ヤコブの手紙5章 「苦難と忍耐」


アウトライン

1A 金持ちへのさばき 1−6
   1B 終わりの時 1−3
   2B 貧しい者への虐げ 4−6
2A 主の来臨 7−12
   1B 待つこと 7−9
   2B 預言者の模範 10−11
   3B 誓わないこと 12
3A 互いの祈り 13−20
   1B 病人のいやし 13−18
   2B 罪からの救い 19−20


本文

 ヤコブの手紙5章を開いてください。ヤコブの手紙も、最後の章となりました。ここでのテーマは、「苦難と忍耐」です。

1A 金持ちへのさばき 1−6
1B 終わりの時 1−3
 聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。

 私たちは前回、4章の後半部分で、むなしい誇りをもって高ぶっている人々に対する、ヤコブの叱責の言葉を読みました。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たちに対して、あなたのいのちは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にしかすぎない、と言いました。むさぼって、また、自分からお金がなくなることを恐れて、自分のところに富が集中するように働くことが、ここで戒められています。そして5章に入ると、そのように富をどんどん自分のところに集めて、貧しい人をかえりみず、しいたげるような者たちに対するさばきのことばが書かれています。ヤコブの手紙には、この箇所の他にも、金持ちに対するさばきのことばがありますし、新約聖書、いや旧約を含む聖書全体において、富とむさぼりに対する神のさばきが書かれています。

 なぜ、富を得ることが不正なのでしょうか?それは、神のご性質と真っ向から対立するからです。神はあらゆる富をお持ちの方ですが、それを惜しみなく分け与えるところの神であり、「愛」というのは、まさに分け与えることだからです。自分が受けるのは、あくまでも分け与える中において行われることであり、受けるために受けることは、神の働きと異なってしまいます。ですから、イエスさまのところに来た金持ちの青年は、貧しい人に財産を分け与えなさいとイエスさまに言われたときに、それに従えずに、イエスさまから離れてしまったのです。富は分け与えるものであり、また惜しみなくささげるものです。神に対して、犠牲をもってささげます。また必要があるところに、見返りを期待せずに与えます。

 ヤコブは、「あなたがたの上に迫って来る悲惨」と言っていますが、これは、神が終わりの時に、地上に下すさばきのことを指しています。大患難の時に、金持ちはさばきを受けます。黙示録を読むと、主イエスさまが来られる前に下る神のさばきとして、大淫婦バビロンの姿が出てきます。彼女は、紫の衣を着ていて、金と宝石と真珠で身をかざっています。そして世界の国々が大淫婦によって貿易を行ない、富を蓄えています。けれども、黙示録18章20節に、「大きな都よ。海に舟を持つ者はみな、この都のおごりによって富を得ていたのに、それが一瞬のうちに荒れすたれるとは。」と書いてあります。この都によって、大淫婦によって殺された聖徒たちや預言者たちの血の報いが与えられるとあります。パウロは、神が、「苦しめる者には、報いとして苦しめを与え(2テサロニケ1:6)」られる、と言いましたが、このことが金持ちの上に下るのです。

 あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、

 腐るような富というのは、おそらく農作物のことでしょう。麦や穀物が納屋に蓄えられているのが、金持ちであることのしるしでした。また着ている物も、その人が金持ちであるかどうかを知らせるものです。大患難のときには、穀物がくさり、また着物が虫に食われているようになります。

 あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。

 金や銀には、実際にさびは出ませんが、ここでは輝いているもののことを表しているのだと思います。そして、自分の財産だけではなく、自分たちの肉体までも終わりの時には、むしばまれます。そして、「終わりの日に財宝をたくわえました」とありますが、ここで思い出すのがバベルの塔です。シヌアルの平野に集まってきた人々は、町を建てはじめましたが、そのときにアスファルトとれんがを使って、家々を建てた、とあります。この出来事が、ちょうどノアの時代の大洪水のさばきの後に出てくることは、注目に値します。なぜなら、彼らは水のさばきを恐れて、なんとかして自分たちで守り、そして守るだけではなく、自分たちが神のようになろうとして塔を建てたのです。神が自分を守り、神がいのちを与える方であり、備えを与える方であることを知らないことは、なんと大きな悲劇をもたらすでしょう。また、神のような存在が必要だと思っているのに、神はいらないと言い張る人たちは、自分たちをも神にしてしまう愚かなことを行なうのです。

 私たちは終わりの日を思って、自分をこの世に対して身軽にしているでしょうか?自分は神にささげるために生きて、また人々に分け与えるために生きていることを知らなければ、自分は自分のものをためることに熱心になります。この世はますます不安定になっているので、ますます、不安にかられて自分のところにたくわえを行なうのです。けれども、世と世にあるものは過ぎ去ります。まず、自分が与える者として徹する決断をすることが大切です。

2B 貧しい者への虐げ 4−6
 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。

 聖書では、神さまが貧しい人に対して、ことさらに気をかけてくださっていることを読むことができます。旧約聖書のモーセ五書では、数多く、貧しい人、やもめ、在留異国人などがないがしろにされることのないように、あわれみをかけるように、その福祉的な配慮が書かれています。具体的に、一日分の労賃についてヤコブが言っていることは、例えば申命記にこう書かれています。「貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。(24:14−15)」彼らは、日雇い労働者であり、その日の賃金が与えられなかったら、自分の家族のための食べ物がありません。私はこの箇所を大学生のときに読んだとき、身に沁みて、神のこころが伝わってきました。お金がないときは、その一日のうちに与えられるお金が自分のすべてになっているのです。ですから、未払い賃金は、万軍の主の耳に届いています。

 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。

 これはちょうど、豚肉のために飼われているぶたが、たくさんえさを食べさせられているようなたとえになっています。「殺される日」というのは、屠殺される日のことです。そして、その日のために、心を太らせています。

 あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。

 これは以前説明しましたが、借金をしている人を、貸している人は訴えて、牢屋に入れることができます。それを金持ちが行なっていることを、ヤコブは咎めています。

2A 主の来臨 7−12
1B 待つこと 7−9
 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。

 終わりの日に備えて、自分のところに富をためていく人々がいますが、クリスチャンはそうであってはいけません。ヤコブは、「こういうわけですから、兄弟たち」と言っています。信者は、自分の富を主にお任せします。自分の安全を主にお任せします。今、アメリカではご存知のとおり、国内でのテロ攻撃の危険性があるのですが、どんなに銃を持とうとも、一定のグループをプロファイリングしようとも、テロリストはいくらでも抜け穴を使って、攻撃することができます。安全は主から来ます。ですから、クリスチャンにとって、主が来られることが唯一の支えとなります。だから、兄弟たちに対して、ヤコブは、主が来られることを思って、耐え忍びなさいと勧めているのです。

 見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。

 耐え忍ぶことについて学ぶために、ヤコブは農夫のたとえを使っています。イスラエルの土地は、日本とは異なり地中海性気候ですから、雨は貴重な資源です。「秋の雨」というのは、11月ごろにやってくる雨のことを言いますが、その後に農夫は種を蒔きます。そうすることによって、湿った土地に蒔かれた種が発芽することができるようにするためです。そして12月、1月はさほど雨が降らないのですが、2〜3月に再び雨が降ってきます。それを「春の雨」と呼びます。そして4月には大麦の収穫があり、5〜6月に小麦の収穫があります。種を蒔いたからといって、すぐに実がむすばれるのではなく、ただ待っているしかありません。ですから、私たちも同じように、今は主が来られていませんが、耐え忍んで待つのです。

 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

 私たちが、主の来臨を待つときに陥りやすい弱さは、意気消沈することです。または疲れてしまうことでしょう。この世はますます、天に国籍を持っている者にとって住みずらいところとなります。キリストの御名のゆえに、憎まれるようになります。それに耐えるのがつらくて、疲れて、がっかりしてしまうことがあります。そこでヤコブは、「心を強くしなさい」と言っているのです。そして、主が来られるのが「近い」と言っていますが、主が来られるのがいつかわからないではなく、今にでも来るかもしれない、と主の来臨の近さを信じているときに、私たちは心を強くすることができます。そして、クリスチャンとして永遠の視点から物事を見ることが許されます。主が今日にでも来てくださるという信仰は、今日の自分が生きるのを支えてくれるのです。

 兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。

 終わりの日は悪い時代ですから、つぶやきたくなる原因は実にたくさんあります。けれども、すべてのことをさばかれるイエスさまが、戸口に立っておられることを知れば、私たちは口を閉ざすことでしょう。これはちょうど、小学生や中学生が学校の教室で騒いでいて、こわい先生が突然戸を開けて入ってくるようなものです。私たちは、主が来られることを知ると、自分を清めることができます。

2B 預言者の模範 10−11
 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。

 私たちが耐え忍ぶときに、この世においては苦難があります。イエスさまは、「世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)」と言われました。そこでヤコブは、苦しみの中において耐え忍ぶことを学ぶために、預言者たちを模範にしなさいと言っています。預言者は、自分が生きている時代の人々に、神のことばを語るために立ち上がっている人々です。その立場のゆえに、彼らは迫害にあって苦難にあいました。ステパノがサンヘドリンで説教をしたときに、ユダヤ人たちが誇っている先祖たちを取り上げて、話しました。彼らが誇っている先祖たちは、たとえばヨセフを奴隷として売りました。モーセを理解せずに、モーセはエジプトから逃げました。そしてステパノは、「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。(使徒7:52)」と言っています。このように、預言者は同胞を愛する愛のゆえに、神の真理を語り、そしてその預言のゆえに苦しみにあいました。彼らのことを思いなさい、とヤコブは言っています。

 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

 耐え忍んだ人として有名なのが、言うまでもなくヨブです。彼の結末は、試みを受けるときの二倍の富が与えられたことでした。彼は苦しんでいる途中、必ずしも完璧だったわけではありません。主は、ヨブに「おまえは、わたしよりも、物事を知っているとでもいうのか。」と問い詰められて、ヨブはちりをかぶって、悔い改めました。このように、失敗してもみくちゃにされながらも、ヨブは耐え忍びました。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方ですから、不完全な私たちをも、その忍耐のゆえに報いてくださいます。あわれみ深い主に期待して、忍耐するのです。

3B 誓わないこと 12
 私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。

 ヤコブがなぜ、誓いについての戒めを話しているかというと、「さばきに会わないため」つまり、主が来られるのが近いことを思って話しているからです。誓うという行為は、私たちはあまりしていないと思ってしまうかもしれませんが、「言ったとおりに実行する」と言い換えることができます。つまり、「私はこれをします。あれをします。」と言っておきながら、それをしないのは罪であるということです。本当に実行するなら、私たちはことさらに、実行することを神に対しても、また人に対しても言うことはないでしょう。ただ行ないがともなうところの返事、「はい」だけをします。または、できないならば「いいえ」と言います。

 これは、神に対する私たちの態度において、とても大切です。自分が持っているスタンスがあって、距離をおいて神に応答しようとするなら、誓いを立てることになります。主が語られているときに、「はい、わかりました。」と言って行ないません。けれども、主のさばきを自分のものにする人は、「主よ、お赦しください。私はこんなこともしていない、愚かな者、罪人です。主よ、どうか私を変えてください。助けてください。」と、泣いてでも、叫んででも、悔い改めの祈りをするはずです。

3A 互いの祈り 13−20
1B 病人のいやし 13−18
 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。

 これはとても分かりやすい勧めです。苦しんでいるなら祈りを、喜んでいるなら賛美をします。苦しんでいるときの私たちの傾向は、嘆いたり、泣いたり、落ち込んだり、恐れたりします。けれども、ヤコブは、「ほら、祈ってごらんなさい。」と勧めているのです。こんな単純なことを忘れてしまうのが私たちです。そして、何か良いことがあって喜んでいるときに、私たちが陥る傾向は、「おれは、結構できるな。」とかうぬぼれが出てきたり、「よし、うまくいったから、次はこういうことをしよう。」とむなしい誇りを抱いたりすることです。けれども、喜んでいるときは、単純にそれを可能にしてくださった神を賛美すればよいのです。

 ヤコブは、祈りについての話題を続けます。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

 長老たちによって祈ってもらい、またオリーブ油を塗って祈ってもらうことについて、私たちがコスタメサの教会にいたときに、そこでそのような祈り会があったことを思い出します。毎週土曜日、教会のある一室に、二人の長老の方々がいて、ただオリーブ油をつけて、やってくる人々のために静かに祈っていました。その中で、いやされる人々が出てきます。私の妻も、包丁で切った親指が、その切り口がふさがるという癒しを受けました。

 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

 病気と罪とは関わりがあるときがあります。なんらかの罪を犯しているために、それが肉体的な病となって現われるときがあります。例えば、だれか人を恨んで、憎んでいると、その霊的な病気の状態が精神的にも現われて、その人は自律神経症になったり、その他の精神的病を患うかもしれません。そして精神的に起こっていることは、今度は生理的な影響となって現われ、実際に肉体を患うこともあります。ですから、病と罪は関係があるときがあります。

 けれども、もちろんすべての病が罪に由来するのではありません。イエスさまが、生まれつきの盲人をごらんになられて、彼がそうなっているのは、その人の罪のためでもなく、両親の罪でもなく、神の栄光が現われるためだ、と言われましたが、そのような病もあるのです。またアダムが罪を犯して、土地はのろわれたものとなりましたから、そうした不完全な世において、病気からだれもまぬかれることはできないと言えます。

 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

 互いに罪を言い表し」というのは、罪を互いに告白しあうことではありません。罪を告白するのは、神に対してです。ここでは、自分の過ちを言い表し、と言い換えることができるでしょう。私たちはとかく、信者どおしが集まると、自分の弱さを語りたがらないものです。今、こういった悩みがある。こういった苦しみがある。だから祈ってほしい、といいにくいものです。きちんとしていなければいけない、いつも模範的でなければいけないと思い込んで、気張ります。けれども、教会はそのようなところではないのです。教会は、いやしを受ける場です。自分の弱さも互いに分かち合って、そこで互いに祈りあって、主からのいやしのミニストリーを受ける場です。肉体的な病も同じように、私たちは教会において祈ってもらい、そしていやしを受けます。あるいは自分の霊的な病について祈ってもらったら、ついでに肉体の病もいやされる、という場合もあります。いずれにしても、互いにいたわりあって、祈りあうことが必要です。

 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。

 ヤコブは、祈りには力があることを教えるために、エリヤのことを挙げています。エリヤは「私たちの同じような人」とありますが、彼は超人ではなかったということです。血肉があって、同じように感情を宿し、肉体の弱さも持っている普通の人です。けれども、それでも祈ったら、雨を降らせないようにすることができたのです。そして、降らせないだけではなく、また降らせることができました。祈りの力に期待しましょう。

2B 罪からの救い 19−20
 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。

 互いに過ちを言い表し、互いに祈り、罪も赦されるというミニストリーが教会で行なわれます。そして、罪に陥ってしまった人を立ち上がらせるミニストリーも存在します。罪を犯してしまった人を、さばくのではなく、柔和な心で戒めて、神のあわれみのゆえに、その人は涙を流して悔い改め、そして立ち上がることができる、というものです。ここで大事なのは、「多くの罪をおおう」という言葉です。ペテロは、「愛は多くの罪をおおうからです。(1ペテロ4:8)」と言いました。立ち上がった人がいるのに、「あの人は過去にこんなことをやっていた。」と言う人があれば、それは罪をおおうのではなく、あばいていることになります。罪が赦されるには、その罪が持ち出されないことが必要なのです。罪の赦しがあって、その人は再び罪を犯さない、聖い生活を歩むことができます。

 こうして、私たちが苦しんでいるときに、どのようにすればよいかについての、ヤコブの勧めがありました。互いに祈り、互いに自分の弱さを言い表し、また預言者をみならって、耐え忍びます。主が近いことを思って、富を集めようとする誘惑を退けます。主に守っていただこうとするのではなく、自分で守っていこうとする誘惑に打ち勝ちます。こうして、主が来られる前夜に、私たちは忍耐によって生きていくことをもって、ヤコブはこの手紙をしめくくりました。実際的な勧めであり、人を行動に移させるような手紙でした。ここで終えるのはもったいない気がしますが、次のペテロの手紙も、とても分かりやすく、心を燃え立たせます。期待しましょう。


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