ヘブル人への手紙4章 「神の民の安息」


アウトライン

1A 安息にはいる努力 1−13
   1B 残された約束 1−10
      1C 信仰に結びつけられないみことば 1−2
      2C 過去の安息 3−10
   2B みことばの力 11−13
2A おりにかなった助け 14−16


本文

 ヘブル人への手紙4章を開いてください。ここでのテーマは、「神の民の安息」です。

1A 安息にはいる努力 1−13
1B 残された約束 1−10
1C 信仰に結びつけられないみことば 1−2
 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

 私たちは前回、荒野の旅をしているイスラエルの民が、約束の地に入ることができずに、荒野の中で滅んでしまった話を3章から学びました。イスラエルは、アブラハムに約束されたカナン人の地の中に入るために、エジプトから出ることができたにも関わらず、40年間シナイの荒野をさまようことによって、20歳以上のイスラエル人がみな死んでしまいました。残されたのは、新しい世代と、ヨシュアとカレブだけです。ヨシュアとカレブは、カデシュ・バルネアにて、神がともにおられることを信じて、中に入ることができるとイスラエル人に説得しようとした人たちでした。けれども、他の10人のイスラエル人のスパイが、中にアナク人という巨人がいるという報告をして、約束の地に入ることができない、と言いました。イスラエル人たちは、エジプトにおける10の災いと紅海が分かれたのを見て、また荒野において、岩から水が出たり、マナが与えられたり、シナイ山にて主が黒い雲の中に現われたりして、さまざまなしるしを見ていました。にも関わらず、彼らは神を信じないで、中に入ることを拒んだのです。そこでヘブル書の著者は、今これを読んでいるユダヤ人たちに、昔のイスラエル人と同じようにならないようにと警告を与えています。

 もう一度、当時の状況を思い起こしてください。エルサレムやユダヤ地方にいるユダヤ人たちは、イエスをメシヤと信じた人たちが大ぜいいましたが、彼らはまだ律法に熱心な人たちでした。そして神殿もまだ存在しており、ここで礼拝もささげていました。しかし、ユダヤ人の不信者から迫害を受けていました。そこで、彼らはユダヤ人の共同体の中にいるために、イエスに対する信仰を告白しないで、ユダヤ教の中に溶け込もうとしました。そこで、ヘブル人への手紙では、ユダヤ教の中でとても大切にされている存在を取り上げて、それらとイエスさまを比べることにより、いかにイエスさまがすぐれているかを証明しています。そして、この方が成し遂げられた救いのわざにとどまることによって、私たちが天の御国に入ることが約束されていることを教えています。この救いのわざから離れて、ユダヤ教に戻ることは、恐ろしいことであり、神の処罰が与えられることであることを警告しているのです。

 ここに「神の安息にはいるための約束はまだ残っている」と書いてありますが、この4章は、この安息について解き明かしています。結論から言いますと、神の福音を信じる者たちは、天において安息を得ることができる、ということです。

 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

 エジプトから出てきたイスラエルの民は、神のことばを聞いていました。そして、約束の地にはいることができるという良い知らせ、または福音を聞いていました。同じように、私たちも、イエス・キリストが罪のために死に、死者の中からよみがえられた、という福音を聞いています。けれども、もし、この福音を聞きながら、なおかつそれを、信仰をもって受け入れなければ、どうなるのでしょうか。イスラエルの民が、荒野の中で滅んでしまったように、滅んでしまうのです。

 ここで、とても大切な信仰の原則が書かれています。イスラエルの民が、約束の地に入ることができなかったのは、「みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかった」ということであります。前回も学びましたが、信仰というのは聞くことからはじまり、聞くことは、キリストについてのことばによる、とローマ人への手紙10章に書かれています。信仰はいかに聞くか、にかかっています。私たちは、新しい契約の中に入っています。新しい契約においては、石の板に刻み込まれた神のことばを守り行なうのではなく、御霊によって生きている神から声を聞いて、その声を聞くことによって、神の戒めを守っていきます。神さまが御霊によって私たちに語られていることを、いかに聞いているかが生命線となっているのです。その聞き方とは、信仰をもって聞くことです。神が語られていることを知って、この神に人格的な全幅の信頼を寄せながら聞くことが必要です。人格的な生ける交わりが、非常に大切になるのです。

 そこで、イスラエルの民は、ただ神の声を聞いていましたが、モーセとは異なり、神を本当の意味で知りませんでした。ですから、主が十戒をイスラエルの民に与えられた時に、「私たちは、主が言われることをことごとく守り行ないます。」といったのにも関わらず、モーセが40日間シナイ山の上にいる間に、さっそく金の子牛を造って、神の戒めを破ったのです。

 ヨシュアとカレブのことを考えてみましょう。この二人は、約束の地に入ることができると確信していたのは、神が約束されていることを、素直に信じていたからでした。紅海を分けてくださり、これまで偉大なみわざを見せてくださった神が、この地を占領しなさいと命じられているのだから、アナク人など朝飯前である、と関連付けたのです。神さまのみことばと、みわざを、具体的な事柄に適用させていました。これが信仰であり、私たちがことさらに大きなことを行ない、何かを成し遂げなければできないことではないのです。みことばを信仰によって結びつける必要があります。

2C 過去の安息 3−10
 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。

 「信じた私たちは安息にはいる」というのは、天において安息を得る、ということです。それを証明する聖書個所は、3章7節から11節までに引用されていた詩篇95篇の個所です。これから、ヘブル書の著者は、95篇の「安息にはいらせない」という個所から、まだ将来に安息が残っていることを説明しています。

 みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。

 旧約聖書には、いくつかの種類の「安息」について書かれています。その一つが、創世の時の安息です。創世記2章1節から3節に、神が休まれたことについて、こう書いてあります。「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」神は天と地を6日かけて、お造りになりました。そしてすべての万象を完成されました。完成されたので、もう創造する働きをする必要はなくなったので、休まれたのです。これは、神が仕事に疲れて、休憩を取っているということではなく、完成されたということです。私は、子供たちに天地創造の話をするときに、こう教えます。「自分が作ったプラモデルが全部できあがりました。あと、プラモデルができあがるために、何かすることある?ないよね。完成したから、もうプラモデルを造るためにすべきことはなくなりました。これと神さまが行なわれたことは同じです。休みを取られたのとうのは、天地を造られる働きが完成したからです。」

 これが、聖書の中に書かれている「安息」の意味です。すべてのものが完成したから、その完成したところにとどまっていることが、安息しているということになります。安息とは、仕事の間の休憩時間ではなく、完成したと言い換えられるものです。

 そしてこの詩篇の個所は、ダビデによって書かれましたが、ダビデ自身は紀元前1000年前後に生きていた人です。天地が創造されたずっと後に、「きょう、もし御声を聞くならば」と言って、まだ安息が残されていると話しているのです。ですから、この個所は七日目の安息の日のことを指しているのではなく、将来のことを指しているのです。

 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。

 旧約聖書には、天地創造の時に与えられた安息だけではなく、約束の地における安息についても語られています。それは、イスラエルの民が荒野の旅をしていましたが、神が約束された土地に入れば、雨が降り、土地が潤い、汗水流さなくても収穫を得ることが約束されています。イスラエルの民はその土地に安住しているだけで、神が祝福を与えてくださるという意味で、「安息」と呼ばれています。けれども、約束の地にはいったヨシュアたちが生きていたのは、紀元前1400年頃のことですから、やはり、ダビデが「安息」という言葉を使ったよりも、前のことなのです。詩篇95篇でダビデが意味している安息は、約束の地のことでもありませんでした。

 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。

 神の民が自分たちの国籍である、天に入ることが、この詩篇95篇で約束されていることでした。

 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

 聖書には、天地創造における安息、約束の地における安息だけではなく、ここに書かれている、救いのみわざの安息があります。私たちが罪から救われて、神のみもとに行くことができるようになるために、神は救いのわざを行なわれました。イエス・キリストが、私たちのために死の苦しみを味われ、よみがえり、そして天の中に入っていかれました。私たちが救われるために必要なことをすべて成し遂げて、それを終えられて神の右の座に着かれているのです。このヘブル人への手紙では、イエスさまは、ただ一度、すべての人のために死なれたことが、何回も語られて、強調されています。イエスさまは、十字架の上に死なれる直前に、「完了した」と語られて、そして息を引き取られました。主は、私たちと神を引き離していた罪をすべて取り除かれて、私たちが天にはいることができるための備えをすべて整えてくださいました。だから、私たちが救われるために必要なことは、このキリストのみわざにとどまること以外、他に何一つないのです。

 安息というのは、完成されたわざであることを先ほど話しましたが、多くの人は、クリスチャンになってから、これから何かをしなければならないと焦って、これから何かを積み上げていくようなことをします。教会のさまざまな活動をとおして、何らかの目標を立てて、あなたがたはイエスさまを信じたけれども、それだけでは足りない。もっと良い行ないをしてゆき、救いを完成させるのだ。」という圧力を与えます。あるいは、その反対に、「ただイエスさまを信じるだけでよいのだから、別に教会に行かなくても、祈らなくても、伝道しなくても、何もしなくてもいいのだ。」と思って、いろいろ世的な活動を行なっていく人たちもいます。まったく反対の行動を取っているのですが、根は一つです。イエスさまが成し遂げてくださったわざの中にとどまっていないことなのです。信じることが、何かすでに終わってしまって、これから何かを行なっていかなければいけないという、行ないによる救いを達成しようとさえするのです。

 しかし、私たちクリスチャンは、完成されたキリストの救いのみわざから出発する者たちです。これから何かを積み上げていくのではなく、すでに完成されたものにとどまって、そして今、生きている生活の中に逆算していくことをしています。例えば、私たちはすでにキリストにあって罪に対して死んだのだから、今、自分が犯してしまっている罪に対しても死んでしまっているのだ。だから、死んだものとみなして、この中に生きないようにするのだ、と決断します。すると、御霊が私たちのうちに働いてくださり、それで肉の行ないを殺すことができるようになります。自分がこれから行なうことは何もないのです。キリストが行なってくださったことを信仰によって自分に当てはめて、それでキリストが私たちのうちに働いてくださいます。神さまが六日で完成された創造物によって、万象を支配されていたように、私たちもキリストが成し遂げられた救いによって、この残された日々を生きるのです。

2B みことばの力 11−13
 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

 「この安息にはいるように力を尽くして努め」というのは、キリストがすべての救いにわざを成し遂げられたのだから、その信仰の中にとどまっているように努めなさい、と言い換えることができます。キリストのうちにとどまる、というのは、戦いなのです。信仰を健全に保っているというのは、とても単純なことですが、それを複雑化させ、他にもしなければならないという圧力があります。ですから、力を尽くして、キリストが天において用意されている安息を、信仰によって守っていく必要があるのです。

 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

 ヘブル書の著者は、ずっと詩篇95篇の聖書個所を説明していましたが、そこに書かれている神のみことばが、私たちに大きな影響力を持っていることをここで話しています。神のことばである聖書は、単に書かれた文字ではなく、生きた力があります。私たちを変える力があります。そして、「両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊の分かれ目さえも刺し通す」とありますが、私たちはここで、人が体だけで造られているのではないことを、思い出す必要があります。私たちは、三つの部分で造られています。体と、霊と魂です。魂は精神といい換えても良いですが、知・情・意といわれる部分で、私たちが考え、感じ、また意思決定をする部分です。けれども、人間はそれだけで造られているのではなく、霊があります。これは、神を意識する部分です。そして、神のみことばは、この魂と霊の分かれ目を刺し通す力があると書いてあります。

 私たちは、いろいろな活動を行なっているときに、識別力がないために、誤ったことをとかく行ないます。同じ伝道活動を行なっていても、それが私たちの心理的必要を満たすための手段に変えられたりします。霊的ではなく、宗教的になると言っても良いですし、あるいは魂的と言っても良いかもしれません。私たちはそのことを区別しなければいけないのですが、それをすることができるのは、唯一、神のみことばだけです。他の人の証しを聞くことは、健徳につながります。けれども、その体験はその人に与えられたものであり、自分に対しては異なる働きを、神は用意されているかもしれないのです。神のみことばのみが、私たちを実質的に、霊的に成長させるのです。そこで、ヘブル書の著者は、詩篇95篇を取り上げて、みことばから解き明かしたのです。

 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

 みことばが解き明かされると、神のみこころを知るようになります。神のみこころを知るようになると、自分は、神の前で何一つ隠せるものはないことを知ります。心の奥底まで知られる神は、みことばによって私たちの心を探り、なにが良いことで完全なものであるかを示してくださるのです。

 私たちは、神の前では裸です。イエスさまがこう言われました。「おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。(ルカ12:2−3)」神はいつも私たちを見ておられることを知ることは、とても大切です。

2A おりにかなった助け 14−16
 こうして、私たちには、天において安息が約束されていることを知りましたが、そこに入るまでの間、肉の弱さを持ちながら、この世の中で生きていかなければいけません。けれども、主は、私たちを置き去りにしておられるのではなく、助けていてくださっています。

 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

 ヘブル人への手紙には、大祭司としてのイエスさまが大きく描かれています。ここでは、イエスさまが「もろもろの天を通られた」とありますが、聖書には少なくとも、三つの種類の天について教えています。一つは、私たちが目にしている空のことのです。そしてもう一つは、「空中」とも呼ばれているものであり、宇宙とも言い換えることができるしょう。悪魔は今、ここに存在します。しかしもう一つ、「第三の天」と呼ばれているものがあります。これがパラダイスであり、神の御座がある天国のことです。イエスさまは、第一の天、第二の天だけではなく、第三の天にまで行かれて、そこで神の右の座に着かれました。

 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

 私たちは、天に入るまでは、この肉体を持っています。私たちは御霊によって新生したのですが、それは霊が贖われたのみであり、この肉体はアダムから受け継いでいる罪があります。だから、いつも霊と肉の間に戦いがあります。けれども、主が戻って来られるときに、私たちのからだも変えられて、新しいからだを持ち、天国の中に入ることができるのです。

 この新しいからだを持つまでは、私たちは肉の弱さを持ちながら生きています。この肉体は罪の誘惑を受けますし、肉体の疲れをおぼえますし、衰えるにしたがって病も多くなってきます。救いを完成されたイエスさまは、これらの弱さを知らないで、遠くから私たちを見ておられる方ではありません。イエスさまが地上におられたとき、罪は持っていませんでしたが、肉体の弱さは持っておられました。だから、私たちの弱さが分からない方ではなく、すべてを知っておられる方であり、ゆえに、私たちは、この地上に生きている間も、主が戻って来られるまで耐え忍ぶことができるのです。

 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 ここで、私たちは、なにが私たちの弱さを克服してくれるか、その源泉になっている力を読むことができます。それは、「あわれみ」であり「恵み」です。私たちは、とくに自分が弱くなっているときに、神から離れてしまっていると思ってしまいます。悪魔は兄弟たちの告発者ですから、悪魔は私たちに、「ほら、お前は神さまに良く思われていない、だめなクリスチャンなのだ。神さまに助けを求めるなんて、そんな大それたことはしなさんな。」と言います。しかし、これは悪魔の嘘です。私たちは、弱いからこそ、強いといえる存在です。私たちの弱さに、キリストの力が完全に働きます。

 ここに、神の御座が「恵みの御座」と呼ばれていることに注目してください。キリストが死なれて、ご自分の血をたずさえて、天に入られました。そこで、人の罪のために下すべき神の怒りは、すべてなだめられました。神の御座はもはや、さばきの御座ではなく、恵みの御座となったのです!イエスさまが十字架につけられたときに、神殿の垂れ幕が上から下に真っ二つに裂けました。大祭司が年に一度だけ入ることのできる、神が現われる場所が、すべて開かれてしまいました。これは、キリストが、神と人との間の仕切りをすべて除き去ってしまわれたからです。

 ですから、私たちは、何ら遠慮するものはありません。私たちの前に広がっているのは、神の恵みという大きな平野です。何も私たちを隔てるものはなく、今、自分がいるところで、「神さま」と呼びかけて、そのまま天におられる神とお話することができるのです。「大胆に」神に近づくことができます。私たちは何と、おこがましく神の前に近づくことがあるでしょうか。神に隠しているものがあるかのように、自分をあまり出さないで、良い行ないをしてから神の前に大胆に近づく、と思っています。しかし、神の前ではすべてが裸なのです。すべてが見られていることを知って、それでも、神が恵みによって私たちを救ってくださったことを知って、それで大胆に神に近づくのです。そして、これが新しい契約であり、教会の姿であり、クリスチャンの姿なのです。ユダヤ教ではなくキリスト教であるのは、この大胆さが特徴なのです。既存のキリスト教は、ユダヤ教と同じような過ちを繰り返してしまっていますが、それは、私たちがここにいるユダヤ人たちと変わらない、人間だからということができます。「ユダヤ人は分かっていないなあ〜。」ではなく、私たちも分かっていないことを知る必要があります。こんなにもすばらしい恵みの中に入れられたのですから、大胆に神に近づきましょう。


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