ヨハネの福音書13章 「残るところなく示された愛」


アウトライン

1A 模範 1−17
   1B 動機 ― 時の到来 1
   2B 様態 ― イエスの率先 2−11
   3B 目的 ― 模倣 12−17
2A 裏切り 18−31
   1B 計画 ― 預言の成就 18−20
   2B 内容 ― 「知らない」 21−30
3A 戒め 31−38
   1B 理由 ― イエスとの離別 31−35
   2B 土台 ― イエスの恵み 36−38

本文

 ヨハネの福音書13章をお開きください。ここでのテーマは、「残るところなく示された愛」です。さっそく本文を読みましょう。

1A 模範 1−17
1B 動機 ― 時の到来 1
 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

 さて、時は過越の祭りの前に入ります。有名な最後の晩餐の場面です。イエスは、ご自分が十字架につけられて、復活し、昇天する時がもうやって来たことを知りました。もちろん、イエスはもともとこの時をご存知でしたが、ここでの「知る」とは、納得するとか、事実を受け入れる、という意味になるでしょう。イエスは、ご自分が十字架につけられる事実を受け止め、すべてを父のみこころにゆだねました。そして、今イエスに見えるのは、父のところに行くことです。ヘブル書12章2節には、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍」ばれた、とあります。父のみもとに行くという喜びのゆえに、十字架のはずかしめを耐え忍ぶ用意ができておられたのです。


 そして、「世にいる自分のもの」とは、イエスの御名を信じた人々です。羊飼いの声を知っている羊のことであり、イエスのものとなった人々であります。イエスは彼らを愛されました。なぜなら、彼らがイエスを信じ、ご自分のことを受け入れたからです。ガラテヤ書に、「キリスト・イエスにあっては、…愛によって働く信仰だけが大事なのです。(5:6)」とあります。信じると言うのは、信条を信じたり、信仰告白することではありません。そうではなく、神の愛を知って、人格的に、個人的にイエスを信頼することであります。その人は、イエスがご自分の愛を注ぐ事のできる器となります。ヨハネの13章から17章までには、「愛」という言葉が、他のヨハネの個所よりも多く出てきます。2章から12章までには、圧倒的に「信じる」という言葉が多く出てきましたが、ここでは「愛」という言葉が多いのです。これから、イエスがいかに、彼らを、そして私たちを愛してくださっているのか、その余すところがない愛の表現を読んでいきます。もう12時間ほどしたら十字架につけられるイエスは、もうほとんど時間がないので、弟子たちに、ご自分の愛を残すところなく伝えられました。

2B 様態 ― イエスの率先 2−11
 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

 悪魔がイスカリオテのユダを使って、イエスをユダヤ人指導者たちに引き渡そうとしています。このような恐ろしい出来事が起こることをイエスはご存知でしたが、そのことで心を騒がせたり、恐れたりはされませんでした。なぜなら、悪魔をふくむ全ての被造物を、父がご自分の手に渡してくださったことを知ったからです。ご自分には、天にも地にも、いっさいの権威が与えられている事を知られました。
そして、イエスは、ご自分の愛を残るところなく示される行動を起こされます。それは、奴隷の仕事の一つである人の足を洗うことでした。

 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。


 当時のユダヤ人社会では、人が家に入るときに、道を歩いて汚くなった足を奴隷がきれいにするという習慣がありました。それをイエスが弟子たちに行なわれています。イエスは仕えることによって、ご自分の愛を示されたのです。パウロが、ふたたびガラテヤ人に、「あなたがたは、自由が与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。(5:13)」と言ったところがあります。仕えることによって愛が伝わります。命令を出したり、支配したりすることによっては、愛は伝わりません。そして、イエスが、何一つ弟子たちの手を借りていないことに注意してください。たらいに水を入れるのも、足を洗うのも、手ぬぐいでふくのも、みなイエスが行なわれました。


 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

 ペテロは驚きました。自分がイエスの足を洗わなければいけないのに、イエスが自分の足を洗っています。バプテスマのヨハネが、「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のろころにおいでになるのですか。(マタイ3:14)」と言ったことと同じことを言っています。

 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
イエスは、そんなに慌てないで。ちょっと待っていなさい。今に分かるから、とおっしゃっています。ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」

 
せっかちなペテロですね。彼は今わからないと気がすまない
性質(たち)でした。

 イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」


 「わたしが洗わなければ」の「わたしが」という言葉が大切です。イエスが行なわなければ、ペテロはイエスと何の関係も持ちません。すると、ペテロは急に不安になりました。シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」関係を失いたくないから、手と言わずに全部洗ってくださいよ、と言っています。イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」ローマ社会では、お風呂から家までが土でしたので、歩いているうちに地のちりを拾ってしまいます。そこで足をまた洗う必要が出て来るのですが、全身を洗う必要はありません。


 このペテロとイエスの会話は、神と私たちとの関係を知るのにとても大切な真理を伝えています。第一に、神の一方的な愛と恵みを私たちが受け入れなければならない、ということです。ペテロは、イエスに自分の汚い足を洗ってもらうなんて、あまりにも畏れ多いことだと思いました。けれども、このあまりにも畏れ多いことを自分がしっかり受け止めることによって、神がいかに自分を愛してくださっているのかを知ることができます。天地を創造しすべての権威を持っている方が、私の汚れを洗ってくださるのかということに気づいたとき、私たちの心は一変するのです。ペテロは、自分で足を洗わなければいけないと感じていたことでしょう。けれども、もしそこでお返しをしてしまったら、神の一方的な愛は伝わらなくなり、その人の心は変わりません。自分の行ないを付け加えることによって、すべて台無しになってしまいます。そこでイエスは、「わたしが行なわなければ、あなたとは何の関係もない。」と言われたのです。私たちも同じです。クリスチャンから愛を受けるときに、それを全身でしっかりと受け止めなければいけません。そして、神はこのようにすばらしい方なのかと思って、神への憧憬と感謝に満たされる必要があります。

 そして第二に、この愛の関係をより深く知るには、足を洗っていただく必要があることです。つまり、日々、自分の歩みを主によって清められる必要があります。ペテロは、全身洗ってほしいと願い出ました。それは、自分がイエスと関係がなくなるのを恐れたからですね。私たちも、何か罪を犯したり、失敗したり、神の基準を自分が満たしていないと感じると、自分は神から離れてしまっていると考えてしまいます。けれども、イエスは、「全身はきよいのです。」と言われました。神と私たちの関係は、私たちの行ないで変わるようなものではないのです。イエスがおひとりで弟子たちの足を洗ったように、私たちと神との関係は、キリストに行ないに基づいています。けれども、罪を犯したり、失敗をしたりすると、主との交わりを楽しめなくなります。そこで、主は恵みをもってその罪を赦してくださり、もう一度チャンスを与えてくださるのですが、それが足を洗うことなのです。

 ところが、この水浴をしていない人物がひとりいました。イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。

 ユダが犯した罪は、もちろんイエスを裏切るところに現われましたが、もっと深い罪は、イエスを受け入れていなかったことです。イエスを信じていなかったことです。これがもっとも大きな罪であり、唯一赦されない罪であります。ユダはまだ汚れていました。


3B 目的 ― 模倣 12−17
 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。デモンストレーションをしたあとに、今度は教えの時間に入ります。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

 
イエスは、「互いに仕え合いなさい。」ということを命令されています。足を実際に洗うことは、使徒行伝で実践されていないし、書簡にも説明されていないので、これは「仕え合いなさい」と言う意味であります。ここから、「互いに」という言いまわしが登場します。後で「互いに愛し合いなさい。」というイエスのことばも登場するし、書簡には、数多く、互いに行なうべき事が記されています。なぜ、「互いに」なのかは、ヨハネ17章にその理由が記されています。イエスは言われました。「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。(21)一つとなるために互いに仕え合うのです。イエスは、ご自分が父ともっておられる一体性を、弟子たちにも分かち合おうとしておられます。そこで必要なのが「互いに」という関係です。


 けれども、これは義理人情的な「お返しをする」関係ではありません。次を見てください。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

 わたしがあなたがたにしたとおりに、とあるように、イエスが基準となっています。自分がイエスから受けたことを他の人に示すのであって、他の人がしたことに自分が反応するのではありません。純粋にイエスから受けた恵みによって、仕え合い、愛し合うのです。ですから、これは自分の得にならないような人にも向けられる愛であるし、自分が知らない人にも向けられる愛であります。このようにして、イエスは模範を残されました。これからすぐ父のみもとに行かれるイエスは、弟子たちがどこに行けばよいのかわからず、路頭に迷うようなことがないように、模範を示されたのです。口から聞いたことを行なうのは並大抵なことではありませんが、具体的に行ないによって示してくれると、私たちは真似するだけなので楽です。同じように、イエスは、弟子たちがご自分の足跡に従うことができるように、模範を残されました。


 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。

 
互いに仕え合うことには、従順が要求されます。仕えるとき、人間的には馬鹿馬鹿しいと感じるときあります。私たちが仕えているのを良いことに、人は私たちを利用して、ドアに置いてあるマットのように扱うことがあるからです。だから、仕えるなんて、愛するなんて、無益なことではないかと感じることもあるのです。けれども、イエスはここで、「あなたは、自分がわたしよりも知っていると思ってはならない。」おっしゃられているのです。しもべは、主人よりもよく知っているわけではないのです。ですから、ただイエスの命令に従い、理解できないけれどもそれを行ないなさい、と言うことを、イエスは話されています。そして、それを行なえば、必ず祝福があります。理解できないけれども、祝福はあるのです。

2A 裏切り 18−31
 次から、イエスはユダについて語り始められます。ユダは、イエスを信じていないので、愛の交わりの中に入ることが許されない者です。

1B 計画 ― 預言の成就 18−20
 わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。」と書いてあることは成就するのです。

 
これは詩篇41篇9節からの引用ですが、親しい友が自分を裏切ったことを表現しています。食事をいっしょにすることは、とくに当時の社会では、互いに一つになることでした。親密な交わりを意味しています。特にここでは、自分のパンを食べている、とありますから、本当に親しい者なのです。けれども、その彼がかかとを上げる、つまり裏切るのです。

 わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。


 イエスは、預言が必ず成就することを話されています。そして、この預言のことばによって、イエスが神の子であることをまた深く知りなさい、ということをここで言われています。ユダの裏切りでさえ、イエスは完全に掌握されていました。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。


 イエスは、弟子たちが福音宣教に出たあとのことを話されていますが、弟子たちの語る福音を受け入れる者は、イエスご自身を受け入れ、イエスを受け入れるのなら、父なる神を受け入れます。これはむろん、弟子たちに語られた言葉ですが、もしかしたらユダに語られた最後のメッセージだったのかもしれません。今、受け入れなさい。さもないと、この交わりからは締め出されてしまう、と警告されていたのかもしれません。


2B 内容 ― 「知らない」 21−30
 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」

 イエスが、霊の激動を感じておられます。イエスは以前、ラザロの死を見て憤りを感じられましたし、ご自分の時を思って心が騒ぎました。ここでは、ユダの行き先のことを考え、霊の激動を感じておられます。ユダがこれから、この愛の交わりが外されます。そして、イエスを裏切り、自殺して、死後に滅ぶことを知って、イエスは激しく心が揺らぎました。

 弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。

 不思議なことに、弟子たちは、裏切るのがユダであることが全然わかっていません。逆に、もしかしたら自分ではないかと思って、当惑しています。

 弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。

 「イエスが愛しておられた者」とは、むろんヨハネのことです。そして、「右側で席に着いていた。」とは、直訳で、「御胸のそばでからだを横にしていた。」となります。机に座って食べたのではなく、横たわって食べました。ヨハネは、イエスの胸がすぐそばにあるところで横たわっていました。けれども、ヨハネは、自分はイエスのふところにいたことを暗に強調しています。イエスが、「父のふところにおられるひとり子の神(1:18)」であるように、ヨハネは自分がイエスのふところにいる弟子だと言いたいのです。自分がそこまで深く愛されていることを強調したかったし、それだけの強い確信があったのでしょう。私たちはどうでしょうか。イエスのふところにいると言えるほど、その愛を受け取っているでしょうか。


 そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」その弟子は、イエスの右側で席についたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリテ・シモンの子ユダにお与えになった。

 パン切れを浸すのは、過越の祭りの食事で行なう、一つの手順であります。カロセトと呼ばれる、りんごやナッツの入ったあまいものに、マッツァを浸します。それを相手に渡して食べさせるのですが、これは相手への友情を示すものです。イエスは、ユダに、「わたしは、自分の友としてあなたを愛してきた。」と言うことを示したに他なりません。

 彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。ユダは、悪魔にとりつかれました。イエスの愛を拒絶する選択をしたからです。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」

 ユダは、この時点で、すでに祭司長たちのところに行って、イエスを引き渡す取り決めをしていました。イエスはそのことを今、ここで言及されています。「ほら、祭司長たちに引き渡すのだろう。今、出て行って、それを行ないなさい。」と言われているのです。


 再びまた、驚くべきことが書かれています。席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え。」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。

 やはり、弟子たちはユダが張本人であることに気づいていないのです。つまり、言い換えますと、ユダは、他の弟子たちに対しては、完全にカモフラージュしていたと言うことになります。外見では、主に完全に従っているように見せる事ができていたのです。

 ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。


 イエスのことばに、彼はすぐに従いました。ここにおいても、イエスが主導権を握っておられます。

 すでに夜であった。

 
過越の祭りの食事は、日没から真夜中近くまで続きます。ユダは、前半部分だけ出席して、いなくなってしまいました。
こうしてユダは、イエスによって交わりから締め出されました。これからイエスが、ご自分のものたちにさらに深く、余すところなくご自分の愛を示されるのですが、その前に、ご自分の者ではないユダを追い出さなければいけませんでした。主の兄弟であるユダが、「あなたがたの愛餐のしみ(12)」と言った、そのしみがイスカリオテのユダであります。弟子たちが気づくことができなかったというのは不思議です。しかし、そこに実は解答があります。ユダは、自分のことを決して、他の弟子に対して、またイエスに対して出さなかった人物なのです。他の弟子たちは、失敗する姿を見せていましたが、ユダは違いました。彼は、自分を取り繕うために、決して主に対して心を開き、信頼することを学びませんでした。それが命取りとなり、イエスから心が離れ、裏切り行為にまで発展したのです。これは、私たちへの警告でもあります。イエスとの交わり、また互いの交わりをするには、自分の心を開く必要があります。そのありのままの姿を主に見ていただき、そして必要なときは他の兄弟姉妹に見てもらい、互いに仕える機会を作る必要があるのです。互いにさばくことなく、むしろ重荷を負い合って、愛し合います。そのときに初めて、イエスが私たちの汚い足を洗ってくださり、きよめられて、主にある深い交わりを持つことが許されます。けれども、ユダは、イエスに洗っていただくように、そのからだを差し出すことは決してありませんでした。

3A 戒め 31−38
1B 理由 ― イエスとの離別 31−35
 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。ユダがいなくなった今、イエスは、さらに深いところを話し始められます。神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。

 イエスはまず、先ほどの栄光をお受けになった事をお話になっています。それは、具体的には、十字架につけられ、3日目によみがえり、そして天に上げられることであります。

 子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。」とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。


 イエスは、ユダヤ人たちに対して、このことをお話しになっていました。イエスはそれを、彼らは罪の中で死に、決して天の御国に入ることはできないということとして話しておられましたが、彼らは、イエスが遠い所に行ってギリシヤ人に教えたり、さもなければ自殺をするのかとしか思っていませんでした。そのとき、弟子たちはおそらく、「私たちは、イエスといっしょにいる。」と思って、安心していたことでしょう。けれども違いました。イエスは、彼らからも去って行かれます。そこで、イエスは新しい戒めを与えられます。


 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 イエスが愛されたというのが基準です。弟子たちは、イエスがどのように自分たちを愛してくださったのかを知っていました。イエスは愛を語ったのではなく、愛をお見せになりました。ご自分が模範となられて、それを実践されていました。したがって、弟子たちは、イエスが去って行っても、このイエスにならって前に進んで行くことができるわけです。どのようにして生きれば良いか分からないのではなく、模範にしたがって生きていくことができます。それは、イエスにならって人を愛して生きることです。

 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

 弟子であることの特徴は愛です。互いの間に愛があることが、弟子であることの証拠です。イエスはこれから、この愛の内容を、14章から17章において膨らませて行きます。その前に、弟子たちの前で模範としてお見せしていました。ヨハネは、手紙の中で、愛とは真実と行ないであって、口先のものではないと言っていますが、そのことをイエスは行なわれたのです。


2B 土台 ― イエスの恵み 36−38
 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」

 ペテロは、イエスの新しい戒めは耳に入っていないようです。イエスが行ってしまうと聞いたことがあまりにもショックで、そのことを質問しています。

 イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」


 そうですね。イエスは天に昇られますが、ペテロはイエスが再び来られてから、あるいは、自分の肉体が死を経験するときに、イエスに会うことができます。


 しかし、ペテロはふたたびせっかちになっています。ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」

 後はいやだ。今ついて行かなければ嫌だ、と言っているわけです。しかし、イエスはペテロに真実を告げられます。

 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 
いのちを捨てるどころか、3度知らないと言います。ところがここで、話しが終わりではないのです。14章1節には、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住まいがたくさんあります。」と続くのです。ペテロの一番大きな問題は、イエスご自身が指摘されています。21章で、「あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。(18)」とイエスが言われました。自分のしたいことをしていたのがペテロの問題でした。そこには本当の献身がありません。自分ではなく、主キリストが私を導いてくださる必要があるのです。ペテロは最後に、実際に自分のいのちを捨てます。それは、自分ではなくキリストだという確信があったからです。14章以降、イエスは、ご自分の行ないばかりを語っておられます。ペテロは自分の行ないに頼ろうとした反面、イエスはご自分が行なっている事を強調されました。


 ですから、この章において強調されているのは、イエスが弟子たちのためにしてくださったことです。それを受け入れないのがユダであり、この交わりから締め出されました。ですから、大事なのは、イエスの愛を残るところなく受け取ることです。申し訳なく思ってお返ししようとせず、心を開いて、いっぱいにこの愛を受け入れてください。そして、初めて、「互いに愛し合いなさい。」という命令を行なうことができます。神の一方的な恵みを知っている者だけが、行なうことのできる命令です。お祈りしましょう。


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