ヨハネの福音書3章 「天から来る方」

 

アウトライン

 

1A 教師に対して 1−21

   1B 新たに生まれる 1−15

      1C 必要性 1−8

      2C 方法 9−15

   2B 救われる 16−21

2A 預言者に対して 22−36

   1B 花婿の友人 22−30

      1C 責任 22−26

      2C 反応 27−36

   2B 地から出る者 31−36

 

本文

 

 ヨハネの福音書3章を開いてください。ここでのテーマは、「天から来る方」です。それでは、さっそく本文に入りましょう。

 

1A 教師に対して 1−21

1B 新たに生まれる 1−15

1C 必要性 1−8

 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」

 私たちは前回、イエスが過越の祭りのときにエルサレムでしるしを行なわれたことを読みました。人々はしるしを見てイエスの御名を信じたが、イエスはご自分を彼らにお任せにならなかった、とありました。ニコデモは、この人々の一人であります。最初に、ニコデモの紹介が書かれています。1つめは「パリサイ人」と言うことです。パリサイ派とは、律法とそれに関する伝統をみな守り行なうために志を立てた、ユダヤ教の一派であります。2つめは、「ユダヤ人の指導者」ということです。これは、ユダヤ人宗教指導者たちの議会サンヘドリンの一員であることを意味しています。加えて彼は、10節を読むと、「イスラエルの教師」であることがわかります。律法をイスラエル人のために解き明かす教師でした。また、彼はヨハネ19章に登場していて、死なれたイエスのからだのために30キロの没薬を持ってきたとありますが、そこから彼が金持ちであったこともわかります。


 彼は夜、イエスのもとに来たのですが、これは昼間に多くの人々がイエスのところに来て、イエスの行なわれるしるしを見ていたので、個人的に話すことができなかったからでしょう。そして、イエスに対する敬意が、このニコデモのことばから伝わってきます。誠実な人であったと察することができます。ですから、ニコデモという人物は、あらゆる面において優れていた人でありました。社会的な地位があり、おきてを守り、品格があり、そしてお金を持っています。

 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 
イエスは、ニコデモにとって不可思議なことを語られました。新しく生まれなければ、あるいは上から生まれなければ神の国を見ることはできない、と言われました。ニコデモは、イエスから一番新しい神のことばが出てくることを期待していました。マラキが最後の預言者であり、それ以来、神のことばは途絶えていました。バプテスマのヨハネが、400年ぶりくらいたってから神のことばを語り始めましたが、ニコデモは、イエスも語ってくださると期待したのです。けれども、イエスは、あなたが期待しているような神のことばは、新たに生まれないかぎり理解することはできないよ、とおっしゃっています。「神の国を見ることはできない」とは、神について決して悟ることも、理解することもできないということです。聖書は、神のことについては、神の霊によらなければ決して悟ることはできないと告げています。パウロがこう言いました。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊にことは御霊によってわきまえるものだからです。(1コリント2:14)


 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」

 ニコデモは、イエスのおことばを聞いて、開いた口がふさがらないほどびっくりしました。「新たに生まれる」なんて、この方は何を話しておられるのか、と思いました。それで、どうしたら新たに生まれることができるのか、自分はもう年を取っているのに、ふたたび母親の胎内にはいらなければならないのか、と聞きました。そこで、イエスは、新たに生まれることについて、詳しく説明されます。

 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

 イエスは、基本的に、新たに生まれるとは霊の誕生であり、ニコデモが考えたような2回目の肉体の誕生ではないことを教えられています。「水と御霊によらなければ、」とありますが、母親の胎内にいるときは羊水の中におり水から生まれました。そして、水から生まれたあとに、御霊によって再び生まれる必要があるのです。ここに出てくる「水」とは何を指しているのか、いろいろな解釈があります。例えば、水はヨハネが授けた水のバプテスマのことであるとか、あるいは御言葉のことであると言います。けれども、4節で、母親の胎内のことがニコデモの口から出て、また今読んだ6節には、「肉から生まれた者は肉です。」とイエスがおっしゃっているので、前後関係から肉の誕生のように見うけられます。いずれにせよ、イエスが強調されたかったのは御霊によって生まれることです。

 聖書には、人は神のかたちに創造されたとあります。神が愛をお持ちであるように、人は愛を持ち、神が正義を持っておられるように人も正しく、何の欠点もなく造られました。そして、人が神のかたちであるというのは、神と一つになっていることを意味します。人が神と、何の隔たりもない親密な交わりをしていることによって、一つになっています。神は3つの人格をお持ちです。父と子と聖霊であります。これはよく三位一体と呼ばれますが、人も三位一体として造られました。つまり、霊と精神と体の3つの部分が一つとなって造られました。そして、神の聖霊と人の霊が結びつけられ交わりをしていたので、人の思いは霊によって支配されていたのです。動物と同じように体の欲求を持っていますが、それらが霊によって制御されていました。ところが、初めに造られたアダムという人が神の言うことを聞かず、罪を犯しました。アダムとその妻エバは、エデンの園を追い出されて、神から切り離されました。そのため、人は霊ではなく、肉の欲求によって支配されるようになったのです。神が結婚の中で用いるように造られた性欲は、人を支配し、婚外交渉をするようになりました。神が不義に対して抱くように造られた怒りの感情は、人を支配し、苦み、憎しみ、争い、殺人をもたらし始めました。人の霊が神の御霊と切り離されたので、人の思いは肉によって支配されてしまったのです。それを、再び最初の状態に戻されるのが、「御霊によって生まれる。」と言うことです。再び霊によって支配され、神と交わりをして生きるようになるのが、「新たに生まれる」ということです。ですから、あらゆる面で優れていたニコデモであっても、新たに生まれることは必要でした。

 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

 
イエスが説明されても、ニコデモは何がなんだか訳がわからずに、目を大きく開き、口がふさがらなかったのでしょう。イエスは、「不思議に思ってはなりません。」と言われています。そして、また、他の例を用いられて、霊の誕生について述べられます。

 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

 
ヘブル語で「風」という言葉は、「霊」と訳すことができます。その言葉を使って、イエスは御霊によって生まれることを説明されています。私たちは、風が存在することを知っていますが、風そのものを見ることができません。けれども、風によって目に見えるものが動いたりすることによって、風が存在することがわかります。木の葉っぱが揺らいだり、また風の音を聞くことができます。同じように、御霊によって生まれることも、それ自体は見ることができません。ただ、御霊によって動かされて、人の人生や生活が変わります。憎しみを抱いていた人が、人を赦すことができるようになります。お酒におぼれていた人が、すぐにお酒をやめることができます。人の人生や生活が変わることによって、御霊によって生まれることを知ることができるのです。


2C 方法 9−15
 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」

 ニコデモは、どうしてそんなことが起こるのか、さっぱり理解することができませんでした。新たに生まれることが、どのような過程で起こるのか理解できませんでした。

 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

 
イエスは、ニコデモをたしなめておられます。新たに生まれなければならないということは、神を求める人にとって基本的な根本的な真理 なのに、なぜイスラエルの教師でありながら、それが分からないのですか、と言われています。

 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。

 
これは、イエスが神のことを解き明かされているのに、ユダヤ人たちはそれを受け入れない、と言うことです。ここに、「私たちは知っていることは話し、見たことをあかししている」とありますが、イエスは御霊とともに、父なる神のすべてを知っており、神ご自身のすべてを見ておられました。神と初めからともにおられて、神についてのすべてのことを知り、見ておられたのです。だから、イエスは、神から啓示を受けた預言者でもなく、神の霊を受けた教師でもなく、神ご自身であり、イエスのうちに神のすべてがあったのです。天国のすべてが、イエスのうちにあるのです。


 そこでイエスはこう言われます。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

 
天に起こることを、イエスは「新たに生まれる」とか、「風は思いのままに吹く」とか言われて、地上のものによって説明されようとしました。ニコデモはそれでも信じなかったので、イエスが父なる神とともにおられることの奥義を知ることは、いかにしてできましょうか、と聞いておられます。

 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

 天に上った者はだれもいないとありますが、旧約聖書を読むと、エノクが生きているうちに天に引き上げられ、エリヤも引き上げられたことを知っています。なのに、天に上った者はいないというのはなぜでしょうか。これは、人が神と同じになって神になった者はいない、ということです。どんなに神に用いられた器でも、神ご自身ではないのです。でも、天から下ったもの、つまり、神が人と同じになられた方がいます。イエスは、それを「人の子」すなわちキリストであると言われました。


 さて、次からニコデモの質問、「どうして、そのようなことがありうるのでしょうか。」という質問に答えられます。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 イエスは、イスラエルの教師であるニコデモがよく知っている、青銅の蛇の話を始められました。これは、民数記21章に出てきます。イスラエルの民は、毎日マナばかりを食べて飽き飽きしたといって、文句を言いました。そうしたら、主は燃える蛇を彼らに送られたので、かまれた人が死んで行きました。イスラエルの民は、「私たちは主に罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」とモーセに頼みました。モーセが祈ると、主は願いを聞かれましたが、直接彼らをいやすというものではありませんでした。主はモーセに、「燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけなさい。民はそれを見れば、生きる。」と言われたのです。モーセがそのとおりにすると、青銅の蛇を見たイスラエルの民は死にませんでした。イエスはこの話を持ち出されて、「人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな永遠のいのちを持つためです。」と言われました。


 燃える蛇にかまれて死んでいくイスラエルの姿は、罪の中に死んでいる私たち人間の姿を示しています。先ほど話したように、神から離れて霊が死んでいるのです。けれども、神は、人が滅びるのを喜んでおられません。それで、彼らが生きることができるような道を備えられたのです。それがこの青銅の蛇の中に象徴としてあります。青銅は聖書の中では、神のさばきの象徴となっています。例えば、犠牲の動物がほふられて、燃やされる場所である祭壇は、青銅で出来ていました。そして、蛇は罪を象徴しています。エバを惑わして、アダムに罪を犯させたのは、あの蛇です。これが旗ざおの上につけられていたことは、木の上で罪が神によってさばかれたことを意味します。つまり、これは十字架に上に死なれたイエス・キリストの姿を示していたのです。イエスは、「人の子もまた上げられなければなりません。」と言われましたが、これは後に十字架につけられることを意味しておられたのです。

 けれども、ただイエスが十字架につけられただけでは、人は新たに生まれることはできません。イスラエルの民が青銅の蛇を見て、生きたように、私たちも十字架につけられたイエスを見なければいけません。イエスが死なれたのは、まさに自分の罪のためなのだと信じなければならないのです。そこで、イエスは、「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」と言われました。ですから、「どのようにして、そのようなことがありうるのでしょう。」という質問に対しては、「イエスを信じることによってありうるのです。」という答えができるでしょう。

2B 救われる 16−21

 そして、イエスは次に、新たに生まれることは救われることであることを教えられます。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 
新改訳の脚注を見ると、この16節以降も、イエスのことばであるかもしれないことが書かれています。16節から21節まで、イエスのことばであるかもしれません。イエスはここで、15節と同じく、信じる者が永遠のいのちを持つことを語られていますが、滅びないで永遠のいのちを持つことを強調されています。人は罪の中で死んでおり、神のさばきに会うように定められているが、ひとり子を信じることによって死とさばきから免れて、永遠のいのちを持つと言われています。そして、神が、この救いの計画を立ててくださったのは、神がこの世に生きている私たちを実に愛してくださっているからだ、と言われています。神は、私たちを愛しておられるのです。だれも滅びることを望んでおられないのです。


 次の節で、このことが強調されています。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 これは、本当に大切な真理です。イエスがこの世に来られたのは、私たちをさばくためではなく、救うために来られたのです。私たち人間は、その反対のことを考えます。イエス・キリストがいなければ、罪とかさばきとかいうものを考えなくても良かった。でも、イエスが来たので、私たちは罪を指摘され、さばかれているのだ、と思ってしまいます。また、クリスチャンの人たちも、何度となく、イエスは懲らしめて罰を与えておられるのだ、と考えてしまうことでしょうか。イエスは、私たちを罪に定められません。不倫の現場で捕らえられた女に対して、イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。(ヨハネ8:11)」と言われました。使徒パウロは、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)」と言いました。


 でも、残念ながら、この救いの御手をつかもうとしない人たちがいます。そこでイエスは、次のように言われています。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 神がキリストにあって、私たちの罪を赦してくださることを受け入れないのでさばかれています。

 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。


 ちょっと、どろぼうのことを考えてください。どろぼうは、真昼間にどろぼうをすることよりも、夜にしますね。それは、どろぼうという悪い行ないが明るみに出されるのを恐れるからです。イエスは、この光と暗やみの関係を用いられて、なぜ救われるという良い知らせを拒むのかを説明しておられます。つまり、悪い行ないを愛しているからです。自分が行なっている悪いことを続けたいからです。イエスを信じると、新たに生まれて、罪から離れて生きることを知っています。でも、罪から離れることは嫌なので、イエスのところに来ないのです。人はイエスを信じない理由をいくつも並べ立てますが、その理由はただ一つ、今の生活を変えたくないこと、自分が罪を犯しているのを認めたくないことにあります。


 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

 イエス・キリストを信じるということは、真理を真理と認めることです。当たり前のことを当たり前のこととして受け入れることです。


2A 預言者に対して 22−36

1B 花婿の友人 22−30

1C 責任 22−26

 その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。・・ヨハネは、まだ投獄されていなかったからである。・・

 バプテスマのヨハネは、まだ投獄されていませんでした。他の福音書では、イエスの公の宣教が、バプテスマのヨハネが投獄されてから後に始まったことを伝えています。ですから、その前は、イエスはバプテスマのヨハネと同じように、水で人々にバプテスマをお授けになっていたのです。でも、なぜ、ヨハネが投獄されるまで、ヨハネと同じことをされていたのでしょうか。それは、たとえるなら、イエスはヨハネからリレーのバトンを受け取られるためです。ヨハネは、旧約聖書の最後の預言者であり、彼において旧約の時代は終わります。旧約の主な役割は、キリストが来られることを予め前もって告げることでした。ですから、ヨハネの働きが終わって、その後にキリストが訪れることになります。ですから、もしヨハネがまだ活躍している間にイエスが活動を開始してしまったら、神がご用意されたヨハネの役割を妨げてしまうことになります。それで、ヨハネと同じようにバプテスマを授けて公の活動を控えておられました。


 それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議した。

 ユダヤ人には、いろいろなきよめの儀式がありました。そのことについてヨハネの弟子たちとユダヤ人が論議していました。

 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」

 イエスのバプテスマについて、ねたんでいるようです。ヨハネよりもイエスがより多くバプテスマを授けているのを見て、嫉妬心を抱いています。


2C 反応 27−36

 そこで、ヨハネはリレーのバトンをイエスに渡すという、自分の役割について弟子たちに説明しました。また、このヨハネ発言は、私たちがイエス・キリストに仕える者として知らなければいけない、大切な真理を語っています。

 ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。

 ヨハネは、自分が神から与えられた使命は、あくまでも主の前ぶれであることを伝えています。天から与えられたのは、この使命であって、その他のことは何もできないことを伝えています。私たちが主にお仕えするときも、この態度が必要です。自分が神から与えられたことを見極め、その分を越えて何かをしてはいけないということです。

 あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。


 ヨハネが語ったことを一番そばで聞いていたのは、この弟子たちでした。そして、次に、イエスのところに人々が来るようになったことを聞いたヨハネが、自分の気持ちをたとえで表しています。

 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。


 ヨハネの弟子はねたんでいたのに、ヨハネ自身は喜んでいました。婚礼において、花婿の友人が、花嫁を花婿のところに連れてくる場面があります。花婿は、花嫁を受け入れるまで口を閉じて、黙っています。友人によって花嫁が連れてこられると、花婿は花嫁を受け入れ声を出します。そのときの友人の気持ちは、当然ながら喜びに満たされているでしょう。ヨハネは、今の自分の気持ちはそのようなものだと言っているのです。花嫁である人々が花婿であるイエスのところに来ています。ヨハネが、「この方こそキリストです。」とあかししたことによって、人々がイエスに導かれたのを見て、喜んでいるのです。


 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

 
ヨハネはここで、実に大切なことを話しています。自分は低くなり、キリストが高められることを彼は喜びとしました。これが、私たちが主に仕える際の基本原理にならなければならないし、またクリスチャンとして生きるための指針にならなければなりません。パウロは、「生きるのはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:21)」と言いました。


2B 地から出る者 31−36

 そして、次からの箇所は、再び2つの見方があります。一つは、この31節から使徒ヨハネが語っているということです。もう一つは、続けてバプテスマのヨハネが話していると言うものです。どちらか定かでありませんが、バプテスマのヨハネが話していると考えると、面白いことを発見します。

 上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。

 
上から来る方、また、天から来る方はむろん、イエス・キリストのことです。「天から来た方」となっていないで、「来る方」となっていることに注意してください。イエスは、地上におられているときも神であられ、今も、これからも神であり続けます。そして、地から出る者はバプテスマのヨハネです。彼は、自分は地に属する者であるが、キリストは神ご自身であり、すべてのものの上におられると話しています。どのような預言者でも神の人でも、天から離れた存在、神から離れた存在なのです。

 この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。

 バプテスマのヨハネのような預言者は、神の声を聞き、神の幻を見て、他の人々と比べればはるかに神を知っています。しかし、イエス・キリストは、幻や声ではなく、そのまま、ありのままの神と対面し、会話されているのです。

 そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。

 
イエスのあかしを受け入れない人たちもいましたが、受け入れた人もいます。イエスを信じるということは、神が真実であることを認めることになります。「私は神を信じるが、イエス・キリストは信じない。」と言う人は、神ご自身をうそつきにします。なぜなら、神ご自身が、イエスがご自分のひとり子であることを語られているからです。


 神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。

 預言者は神のことばをが、それは御霊の導きによるものでした。けれども、それは当然、限定的な御霊の働きです。しかし、イエスが神のことばを語られたときは無限に御霊が与えられています。御霊ご自身のすべてがイエスのうちにあったのです。

 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。

 
預言者も、例えばダニエルなどは、「大いに愛された者」と呼ばれましたが、イエスはひとり子としての愛をお受けになりました。そのため、父のものをすべて任されたのです。


 次に結論が書かれています。御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

 イエスが神に対し、いま読んだような関係があるのですから、人には2つの選択しか与えられていません。イエスを信じて、永遠のいのちを得るか、それとも、受け入れないで神にさばかれたままでいるかのどちらかです。イエスは、天から来る方です。天から来られたのではなく、来ている方なのです。つまり、父なる神とイエスは決して切り離せず、二人はひとつであり、イエスを受け入れる者は神のいのちを持ち、受け入れないのであれば神に反抗しています。他の教師や預言者たちのように、神から遣わされて、神の御霊に満たされていた方ではなく、まさに神ご自身なのです。まさに天国そのものなのです。だから、イエスを信じることによってのみ、新たに生まれることができます。それだけが唯一の神への道なのです。他にはありません。お祈りしましょう。