ヨハネの福音書2章 「イエスのしるし」


アウトライン

1A 最初のしるし 1−12
   1B まだ来ていない時 1−5
   2B ご自分の栄光 6−11
2A 究極のしるし 12−22
   1B わたしの父の家 12−17
   2B よみがえり 18−22
3A 数々のしるし 21−25 


本文

 ヨハネの福音書2章をお開きください。ここでのテーマは、「イエスのしるし」です。私たちは前回、「イエスの証人」というテーマで1章の後半部分を読みました。イエスがキリストであること、イエスが神の子であることを証言した人々が現われました。最後の部分で、ナタナエルが、「あなたは神の子です。イスラエルの王です。」と言ったとき、イエスは答えられました。「あなたがいちじくの木下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」さらに大きなこととは、数々の奇蹟のことです。2章からそれが描かれていますが、「しるし」という言葉が使われています。それは証拠とも言えるし、あるいは足跡であり、証印とも言えるでしょう。

 私たちは自分の目で見えないものを信じるとき、しるしによって信じます。例えば、イエスは、「
風は思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。(3:8)」と言われたことがありますが、風そのものを私たちは見ることができません。しかし、風に揺られる木の葉を見て、また風が吹いているときの音を聞いて、風が存在することを信じることができます。このように、イエスはしるしを数多く残されました。私たちの生活も、イエスが生きておられることの数多くのしるしで取り囲まれています。

1A 最初のしるし 1−12
 そこで2章には、しるしについて述べられていますが、3つの種類があります。1つ目は、「最初のしるし」です。最初のしるしです。本文を読みましょう。

1B まだ来ていない時 1−5
 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。

 それから3日目とは、イエスがナタナエルのところに来られてから3日目ということです。イエスと5人の弟子は婚礼に招かれました。イエスの母がいましたが、彼女はおそらく給仕の取りまとめ役を担っていたのかもしれません。

 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。

 婚礼は、古今東西かわらずお祝いの時であり、喜びの時です。当時のユダヤ人たちの婚礼は7日間続き、盛大に祝われていました。その時に、ぶどう酒がなくなりました。これは、主催者の花婿に恥を欠かせるだけでなく、出席者に対して無礼となります。そこでマリヤはイエスに向かって、「ぶどう酒がありません。」と言いました。

 けれども、彼女がイエスにそのようなことを言ったのには、もっと深い意味があったようです。それをイエスが明らかにしておられます。次をご覧ください。

 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

 マリヤは、イエスに対して複雑な思い入れがありました。それは、イエスが彼女にとって、自分の子であると同時に神の子であるということです。彼女には、母親としての権限があります。自分の息子に言いつけることは、実に自然でありふれたことです。だから、「ぶどう酒がありません。何とかしなさい。」という命令口調でイエスに語りかけたのです。

 けれども、この母は同時に、自分が処女の時に、この子を宿したことを覚えています。御使いガブリエルは、彼女にこう言いました。「
聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。(ルカ1:35)」そして、イエスがお生まれになったとき、羊飼いが来て、御使いが自分たちに告げたことを知らせました。そのとき、他の人たちはただ驚いただけでしたが、ルカの福音書2章19節を見ると、「しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」と言うと、イエスは、「わたしが必ず自分の父の仕事についていることを、ご存じなかったのですか。」と言われました。そして、母は、「これらのことをみな、心に留めておいた。」と書かれています。同じ表現が、イエスが12歳のときにエルサレムの神殿にとどまれておられたときにも使われています。ですから、マリヤはイエスが神の子キリストであることを心に留めていたのです。でも、母親としての思い入れがあるため、イエスを神の子として認めるように行動できませんでした。

 そして、マリヤは、イエスがキリストであることを現わす時であることを思って、「ぶどう酒がありません。」と言ったのであろうと思われます。この時にこそ、あなたは自分を神の子キリストであることを現わしなさい。そして、多くの人の注目を集めなさい、と考えていたことでしょう。兄弟たちも同じような期待を持っていたようであり、「自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。自分を世に現わしなさい。(7:4)」とイエスに言いました。そしてヨハネは、「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」と記しています。私たちにも似たようなことが起こりますね。家族の人たちは、「あなたはクリスチャンなのだから、きちんと自分のことを世話しなさいよ。」などと、「クリスチャン」と言う言葉を使って説教します。わかっているような話し方をするのですが、実はわかっていない。信じているようで、実は信じていないのです。

 そこで、イエスは、「わたしの時はまだ来ていません。」と言われています。ヨハネの福音書は、「わたしの時」という言葉が繰り返し出てきます。イエスがひとり子としての栄光を現わす時が「わたしの時」なのですが、最後の栄光は十字架において現われます。人々は、メシヤについていろいろな考えを持っていました。そして、奇蹟を見て、誤った形でイエスを求めることが十分ありえます。事実、5千人に食事を与えられたとき、人々は腹が減ったからもっと飯がほしくてイエスについて行きました(ヨハネ6:26)。だからイエスは、奇蹟を行なわれるときはよく考えられて、慎重に行なわれました。そして、回数を重ねてしるしをお見せになり、人々がより正確にキリストを知るようにされるのです。

 だから、マリヤにとっては、これが最後のしるしになったらいいと願いましたが、イエスにとっては最初のしるしでした。これからもっともっと多くのしるしがあります。私たちも、もっともっと多くのしるしを見る必要があります。イエスを信じるとは一回限りのことではないのです。日々新たにされるイエスの御姿を見て、それを信じて生きていかなければならないのです。

 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

 母は、イエスの言われたことを理解したようでした。自分がイエスにいいつけるのではなく、自分と給仕の者たちがイエスの言いつけに従わなければいけないことに気づきました。

2B ご自分の栄光 6−11
 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。

 ユダヤ人は、自分をきよめるための儀式で水を使いました。マルコは自分の福音書で、こう説明しています。「パリサイ人をはじめユダヤ人は、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからだないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を使うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがある。(7:3)

 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

 水がいくらか使われていたので、いっぱいになっていなかったのでしょう。それをイエスはいっぱいにするように命じられました。

 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。

 イエスがここで、特別なジェスチャーをしたようなことは書かれていません。水が汲まれて、ただ持って行きなさい、と言われただけです。マジック・ショーのようにいやしや奇蹟を見せびらかす集会がキリスト教会の中にありますが、イエスのスタイルとはかなり異なります。

 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」

 ぶどう酒になっただけではなく、良いぶどう酒になっていました。この前も話しましたが、水がぶどう酒になることは化学的にありえないことです。無から有の創造が必要になり、イエスはここでご自分が天地を造られた神であることをお示しになっています。

 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 イエスをキリストとして信じたはずの弟子ですが、ここでは「イエスを信じた。」と書かれています。弟子たちのように、続けてしるしを見ることによってイエスへの信頼を深めたのです。そして、ヨハネの福音書によると、この信頼にうちに永遠のいのちが宿っています。

 こうして最初のしるしが行なわれました。かなり静かに、地味に行なわれました。イエスの母と弟子たちと給仕の者にしか分からないようなかたちで行なわれました。そして、婚礼に出席している人たちは、そんなことも知らず良いぶどう酒を楽しみました。このことは私たちの生活で頻繁に起こっています。イエスが人々にためにしてくださっていることは、実に数多くあります。人々はその便益を楽しんでいますが、これらがイエスによるものであると気づいていないのです。

2A 究極のしるし 12−22
 このように、一つ目のしるしは最初のしるしでした。二つ目は究極のしるしであります。

1B わたしの父の家 12−17
 その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。

 イエスは、ご自分の家族の者たちといっしょに、弟子たちも同じようにしてカペナウムに行かれました。イエスは弟子たちを実質的な家族にしようと願われているのです。後でイエスは、「私たちの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」と言われて、弟子たちを見回して、「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。(マルコ3:33−35)」と言われました。でも、ヨハネの福音書を読みますと、イエスが必ずしも肉の家族をないがしろにされていないことが分かります。十字架の上で、イエスは、ヨハネにマリヤを引き取ってもらうように命じられました。つまり、バランスが必要なのです。肉の家族を世話することと、霊の家族に良くしていくことのどちらも必要であります。

 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。

 過越の祭りは、例年行なわれるイスラエルの三大祭りの一つであります。これは、イスラエルがエジプトの奴隷状態から救い出されたことを祝う祭りです。

 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

 イエスが宮きよめを行なわれました。これと、十字架につけられる直前に行なわれた宮きよめと混同しないでください。イエスは、2回宮きよめを行なわれました。それを行なわれたのは、宮の中で不正な商売が行なわれていたからです。人々は家畜をほふってそれを神におささげするのですが、傷や欠陥がある動物は律法で禁じられています。宮の中では、人々が持ってくる動物の体を調べる人がいました。そして、何とかして傷を見つけて、「この動物はささげることができません。」と言います。そして、認証された動物を買うように薦めます。それが、ここに出てくる牛や羊や鳥ですが、ものすごい高価な金額で彼らは売っていたのです。その一部は、大祭司などのユダヤ人宗教指導者の中に入っていきました。同じように、両替人は通貨交換手数料を多く取っていました。各国で使われている通貨は異邦人のものであり汚れているから、それらを神殿で使うことのできるシュケルという通貨に交換しなければなりませんでした。ここでも、手数料は両替人と宗教指導者たちのふところに入っていったのです。

 神を礼拝するという心を利得のために用いていました。宗教心を利用して金をもうけることは、本当に人の心を傷つけますが、イエスもそうでした。憤られて、宮から商売人と両替人を追い出されました。ただ、ここで気がつかなければならないことは、イエスが神殿を「わたしの父の家を」と呼ばれていることです。エルサレムの神殿を自分の父の家とおっしゃっているのです。これは、むろん、イエスが神の子であることを主張しているに他なりません。イエスは、神殿をご自分の家と考えておられました。

 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。

 これは、詩篇69編からの引用です。メシヤについて預言であります。

2B よみがえり 18−22
 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」

 ここからが重要な会話です。ユダヤ人はしるしを求めました。確かに自分たちのしていることは悪いことであることに気づいていたかもしれません。けれども、それを取り締まる権威はどこにあるのか、と聞いているのです。例えば、私たちが信号無視をしてそれを警官が見ていて、私たちに止まるように指示を与えたとしましょう。私たちは、止まらなければいけないと理解します。なぜなら、警官には国家の権威があるからです。けれども、一般の人が車で追っかけて来て、拡声器で「止まりなさい。」と命令したらどうすれでしょうか。止まるかもしれませんが、「あなたに何の権威があるのですか。」と思ってしまいます。彼らもそうでした。こういうことをするからには、あなたは神からの権威を授かっていることを主張しているのだろう。その証拠を見せてもらおうか、と訴えているのです。

 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

46年かかったと言っています。ヘロデ大王が、紀元前19年のときから建て始めた神殿ですが、この時点でまだ完成していません。

 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

 ユダヤ人は、イエスが言われた「神殿」を文字通りに受けとめました。しかし、イエスはご自分のからだのことを話しておられました。つまり、イエスはユダヤ人たちによって十字架につけられるが、3日目によみがえることをお話になっていたのです。そして、それがしるしになる、とイエスはおっしゃっているのです。死者からの復活が究極のしるしです。イエスは数々の奇蹟を行なわれていたのに、彼らはイエスを信じませんでした。そして、あるパリサイ人が、イエスにしるしを求めた記事が福音書に載っています。その時イエスはこう言われました。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だがヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは3日3晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も3日3晩、地の中にいるからです。(マタイ12:39−40)」ヨナが大魚から3日目に出てきたように、イエスも死者の中から3日目によみがえられます。数々の奇蹟を行なわれたのに信じなかった人々に対して、残されているのは、死者の中からよみがえるという究極のしるしなのです。

 もしイエスは本当に神であるのか、救い主であるのか疑問を感じるようであれば、その時に思い出せばよいのは復活の出来事です。もちろん他の奇蹟を思い出してもいいのですが、魔術師のような人ならもしかしたら似たような奇蹟を行なうかもしれません。しかし、死んだのによみがえったというのは、だれにもできない業です。文字通り神業ですね。パウロは、死を「最後の敵」と呼びました。私たち人間にとって、決して支配することのできなかったことは死の問題です。世界を動かす支配者であっても、すぐれた科学者であっても、寿命を伸ばすことができこそすれ、生命を永らえさせることは決してできません。死は最大の敵なのです。それを打ち滅ぼしたのであれば、この方は確かに神ご自身であると理解することができます。

 イエスが復活されたことについては、多くの証拠があります。あまりにも多くの証拠があるので、合理的に考えることができる人であればだれでも容易に復活を信じることができます。ある人が懐疑的になっている大学生にこう尋ねました。「ナポレオンが存在していたことを信じることはできるかい?」彼は答えました。「ああ、もちろん。」そしてもう一人がこう言いました。「ナポレオンが存在していたことを信じることができるなら、イエスが死者のなかからよみがえられたことは、もっと簡単に信じられるよ。」それを聞いた彼は、実際に復活の記事を調べ、はたしてその通りであることを確認し、クリスチャンになりました。

 そうした歴史的な証拠もありますが、実際的な証拠もあります。キリストの復活を信じる者は、新たないのちを得るという約束がありますが、今までに、何十万、何百万という人がその人生を180度変えられました。心に安らぎが与えられた、というのであれば音楽でも聞けばできます。けれども、かつての麻薬常習者がイエスを信じたら一日にして麻薬をやめたというのはどうでしょうか?また、夫婦が離婚してずっと経つのに、イエスを信じて元通りになったというのはどうでしょうか?同性愛者が一日にして直ったというのはどうでしょうか?このような数限りない復活の証拠があります。キリスト教は、罪からの救いを話しています。確かに、いやしもあります。奇蹟もあります。けれども、人が提供することができないのは、人を奴隷状態にしている罪からの解放です。しかし、罪から解放を与えるこの復活の力は、イエスがまぎれもなく神の子であることを表しているのです。

 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。 

 弟子たちは、イエスのこのことばを聞いたとき、理解することができませんでした。けれども、イエスが復活されてから、数多くの疑問が解決しました。イエスがあのとき、何であんなことを話されていたのか分かったのです。ここで、弟子たちが「聖書とイエスが言われたことばを信じた。」とあるところに注意してください。先ほどは、イエスを信じたとありました。ここでは聖書とイエスのみことばです。まず聖書ですが、メシヤが死者の中からよみがえることについては、前もって告げられていました。「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。(使徒2:31)」とあります。そしてイエスのみことばですが、イエスは十字架につけられる前に幾度となく、ご自分が3日目によみがえることをはっきり伝えられました。

 前もって伝えたことがその通りになるということは、そのことばが神からのものであることが分かります。人間は時間に制約されていますから、先のことは分かりません。しかし神からのものであれば、神は永遠の方ですから前もって先のことを完全に正確に告げることがおできになるのです。聖書の預言はそれを証明しています。かつて預言されたもので、成就しなかったものはただ一つもありません。初臨のキリストについて述べられた300以上の預言は、みなイエスにおいて成就しました。100%の的中率なのです。ですから、イエスを信じるということは、心の安定剤のために創作されたものを信じるのではなく、絶対的に真理であること、紛れもない事実を信じることなのです。

 また、私たちにとって、聖書とイエスの言われたことを信じるということは、非常に大切なことになります。このように堅く立ち、決して変わることなく、必ず成就するものなので、状況や自分自身のことが変化しても、動じることなく信じつづけることができます。けれども、この弟子たちとは対照的な信じ方をする人々が次に現われます。聖書やイエスの言われたことを信じるのではなく、しるしそのものを信じる人たちが現われます。

3A 数々のしるし 21−25
 それが、3つめのしるしです。3つ目のしるしは、「数々のしるし」であります。ヨハネは自分が記したしるし以外にも、世界の書物が収めきれないほどのしるしをイエスが行われたことを認めています。しかし、イエスが望まれたようなかたちでしるしを受け入れられなかったことがあるのです。次はその一例であります。

 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。

 エルサレムにいた人々はイエスを信じましたが、しるしを見て信じたことが強調されています。そして、イエスはご自身を彼らにお任せになりませんでした。弟子たちに対してのように、多くの時間をともに過ごすここともなかったし、霊的な真理を深く語ることもありませんでした。面白いことに、「御名を信じた」という「信じた」という言葉と、「お任せにならなかった」という「任せる」はギリシヤ語では同じことばが使われています。つまり、彼らはイエスを信用したが、イエスは彼らを信用されなかったのです。

 この直後の話、ニコデモとイエスとの会話の中にそれが現われます。ニコデモはイエスを信用して、「このようなしるしをなさるのは、あなたが神から来られた教師だからです。」と言いました。けれども、イエスは、「人は新たに生まれなければ神の国に入れません。」と言われました。ニコデモは確かにイエスを信じました。後に、ユダヤ人議会でイエスを弁護するような発言をしているし、イエスが死なれた後、アリマタヤのヨセフといっしょに墓にイエスを葬られた記事もあります。しかし、それは公にではなく、隠れて信じていたのでした。ヨハネ12章42節には、こう書かれています。「
指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」反対や迫害が予想されると、後退りするような信仰だったのです。もし、私たちがいざというときに、退いてしまうような友人がいたらどうでしょうか。その人にはいろいろなことを任せることはできませんよね。同じように、イエスは、彼らにご自身を任せることはおできにならなかったのです。

 でも、なぜ逆境になると後退りしてしまったのでしょうか。それは、イエスご自身を神の子キリストとして信じるよりも、しるしという現象に魅了されて信じたからです。私たちの信じ方にも、そのようなものがあります。まず知的に信じようとする人がいます。イエスの言われたことを聞くと、まず疑いが自分の思いをよぎるのです。もちろん、だからと言って、盲信しなければいけないということではありません。むしろ聖書は、よく考えて頭を使って信じることを薦めています。けれども、もしある人を信頼し、敬っているのであれば、たとえそのことばが多少理解できなくても、素直に信じるものです。ですから、理屈というしるしを求めている人は、イエスとの信頼関係がうすいのです。

 同じように、感情的に信じようとする人がいます。とてもよい気分になると、自分は主から祝福されていると思います。けれども、調子が悪いと主が自分に何か悪いことをされていると思ってしまうのです。状況が悪くなったから信頼できなくなってしまう人に、イエスはご自身をお任せになることはできませんね。ですから、大事なのは、イエスに対する全面的な人格的な信頼です。弟子たちにそれができたのは、先ほどあったとおり、聖書とイエスの言われたことばを信じたからでした。そこに揺るがない信頼が寄せられているので、試練にあっても、迫害にあっても後退りすることがなかったのです。だから、私たちは多くのしるしを生活の中で見ます。イエスが生きて働かれていることを状況の中で見ます。けれども、そればかりを見ると、状況に振り回されてしまいます。ですから、聖書のことばに信頼を置くことを学ぶのです。これこそが、もっとも確かなしるしです。

 なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。

 ご自身をお任せにならなかった例として、3章に出てくるニコデモの場合がありますが、この人のうちにあるものを知っておられることについては、4章に出てくるサマリヤの女の場合があります。自分の今までの生活をイエスに指摘されて、ついにはこの方がキリストであることを知りました。したがって、23節から25節までの部分は、3章と4章につながって行きます。3章と4章は、御名を信じてもご自分をお任せにならなかった一例と、人のうちにあるものをすべて知ったおられることの一例がそれぞれ記されているのです。