ヘブル人への手紙6章 「希望の錨」

アウトライン

1A 希望についての確信 1−12
   1B 成熟への前進 1−3
   2B 堕落者の結末 4−8
   3B 愛の行ない 9−12
2A 神のご計画の確かさ 13−20
   1B 神ご自身の誓い 13−17
   2B 幕の内側 18−20


本文

 ヘブル人への手紙6章を開いてください。ここでの学びは、「希望の錨」です。私たちはこの前、大祭司の務めについて学びました。大祭司は、人々から選ばれた者であり、人々を代表して神に仕える人であることを知りました。そして、イエス・キリストは、今、天において大祭司であり、メルキゼデクの位におられる大祭司であることを学びました。けれども、メルキゼデクの位の大祭司について、ヘブル書の著者は、途中で話すことを止めました。なぜなら、このことを聞く耳が、この手紙を読んでいる人たちには用意されていなかったからです。年数からすれば教師になっていなければならないはずなのに、まだ神のことばの初歩をもう一度、だれかに教えてもらわなければならないことを話しました。そして6章に入ります。

1A 有用な作物 (実を結ぶ) 1−12
1B 成熟への前進 1−3
 ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。

 前回の学びで、今日のキリスト教会が、イエス・キリストについて学ぶのではなく、方法論やテクニックに走っている傾向があることを指摘させていただきました。「幸せな結婚生活のために」とか、「教会成長の鍵」とか、「祈りの秘訣」とか、「私たちがどのようにすれば、充実したクリスチャン生活をすることができるのか」という視点からの書物が、クリスチャンの間で流行っています。しかし、このヘブル書の中に展開されているような、イエス・キリストがどのような方なのかを知っていく学びの本は、少ない、あるいは、売れないという現状があるのではないか、ということを話しました。

 なぜこのようなことが起こるかと言いますと、教会における重点が、「伝道」や「宣教」に置かれているためです。日本には99パーセント以上の人がクリスチャンではないですから、いかに人々をキリストへと導くかに関心が寄せられて、教会全体が伝道と宣教をもっとも大事なものとしているとう事実があるからです。けれども、聖書では、エペソ書4章に書かれているように、牧師の働きは、聖徒たちを奉仕の働きのために整えることであり、キリストのからだを建て上げることにあります。牧師や教会が伝道をするのではなく、一人一人の聖徒が神のみことばによって養われて、その結果人々に伝道をします。私たちが集まるのは、神を礼拝するためであり、神に仕えるためです。神を礼拝するのであれば、それは、イエス・キリストをさらに知っていくことに他なりません。キリストの栄光を見て、キリストの前にひれ伏すのが、私たちが集まってきている目的です。

 私たちが、キリストを知ることに焦点を合わせるのであれば、キリストを伝えることも自ずとできるようになります。個人的に知らない人を伝えることは難しいですが、親密に付き合っている人を人に勧めることはたやすいです。ですから、神のみことばを学ぶことによって、私たちは霊的に成長して、自ずと伝道をすることができるようになるのです。そこでヘブル書の著者は、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか、と言っています。

2B 堕落者の結末 4−8
 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

 この個所は、解釈するのが非常に難しい個所です。使徒たちの手紙の中には、私たちはイエスさまを信じれば、御霊によって新たに生まれて、永遠のいのちを得ることが約束されています。それは、永遠の救いの約束であって、神は私たちを途中であきらめて、お見捨てになるようなことはない、という約束です。けれども、この個所は、一度堕落してしまうならば、もう悔い改めることはできない、と書かれています。あたかも、一度私たちがひどい罪を犯して失敗してしまったら、神からの救いは無効にされて、立ち戻ることはできない、とも読めてしまう個所です。

 しかし、聖書の中には、一度失敗をして、それでも立ち戻った人たちの話が書かれています。その典型的な例がペテロです。彼は、主を三度も否み、主を見捨てました。けれども、イエスさまが復活された後に、彼は悔い改めることができ、そして初代教会においては、第一の指導者となりました。彼は、ある意味で堕落しましたが、悔い改めに立ち返ることができました。ですから、この個所は、クリスチャンなのに罪を犯してしまった人のことを話しているのではありません。

 ここで語られている内容は、一言で言えば「背教」です。「信仰から離れる」とも言うことができます。光を受けて天からの賜物を知り、聖霊にあずかり、みことばを知って、また後の世の力を味わっているのに、それでも、主を意図的に否んで、信仰を捨ててしまう人たちのことを話しています。今のペテロの場合を使うなら、イスカリオテのユダが、そのような人物でした。イスカリオテのユダは、イエスさまとともに生活をし、主の恵みのみことばを聞き、その不思議なわざを見て、後に来る世の力も知らされて、それでもイエスをまことの救い主として受け入れませんでした。ペテロもユダも、物理的には同じようにイエスさまといっしょにいましたが、ペテロは信仰によってイエスさまをメシヤとして受け入れましたが、ユダは心理的に、霊的にイエスさまとは一定の距離を保っていました。そこで、主を裏切りましたが、彼はペテロと異なり、悔い改めないで自殺をして滅びました。このヘブル人への手紙を読んでいる人々の間にも、ユダと同じような人たちがいたのであろうと思われます。教会の中で、他のクリスチャンと同じようにふるまい、同じように信仰を持っているようにし、またイエスさまを救い主として告白していたかもしれませんが、迫害が来たので、自分たちの生活を守るために、信仰を捨ててユダヤ教に戻っていました。こういう人たちは、悔い改めの余地は残されておらず、ただ滅びが定められているだけです。

 土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。

 天からの賜物を知り、聖霊にあずかり、後に来る世の力を知った人は、その希望に支えられて、生きていくことができます。そして、この世において苦難があっても、その希望が彼らを支えるので、耐え忍ぶことができます。このような人は、ここのたとえで、「有用な作物」となっています。神が農夫であり、私たちが作物です。イエスさまが、「わたしがぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われたように、私たちの生活から、実が結ばれて、神はその実を見て喜ばれるのです。けれども、そのような希望があるのにも関わらずそれを拒む人は、世の思い煩いが入ってくると、信仰を捨ててしまいます。そのような人は、いばらやあざみを生えさせる人であり、実を結ばせることはありません。そのため、神からのろわれ、焼かれてしまいます。私たちの生活から、実が結ばれているのかいないのかを点検することは、神にかなった生活をしているかどうかを知るためのバロメーターです。

3B 愛の行ない 9−12
 だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。

 私たちが、神のみことばを信仰を持って聞き、イエス・キリストへの希望を持っているのであれば、私たちのうちに愛が養われます。神から生まれる者は、兄弟を愛する、と使徒ヨハネは言いましたが、「愛」という実が必ず私たちから結ばれます。ヘブル書の著者はここで、聖徒たちに愛をもって仕えていたのは、あなたがたが救いの確信を持っていたからではないか、と思い起こさせています。彼らが示した愛は、まぎれもなく、信仰によって、また希望によって生きていたからに他なりません。

 そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。

 迫害や苦しみの中にいた人々は、この希望について揺らいでいたのかもしれません。けれども、この希望こそが、あなたたちを支えていたのだよ。だから同じように熱心に、希望を抱きつづけなければいけないよ、と著者は読者に語りかけています。

 それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。

 「忍耐」という言葉が出てきました。信仰と希望、また希望と忍耐は密接に結びついています。イエス・キリストのことを知れば知るほど、私たちに信仰が養われます。私たちは、イエスさまが信頼するに値する方であることの確信をますます強め、信仰を増し加えます。そして、イエスさまのことを知ればそれだけ、この方に希望を寄せればよいことを知ります。自分たちや、この世界にあるものではなく、イエスさまだけが自分たちの救いであり、望みであることを知るようになります。

 そして、そして信仰と希望を持っている過程で、私たちに培われるのが「忍耐」です。私たちは救いを得ていますが、神の御国に入るまでは、その約束を待ち、この地上で忍んでいなければいけません。約束のものを待ち望む、忍耐が必要です。

 そこでここでは、「信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たち」と言っていますが、聖書には、信仰と忍耐によって約束の者を手に入れた人々の話がたくさんのっています。その古典的な例が、ユダヤ人の始祖アブラハムです。そこで次の節から、アブラハムの話があります。

2A 神のご計画の確かさ 13−20
1B 神ご自身の誓い 13−17
 神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。

 アブラハムは、75歳のときに、カナン人の土地に行きました。そのときに、「あなたは大いなる国民となり、あなたは祝福される」との神の約束を受けました。そして、自分の子どもが生まれるまで、なんと25年待ちました。サラからイサクが生まれたのは、彼が100歳のころです。ところが、イサクがおそらくは10代の頃、アブラハムは神からイサクをささげなさい、と命じられました。彼は、神の約束である、「この子孫から祝福を与える」ということばを信じて、イサクは死んでも、よみがえってくると信じて、イサクをささげようとしました。そして、イサクをほふるための刀を振り落とそうとしたときに、天から主の使いがやって来て、アブラハムを止めたのです。その時に、主の使いが、このように宣言されました。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。(創世記22:16-17」主は、ご自分にかけて誓われました。アブラハムの子孫をふやし、祝福されると約束されました。

 確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。

 「誓い」を私たち日本人は、普段の生活の中ですることはあまりないのですが、英語圏に住んでいる人は、「〜にかけて誓う」という言葉を使います。「私は、ボーイスカウトの名誉にかけて誓う」とか、「母親の名誉にかけて、誓う」とか、自分が必ず行なうことを確かにさせるために、誓いを立てます。誓うときは、自分よりもすぐれたものを指して誓います。けれども、神は、ご自分よりもすぐれた存在はいないので、ご自分にかけて誓われました。

 そして、誓いをするときには、人の議論をやめさせます。「これは、絶対にこのとおりだ。」「いや、違う、それは間違っている。」と議論している時に、「いや、そのとおりだ、私は誓う。」と言ったら、そこで議論はストップしてしまいます。クリスチャンの会話であれば、ある人は、「これは神さまに語られた。」と言ったら、そこで何も反論できなくなります。神が言われたのだから、議論の余地がなくなるのです。そこで神は、アブラハムに与えられた約束は、絶対で確かであることを明らかにするために、誓いを立てられたのです。

2B 幕の内側 18−20
 それは、変えることのできない二つの事がらによって、・・神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。・・前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。

 アブラハムに対して、神が「約束」と「誓い」の二つの事柄によって、ご自分のことばを確かなものとされました。神がアブラハムに立てられた計画は、決して変えられることはありません。そこで、私たちのために与えられている神の約束も、決して変えられることはないことを、ヘブル書の著者は強調しています。私たちは、まだ約束されているものを見ていません。だから、困難なことが起こるとき、私たちの信仰は揺らいでしまいます。「はたして、私がこのように信じていることは、むなしいことなのだろうか。」とつぶやくことも多くなります。けれども、今、著者は私たちに、「そんなことはない。神は誓いをもって、ご自分の計画が確かなことを明らかにされたのだよ。計画は変わっていない。忍耐して待ち望みなさい。」と励ましているのです。

 私はときどき、「自分が信じていることが、はたして本当なのか。」という思いが頭をよぎるときがあります。朝起きたとき、悪魔が耳元でささやくのでしょうか、「世の中の人は、一生懸命外で働いているのに、お前は何をやっているのだ。聖書を調べて、たわいもない空想話に、うつつを抜かしているだけではないか。死んだ後にどうなるかもわからない。お前は、こうやって人生を無駄に費やすのか。」と。確かに私は、自分が信じていること、また語っているみことばを、この世において証明するすべを持っていません。みことばが確かであることを、示唆することはできますが、だれの目にも分かるように、示すことはできません。死後どうなるかについて、私は証明ができません。神のみことばのみによって、確信をもって語ります。ただ「信仰」だけがたよりなのです。だから、悪魔は、このようなささやきを私にしてくるのでしょう。

 けれども、神の約束は確かです。神は必ず、わたしはわたしが語ったことを成し遂げる、と言われています。聖書に書かれていることばは、みな確かです。アブラハムに対して真実であった神は、私たち一人一人のクリスチャンにも真実であられるのです。

 この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。

 希望が、「たましいのための錨」であると書かれています。私たちに、神とキリストについての希望が増し加えられると、その希望によって私たちの信仰は堅くされ、信仰が堅くされるので、忍耐をすることができ、忍耐するので、私たちは愛をもって人々に仕えていくことができます。愛の奉仕も、また信仰生活もみな、イエス・キリストに対する希望によって確かにされており、そのためここで「たましいのための錨」と呼ばれているのです。

 ヘブル書2章1節において、「押し流されないようにしなければなりません。」と書かれていますが、ボートが岸辺から離れて、いつの間にか漂流していくように、私たちもいつの間にか、信仰から離れるという危険性があります。けれども、錨があれば安全です。押し流されることはありません。イエス・キリストに対する希望は、このように私たちのところに何が押し寄せても、しっかりと立っていることができるような、錨の役を果たします。

 そして、「またこの望みは幕の内側にはいるのです」とありますが、幕の内側とは至聖所のことです。聖所は、ケルビムが織り込まれている垂れ幕によって、聖所と至聖所に分けられています。私たちの希望は、至聖所の中にはいっていくということです。これは、言い換えれば、神の御座の中に入っていくということです。私たちは今、大胆に、神の恵みの座に近づくことができます。それは、イエスさまが、血を流して、私たちの罪をきよめてくださったからです。

 イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。

 イエスさまは、私たちが父なる神に近づく前に、まずご自分が天の中に入られました。そして、天において、神の右の座に着かれました。私たちは今、御霊によって、霊的に父なる神に近づくことができますが、将来は、実際に、天の御座に近づいて、神とキリストを賛美して礼拝することができるようになります。黙示録4と5章には、携挙された教会が、小羊イエスを賛美している情景が描かれていますが、私たちがそこにいるのです!

 そして「永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」とありますが、次の7章にて、イエスさまが、メルキゼデクの大祭司であることが説明されています。イエスさまの働きを知ることが、本当に大切なのです。この働きを知って、私たちが希望を持つことができ、そしてこの希望が私たちのたましいの錨となり、困難や試練が訪れても押し流されることがないのです。堕落する者たちは、自分たちの踏ん張りが足りなかったから堕落したのではなく、この希望の錨を持っていなかったら、堕落したのです。私たちは、自分たちで自分を支えるのではなく、神の約束と信じる信仰と、その希望によって支えられます。


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