ヨハネの福音書1章後半 19―51節 「イエスの証人」

アウトライン

1A 「見よ」
   1B 手段 − 叫ぶ声
   2B 理由 − 鳩のような聖霊
2A 「来なさい」
   1B 理由 − イエスのさそい
   2B 手段 − 知人のさそい

本文

 ヨハネの福音書1章を開いてください。今日は、1章の後半部分を学びます。1章の19節から最後までを学びます。ここでのテーマは、「イエスの証人」です。前回私たちは、ヨハネの福音書の特徴と、1章前半部分を学びました。ヨハネは自分の書いた福音書の目的を明らかにして、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(20:31)」と言いました。そして、1章前半には、イエスが信じるに値する方であることを、いくつかの理由をもって述べられています。イエスは神ご自身であり、また光であり、そして神のひとり子であることが理由でした。そして、今日は、証言について学びます。使徒ヨハネが主張したことが、単に自分が言い張っていることではなく、多くの証言に基づいていることを述べています。

1A 「見よ」 19−34
1B 手段 − 叫ぶ声 19−28

 ヨハネの証言は、こうである。

 まず、バプテスマのヨハネについての証言を使徒ヨハネは記しています。

 ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせた。

 エルサレムにいるユダヤ人とは、国家的、宗教的な権威を持っている人たちであることを示しています。彼らが使いを出して、ヨハネがいったいどのような人物なのかを尋ねさせました。それは、ヨハネは非常に影響力のある預言者だったからです。イスラエルの全土から、人々がヨハネのところにやって来て、水のバプテスマを受けていました。ヨハネの説教は力強く、人々は悔い改め、神に立ち返りました。そして、人々はもしかしたら、この方がキリストではないかと思いました。それで、指導的な立場にいるユダヤ人が、祭司とレビ人を使いに出して、はたしてそうかどうか尋ねさせたのです。

 彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。

 ヨハネは、彼らが尋ねる前に、自分からキリストではないことを言明しました。あいまいなことを言わず、はっきりと告白しました。

 また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」

 エリヤは、旧約における代表的な預言者であると同時に、後に来られるキリストの先駆者でもあります。旧約聖書の最後の部分に、こう書かれています。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしは来て、のろいでこの血を打ち滅ぼさないためだ。(マラキ4:5−6)」ですから、この祭司とレビ人は、もしキリストでなければ、キリストが来られる前ぶれをするエリヤなのかと聞きました。でも、ヨハネは否定しています。

 「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」

 ここの「あの預言者」とは、モーセが語った預言者のことです。申命記18章15節です。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」でも、これもヨハネは否定しています。

 ここで、ヨハネが否定する言葉にも注目してください。最初は、「私はキリストではありません。」と答えていますが、次は、「そうではありません。」そして、次は、「違います。」になっています。言葉数が減っていることに気づいてください。つまり、ヨハネが自分のことを語るのをためらっている様子が伺えます。ヨハネは、自分のことを語るのではなく、キリストのことを語りたかったのです。自分のことを話すのではなく、キリストの証言をしたかったのです。それは、自分の弟子がイエスについて行くのを止めさせたりしなかったことにも現われているし、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(3:30)」と言ったことにも現われています。

 これは、私たちが証しをするとき、あるいは、人の証しを聞くときにとても大切なことになります。証しは、キリストのことを話すのであって、体験談ではありません。また、証しを聞くとき、証し人のことを知るために聞くのでなく、キリストを知るため、キリストがより自分に身近になるために聞くのです。私の父親は、かつて、ある有名な牧師のメッセージを聞きました。とっても感動して、こう言ったのです。「お前も、彼のように、教会だけでなくビジネスや世の中でもいろいろ活躍する牧師になってくれ。」父は、その牧師の話によってその牧師に魅了されたのであって、キリストに惹かれたのではなかったのです。ですから、証しを聞くときは、この祭司やレビ人のように、証し人自身に焦点を合わせるようなことをしてはいけないし、証しをするときは、ヨハネのように、自分に注意を寄せるのではなく、逆にキリストに焦点を合せて話すように気をつけなければならないのです。

 そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」 彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」

 彼らの引き続く質問に対し、ヨハネは、「主の道をまっすぐにせよ。」と荒野で叫んでいる者の声です、と言っただけでした。主の道をまっすぐにするとは、当時、王がある地方を通るときに前もってその地方にやってくる人のことでした。王が通る道をまっすくにします。石が転がっていたら取り除けて、くぼみがあったからそれを埋めます。こうして、王が通る準備をしました。したがって、ヨハネは、キリストが来られる前に、人々の心をまっすぐにして、神に立ち返らせることを話したのです。

 そして、叫んでいる者の声、となっていることにも注目してください。叫ぶ「ことば」でなくて、叫ぶ「声」になっています。ヨハネの福音書で興味深いことは、「見る」という言葉が多く出て来ることです。これから読むところにもたくさん出てきます。そして、初めにことばがあった、という冒頭で始まった、「ことば」つまり「ロゴス」は、見る対象ではあっても、聞く対象ではないのです。1章14節に、「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。」と書かれています。百聞は一見にしかつかず、ということわざどおり、自分が聞いたことを、実際に見る必要があるのです。

 ヨハネは、あくまでも叫ぶ声でした。彼から神のことは聞きますが、自分自身が神を見なければいけないのです。イエスは弟子にこう言われました。「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。…しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。(マタイ13:13,16)」私たちが、だれかの証しを聞くときに、聞いているだけでは不十分なのです。神を見、神に出会わなければならないのです。

 彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった。

 パリサイ派は、律法と伝統を重んじ、非常に厳格なユダヤ教の一派でした。当時、ユダヤ人社会に対して大きな影響力を持っていた人々でした。

 彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」

 彼らは、「もしあなたが重要人物ではなければ何の権威があって、バプテスマを授けているのですか。」と尋ねています。あるいは、「バプテスマを授ける免許を何か持っていますか。」という質問しています。

 ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。

 彼らが知らない方が立っておられます。1章10節には、「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」と書かれています。ヨハネはよく知られた人でしたが、キリストは人に知られていなかったのです。そして、その方が、「立っておられます。」とあります。これは、言いかえれば、「メシヤとしての活動を開始するのを、待っておられます。」と言うことができるでしょう。イエスの公の生涯は、バプテスマのヨハネからバトンタッチするようにして始まるからです。

 その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」

 当時、しもべが家の主人のくつひもを解いていました。けれども、ヨハネは、それさえも行なうに値しない人物であることを伝えています。自分は人にすぎないが、キリストは神の子です。

 この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。

 ユダヤの地域で、ヨハネはバプテスマを授けていました。

2B 理由 − 鳩のような聖霊 29−34
 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

 ヨハネは、「見よ!」と言っています。聞くのではなくて、見るのです。そして、世の罪を取り除く神の小羊とありますが、ユダヤ人にとって、罪の犠牲となる子羊のことはよく知っていました。彼らは、過越の祭にささげられる子羊がありますね。流された血は、家の戸の門柱とかもいに塗り、子羊は焼いて食べます。そして、神殿でささげられるいけにえもあります。自分の罪のために犠牲となって、それを祭壇において火で焼きます。ヨハネがイエスを見たとき叫んだのは、こうした罪の犠牲の子羊です。イエスは、私たちの罪のために犠牲となって、神のさばきをお受けになるお方です。

 私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。

 イエスは、ヨハネが生まれる6ヶ月あとにお生まれになったので、先におられたというのは、早く生まれたということではありません。イエスが、初めからおられた永遠の神であることを示しています。

 私もこの方を知りませんでした。

 ユダヤ人指導者だけでなく、ヨハネ自身もイエスを知らなかったと言っています。ヨハネは、イエスの従兄弟に当たりますから、見識がなかったということではありません。これは、イエスをキリストとして神の子として知らなかった、ということなのです。このことが、一人一人の人間に問われています。イエスのことを聞いているかもしれないが、救い主としてキリストとして知っていますか。神の御子としてイエスを知っていますか、という問いです。

 しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。
 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。

 聖霊が、鳩のような目で見えるかたちで現われてくださいました。

 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。「聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」

 ヨハネは、キリストにまだ出会っていないときから、信仰によってキリストのことを伝えていました。ヨハネは、ザカリヤとエリサベツの間に生まれてから、荒野の中で育ち、活動を始めました。その間に、神の声を聞いたのでしょう。「キリストが来られるから、あなたは人々の心をまっすぐにしなさい。キリストが人々の前に現われるまで、あなたは神のみことばを宣べ、人にバプテスマを授けなさい。」ヨハネは、このことばを信じて宣教を開始したのです。そして、神は、「わたしは、キリストの上に聖霊が下るようにする。聖霊がとどまった人そのが、キリストである。」と言われたのです。ヨハネはそのしるしを求めていましたが、イエスが来られて、ヨハネからバプテスマを受けるように願い出ました。彼が水から出てくるとき、鳩のようなかたちをした聖霊がイエスの上にとどまられて、ヨハネはイエスが神の子キリストだと確信したのです。

 そして、この箇所でも、「私はそれを見たのです。」と、「見る」という動詞が使われていることに注目してください。ヨハネは今まで、神からキリストのことを聞いていました。けれども、聖霊が下られるのを見て、今、他の人にも、「この方を見なさい。」と呼びかけているのです。つまり、神に本当に出会った人が、本当の証人となることができます。そして、神のことを話すのではなく、「あなたも神に出会ってみなさい。」と勧めることができるのです。

 みなさんは、本当の証人となっているでしょうか。イエスが、自分の罪のために死んでくださったことを、実際に自分のものとしているでしょうか。今日、自分が犯した罪のためにイエスが死んでくださったことを、自分のものとしているでしょうか。自分のものとするときに、自分は神を見ているのであり、神を見るものだけが真の証人になることができるのです。

2A 「来なさい」 35−42
1B 理由 − イエスのさそい 35−51
 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

 ヨハネは自分の弟子たちとともに立っています。先ほど、ヨハネが、26節でキリストが立っておられることを話しました。ヨハネが活動をやめて、イエスが活動を始められるのです。そして、自分の弟子に対して、「見よ、神の子羊。」と言っています。ヨハネは、本当に神の人です。自分の弟子がイエスに従うために、自分から離れるのを拒みませんでした。教会において、クリスチャンの間において、自分自身に人を引き寄せて、自分の周りに仲間を造ろうとします。けれども、ヨハネは、自分の弟子がイエスに従うことを拒むことをしませんでした。

 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」

 イエスが何を求めているのですか、と言われたのは、ただ、「何の用事があるのか。」という以上の意味を持っていたと思われます。あなたは自分の生涯において、何を求めているのか、これから生きていくときに、どうやって行くつもりなのか、と言うことも意味していたでしょう。それに対する弟子の答えは、「ラビ。今どこにお泊りですか。」というものです。ずいぶんおとぼけだなあと感じてしまいますが、実はそうではありません。この「泊まる」というギリシヤ語は、ヨハネの福音書にたくさん出てきます。例えば、「わたしにとどまりなさい。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。(15:4,5)」の「とどまりなさい。」と同じギリシヤ語なのです。つまり、バプテスマのヨハネの弟子たちは、イエスのそばにいることを願い出ました。自分の人生の送り方として、イエスにとどまることを願ったのです。

 私たちはクリスチャン生活として、きちんと神の言われることを守って生きることが目標だと考えてしまいます。しかし、それは間違いないのです。キリストにとどまり、キリストのそばにいて、キリストと交わりをすることが、クリスチャンとしての目標なのです。パウロは、かつて神の言われることを守り行なって、それが最高の生き方だと思っていました。しかし、「私にとって得であったこのようなものはみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるイエス・キリストを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。(ピリピ3:7,8)」と言っています。そして、このキリストを知るために、一心に走っていると言っているのです。ですから、「どこにお泊りですか。」というのは、実に適切な答えだったのです。

 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」

 イエスは、「来なさい。」と言われています。この「来なさい。」という呼びかけに応答するのが、キリストの弟子になることです。

 そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。

 これは、今の午後4時ごろであります。

 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。

 メシヤというのはヘブル語なので、使徒ヨハネは、読者のためにギリシヤ語に言い換えています。アンデレは、イエスといっしょに泊まったことによって、いくつかの会話が交わされたことでしょう。それで、アンデレはイエスがメシヤであることを知りました。メシヤというのは、「油そそがれた者」という意味です。王が即位するとき、人々は王に油を注ぎました。祭司が任命される時も同じです。つまり、メシヤは神に油注がれた者、神に任命された者という意味です。ユダヤ人は、このメシヤを待ち望んでいました。

 そして、アンデレは、この方に会い、今、自分の兄弟のシモンをイエスに連れて来ようとしています。アンデレが福音書で登場するとき、彼はいつも誰かをイエスに連れて来ています。5千人に食物をお与えになるとき、少年をイエスに連れて来たのはアンデレです。イエスに会いたいと願い出るギリシヤ人をイエスに連れて来ようとしたのはピリポとアンデレです。このように、アンデレは、人をイエスに連れて来る奉仕をしていました。すばらしい奉仕です。彼がキリストに、「来なさい。」と呼びかけられてついて行ったように、彼も人を、「来て見なさい。」と呼びかけています。これが私たちの伝道であるとも言えるでしょう。イエスのところに来てみなよ。イエスはこのような方だよ、というのが私たちの証しであります。

 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」

 ペテロとは、「岩」という意味のギリシヤ語です。イエスは、この人が後の教会の指導者になることを、すでにご存知でした。アンデレがシモンをイエスに連れて来る前に、すでに、イエスはシモンについての知識を持っておられたのです。先ほど、レビ人や祭司がイエスを知らなかった、バプテスマのヨハネがイエスを知らなかったという記事がありましたが、イエスはすべての人を知っておられます。

 ところで、他の福音書でイエスがペテロなどの漁師に呼びかける場面が出てきます。イエスは、「わたしについて来なさい。」と言われて、網をおいてすぐにイエスに従った場面があります。それを見て、私たちは、「自分にはそんなことはできない。ペテロたちはすごい献身的な人たちだったのだ。」と思います。けれども、ヨハネは、実はそうではないことを暴露しています。すでに、イエスはペテロたちを召しておられたのです。ペテロはすでにイエスをラビとして従っていたのですが、漁師もしていました。魚が一匹も釣れなかったときに、イエスの指示で大漁になったあの奇蹟は、実は、ペテロがイエスに従ってからしばらく経ってからのことなのです。こうなると、私たちも彼らに同情できます。イエスさまに「来なさい。」と言われても、なかなか従うことができない自分がいます。でも、イエスはあきらめたりなさらずに、私たちがすべてをささげて従うのを待っておられるのです。

2B 手段 − 知人のさそい 43−51
 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と言われた。

 イエスと弟子たちは、ユダヤ地方からガリラヤに向かっています。そして、ピリポをお見つけになって、「わたしについて来なさい。」と言われました。

 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。

 ベツサイダは、イエスが5千人の給食の奇蹟を行なわれた町です。ピリポもアンデレもペテロも同じ町の出身ですから、お互いに知り合いだったのでしょう。このように、キリストに出会った人が、自分の知っている人の周りに増えて行きます。これも、私たちの証しの姿をあらわしているでしょう。家族の者をイエスに連れて行き、知り合いの人もイエスを知るようになります。

 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

 ピリポもアンデレと同じように、イエスを他の人に紹介しました。モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方です。キリストは、旧約聖書全体の中のテーマになっています。旧約聖書を読むときに、その視点から読むと、とても面白い書物になります。もつれたひもが解けるような感触を持ちます。ユダヤ人のように、キリストを慕い、待ち望む心が与えられます。

 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」

 ナザレは、評判の悪い町だったようです。ナタナエルは、敬虔なユダヤ人で、聖書をよく知っていました。ピリポが、ナザレ出身と言ったので、その人はキリストではないと言っているのです。これに対するピリポの行動は、実に賢いです。

 ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

 来て、そして、見なさい。ナタナエルに言葉でもって反論することもできたでしょう。けれども、難しいことを話さずに、来て、見てみればわかるよ、と言ったのです。そうです、イエスのことを知るには、来て、そして、見ればよいのです。詩篇の記者はこう言いました。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。(34:8)」砂糖のことをいくら一生懸命話しても、その味を知らない人にとっては説明するのがとても大変です。でも、なめて見れば、一発で、砂糖の味がわかります。同じように、イエスについて、神についていろいろな意見を持っている人がいます。そうしたら、「ただ、信じてごらんよ。そうしたら、わかるから。」と言うことができるのです。

 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

 ナタナエルは、単刀直入的な人でした。真理を包み隠さず話す人であったようです。

 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」

 イエスは、ピリポがナタナエルを呼ぶ前に、彼が何をしておられるのかみなご存知でした。イエスはすべての人の心を知っておられるのです。

 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

 バプテスマのヨハネの次に、ナタナエルが証言しています。イエスは神の子であり、キリストであることを証言しました。

 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」

 イエスは、「ナタナエル。こんなことで驚いて、信じるのですか。あなたは、もっとすごいことを見ることになりますよ。」とおっしゃっています。イエスが神の子であることを証明する、もっと大きな不思議や奇蹟を見ることになります。

 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

 神の御使いたちが上り下りする話は、ユダヤ人によく知られていました。それは、イサクの子ヤコブが見た夢であります。創世記28章に出てくる話です。私はこの話が大好きです。エサウから命をねらわれて、急いでイサクの家を出ました。これから一体どうなるのか、エサウは自分を追いかけているのか、いろいろな思いが頭をよぎったことでしょう。そして、石しかないような荒れ地で一夜を過ごしました。神がおられることを感じることが到底できないような状況にいます。

 しかし、ヤコブが夢を見て、そこに天からひとつのはしごが地に向けて立てられていました。そこに、天使たちがそのはしごを上り下りしていました。すると、主ご自身がヤコブのかたわらに立っておられたのです。今読んだイエスのことばと照らし合わせると、ヤコブにお会いになったのはイエスご自身であるようです。そして、主は言われました。「わたしは、この地をあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、東西南北に広がり、すべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。どこにいても、わたしはあなたとともにおり、あなたを守り、わたしが約束したことを必ず成し遂げる。あなたを決して見捨てない。

 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言いました。神など決していないと思われるようなその場所に、神がこんなにもはっきりと現われてくださり、希望と励ましのことばをかけてくださったのです。詩篇の記者は言っています。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(119:71)」苦しみに会っているときこそ、神を親しく知ることができるのです。

 そして、イエスは、「人の子の上に上り下りしているのを見るでしょう。」と言われました。つまり、イエスは、「わたしがこのはしごである。」とおっしゃっているのです。天と地をつなぐのは、わたしである、とおっしゃっているのです。無限の神と、有限の人間の間にはあまりも大きな溝があります。人間はとうてい、神に到達することはできません。けれども、神は人となってくださり、私たちの間に住まわれました。いまやイエスによって、神に大胆に近づくことができるのです。イエスは、その証拠を2章から、カナにおける婚礼において示されます。イエスが、創造主なる神であることを示されます。