がるのもできるのです。

 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海ベの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

 アブラハムとサラは、約束の実現を自分たちの生涯で見ることはありませんでしたが、何百年後に約束が確かに実現されました。

2B 天の故郷 13−16
1C 喜び迎える信仰 13
 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 アブラハムとサラ、またイサクとヤコブの生涯を眺めますと、彼らは共通して、約束を手に入れることはなかったが、約束を信じながら死んでいきました。彼らは、その約束を手に入れるためには、この地上で旅人であり、寄留者でなければいけないことを知っていたのに、それでも約束を手に入れたいために、あえて寄留者でありつづけたのです。アブラハムは、約束をはるか先に見て、それがすでに実現したかのように喜び、神を賛美していました。私たちは、天にある至福をどれほどリアリティーのあるものとして受け入れ、喜んでいるでしょうか?

2C ふり返らない故郷 14−15
 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

 彼らは、カナン人の地において、自分は旅人であると告白していましたが、それは、父の故郷であるウルを指していたからではありません。そこに帰る機会はいくらでもあったのですがそこに戻ることはなかったのです。英語の賛美歌には、このような歌があります。”I have decided to follow Jesus. No turning back.”(私はイエスさまに従うことを決意した。もはやふり返らない。)アブラハムも同じような思いだったのでしょう。

3C 彼らの神 16
 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

 ヘブル書には、「さらにすぐれた」という言葉が頻繁に出てきています。この個所はその一つですが、さらにすぐれた天の故郷です。地上に思いをはせるのか、それとも天におもいをはせるのか。地上も捨てたものではないですが、天に比べたら、地上は月とスッポンです。だから、この地上における不便も喜んで耐え忍びました。

 そのために、神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。考えてもみてください。神の御名が呼ばれるときに、アブラハムの失敗、イサクの失敗、ヤコブの失敗も赤裸々に思い起こされることでしょう。でも、神は恥とはしませんでした。なぜなら、神は一点において、彼らに誇りを持ち、喜んでおられたことがあったからです。それは、神が用意してくださっている天の都をあこがれていた、ということです。

 私たちは、この地上において、クリスチャンとしてどうすればよいのか、というハウツーものをたくさん聞きます。しかし、それが神の前において、どれほど重要であるかを考えてみなければいけません。神が正しいと評価してくださっているのは、この地上で栄える人ではなく、天にあこがれを持っている人なのです。ただ神を信じて、神に信頼して、神が言われたことをそのとおり受け取っている人を喜ばれるのです。そして、時に失敗もしますが、しかし信仰から出てきたところの行ないは、後世にも語り告げられます。信仰によってあかしされる人になりたいものです。


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