ヤコブの手紙2章 「あわれみの実践」

アウトライン

1A えこひいき 1−13
   1B 会堂にて 1−7
   2B 自由の律法 8−13
2A 行ないのない信仰 14−26
   1B 言うだけのむなしさ 14−19
   2B アブラハムの行ない 20−26

本文

 ヤコブの手紙2章を開いてください。ここでのテーマは、「あわれみの実践」です。前回私たちは、試練に会うときに、クリスチャンとしてどのように反応すべきであるかを学びました。私たちは、試練を喜び、主に拠り頼んでいくことを学んでいく者たちです。自分の知恵ではなく、主の知恵を求めて、神のみことばから目を離さないで、一心に見つめている人たちであります。このように、しっかりと主にあって堅く立つことが、1章の内容でした。

 2章においては、主によって、他の人たちにあわれみを示すことについて書かれています。1章の最後に、「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話を」するとありますが、困っている人たち、貧しい人たちに、具体的に手を差し伸べることについての勧めが書かれています。

1A えこひいき 1−13
1B 会堂にて 1−7
 私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。

 人をえこひいきしてはならない、という戒めです。ヤコブは、イエス・キリストのことを、「私たちの栄光の主」と呼んでいます。主が神の栄光の輝きのすべてをもっておられる方であり、この方以外に、だれも栄光を取ることはできません。天においては、24人の長老が、自分たちの冠を投げ出して、主の前にひれ伏しています(黙示4:10)。主に栄光が与えられているときに、そこに、私たち人間が設ける、経済的な格差、社会的な地位など、私たちにとって、すばらしいと思うものはみな、無に等しいことに気づきます。黙示録20章の、白い大きなさばきの御座において、死んだ人々が復活して御座の前に立つことになりますが、その時に、「大きい者も、小さい者も(20:12)」という言葉が出てきます。お金持ちは、その財産によって、主に対して、いかなる良い印象や影響力を与えることはできません。

 このように、主はえこひいきをされない方なので、私たちにも、人をえこひいきしてはならないことを戒めておられます。旧約聖書においては、裁判をするときに、その人が貧しいからといって、さげずんだり、あるいは逆に優遇したりしてはならず、公正にさばくことが命じられています(申命1:17など)。イエスさまは、その模範として、金持ちの青年が近づいてきたときに、その富によって心が何一つ動かされることなく、むしろ、その富が彼を神に近づけさせなくしているという、霊的な内実を明らかにされました。使徒パウロは、主人に対して、奴隷をおどすことをやめなさい、と戒めていますが、それは、奴隷たちと彼らとの主が天におられ、「主は人を差別されることがないことを知っているのですから。(エペソ6:9)」と言っています。私たちが人と接していくときに、その人の見かけや身分によって、影響されないことが必要です。

 あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、立派な服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。

 ヤコブは、えこひいきをすることについて、教会の中で起こっていることを引き合いに出しています。「会堂」とありますが、当時、信者たちは、ユダヤ教と同じような礼拝形式を持っていたようです。そこで、金持ちの人が入ってきました。「金の指輪」とありますが、当時、指輪をたくさんはめていることが、その人のステータスになっていました。指輪を貸すところもあったほどで、たくさん指輪をすることによって、自分を良く見せることが習慣となっていました。この金持ちと、みずぼらしい格好をした貧しい人が、会堂に入ってきました。

 あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。

 経済的な地位によって、人を重要人物かそうでないかを判断して、差別している心が、私たちにはあります。人の見かけによって、すぐに判断を下すような弱さを持っています。このような差別は、無意識の中で、知らず知らずに行なっていることが多いです。公平に取り扱うことは、栄光の主を見上げていかなければ、決してできないことです。

 よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。

 貧しければ、その人は信仰で豊かになりざるを得ません。自分には何もないのですから、信仰によって生きようとします。富んでいる人は、誘惑があります。神ではなく、その富により頼もうとすることと、絶えず対峙していかなければいけません。そして、信仰に富んでいれば、後に来る御国において富んだ者となります。御国は、信仰によって相続するからです。

 それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。

 当時は、借金の返済を行なっていない人に対して、その人を牢屋の中にぶち込むことができました。1万タラントの借りのあるしもべの話を思い出してください。王がその借金を帳消しにしてくれたのですが、そのしもべは、自分に百デナリの借りのある人に対して、首根っこをつかまえて、「借金を返せ」と言いました。そして、彼を牢屋にぶち込みました(マタイ18:23−35)。あなたがたに、ひどいことをするのは金持ちなのに、なぜあなたがたは、富んだ人たちにこびへつらうのか、と言っています。

 あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。

 私たちは、「クリスチャン」あるいは「キリスト者」と呼ばれています。これは、「キリストにつく者」あるいは、「キリストに似た者」という意味です。キリストに本当に似たようなことを語り、似たようなことを行なっていたので、人々は信者たちをそう呼びました。もし、私たちが、キリストとは似つかぬことを行なえば、キリストの御名が汚されます。

2B 自由の律法 8−13
 もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。

 そうですね、主イエスは、「隣人をあなた自身のように愛せよ。」というレビ記の戒めを、もっとも大切な律法の一つとされていました。

 しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。

 ここで、「えこひいき」は、はっきりと「罪」であると断罪されています。なぜなら、隣人を自分自身のように愛するという律法に違反しているからです。私たちは、不品行や嘘、怒りやねたみなどの罪には敏感ですが、えこひいきも同じように罪であることを知らなければいけません。

 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。

 ここに、律法についての大切な性質が書かれています。律法主義的になったり、行ないによって人や神に認められたいと思う傾向を持つ人が陥っている過ちは、律法は一つ違反すると、それだけで律法違反者であると定められることを忘れていることです。「私たちは、このようなことを行なっています。」と誇るのですが、他の面において律法を破っています。

 けれども、ちょうど、ビルから飛び降りた人が、その一回の行為で死んでしまうように、律法を破った人は、その一つの行為で、死刑に定められます。たとえば、法廷で、ある人が殺人の罪で死刑宣告が下されました。その人は、「私は、これまで、こんなにたくさんの人たちに施しをしました。見てください、私の業績を。」など、いろいろ良い行ないを並べ立てても、一人の人を殺したことには変わりなく、殺人には死刑が適用されることにも変わりません。同じように、自分が律法を守っていることで、それを誇ることはできないのです。

 なぜなら、「姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。

 「私はこれこれのことをしていません。」と言っても、他の律法に違反していれば、すべての律法に違反している人と変わりなく、律法違反者となります。

 自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。

 「真理はあなたを自由にします」と言われたイエスさまは、私たちを自由にしてくださいます。その自由を獲得するために必要なことは、自分を神のさばきの下に置くことです。神の言われていることを、そのまま、ありのままの自分に当てはめて、自分がそれに違反していることを認めることです。主にあって自分の非が指摘されたときに、それに反発して、「私はそんなことしていない。」と言い返していては、私たちはいつまでも、罪から自由にされた生活を楽しむことができません。

 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。

 貧しい人をさばいて、軽蔑するようなその態度は、後に、同じようにあわれみがないさばきによって、さばかれます。イエスさまは、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と言われましたが、自分がさばくその同じ量りで、私たちはさばかれます。けれども、人をあわれむ人は、あわれみを受けるとも、主は言われました。人をさばけば後にさばかれますが、人をあわれめば、自分もさばかれることなく、あわれみを受けます。だから、ここでヤコブが言っているように、「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇」ります。

2A 行ないのない信仰 14−26
1B 言うだけのむなしさ 14−19
 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

 私たちの間に、実質のともなわない、言葉だけの信仰話がしばしば横行します。ここのヤコブの言葉で大事なのは、「自分には信仰があると言っても」の「言っても」です。「私は神を信じています」と言うことと、実際にその人に信仰があるかどうかは、別問題なのです。

 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。

 口だけで他の兄弟に接している例です。使徒ヨハネも同じことを話しました。第一の手紙3章17節と18節には、「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」とあります。

 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

 死んでいる、すなわち、無きに等しい、信仰を持っていても無意味である、ということです。私たちが信仰を持っているのは、良い行ないをするためです。パウロはエペソ人への手紙の中で、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。(2:8)」と言った後に、「私たちは神の作品であった、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。(2:20)」と言っています。私たちは、行ないによって救われるのではありませんが、行ないのために救われます。良い行ないをするために、救いにあずかります。

 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

 自分がどれだけ、信仰があるのかを知りたければ、自分の行ないを見ることがその方法です。自分が行なっていることを、どれだけ見せることができるでしょうか?その行なっていることが、すなわち自分の信仰の現われです。私たちは本当に信じていることを、行なっています。「信じている」と言っているものは、聖書の中では信仰であると、みなされないのです。

 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

 私たちが、「私は神を信じます。神は唯一の方です。」と言っても、実は、悪霊も同じように信じています。信じているだけでなく、それに反応して、身震いしています。頭の中で信じている、というだけでは、その人は救われないのです。

2B アブラハムの行ない 20−26
 そこでヤコブは、パウロによって「信仰の父」と呼ばれているアブラハムを例にとって、語ります。ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。

 アブラハムは、行ないではなく、信仰によって義と認められた人として有名です。パウロは、「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。』とあります。(ローマ4:2−3)」とローマ書で書きました。アブラハムは、何か神に認められる行ないをしたから、義と認められたのではなく、神が言われたことを信じたから、その信仰によって義と認められました。

 けれども、彼のその後の生涯において、何の行ないも伴わなかったかと言えば、そうではなく、むしろ正反対に、イサクをささげるという「行ない」が伴いました。信仰の父と呼ばれているアブラハムが持っていた信仰は、このように行ないが伴った信仰であり、決して、「信じています」と言うだけの信仰ではないことに気づきます。

 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

 アブラハムの生涯は、主が真実な方であることを知っていく生涯でした。彼は、主が言われたことはその通りであるとの信仰を持ちましたが、しばしば、不信仰に陥り、失敗を犯しました。しかし、神は、そのような失敗が彼を見捨てることはなさらず、アブラハムを義とみなした、その決断によって、彼に真実を尽くされました。アブラハムは、こうして、主への信頼を自分のうちに育ませていました。この方は、信頼に値する方である。この方が言われることは、確かにその通りになっている。こうしてアブラハムの信仰はますます高められ、イサクをささげなさい、と言われたときは、疑うことなくそれを行なうことができるほどの信頼が彼のうちに培われていたのです。彼がイサクをささげることができたのは、それだけ主を信じていたことの現われであり、そこまで信じられたのは、主がアブラハムにとてつもない祝福を注いでくださったことの現われでもあります。このように、信仰は、単に言うだけのもの、考えるものではなく、人格的な関わりです。それは行ないとなって現われます。

 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。

 ラハブも、アブラハムと同じように、信仰の人であることがヘブル書11章に書かれています。けれども、彼女の場合も、イスラエルの神への信仰が、イスラエル人の使者たちを招き入れ、別の道から送り出すという行ないとして現われました。こうした信仰が、人を神から義と認めさせるのであり、それは生きた信仰なのです。

 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。

 ここに「死」の定義が書かれていますね。死とは、たましいが肉体から離れている状態を指します。意識が肉体から離れているとき、その人は死んでいると判定されます。行ないのない信仰も同じです。その信仰の中に、行ないが内包されていなければ、それは生きた信仰ではなく、死んだものです。信じていれば、そこには必ず行ないが伴うのであり、行ないがない信仰などというものはないのです。

 ですから私たちは、自分がどこまで神を信じているかを、点検してみなければいけません。霊的用語を使用していることによって、その人が信仰的であったり、霊的であるとみなすことはできないのです。むしろ、霊的用語の語り口調によって、その人の真の姿が見えなくなるときさえあります。例えば、結婚を出来ないある男の人が、「私は、自分が神さまから与えられているビジョンと一致している人と結婚したい。」「主を愛している人と結婚したい。」とか、いろいろそれらしいことを話していても、よくよく聞いてみると、「俺は好みがあるのだ。」という肉的な思いを言い換えただけにすぎないことがあったりします。単純にその人が何を信じているかは、その人の行ないに現われます。信仰のことについて語っているのではなく、行なっていることが大事なのです。


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