ヨハネによる福音書13章130節 「残るところなく示される愛」

時は、過越の祭りの前夜である。ユダヤ人は、かつてイスラエルがエジプトを出る時、急いで、ほふった子羊を食べたように過越の夕食を取っていた。そこからオリーブ山に場所を移され、そこでイエスを裏切ったイスカリオテのユダとイエスを捕まえる人々がやって来た。そのわずかな時間に、イエスは弟子たちに余す所なくご自分の愛を示された。13章から17章までがその場面の箇所である。

1節: ご自分のものを愛するイエス
イエスは、ご自分が十字架につけられ、復活した後に、天に昇られることを知っておられた。そのため、弟子たちと共にいる時間が残りわずかであることを知って、ご自分が彼らに抱いておられる愛を、残るところなく示された。したがって、13章から17章に出てくるイエスの言葉は、イエスを信じる者たちにとっては、とてつもなく深く、親密な愛を感じることができる。

「世にいる自分のもの」: 自分を捨てて、イエスを自分の主として受け入れ信じた人に対して、イエスは完全な守りと平安を与えてくださる。その愛はどんなことがあっても断ち切れることはない、堅い結びつきである。

2−5節: 洗足
当時、砂ぼこりの多いイスラエルの地で、人々はサンダルを履いていたので足が汚くなった。家に入る時に足を洗うのは、僕の役割であった。それをイエスが行なわれた。

「万物をご自分の手に渡されたこと(3)」これまでは世界を悪魔が支配していた。アダムが罪を犯したため、人に与えられていた支配権が悪魔に移っていたのだ。けれども、イエスが十字架につけられ、その血の代価によって世界を神のものとする時、万物はイエスの支配下に入る。イエスは、再びこの世界に戻って来られるとき、その所有権を行使される。

6−11節: 全身が清い弟子
ペテロは主であるイエス様に足を洗ってもらうことなどできないと断ったが、イエスが「あなたはわたしと何の関係もありません。(8節)」と言われたので、全身洗ってくださいとお願いした。けれどもイエスは、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。(10節)」と言われた。 → イエスを信じた者たちは、一部の罪ではなく、すべての罪が洗い清められる。それは、キリストが流された血によって、またご聖霊によって与えられる。

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1:7
聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:5

したがって、信者たちは日々、この世の中で生きている時に汚れてしまったものだけを洗っていただくだけでよい。しかしそうでない者は、どんなに努力しても全身が汚れているので天に入ることは決してできない。

13−17節: 模範を残されたイエス
イエスが弟子たちに示された愛の一つ目は、「互いに足を洗うべきです(14節)」ということである。言い換えれば「互いに仕えなさい」ということだ。自分の必要を満たすのではなく、相手の必要を満たすために自分の力と知恵を用いることである。弟子たちは後に教会という共同体の中に生きるが、教会は、主にあって互いに仕える所である。

18−30節: イエスを裏切るイスカリオテのユダ
イエスと弟子たちとの親密な食事の席に、イエスに属していない者が一人いた。イスカリオテのユダである。イエスは、そのことを初めからご存知であったのに、最後の最後まで彼と時間を共にされた。それでイエスは最後に、「わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。(19節)」と言われて、ユダに信仰を持つ機会を与えられたのだ。 → 神は、忍耐深く私たちが悔い改めて、イエスを信じることを待っておられる。

「イエスが愛しておられた者(23節)」: ヨハネ本人のこと。彼は自分がイエスから愛されているという自信を持っていた。

「右側で席に着いていた(23節)」: 直訳は「御胸のそばで、(食事のために)からだを横にしていた。」である。当時は、西洋式のテーブルではなく、背の低い東洋式の膳であった。人々は、体を横たわらせ、ゆったりとした格好で食事を取った。そしてヨハネは、「御胸のそばで」と強調して、イエスの胸の鼓動を聞くことのできるほど、近くにいたことを強調している。イエスとの親密な関係を誇りに思っているのだ。

「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。(27節)」: サタンがイスカリオテのユダを通して、イエスを殺すための準備をしているが、実はすべてイエスが彼の行動を掌握されていた。悪魔はイエスを滅ぼそうとしているが、実はイエスが父からの全権でそれをすべて神の栄光のために用いておられたのだ。 

あなたは、11人の弟子の仲間にいますか?それとも、ユダと同じですか?