ヨハネの福音書10章 「良い羊飼い」
わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
イエスから入るなら、救われ、安らかであり、養われ、いのちを豊かに持ちます。盗人について行くなら、殺され、滅ぼされます。この運命の違いは、羊が羊飼いの声を聞き分け、それについて行くことができるかにかかっています。私たちは、毎日、何らかの声を聞いて生活しています。自分で決めて、自分で生きているという人が多くいますが、自分で決める前に、何らかの声を聞きながら、自分の行動を決めているのです。それは人の声だったり、マスコミの声だったり、自分の心の中の声だったりします。そして、その声の主がだれかによって大きく生活や人生が左右してしまうのです。もしイエスが自分の羊飼いとなっているなら、救われて、心は安らかであり、いのちを豊かに持っています。けれども、他の人を羊飼いとしているなら、他の声を聞いているなら、私たちの前には死と滅びが待っています。箴言には、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。(14:12−13)」と書かれています。
2C 羊飼い 「いのちを捨てます」 11−18
ですから、私たちはイエスの御声を注意深く聞き分けて、イエスに聞き従う必要があるわけですが、どうすれば、そのような能力が備わるのでしょうか。時に私たちは、自分は本当にイエスに聞き従っているか、不安に思うことがあります。また、従いたいのだが、従っていない自分を発見します。どうすれば、聞き従うことができるようになるのでしょうか。イエスが次に、その答えを与えてくださっています。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。
イエスは、ご自身のいのちを捨てるとおっしゃっています。羊のことを心にかけてくださり、本当に心にかけてくださっているので、いのちを捨てるとおっしゃっています。つまり、キリストにある神の愛を深く知れば知るほど、私たちはイエスの御声に聞き従うことができるようになるのです。
次を見てください。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
イエスと父なる神が互いに知っているように、イエスとその羊も互いに知っているとあります。先ほどの、スーパーマーケットの迷子のたとえに戻りますが、なぜ子どもは母親の声を聞き分けることができるのでしょうか。いつも家の中で聞いているからなのでしょうか。違います。家の中でいつも聞いていても、大嫌いな母親であれば、ついて行こうと思いません。この前新聞に、ある母親についての投稿が載っていました。その小学校1年生の息子が自分の5千円を奪い取ったと言って、返してくれと言って来た子がいたそうです。母親は、まさか自分の子が、と思って問いただしてみると、実は嘘だったことがわかりました。続けてよく聞いてみると、なんと隣町からやってきたと言うのです。その子はその町では、こうやってお金をせびることで有名でした。あまりにも有名になったので、遠く隣町までやって来たのです。理由はこうでした。親がおこずかいを全然与えず、日々の食事さえもきちんと与えていない、と言うのです。そこで、この子は、親から遠く離れて、隣町までやって来ました。ですから、子どもが母親の声を聞き分けられるのは、親が子どもをよく世話しているからです。子どもは、親に全面的に依存しなければ、自分の行くべき道も分からないし、生きることもできないと思っているから、声を聞くと、飛びついて従います。私たちも同じです。イエスが良い牧者であり、いのちを捨てるほど心にかけてくださっていると知れば知るほど、この方の声に従おうとします。このイエスを良い牧者として、人格的に、個人的に知っていればそれだけ、いろいろな声の中からイエスの声を聞き分け、イエスについて行くことができるのです。
わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
囲いに属さない他の羊とは、私たちのことです。つまり異邦人です。先ほどまで、イエスは、ご自分を信じるユダヤ人について語っておられました。なぜなら、イエスはイスラエルの失われた羊を見つけるために来られたのであり、イスラエルの救いのために来られたからです。けれども、ユダヤ人がイエスをキリストとして受け入れなかったため、救いが異邦人にも及ぶようになりました。
わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。今度は、イエスはご自分の復活について話しておられます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。
これは、キリストの十字架についてのとても大切な真理です。十字架につけられるイエスは、一見無力に見えますが、実は十字架から逃れようと思えば、いくらでもできたのです。むしろ、この十字架の場面を作り出す方が、イエスにとって多くの労力を費やされたのです。イエスは、捕らえられるときに、弟子たちにこう言われました。「わたしが父にお願いして、7万2千よりも多くの御使いを、わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。(マタイ26:53参照)」ひとりの御使いで、大地震が起こるぐらいですから、7万2千の御使いなら、ユダヤ人指導者など一ころです。でも、イエスはあえて、ご自分のいのちを捨てられました。十字架で死なれるとき、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。(ルカ23:46)」と言われて息を引き取られました。また、ローマ兵士たちが囚人の足を折って、息の根を上げようとしましたが、イエスはすでに死んでおりました。人からいのちを取られたのでなく、ご自分でいのちをお捨てになったのです。
わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。十字架のときには、神の偉大な力が人の目に見えるかたちでは、大きく現われませんでした。太陽が真っ暗になったり、神殿が真二つに裂けたりしましたが、十字架においては、イエスは無力であったと受けとめる人たちもいるでしょう。しかし、イエスはいのちを捨てたときと同じ力を、復活において用いられます。この復活において、イエスが神の御子であることが、誰の目にも分かるようにされたのです。パウロは、「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。(ローマ1:4)」と言いました。ですから、みなさんが思い悩むとき、思い起こしてください。神がほんとうに自分を愛しておられるのかわからない、と思い悩んだときは、十字架を見てください。神は、十字架において、あなたが全宇宙よりも高価である。たとえ地球にあなたしかいなくても、わたしは自分の子を世に遣わして、十字架につける、とおっしゃっているのです。また、自分の信じていることは真理なのだろうか、本当のことなのだろうか、単なる思い過ごしではないか、と思い悩んだら、復活を見てください。復活は、イエスが紛れもなく神の御子であることを、客観的に証明する出来事です。イエスは、ご自分のいのちを捨て、そしてまたそれを得ました。
3B 結果 19−21
このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。ユダヤ人の間では、ずっとイエスについて分裂がありました。彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた者のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」
確かにイエスが人間であれば、このことばは気が変になった人の言葉です。イエスのことばは、単に道徳的であるとか、哲学的であるとか以上のものです。あまりにも過激でした。けれども、イエスがキリストであるかもしれないと信じたユダヤ人たちは、盲人の目をあけられたイエスを見ています。目をあけたそのわざによって、イエスがキリストではないかと考えています。そこで次からは、イエスがキリストである、あるいはいのちを与える羊飼いであるということが、そのわざによって証明されているということを学びます。
2A 証明 「わざを信用しなさい」 22−42
1B 保証 「奪い去ることはできません」 22−30
そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。
宮きよめの祭りは、ちょうどクリスマスと同じ12月25日に行なわれ、ハヌカーとも呼ばれます。これは、他の祭りと違って聖書には記録されていないのですが、外典のマカバイ記に記されています。当時ギリシヤ帝国によって支配されていたユダヤ人は、その王の一人であるアンティオコス・エピファネスによって迫害を受けていました。彼は宗教的な迫害をしました。つまり、神殿に豚をささげさせるなどして、神殿を汚したのです。あるとき、マカバイのマッテヤという人物の息子の一人ユダが立ち上がって、ギリシヤに戦いを挑んだのです。武器はあまりにも貧弱でしたが、神がついており、戦いに勝利することができました。そして、宮をきよめたのです。その時から始まったのが宮きよめの祭りですが、イエスはこれにも出席され、ソロモンの廊を歩いておられました。
それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
ちょうどチンピラが人を脅すために取り囲むようにして、ユダヤ人たちがイエスを取り囲みました。おまえがキリストなら、そうはっきりと言え、と言っています。確かに、イエスははっきりとおっしゃっていませんでした。キリストを信じるごく少数の者にしかおっしゃっていませんでした。
イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。」
そうです、イエスは、最初からずっと、ついさっきも、ご自分が神の子に他ならないことを語られています。けれども、あなたがたは信じない、と言われています。
しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
イエスはふたたび、彼らに羊飼いと羊のたとえを話されています。そして次に、とてつもない大きな約束が書かれています。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
イエスと羊との関係は、とても深いものでした。声を知っているから、羊はいつもイエスのそばにいることができました。そして、イエスは、この関係はあまりにも深く、近しいものなので、彼らに永遠のいのちを与えるができ、だれも、それを奪い取ることはできない、とおっしゃっています。その絆はあまりにも強く、彼らが父の御手の中にあるとさえおっしゃっています。パウロが言ったことをおぼえているでしょうか。ローマ書8章です。彼は言いました。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを切り離すことはできません。(38,39節)」ものすごい約束です。
わたしと父とは一つです。
これほど、イエスが神であることを宣言している箇所はないでしょう。エホバの証人は、働きにおいて一つであると言って、イエスが神でないことを説明しようとしていますが、その場で聞いていたユダヤ人はきちんと理解しています。次にイエスを石打ちにしようとしています。
2B 土台 31−39
1C 聖書 「聖書は破棄されるものではない」 31−36
ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
イエスは再び、ご自分のわざについて言及されています。ご自分のわざは良いわざが、とおっしゃっています。目を開けたりするわざは、だれが見ても良い知らせです。なぜ、この良いことのために、石打ちにされなければならないのか、と聞かれています。
ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」この意見について、イエスは2つのことで反論されます。一つ目は聖書です。イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。
聖書には、裁判官が神と呼ばれている箇所があります。例えば、出エジプト記21や22章に出てきます。そして、イエスが引用された箇所は、詩篇82篇6節です。裁判官は、人の運命を決定する役目が担われているという意味で、神と同じ働きをしています。イエスは、もし神の役割を担っている人間が神と呼ばれているぐらいなら、わたしはなおさらのこと、神の子と呼ばれて当然ではないか、とおっしゃっています。ちなみに、この箇所は、モルモン教の人が好んで使うところです。彼らはエホバの証人と反対に、イエスを神としているのですが、なんでもかんでも神にしてしまいます。人は死んだ後に神になると彼らは信じているので、ここの個所をよく使うのです。
2C わざ 「父のみわざ」 37−39
そして、イエスの2つめの反論は、ご自分のわざです。もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。
イエスのわざを見れば、この方が神のものであることを自ずと知ることができます。「わたしのことばを信じることができなければ、わざを見なさい。」とおっしゃっています。私たちも、人が言っていることについて、本当にそのとおりであるかどうか確かめるためには、その人の行なっていることを見ます。同じように、イエスは、ご自分が神の子であると言っていることにふさわしい事を行なわれていたのです。
そこで、考えなければいけないのは、私たちのうちにイエスのわざが行なわれているかどうか、と言うことです。目が開けられた人は、単にイエスのことばを聞いてイエスを信じたわけではありませんでした。イエスのみわざが自分のうちで行なわれて、イエスを信じました。つまり、実質が伴なっていたのです。聖書は、イエスを信じると言うことは、その実質が伴なっていることを教えています。例えば、使徒ヨハネは、手紙の中でそのことを繰り返しています。「もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。(Tヨハネ2:29)」「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。(3:6)」「愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。(4:7)」ですから、私たちは何を信じているのか、その行ないによって分かります。イエスを本当に神の子として信じているなら、神の子としてのみわざが私たちのうちに起こっているのです。
そこで、彼らはまたイエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。
イエスが、「父がわたしにおられ、わたしが父にいる」と主張されたので、またイエスを殺そうとしました。
3B 結果 40−42
そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。
イエスはエルサレムから離れて、ヨルダン川のほうへ向かわれました。徒歩でだいたい2日間かかるような場所です。
多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。
彼らがイエスを信じたのも、イエスにはわざが伴なっていたからです。偉大な預言者バプテスマのヨハネと比べています。私たちは、どうでしょうか。イエスを神のことばを話す預言者とだけで受け入れているでしょうか。その人は、イエスの言われる事は信じているが、その言葉を自分で行なおうとします。それとも、言葉を話すだけでなく、その言葉を私たちのうちで実現してくださる神の子として信じているでしょうか。その人は、生まれつきの盲人のように、イエスのみことばが私たちのうちで生きて働きます。イエスは、神の子なので、ただことばを話されるだけでなく、あなたのうちに住む、とおっしゃられているのです。選択は、みなさんに委ねられています。日々、自分の心を開いて、「イエスさま、あなたのなさりたいことを、私のうちで何でも行なってください。」と祈ることができます。お祈りしましょう。
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