ヨハネによる福音書1章6-13節 「その名を信じた人々」

アウトライン

A 光の証し 6−8
A 知らない人、受け入れない人 9−11
A 御名を信じる人々 12−13

本文

 ヨハネによる福音書1章を開いてください、私たちは前回1節から5節まで読みました。今日は、6節から13節までを読んでみたいと思います。 

私たちは前回、ヨハネがなぜこの福音書を書いたのか、その理由について調べました。この方が神の子であり、キリストであることを読者が信じるため、そしてその名を信じて永遠の命を得るためである、ということです。

そしてロゴスについて見ました。ロゴスというギリシヤ語には、すべて形あるものの背後にはその形を造る考えがある、ということをギリシヤ哲学者は考えていました。そこで、すべての物事の前には、それを造られた方がいる、とヨハネは解釈します。

それで、はじめにことばがありました。そしてことばは神であり、すべてのものはことばによって造られました。またことばは命であり、人の光でもありました。今日はその続きです。

A 光の証し 6−8
1:6 神から遣わされたヨハネという人が現われた。1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

 ここの「ヨハネ」は、この福音書を書いたヨハネではありません。福音書を書いたヨハネは、イエス様の12弟子の中の一人で、後に使徒となった人です。ここのヨハネは、他の福音書で「バプテスマのヨハネ」あるいは「洗礼者のヨハネ」と呼ばれている人です。

  旧約聖書と新約聖書の違いをご存知でしょうか?私は初め、「旧約聖書は旧教のカトリックが、新約聖書は新教のプロテスタントが持っているものなのか?」などと考えていました。そうではありません、旧約というのは「古い契約」という意味で、新約というのは「新しい契約」という意味です。後で出てきますが、古い契約はモーセという預言者を通して与えられました。

 旧約聖書と新約聖書の違いを簡単に言うと、こうなります。「旧約は、『キリストが来るよー。』と予告している書物であり、新約は、『キリストは来たよー。』と告知している書物である。」キリストがこれから来るか、キリストがもう来たかの違いだけであり、同じ「キリスト」を証言、証ししている書物です。

 旧約聖書は、預言者によって語られました。「預言者」と言っても、必ずしも将来のことを予言するだけではありません。「預金」の「預かる」の漢字を書いて、「神の言葉を預かっている人々」という意味です。そしてバプテスマのヨハネは、この旧約の預言者の最後の人であるのです。

 ところで、私たちが神を知りたいと思う時に、自然を見ると良いです。自然の中に、宇宙の中に、創造主の偉大さと賢さ、力、永遠を見ることができます。けれども、もし自然だけなら、その神は漠然としており、深い関わりを持つことができません。そこで神は、預言者を通して、その言葉を通してご自分を現してくださいました。そのことによって、イスラエルの民、民族は、自分たちの生活のこと細かいことにまで、神がどのように関わってくださっているかを知ることができたのです。

そして数多くの預言者が、長い期間かけて、だいたい千年ぐらいに渡って出てきました。最後に、マラキという預言者が出てきました。彼を最後に400年間、何も預言が与えられていなかったのです。そして紀元30年そこそこの時に、「ヨハネ」という預言者が現れました。そこで、イスラエルの人々、ユダヤ人は、「もしかしたらこの方がキリストではないか。」と期待したのです。けれどもヨハネはきっぱりと否定します。「私なんか、この方のサンダルの紐を解く値打ちもない」と言いました。そして実際にイエスが来られて、旧約の時代は終わり新約に入ります。

ところで、世界にいろいろな宗教がありますが、その創始者について前もって予告されていた人はいるでしょうか?仏教の創始者はもちろん仏陀あるいは釈迦ですね。そしてイスラム教はムハンマドあるいはモハメットです。彼らは、その誕生や行なったこと、話したことが後になって経典の中にまとめられ、そして神からの使者として認められるに至りましたが、イエスは違います。この方は、千年以上前から、さまざまな預言者を通して、その到来が告げられていたのです。

その誕生がだいたい紀元0年ぐらいであること、生まれる町がベツレヘムということであること、ガリラヤというイスラエル北部にある地方で活躍されること、病人を直し、囚われている人を解放すること、そして最後に、むちで打たれ、木につけられて殺されること。その時、下で人々が彼の着ているものをくじ引きして分け合うこと。その日、昼なのに空が真っ暗になること、裕福な人の墓に葬られること、そして生き返ること。・・・もっともっとありますが、これらのものが前もって、千年以上前から予告されていたのです。

私はこれだけでも、キリスト教を考慮するに値すると、大学生の時思いました。「嘘は信じたくない。けれども、こんなにもたくさんの神にしかできない証拠があって、なぜ盲目に拒みつづける必要があろうか。」と思ったのです。皆さんはいかがでしょうか。

A 知らない人、受け入れない人 9−11
 そこでバプテスマのヨハネは、光を証しして着ました。まことの光が来ます。

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

 ここに、二種類の人たちが出てきます。10節にある「世」です。11節は「ご自分の民」です。そして、どちらもイエス・キリストを信じていませんが、10節の「世」は「知らなかった」、そして11節は「受け入れなかった」とあります。この人たちはいったい誰なんでしょうか 

 「世」は私たち異邦人のことです。ユダヤ人以外の人たちのことです。キリスト、メシヤのことについて知識を持っていない、聖書とはかけ離れたところにいる人々です。そして「ご自分の民」とは、イスラエルの人々、ユダヤ人です。神は初めに、イスラエルを選ばれて、イスラエルにご自分の言葉を与えられて、ご自分の所有の民、民族にされました。だから、ユダヤ人はキリストについての知識はあるのに信じなかった、ということで「受け入れなかった」と書いてあるのです。

 まず10節の「世」について見てみましょう。私たち日本人には一番関係のある箇所です。「この方は元から世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった

 私たちは前回学びましたね、イエス様は永遠の昔から存在しておられました。そして、イエス様が創造主であられ、すべてのものを造られたことも話しました。だから、「空の鳥を見なさい。誰も養っていないのに、このように地に落ちないで飛んでいるではないか。」とおっしゃった時、「この空気力学はわたしが造ったのだよ。あの羽はわたしが考え出したものなのだよ。」と言われていたのです。

 けれども、このように、自分がイエス様によって造られたと知っている人はどれだけいるでしょうか?自分は誰によって造られたのでしょうか?お母さんでしょうか?いいえ、お母さんはお腹にいる時から体調管理などをして赤ちゃんの世話をすることはできますが、お父さんの精子と自分の卵子をつなげること、そして受精した卵を育てることは自分で行なっていません。ではなぜ、生命が出来るのでしょうか?神です、創造主です。そしてこの神がイエス様であるという事実です。

 旧約聖書でダニエル書というところがあります。そこに、当時、世界帝国であったバビロンの最後の王様、ベルシャツァルの話が出てきます。彼は、エルサレムにあった神殿にあった器を使って、ぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しました。そこで宴会を開いて、馬鹿騒ぎをしていたのです。その時、突然、壁に人の手が現れて、何かを書き出しました。彼は怖くなって、脚もがたがたになりましたが、ダニエルというユダヤ人の役人を連れてきます。

 そしてダニエルは、ベルシャツァルにこう言います。「それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。(5:23」自分の口で、「イスラエルの神なんかいない。ヤハウェなんかいない。この木や石や、金や銀でつかった神々が偉大なのだ。」と言った、その口がまさに神によって造られ、「その神々が偉大なのだ」と発しているその息は神によって造られているのです。

 この後、彼はすぐに殺されました。彼らが宴会でドンちゃん騒ぎしている間に、メディヤという国とペルシヤという国が連合して、この町を攻めたからです。

 私たちの生活も同じではないでしょうか?「私の生活は私のもの。私が決めて、私がやりたいようにしていけばよい。」本当でしょうか?そう言って、呼吸をして、音を発生させているのを、自分が決めて、自分で行なっているのでしょうか?心臓はどうですか?これが数秒でも止まれば、脳に血液が回らなくなり、脳に障害を与え、話すことも聞くこともできなくなるかもしれないのです。

 だからこの神を認める時に、私たちは「自分で生きているのではなく、実は生かされているのだ。」と気づきます。自分独りだけでは生きることができない。自分では支配することも、管理することもできない領域がある。だからこの方を認めよう、ということになります。そうすれば、自分でしなければいけないことはしていきますが、すべてのことを、自分を創った神に相談しながら、神から知恵をいただきながら、また力をいただきながら生きていくことができるのです。自分で造ったのですから、神はあなたを愛しておられます。その愛を感じながら生きていくことができるのです。

 けれども、「自分で生きていくのだ」と神を退ける生活は、むなしいです。暗くなります。「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。(エペソ4:18-19」最近、マイケル・ジャクソンが死にましたが、私が中学生の時、あのスリラーが流行りました。すべての栄誉、富、名声を得たかのように見える彼は、結局、薬物依存によって死んでしまったのです。彼は、自分の人生が自分を造った神によることを認めることができなかったので、自分で何とかしてその空しさを埋めようとしてしまったのです。

 そして次に行きましょう。「ご自分の民」と呼ばれているユダヤ人が何と、自分たちのために来られたメシヤを拒んでしまったのです。イエス様が十字架につけられたのは、ユダヤ人の宗教指導者たちがこの方をキリストとして受け入れなかったからです。

 これは本当に信じられないことです。私たちは、もし仏教だったら、僧侶の人が一番早く悟りを得て、それから熱心な仏教徒が得ると思いますよね。キリスト教だったら牧師が一番神に近いところにいて、一般の人は遠くにいると思いますね。ところが、そうではないのです!一番、聖書のことを知っているはずの人たち、一番早くイエスを自分たちのメシヤとして受け入れるはずの人たちが、最も激しくイエス様に反対したのです。

 みなさん、アメリカ人がみなクリスチャンだと思わないでください。そして、日本人だから、聖書が分からないから自分はクリスチャンになれないと思わないでください。知識や文化、自分のこれまでの生活、そういったものがクリスチャンになれるかどうかを決めるのではありません。

A 御名を信じる人々 12−13
 そこで次、今度はイエス様を信じる人たちのことです。

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 12節は、すばらしい約束が書かれています。「神の子どもとされる特権」です。パウロは、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。(ローマ8:15」アバというのは、「お父さん」とか「パパ」という意味です。私がイスラエル旅行をしているとき、ちょうどイスラエルも夏休みだったので、家族旅行をしている人々をたくさん見ましたが、子供たちがお父さんを呼ぶ時に「アバ」という言葉が何度も出てきていました。

 誰がここでは「アバ」でしょうか?天と地を創造した神ご自身です。この宇宙を造られた神、あまりにも大きく、偉大で、自分からは隔絶し、到底近くに行くことはできないと考えられる対象、この神を「パパ」と呼ぶことが出来るほど、親密になれるという約束です。

 そして13節は、私たちがイエスを信じるとはいったいどういうことかを、否定によって言い表している箇所です。つまり、「イエスを信じているわけではない、イエスを信じているのではない」要素が書かれています。一つ目は「血」です。二つ目は「肉の欲求」です。そして三つ目が「人の意欲」です。

 一つ目の「」ですが、クリスチャンになる、イエス様を信じるということが「血縁関係」によるものではない、ということです。自分の父親、母親がクリスチャンであれば、自分もクリスチャンになることができるでしょうか?いいえ、違います。自分の弟が、自分の姉がクリスチャンであれば、自分も神の国、天国に入れるのでしょうか?いいえ、違います。娘や息子がクリスチャンでも、両親はクリスチャンになるわけではありません。

 血というのは、本当に濃いです。私は自分の実家に戻ると、自分がいかに父親の性格や、話し方がそっくりかを嫌になるぐらい気づきます。妻も同じです。彼女の弟を見ると、そのしぐさがいつも見る妻のしぐさにそっくりなのです。

 そこで私たちは、「同じ血を受け継いでいるものは同じ運命共同体にある」と思ってしまうのです。今の自分の性格は親から引き継いだ者だから変えることはできない、と言います。そして父や母が行なっていた悪、罪も、両親が行なっていたからそれを捨てることはできない、と言います。ある人は、「自分はパチンコを止められない。自分が母親のお腹の中にいた時から母親はパチンコ台の前で座っていた。」と言いました。はたして、そうでしょうか?

 イスラエル人たちの諺に、「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。(エゼキエル18:2」というのがありました。つまり、父が犯した罪は、子が引き継ぐということです。これに対して神がエゼキエルという預言者を通して、反論されました。「見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(4節)」父がどんなに悪人であっても、子が善を行なっていれば、その罪は子には絶対に帰せられることはない、というのです。

 続けて、主なる神はこう言われます。「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行なった正しいことのために、彼は生きる。わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。・・神である主の御告げ。・・彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(20-23節)」すばらしいですね。父の罪過だけでなく、自分自身の罪過も、悔い改めれば、どんなにひどい悪でも帳消しにされるのです。

 だから「血」によるものではありません。次に「肉の欲求」です。これは言い換えれば、「自分の頑張り」です。一生懸命祈って、一生懸命聖書を読んで、一生懸命、教会に通えば、それで神の子供になることができるのでしょうか?いいえ。自分が一生懸命、神の子供になろうと思っても無理なのです。

 前回、金持ちの青年の話を少ししました。イエス様が、子供を受け入れてご自分のもとに引き寄せた後に、彼がイエス様のところに来て、こう言いました。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。(マルコ10:17」イエス様の中に命を見たのです。

 そしてイエス様は、「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」これはモーセの律法の要である、十戒の一部です。青年は、「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。(19,20節)」すごいですね、この人はこれらの戒めを小さい時から破ったことがないのです。子供だったら、ちょっといたずらしてみたいという気持ちにもなるでしょう。十代になったら、親に反抗したいと思うでしょう。これらを一切行なわなかったそうです。

 それでイエス様が言われました。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。(21節)」彼は金持ちで、そのお金を手放すことができなかったので、悲しい顔をしてイエス様から離れていきました。彼はどんなに頑張っても、神様の戒めをたくさん守っても、一つ手放せないものがあったのです。

 イエス様は弟子たちに、「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」と言われて、弟子たちは驚きました。そしてもっと驚くことを言われました。「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。(23,25節)

 どうですか、らくだが針の穴を通るって?無理に決まっています。弟子が、「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」と互いに言っています。そこでイエス様の次に言われたことが大事です。「それは人にはできないことですが、神には、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。(26,27節)」肉の欲求で救いを得ることは、難しいのではなく、できないのです!じゃあ、どうすればいいの?神がおできになることを信じればよいのです。自分には自分を救うことができません、でも神は救うことができるのです。

そして三つ目、「人の意欲によってでもなく」とあります。これは「人の意思によってではなく」と言い換えたほうが良いでしょう。これは、「他の人が、神の救いを決めることはできない。」ということです。例えば、今、私が賞状を作ったとします。そして皆さんがこの学びに最後まで参加して、そして全部参加したら、「はい、あなたは全部出席しました。これで無事に神の子供です。」と言うことができないのです。

教会にしばらく通っていると、人々からプレッシャーを受けますね。まず、水のバプテスマ、洗礼を受けなさいというプレッシャーです。「あなた、もう一年も教会に通っているのだから、水のバプテスマ受けてみたら?」と誘われます。それで受けます。そうしたら、その人はクリスチャンになるのでしょうか?いいえ、他の人々には、あなたはクリスチャンになったという儀式を見ましたが、人の意思によっては神の子供になることはできないのです。

神の子供になるというのは、ただ、神によって生まれることなのです。自分の側にあるもの、自分の内側にあるもの、他の人間が手伝えるものではないのです。ただ、純粋に、神が新たに、霊的に生まれさせてくださることだけなのです。これは、超自然的なことなのです。自分にはできないことなのです。

 だから、私たちはただ受け入れることしかできません。有限の人間は無限の神に近づくことはできません。けれども無限の神であれば、有限の人間に近づくことが出来ます。イエス・キリストによって近づいてくださった神を、私たちが心の中心に受け入れさえすれば、「イエス」という方を自分の主として信じさえすれば、あとは神があなたを「新たに生まれる」という超自然的なことをしてくださいます。

 どうでしょうか?この決断を今してみませんか?


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