ヨハネによる福音書2章111節 「最初の徴」

アウトライン

1A 肉と霊の家族 1−5
2A 喜びをもたらすイエス 6−10
3A 弟子たちの信仰 11

本文

 ヨハネによる福音書2章を開いてください、今日は2章の1節から11節まで学んでみたいと思います。

 私たちはヨハネがこの福音書を書いた目的を、第一回目の学びで読みましたね。もう一度読んでみましょう、2030,31節です。「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:30-31」イエスが神の子であり、キリストであることを信じて、その信仰によって永遠の命を得るためです。

 数ある奇蹟をイエス様は行なわれたのですが、この目的の為にヨハネはあえていくつかの奇蹟のみをこの福音書に記録しています。数えると8つあります。7の奇蹟があり、主が死者の中からよみがえられたのが8つ目の奇蹟です。そして今日読むところは、その最初の徴になります。イエスが確かに神の子であり、キリストであることを示す最初の徴です。

1A 肉と霊の家族 1−5
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。

 「それから三日目に」とありますがどの出来事から三日目かと言いますと、イエス様が何人かのユダヤ人をご自分の弟子として招き入れた出来事です。1章の後半に書かれています。

 前回、私たちが読んだ18節までの箇所に続いて、バプテスマのヨハネが出てきます。彼も弟子を持っていたのですが、彼は自分よりもはるかにすぐれた方、キリストが来られる、いや既に来ておられることを宣べ伝えていました。そこにちょうどイエス様が来られて、それでヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と明言しました。1章29節です。

 「世の罪を取り除く神の小羊」とは何でしょうか?ユダヤ人の人たちはよく知っています。神はモーセを通して、罪のためのいけにえとして牛や羊をほふらなければいけないと命じられていました。羊の喉元を掻き裂いて、血を流し、体は祭壇の上で火に焼きます。その血によって、自分が犯した罪が赦されるというものです。

 なぜそんな酷いことをしなければならないのか?と思われるかもしれません。けれども、逆に言うと、「それだけ酷いことを行なったから、犠牲が必要なのだ。」と言うことなのです。聖書にははっきりと「罪を犯した者は、その者が死ぬ。(エゼキエル18:4」と言っています。一般社会の中では、殺人などの罪を犯せば死刑になるかもしれませんが、聖なる神の前では、どのような些細に見えるような罪でも罪なのです。行動だけではなく、言葉、そして思いの中で犯した罪もすべて数えられます。

 だから、人は死ななければいけません。けれども、神は私たちが死なないで生きることを望んでおられます。だから罪を赦したいのですが、神は聖なる方であり、正しい方です。そこで犠牲が必要なのです。「肉のいのちは血の中にあるからである。(レビ記17:11」と聖書にはあります。血が流されるのを見て、命が取られるのを見ます。自分の代わりに血を流している羊を見て、その人は、自分が犯した罪の重さを知ると同時に、自分の罪が完全に赦され、清められたことを知るのです。

 私が小さな子供たちに、罪の赦しについて教えていた時、「石鹸でいっしょうけんめい洗っても、心の罪は洗い落とせるかな?」と聞きました。もちろん無理です。多くの人は、何か良い行ないを積んでいけば消えると思っています。ある人は、自分が過去に行なったことで良心の呵責を感じ、自傷行為に走ります。けれども、自分を傷つける必要はもうないのです!血を流して身に傷を負ってくださった方がすでにいるのです。それが、ここでバプテスマのヨハネが語っている、「世の罪を取り除く神の小羊」である、イエス・キリストです。

 そしてこのことを聞いた、バプテスマのヨハネの弟子たちは、今度はイエス様のほうについて行きました。そして一人、二人と、その数は増えていきました。一人がもう一人に、「私はメシヤ、キリストに会った」と言って、そして確かにキリストではないかと思ってついて行っています。

 興味深いのは、イエス様に付いていった時、イエス様が「あなたがたは何を求めているのですか。」と聞かれたら、「今どこにお泊りですか。(38節)」と尋ねたことです。一緒にいること、一緒に時間を過ごすことを彼らは求めていました。同じギリシヤ語で「とどまる」とも訳されていますが、この福音書にはこの言葉がたくさん使われています。イエス様のところに留まっている、一緒に時間を過ごしたいと願っている人が、キリストの弟子なのです。

 このことがあって三日経って、それから「ガリラヤのカナで婚礼があった」とあります。ガリラヤは、イスラエル北部の地方で、イエス様が育ったナザレという町がその地方にあります。ナザレからカナは比較的近いところにあり、イエス様の母マリヤの親戚の婚礼でした。それで、イエス様も弟子たちも招かれます。

2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。

 ユダヤ人の婚礼は私たちのそれより盛大です。結婚式の後、彼らは一週間お祝いをし続けます。今でも、特に正統派のユダヤ教徒の人はそうで、私がイスラエル旅行に行ってホテルに泊まった時は、必ずと言ってよいほど、彼らの祝宴を見ることができました。輪を組んで踊りまくります。とても賑やかで、楽しそうな祝宴です。

 そこで何日か経ってから、ぶどう酒が切れてしまいました。ぶどう酒は聖書の中で、喜びと楽しみを表すものとして何度も出てきますが、今でもイスラエルでは私たち以上によく飲みます。これがなくなってしまっては、元も功もありません。そこで母マリヤがイエス様に、「ぶどう酒がありません」と言いました。

2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

 一見、非常に冷たく聞こえるイエス様の言葉です。「女の方」というのは「婦人よ」というのと同じです、女性を呼ぶ時にはとても丁寧な言葉ですが、母親としての情は全くないものです。実は3節のマリヤの言葉と4節のイエス様のお答えには、とても複雑な関係が背景にあるのです。

 マリヤはイエス様を自分の胎に宿し、この子を産んだ肉の母親です。けれども、処女であった時に生まれた子であり、聖霊によって子が生まれました。彼は肉によればマリヤの子でありますが、聖霊によれば神ご自身の子です。この前学びましたね、「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。(1:14」です。だから、イエス様が成人になるまで、マリヤは自分の息子として彼を育てました。けれども、天使にも告げられていたし、またこの子が生まれた時の徴も見たし、この子が確かにメシヤ、キリストであるということも頭の中では分かっていたのです。

 イエス様が生まれた後に、マリヤとヨセフから生まれた他の弟たちは、お兄さんのイエスが、自分がキリストであると話していることは分かっていました。それである時、彼らがこう言いました。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。(ヨハネ7:3-4」彼らが言っているのは、世における栄光です。「あなたが自分を救い主と言うなら、もっと公に認められるように行動に移さないと。」というものです。

 私もかつて、自分がクリスチャンになって、福音を伝える働きを始めた時、当時まだイエス様を信じていなかった父が言いました。その時ちょうど大きな教会の牧師が会社の経営者対象のセミナーも開いていて、その話に父は感動していたので、彼は、「お前も、この牧師さんのように活躍しないとだめだ。こそこそやっていてはいけない。」と言いました。

 これと同じです。この世に認められるキリストを、兄弟たちはイエス様に勧めていたのです。これと似たようなことを、母マリヤは「ぶどう酒がありません。」と言った時に考えていたのです。今、この時に奇蹟を行なえば、息子イエスはメシヤだと認められる。今、行なえば良いではないですか。」と。

 それをきっぱりと断られたのが、イエス様です。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう」と言われました。マリヤ自身も、母と子の関係を越えて、イエスを自分の救い主として受け入れなければいけなかったのです。その為には、自分の息子として見ることを止めなければいけなかったのです。

 イエス様が家族から離れて、弟子たちと共に生活をしはじめてから、数多くの人がイエス様のところにやってきました。その教えを聞きに、また病気を直してもらうために来ました。休む暇もなかったので、家族が心配してイエス様を引き取りに来ました。ところがイエス様はこう答えられました。「『わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。』そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』(マルコ3:33-35」ここでイエス様は、明確に、肉の家族と神の家族の境界線を引かれたのです。

 イエス様は、弟子たちを「わたしについてきなさい。」と言われて呼び出されました。この弟子たちこそがご自分の家族であり、肉の家族とは本質的に一つになることはできないとされたのです。前々回学びましたね、「この人々は、血によってではなく、・・・ただ、神によって生まれたのである。(13節)

 私たち日本人のクリスチャンには、この境界線を明確に引いていない人が沢山います。自分の妻あるいは夫、自分の父母など、肉の家族の関係がキリストの弟子になること妨げることがしばしばあります。その関係が強いことをよくご存知のイエス様は、その熾烈な葛藤についてこう言われました。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:34-37」夫を大切にすること、両親を大切にすることは聖書の命令です。けれども、キリストよりも大切にするのであれば、あなたはわたしの弟子ではない、ということです。

 そしてイエス様は、「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。これは、「公の場にわたしがキリストであることを現わす日はまだ来ていません。」ということです。ヨハネによる福音書には、この「わたしの時」が何度か出てきます。まだ来ていないとイエス様は言われるのですが、ついに「来ました」と言われる時があります。1223節にありますが、それは間もなくイエス様が十字架につけられる時だからです。

 十字架につけられたのは金曜日だと言われていますが、その週の初め、日曜日にエルサレムに入城されました。ろばの子に乗って、オリーブ山から入られました。群衆は、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。(マルコ11:9」と叫びました。これは明らかに、イエス様をキリストとしてほめたたえている言葉です。そこでユダヤ教のパリサイ派の人たちが、「やめさせてください」と言ったところが、イエス様は、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。(ルカ20:40」と言われました。ですから、イエス様がキリストとして公に認められ、そしてその後に十字架につけられる時があるのです。それまでは、・・・これが今日の説教のテーマですが・・・イエス様を自分から求める人たちのみにご自分を現わすのみであったのです。 

2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

 分かりますか、マリヤはイエス様が言わんとされていることを悟りました。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」つまり、自分はこの方の命令の下にいるのだと認識したのです。母だから息子に対して言いつけるのではなく、自分もキリストの下にいる者として、従わなければいけないと思ったのです。

2A 喜びをもたらすイエス 6−10
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。

 モーセの律法の中に、水による洗いについての教えがあります。それでユダヤ人たちは、後年に、どのようにすればその洗いを行なえば良いのかといろいろ解釈を始めました。それで、特定の儀式によってのみ、自分は清められると信じるようになりました。水を手の上からかけます。でも水が自分の腕に流れ落ちることのないように気をつけます。溜めた水ではなく、流水でなければいけません(マルコ7:3参照)。ですから、私たちが「食事の前には手洗いを」といく衛生面の規則ではなく、儀式的なものなのです。今でも、正統派のユダヤ教徒の人たちはこれを行なっています。

 けれども、これに命がないことはよく分かりますね。儀式として行なってそれに満足しているのですが、実質的な清めではないのです。これは私たちが前回学んだ、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(1:17」と言うことです。

 ここの水がめが「六つ」置いて、あるとありますね。ここに暗喩があります。聖書では「七」が完全数として出てきます。神ご自身の数であり、神の完全性を表します。だから一週間を造られた時も、七日間なのです。それに一つ足りない「六」ですから、これは人間の数なのです。人間の世界は物足りない、命がない、儀式だけの世界なのです。これを使って、イエス様はご自分の命を示されます。

2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」

 水がめに並々に入れた水が、ぶどう酒に変わりました!しかも良質のぶどう酒です。

 宴会の世話役の人の言葉は、ミクロ経済学が言うところの「限界効用逓減の法則」です。飲めば飲むほど、その満足度はだんだん減るので、そう呼びます。そのことを知っているユダヤ人は、祝宴の時に満足度が得られる一杯目、二杯目の時は良質のぶどう酒を、それ以降は質の悪いのを出すのですが、最後まで良いものを取って置きましたね、と喜んだのです。

 並々についで出した。そして限界効用逓減の法則に反して良質のものを出した。ここに、イエス様の満ち満ちた豊かさが現れています(1:16)。

 そしてユダヤ人のヨハネにとっては、水が血に変わった神の徴のことはよく知っています。モーセを通して主が、エジプトを裁くために、ナイル川の水を血に変えられたのです。けれども、ここでは裁きではなく喜びと楽しみをもたらす奇蹟です。だから、ヨハネは、「モーセの時は律法だが、イエス・キリストは恵みとまことに満ちておられる」と証言しているのです。

3A 弟子たちの信仰 11
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 「最初のしるし」ですが、もうお分かりですね。水をぶどう酒に変えるのは、創造の働きがなければいけません。水をいくらどのように加工しても、ぶどう酒にはなりません。他の元素成分が必要です。つまり、無から有の創造が必要であり、無から有の創造は神のみにしかできないのです。

 だから、「ご自分の栄光」としての徴なのです。覚えていますか、前回、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。(1:14」です。

 そして、このことにとって「弟子たちは信じた」とあります。元々、この方がキリストであると思って、そう信じて付いてきたのですが、その確証が与えられるような出来事だったわけです。先ほど、水がめを宴会場に運んでいった僕たちだけは、水がぶどう酒に変わったのを知っていたとありましたが、他の人たちは知りませんでした。唯一、イエス様のそばにいた人々や、イエス様のことを求めている人々だけがその奇蹟を見て、またその奇蹟の意義を知って見ることができたのです。 

 あるゴスペルの歌い手がこう言いました。「神様の愛は、心を開いた人にしか分からない。」神様は、無理やり、私たちの口をこじ開けるようにしてご自分のことを示そうとは思われません。弟子たちは、この方はキリストではないかと思って、いっしょにいました。その求める心、開いた心があったからこそ、主はまず弟子たちにご自分のことを示されたのです。

 しばしば、「私は奇蹟を見ないかぎり、神は信じない。」と言う人がいます。けれども、奇蹟を見る、見ないという前に、その心の態度が神との関係を持てなくさせています。実際、イエス様の奇蹟がユダヤ人の間で大きく広まった時、その事実が否定できなくなった時、イエス様はメシヤとして受け入れられたのではなく、ねたみを買って殺されたのです。奇蹟を見たら、人は必ずしも信じるのではなく、殺しさえするのです。

 だから必要なのは心なのです。主は、恵みとまことに満ちた方です。この方を知るには、私たちもこの方に心を開く勇気が必要です。強制的ではなく、自発的な関係が必要なのです。


「イエス様を知らない方へ」に戻る
HOME