ヨハネの福音書4章 「イエスのことば」


アウトライン

1A 全部知っている 1−42
   1B キリストとの出会い 1−26
      1C イエスの接近 1−6
      2C 生ける水 7−15
      3C 真の礼拝 16−26
   2B 宣教 27−42
      1C 教え 27−38
      2C 実 39−42
2A 同じ時刻 43−54
   1B ガリラヤ人の歓迎 43−45
   2B 遠距離のいやし 46−54

本文

 ヨハネの福音書4章を開いてください。ここでのテーマは、「イエスのことば」です。ここには、主に二人主要な人物が登場します。サマリヤの女と王室の役人です。どちらも、イエスのことばを聞いて、信仰を持ちました。それでは本文を読みましょう。

1A 全部知っている 1−42
1B キリストとの出会い 1−26
1C イエスの接近 1−6
 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳にはいった。それを主が知られたとき、・・イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが、・・主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。

 私たちは前回、イエスと、バプテスマのヨハネのどちらもがバプテスマを授けている箇所を読みました。イエスのところに多くの人が来ました。それを、パリサイ人たちが聞きましたが、イエスは、ユダヤを去ってガリラヤに行かれようとされます。まだ、パリサイ人たちと対面する時ではなかったからです。イエスがパリサイ人たちの偽善を指摘し、パリサイ人が怒って、イエスを殺す時はまだ来ていませんでした。それで、イエスは、パリサイ人を避けてガリラヤへ向かわれました。


 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。

 
サマリヤの地域は、ちょうどユダヤ地方とガリラヤ地方の間にありました。それで、サマリヤを通らなければならなかったのです、と言いたい所なのですが、実は違います。ユダヤ人はたいてい、サマリヤを通らずに、ヨルダン川の東側のの道に迂回して、ユダヤ地方とガリラヤ地方を行き来していました。サマリヤ人とユダヤ人の間には深い敵対心がありました。サマリヤ人は、ユダヤ人と異邦人の混血の人物です。また、彼らは、ユダヤ地方のモリヤ山ではなくサマリヤにあるゲリジム山にメシヤが戻って来ることを信じて、ユダヤ人とはまた別の宗教を造っていました。そのため、純粋な信仰を求めるユダヤ人はサマリヤ人を嫌い、同じようにサマリヤ人もユダヤ人を嫌いました。ユダヤ人がサマリヤの中を通るものなら、サマリヤ人からののしられ、つばをかけられたでしょう。ですから、この「サマリヤを通らなければならなかった」と言うのは、サマリヤがユダヤとガリラヤ地方の中間に位置していたからではなく、別の理由があったのです。それは、これから現われる一人の女に出会うためでした。イエスは、人種的、宗教的な違いを超えて、ひとりの女に会うために、サマリヤを通る道を選ばれたのです。


 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。

 
私たちは創世記の学びで、ヤコブのことを勉強しました。ヤコブが姑のラバンの家を出て、家族を連れてカナンの地に戻るとき、シェケムという町にしばらくのあいだ滞在しました。そこで彼は、その土地の一部を買い取りました(創世33:19)。そして、死に際に、それをヨセフに与えることを約束したのです(創世48:22)。

 イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。

 
イエスが疲れておられました。イエスは神でありながらも、人としての弱さをお持ちだったことがここから分かります。そして、時が6時ごろであったことに注意してください。これを今の時刻に直すと、正午ぐらいになります。

 次の節には、ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。

 
とあります。ふつう、女性たちは午後下がりに、夕食の準備もかねて水を汲みに来ました。そこで多くの女性が集まり、文字通り井戸端会議のようになっていたのです。しかし、この女は、そのような仲間には加えられることのできない人でした。女性たちからは危険視されているような、ふしだらな女でした。実は、5人の男と結婚したことがあり、今いっしょに住んでいる人は結婚もせず同棲しているのです。けれども、イエスは、この女のためにサマリヤを通り、ヤコブの井戸に腰をおろされました。


2C 生ける水 7−15
 イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。イエスおひとりでした。そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」・・ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。・・

 女はびっくりしました。ユダヤ人はまずサマリヤ人に声をかけるようなことがないし、ましてやイエスがユダヤ人のラビであることは外見から分かります。おそらく軽蔑するような眼差しでイエスを見返したでしょう。例えば、私が髪を茶色に染めて、ルースソックスを履いている女子高生に、聖書をもって声をかけたら、同じような反応に出るのではないでしょうか。「なあに、この人?聖書なんかもってる。宗教くさーい!」なんて思うのでしょう。この女はびっくりしました。でも、イエスは話を続けられます。


 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

 イエスは、「飲む水をください。」という物質的なレベルから話を始められましたが、すぐに霊的なレベルの話に移されました。神の賜物とは永遠のいのちのことであり、そして「だれがあるかを知っているなら」というのはまぎれもなく、イエスが神の子キリストであることを知ることであります。生ける水とは聖霊のことです。

 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。


 女は、イエスの言われていることが理解できませんでした。イエスが、目の前にあるヤコブの井戸のことを話しているものとばかり思いました。ヤコブの井戸は、パレスチナ地方の中でもっとも深い井戸であったと言われます。それで、女は、「この井戸は深いのです。どこから手に入れるのですか。」と言っています。

 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」


 ヤコブは、サマリヤ人にとっても偉大な人物でした。このヤコブよりも偉いのですか、と聞いています。彼女はイエスに対して、批判的になりました。

 そこで、イエスは彼女の誤解を解くため、ヤコブの井戸とご自分が話されている水の違いを説明されます。イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 非常に、奥深いことばです。この水を飲む者はまた渇くとイエスは言われていますが、これは、神以外のもので心の渇きをいやそうとする人々の姿であります。人はみな、根本的に神への飢え渇きがあります。ダビデは言いました。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。わたしのたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています。(詩篇42:1−2)」けれども、人間は、その渇きを神以外のもので満たそうとします。お酒、お金、車、ファッションなどの物質的なものから、学問、スポーツ、芸術、仕事など精神的なもので満たそうとします。けれども、イエスが、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」と言われたように、また渇いてしまうのです。自分の求めているものが手に入ると、「いや、もっと何かがあるはずだ。」と思い、心に満足や安らぎが与えられることがないのです。けれども、イエスのことろに来る者は決して渇きません。自分の内側から生ける水が流れ出るようになり、永遠のいのちを持ちます。


 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

 イエスがここまで話されても、女はまだ分かっていないようです。軽蔑的で批判的な態度はなくなりましたが、今度はご利益的になっています。イエスがそのような魔法の水を持っているなら、わざわざここまで来て水を汲みに来なくて良いから、それをくださいと言っています。

3C 真の礼拝 16−26
 イエスは、ここで引き下がってもらっては困る、と思われて、話をがらっと変えられます。今、わたしが話しているのは物質の水のことではなく、霊的ないのちのことなんだよ、と理解してもらうために、一つの真理を彼女に明らかにされます。

 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。


 イエスは、このことばを持って彼女のかぶっていた仮面をはずされました。彼女は、自分の内側で起こっていることをみな見通しておられることを知りました。そして、イエスが話されていた「生ける水」の意味も理解したでしょう。それは、私の心を生き返らせてくれる水なのだ、ということです。彼女は、神への渇きを、男性との関係で満たそうとしていました。この人とさえいれば幸せになれると思い結婚し、でも、井戸の水を飲むようにまた渇いてしまい、決して満たされていません。女はそのことに気づいたのかもしれません。

 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

 
彼女は、仮面が取り除かれてした質問は、「それでは、どこで神を見出すことができるのですか。どこで神を礼拝できるのですか。」というものでした。サマリヤ人は、ゲリジム山で礼拝をささげています。けれども、ユダヤ人は礼拝すべき場所はエルサレムだと言います。彼女は、この神学論争によって混乱していたのです。こんなにいろいろな宗教があるのだから、何を信じたら良いかわからない、という人々が多いのです。けれども、イエスは、「宗教はいらないよ。あなたに必要なのはただ神だけなんだよ。」とおしゃられます。

 次を見てください。イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

 
すごいですね、イエスは神のことをサマリヤの女が聞いているのに、「父」という近しい関係の人のように話されています。事実そうなのですが、驚かされることです。そして、エルサレムとか、ゲリジム山とか、限定された場所でしか礼拝できないということはなくなります。

 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。


 イエスは、サマリヤ人の礼拝が混乱していることを知らせておられます。確かに聖書は、救いはアブラハムの子孫であるユダヤ人から出ることを教え、ユダヤ人は少なくとも神の律法を知っていました。

 でも、次を見てください。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 
真の礼拝者は、霊とまことによって礼拝する、つまり、御霊によって新たに生まれなければいけない、ということをイエスはここで話されています。イエスは、サマリヤ人のこの女に対しても、同じメッセージを持っておられるのです。3章に出てくるニコデモと、この女は実に対照的な人物です。ニコデモはユダヤ人であり、女はサマリヤ人です。ニコデモはサンヘドリンの議員であり社会的な地位が高いのに対し、女は社会の除け者です。ニコデモはパリサイ人であり、道徳的に高い基準を持っていました。このサマリヤ人は男を追っかけ回している不道徳な女です。しかし、イエスは、このような背景の異なる二人に対して、同じ一つのメッセージを持っておられました。人は御霊によって新たに生まれなければならない。そして、新たに生まれるためには、イエスを神の子キリストとして信じなければならないということです。聖書は、いかなる国の人でも、どのような宗教を持っていても、男も女も、不道徳であろうが道徳的であろうが、みな神を必要としており、イエスを信じる必要を説いているのです。


 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」

 この女は、外見の姿とは異なり霊的な理解が深い人です。メシヤを、いっさいのことを知らせてくださる方として捉えています。当時、ユダヤ人が抱いていたメシヤは、政治的、軍事的なメシヤでした。政治的、軍事的にローマ帝国を倒し、神の国を立てられるという考えを持っていました。イエスは、神をほめたたえて、「これらのことを、賢い者や知恵のある者たちには隠して、幼子たちに現わしてくださいました。(ルカ10:21」と言われたことがあります。私たちは、とかく学者の言うこと、知識のある人の言うことに同調してしまいます。しかし、神の知識はときに子どもたち、八百屋のおじさん、あるいはサマリヤの女のように風俗で働いている人などにも示されるでしょう。神の道は私たちの道と異なり、神の思いは、私たちの思いをはるかに越えています。

 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

 イエスははっきりと、ご自分がキリストであることを告げておられます。これは非常に稀なケースです。イエスは、ユダヤ人に、「あなたがキリストであるかどうか、はっきりとおっしゃってください。」と言われた時も、直接的にお答えにはなりませんでした。けれども、イエスは、ご自分をご自分として、つまり神の子キリストとして受け入れる用意のできている人にははっきりと告げられます。


2B 宣教 27−42
1C 教え 27−38
 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか。」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか。」とも言わなかった。

 弟子たちはショックでした。ユダヤ人のラビが、女性と一対一に話すことはまずありえませんでした。タブーでありました。

 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。


 女は、生活に必要な水を置いて行ってしまいました。物質的な必要よりも今、霊的な必要が満たされたからです。生ける水を飲んだからです。自分はキリストに出会った、この私が出会った、という驚きと喜びで町に出て行きました。そして、このことを知らせた相手は男たちでした。日本語では「人々」となっていますが、男たちです。つまり自分のことをよく知っている人たちに語りました。

 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」

 
この女にとって、イエスが全部自分のことを語られたことがキリストを信じる大きなきっかけでした。この神の子としてご性質は、私たちにとってもこの方がキリストであると信じるきっかけになるのではないでしょうか。イエスは私たちの心のうちをすべて知っている方です。私たちの傷、悩み、苦しみをすべてみな知っている方です。この方に触れられるとき、私たちはこの女と同じように変えられていきます。

 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。


 女の言ったことがはたしてそのとおりであるかどうか、確かめに来ています。

 そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

 イエスも、サマリヤの女と同じように、今、物質的な必要を忘れるほど喜びに満たされています。それを、イエスは、「父のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」と言い表しました。それは失われたたましいが見出されること。罪の中に死んでいた者が、永遠のいのちを持つことです。このことを今、ご自分の目で見ておられ、イエスは満足されました。

 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

 
収穫にはむろん、種を蒔いてから何ヶ月間かかかります。けれども、イエスは霊的な事柄においては、そのような時間的なギャップがないことを指摘されています。ですから、無駄にできる時間はありません。今すぐにでも行動できるように、用意をしていなければなりません。パウロは言いました。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。(ローマ:11−12)」また、こうも言いました。「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。(エペソ5:16)」4ヶ月あるように見えても、今が刈り入れの時だと信じて、主のために忙しく働く必要が私たちにはあります。


 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」

 たましいの救いが与えられるには、刈り取りだけではなく種まきが必要です。私たちが出会った人で、イエスさまを信じ、霊的に成長している人たちは、以前に多くの人の証しを聞き、多くの人に祈られていました。確かに証しをしたり、祈ったりすることは地味な作業であり、労苦がともないます。けれども、それらは決して無駄になることはありません。


2C 実 39−42

 イエスは、ここで「実を集めています。」とおっしゃられていますが、次がその出来事です。さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された

彼らは、イエスから直接、話を聞くためにいっしょに泊まってもらうことを願い出ました。そして、イエスは滞在されます。この「滞在する」というギリシヤ語は、ヨハネの福音書に多く出てくる
メノウです。イエスのうちにとどまるとき、イエスとともに時間を過ごすとき、私たちはいのちを豊かに持ち、神の栄光で輝くのです。

 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」


 彼らは、女の言葉だけではなく、自分で直接イエスからみことばを聞きました。そして信じています。使徒行伝に出てくるベレヤの人々も、同じ態度を持っていました。「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰にはいった。(17:11−12)」とあります。こうして、サマリヤ人の間にリバイバルが起こりました。けれども、これは同時に、第二回目のリバイバルが起こるときの種まきとなっています。使徒行伝を見ると、ピリポがサマリヤ地方に来ました。そのとき、その町に大きな喜びが起こり、男も女もバプテスマを受けました(8章参照)。

2A 同じ時刻 43−54
 このように、自分についてすべてをお話になったイエスのみことばによって、サマリヤの女は信じました。また、他の男たちも、イエスの語られることを聞いて信仰を持っています。次は、そうではなくしるしを見て、イエスを受け入れる人々の話が出てきます。

1B ガリラヤ人の歓迎 43−45
 さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた。イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない。」と証言しておられたからである。

 おそらく、イエスはご自分が生まれた町ベツレヘムのことを指しておられるのでしょう。ユダヤ地方では受け入れられなかったので、ガリラヤへと向かっておられます。

 そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した。彼らも祭りに行っていたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。


 ガリラヤ人はイエスを歓迎しましたが、それはしるしを見たからです。しるしに興味があるのであり、イエスご自身に興味があるわけではありません。そこで、次の事件が起こります。しるしを見ないと信じないとイエスから指摘される人物が現われます。

2B 遠距離のいやし 46−54
 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。

 
イエスはまたカナに戻られました。そして、そこに王室の役人が来ました。ヘロデの下で働いている役人です。彼は、もしかしたらクーザではないかと言う人たちがいます。ルカの福音書8章の3節で、イエスについて来ている女の一人に、「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ」が出てきます。

 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」


 イエスは、彼の心のうちをご覧になって、はっきりと彼の信仰の薄さを指摘されています。

 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。

 見てください、彼は今、しるしではなくイエスのことばを信じて、家に帰りました。彼の信仰は、しるしに対するのではなく、イエスのことばに対するものに変わりました。

 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、七時に熱がひきました。」と言った。それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている。」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。


 王室の役人は自分が信じたことにさらに確信を深め、家族の者たちは信仰を持つに至りました。

 イエスはユダヤを去ってガリラヤにはいられてから、またこのことを第二のしるしとして行なわれたのである。

 
こうして、イエスが語られたその時刻に、男の子の病気が直りました。そして、これが第二のしるしと呼ばれています。なぜなら、イエスが神のひとり子であることが明瞭に現われているしるしだからです。距離が離れたところに、ことばを発せられるだけでいやしを行なわれました。神はあらゆる所におり、また、ご自分のことばによって世界を造られましたが、イエスもその息子のところにいて、ご自分のことばでいやされたのです。そして、もう一つ、これが第二のしるしと言われているのは、この王室の役人が、イエスが望まれるような信仰を持ったからです。イエスのことばを信じ、それからその後に奇蹟を見ました。しるしを信じるのではなく、みことばを信じたのです。そのため、使徒ヨハネはこれを第二のしるしと呼んでいます。

 みなさんはどうでしょうか。何かしるしを見たから信じるでしょうか。それとも、ことばを聞いてそれを信じるでしょうか。日々、私たちはこのことを試されます。まだ見ないうちに信じる者は幸いです。そして、イエスとの交わりを楽しんでください。私たちがお互いに知り合って、その交流を楽しむのは、ことばがあるように、イエスとの交わりもそのことばを信じることによって行なわれます。サマリヤの女のように、ことばを聞いて、それを信じて変えられる者になってください。

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