ヨハネによる福音書4章142節 「生ける水」

アウトライン

1A イエスの伝道 1−26
   1B ユダヤ人 1−9
   2B 奇蹟の人 10−15
   3B 預言者 16−24
   4B メシヤ 25−26
2A 女の伝道 27−42

本文

 ヨハネ4章を開いてください、今日は、前回3章に引き続き、新たに生まれることをイエス様が一人の女に伝えておられる箇所を読みます。

1A イエスの伝道 1−26
1B ユダヤ人 1−9
4:1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳にはいった。それを主が知られたとき、4:2 ・・イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが、・・4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。

 私たちは前回、エルサレムでニコデモとイエス様が話をされた場面を読みました。その後、イエス様は弟子たちと共にユダヤ地方に行かれました。イスラエルはエルサレムから南がユダヤ地方、そしてイスラエルの北にガリラヤ地方があります。

 そして、イエス様は弟子たちと共にエルサレムからユダヤ地方に出られて、そこでバプテスマ、全身水に浸かる洗礼を人々に授けておられました。けれどもイエス様に反発していたパリサイ派の人たちとの対立を避けて、再びガリラヤ地方に戻っておられます。覚えていますね、ニコデモはそのパリサイ派の人でしたが、イエス様に個人的に近づいていったのです。

4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。

 サマリヤは、エルサレムから南に広がるユダヤ地方と、イスラエル北部のガリラヤ地方の間にある地域です。今のヨルダン川西岸がそれに当たります。ですから、この言葉は何の変哲もない、当たり前の言葉のように聞こえますが、実はとても大切な意味を含んでいるのです。

 9節をご覧ください、後半に「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである」とありますね。ユダヤ人が、ユダヤとガリラヤを行き来する時、サマリヤは通過地点ではなかったのです。ヨルダン川沿いの南北に走る平野まで迂回して、旅をしました。地理的にはサマリヤを通れば最短距離なのですが、それをしなかったのです。理由は、ユダヤ人とサマリヤ人の間に強い確執があったのです。

 サマリヤ人の始まりは、紀元前722年に起こったアッシリヤ捕囚が発端です。イスラエルは、その前に北イスラエルと南ユダに分裂していました。かつて日本も南北朝時代がありましたが、同じように分裂していました。そして722年に、北からアッシリヤが攻めてきて、北イスラエルの人々の多くが捕え移されていったのです。

 アッシリヤは、自分たちが征服した民を互いに移住させる政策を取っていました。イスラエルの人々が他の地域に捕え移されましたが、その北イスラエルの所に他の非征服民が移り住みました。けれども、そこで獅子に食い殺されるような事件が起き、アッシリヤはそこの地域の神をきちんと拝んでいないからだと判断して、捕え移したイスラエル人の一部を引き戻して、その宗教を指導させたのです。(2列王記17:2433

 そこでイスラエル人と異邦人が結婚するようになり、混血の子供が生まれました。これがサマリヤ人です。さらに元来のユダヤ教に異邦人の宗教が混合されたものが始まりました。したがって、民族的にも宗教的にも純粋ではないサマリヤ人を、ユダヤ人は嫌うようになったのです。

 サマリヤ人もユダヤ人を嫌うようになりました。南ユダの人々は、紀元前586年にバビロンによって捕え移され、70年後、ペルシヤがバビロンを倒した後に帰還します。そしてエルサレムの町の再建を始めたのですが、その時にサマリヤ人がやってきて「いっしょに再建をしたい」と申し出たのです。

 けれども、帰還したユダヤ人はきっぱりと断りました。自分たちが、異なる神々を拝んだために神から裁かれて、捕囚の民という悲惨な目になったということを痛く感じていました。だから、今度こそは主なる神のみに仕えるという決心をもってエルサレムに戻ってきたのです。それできっぱりと断ったところが、今度はサマリヤ人が怒りまくり、その工事を阻止するようになり、一時中断させることまでしたのです(エズラ4:14、ネヘミヤ4:13)。

 ですから、民族的な確執、宗教的な確執、そして歴史的な確執があり、その当時に至りました。そこでユダヤ人がサマリヤの地域を通過するなら、サマリヤ人から唾をはきかけられた程だったのです。

 ですから、ここイエス様が、「サマリヤを通って行かなければならなかった」の「ならなかった」とは、特別な意味があるのです。それは、たった一人の女にお会いになるためです。

4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。

 旧約聖書では、「シェケム」というところです。ユダヤ人の父祖にアブラハム、その子イサク、そしてその子ヤコブがいますが、ヤコブがかつてこの町の地所を買い取っていました(創世記33:19)。そして、ヤコブの息子ヨセフに、その地を与えることを約束し(48:22)、ヨセフは死ぬ前に、自分の遺体をそこに葬るように命じました(50:25)。今のパレスチナ自治区、ナブルスが聖書時代のシェケムです。

 そして「時は六時ごろであった」というのも、大切な言葉になります。今の時間帯に直すと正午です。大抵、女性たちは昼下がりに井戸に来ます。夕食の準備などするためですが、そこで文字通り「井戸端会議」を行なうのです。女性たちの溜り場になっていたのです。ところがこの女は正午に水を汲みに来ています。他の女性たちを避けていることば明らかです。

 18節を見ますと、イエス様がこの女がこれかで五回結婚をしており、今の同棲の男性とは結婚もしていないことを指摘されます。そう彼女は不道徳な女、ふしだらな女だったのです。それにも関わらず、イエス様はこの一人の女に会うためにわざわざサマリヤの地域を通られたのです。

 あと、「旅の疲れで」というのも興味深いですね。イエス様は私たちとまったく同じ肉体を持っておられました。疲れることもあれば、喉が渇くこともあります。主は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われました(ヘブル4:15)。

4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

 イエス様は女に声をかけられました。本当に喉が渇いていたとは思いますが、あくまでも話のきっかけを作るためです。

4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」・・ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。・・

 ユダヤ人とサマリヤ人の確執もさることながら、たった一人のユダヤ人がたった一人のサマリヤ人の女性に声をかけるというのも、当時はタブーだったのでしょう。しかもイエス様はユダヤ教のラビの服装をしていたに違いありません。なおさら驚いたことでしょう。

2B 奇蹟の人 10−15
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

 イエス様は、基本的にニコデモに語られたことと同じことを、ここで話しておられます。目の前にある「水」をきっかけにして、「生ける水」すなわち御霊の命をご紹介したのです。

 「神の賜物」とは、永遠の命のことです。これは、私たちの努力では決して獲得することのできない、一方的に神から与えられる贈り物です。そして、「だれであるかを知っていたなら」とは、語っている本人がメシヤ、キリストであるということです。自分が神の子キリストであることを知り、その名を信じることによって永遠の命を得る、ということです 

4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。4:12 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

 3章はニコデモは、「新たに生まれる」というイエス様の言葉を、母親の胎内にまた入って誕生するというように、物理的に考えましたが、同じようにサマリヤの女は、イエス様が今、物理的な水のことを話していると思いました。

 そして興味深いのが、この女はユダヤ人のイエス様を見下しています。「私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか」と言っています。神殿にいたユダヤ人が、「お前がここを、『わたしの父の家』と言う限りは、どんなしるしを見せてくれるのか。(2:18参照)」と言ったのと同じです。

 サマリヤ人は、サマリヤ人なりに自分たちの歴史と宗教に誇りを持っていました。イスラエルの父祖アブラハムやヤコブの族長は北イスラエルの地域で、神に出会っています。サマリヤ人は、聖書の最初の五冊「モーセ五書」と呼ばれるものは信じていました。けれども、神の箱がシロという町からペリシテ人に奪い取られ、そしてダビデがエルサレムに移したというのは、自分たちで勝手に行なったと考えて、ユダヤ人たちは勝手にやっていると考えていたのです。

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 非常に大事な言葉です。ここは、3章の「水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません」という言葉と同じように、肉体的な渇きと霊的な渇きの違いを語られている所です。

 「この水」つまり物理的な水を飲めば、「また渇く」と主は言われます。当たり前ですね。夏の暑いときに冷たいコーラを飲んだら爽やかな気分になりますが、しばらくするとまた喉が渇きます。けれども、これは霊的にも同じなのです。「神への渇き、心の渇きを、他の物質的なもので満たそうとしても、決して満たすことはできない。また渇いてしまう。」ということです。

 人間は誰でも、「神への渇き」があります。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。(詩篇42:1-2」数学者のパスカルは、「すべての人間の心には、神にしか埋められない空洞がある」と言いました。

 これを、まさか神からしか満たされるとは思っていない人間は、それを物質的なもので何とかして満たそうとしているのです。ある人はお金もうけであったり、ある人はかっこい車であったり、女の人はファッションや彼氏であったり、とにかく目に見えるもので満たそうとするのです。

 けれども、一度、それを獲得した瞬間から再び、何か満たされない思いが戻ってきます。それで、もっと刺激的なこと、もっと興奮するようなこと、もっと何かを求めて、追及するのです。私たちは金持ちや、芸能人など華々しい仕事をしている人々をあこがれますが、実は彼らこそ一番空しい人たちであることを知っているでしょうか。最近の芸能人の薬物事件がそれを物語っています。薬物依存によって死んだマイケル・ジャクソン、マドンナ、俳優ハリソン・フォードなど、ハリウッドのスターが人生の空しさを話しています 

 でも、それとは対照的に、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」とイエスは言われます。内側で泉となり、永遠のいのちの水が湧き出るのです。

 これは、心理的なものでもありません。感情的なものでもありません。なぜなら、感情では悲しくても、心の奥深くで確信があり、喜んでいることができるのです。例えば、信仰者が死んで、追悼式で涙が出ても、喜んでいられるのです。自分の愛する人が交通事故に遭って死んで、頭の中では混乱しても、心の奥底のどこかで平安がしっかりと横たわっているのです。何が起こっても、吹き飛ばされることない確信が、心の奥底から湧き上がってきます。

 これが魂と霊の違いなのです。多くの人が精神的な経験だ、心理的なものだ、感情的なものだと批評しますが、霊的なものはもっと深いレベルにあるのです。

4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

 女は未だに、イエス様が語られていることが、物理的な水のことだと思っています。イエス様が不思議な水の湧き出る壷でも持っていて、それを私にください、とお願いしているのです。

3B 預言者 16−24
 それでイエス様は話題をがらっと変えられました。

4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。

 分かりますか、この女は、神への飢え渇きを男との関係で満たそうとしていました。表向きは非常にふしだらな女なのですが、それだけ霊的に枯渇していることを如実に表していました。この人と一緒になれば、何か幸せになれるかもしれない。そうやって五回裏切られ、ついに結婚そのものに失望し、結婚せずに同棲していたのです。

 そして次にこの女は「あなたは預言者だと思います」と、このことを認めました。普通の生活をしているように振舞っていたのですが、このように仮面が剥がれたのです。

 私たちも実は、このような仮面をかぶっています。人々と出会う時は、普通に挨拶をし、周囲の人とも普通に会話しています。私の知り合いの人が「私たちは普通の家族です」と自分のホームページで紹介しているのを読みました。けれども、実は最近離婚したばかりで、またすぐに再婚をした人であり、その子供が精神不安定になっていることを私は知っていました。私たちには、人には知られてほしくない何かを持っています。イエス様はそこの部分をわたしに明け渡しなさい、と招いてくださっているのです。

4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。4:20 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

 会話の内容が一気に深くなりました。目の前にいある井戸の話から、彼女の人生の深い部分の話をイエス様がされていることに彼女は気づきました。

 そこで彼女が次に持ち出した質問は、宗教的なことです。「私たちの先祖」すなわちサマリヤ人は、ゲリジム山というところで礼拝を捧げています。シェケムの町のすぐ横にあります。ゲリジム山の向かいにエバル山がありますが、かつてヨシュア率いるイスラエルが約束の地に入った時に、この二つの山に上って、モーセの律法に記された神の祝福と呪いを宣言しました(申命27:1126)。

 けれども先ほど説明したように、ダビデ王は神の箱をエルサレムに移し、そしてその子ソロモンは、エルサレムに神殿を建てました。そこにわたしは自分の名を置くと主は語られたのです。

 それで彼女は混乱しているのです。宗教的な、神学的な意見の違いで彼女は、真理がどこにあるのか分からないでいたのです。それに対するイエス様の答えを見ましょう。

4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

 イエス様は、確かにエルサレムのシオンの山が神が選ばれたところであり、サマリヤ人はそれを知らないと言われています。けれども、ユダヤ人がシオンの山で礼拝を捧げているからと言って、彼らは本当に神を礼拝しているのかと言うと違う、とイエス様は言われているのです。

 いかがでしょうか、これを仏教とキリスト教に当てはめてみましょう。仏教とキリスト教のどちらが正しいかと私が聞かれたら、私はもちろんキリスト教であると答えます。悟りによっては、救いを得ることはできません。また悟りを得て、究極の平安な状態、涅槃に至ること自体、人間の努力では絶対に無理だし、どの仏教徒も涅槃の領域に入ったと言う人はいません。

 では、キリスト教の教会に通っている人が本当に礼拝を捧げていると言えば、違うのです。教会に物理的に来ても、真に礼拝しているのではないのです。

 もしイエス様を信じることが迷っている人がいるならば、そして自分の家は仏教を信じているのに、家には仏壇があるのにと思っている人がいるならば、聞いてください。キリスト教か仏教かではありません。イエス・キリストか、そうでないかなのです。この方によって、御霊による誕生、霊の救いを得たいかどうかだけが重要なのです。

4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 これはこの前3章で話したことです。神は霊です。だから神と関わるには、私たちの霊が生きていないといけません。霊の部分において、私たちは神と関わること、交わることができます。

4B メシヤ 25−26
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」

 ついに彼女は核心に迫りました。「キリストと呼ばれるメシヤ」です。先ほどイエス様のことを、「あなたは預言者だと思います」と言いましたが、今はメシヤのことを話しています。

 そして彼女の驚くべき発言は、「いっさいのことを私たちに知らせてくださる」というものです。当時のユダヤ人は、メシヤであれば軍事的な救世主を求めていました。ローマの圧制の中で苦しんでいる私たちを武力で救い出し、そしてユダヤ人を中心とする神の国を建ててくださる方だと思っていました。

 けれども実は、このサマリヤの女、しかもふしだらとされている女の口から、メシヤについての正しい知識が出てきたのです。自分についてのいっさいのこと、また自分だけでなく、この世界についてのすべてのことを明らかにしてくださる方、神についてのすべてを示してくださる方、これがメシヤであると話したのです。

 皆さんにも、このような啓示が神の御霊によって与えられることをお祈りします。私たちがキリストの知識に至るのに、どんなに努力しても無理であることを前回、3章の学びでお話しました。聖書を丸暗記しているイスラエルの教師が、新しく生まれることについて信じることができなかったのです。神の知識は、このように、ふとしたことから始まります。それは自分の努力で得たものではなく、何となく与えられたもの、直感、「そうだ」という確信など、自分の努力ではなく、外側から、つまり神から与えられたものなのです。

4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

 これは福音書を読んでいる人は、驚くべきイエス様の発言であることを知っています。ここまではっきりと、ご自分がメシヤである、キリストであることを発言されている箇所はないからです。ユダヤ人指導者に対しては、2章で学んだように、ぼかして話しておられました。信仰がないどころか、敵対的であったからです。そして弟子たちに対しても、ピリポ・カイザリヤというところで、弟子たちだけになったとき、ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです」と言ったのを、「その啓示は天の父から来たのです。幸いです。」と認められたのです(マタイ16:1617参照)。

2A 女の伝道 27−42
 そして女は、この生ける水を飲みます。28節をご覧ください。

4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」

 彼女は、今自分が手にしている水がめを置きました。物質的な水を置き、生活の糧の水を置き、キリストを伝えに行ったのです。生ける水を飲んだ人、新しく生まれた人は、このように今の生活の糧さえ忘れてしまうほどの喜びにあずかります。

 興味深いのは、ここで「人々」という言葉は「男たち」と訳すことができるところです。「私のしたこと全部を私に言った」と聞いた時、彼女が男と関係をたくさん持っている人であることは知られていたと思います。この後、大勢の男がイエス様のほうにやって来ます。そして、この女が言ったことを通してだけでなく、イエス様から話を直接聞いて、確かにこの方はキリストであると認めたのです。男たちが女にこう言います、42節です。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。(ヨハネ4:42

 なんというすばらしい話でしょうか。イエス様はこのことをすべて初めからご存知でした。この女が表向き、たった一人で水を汲みに来るふしだらな女であること。けれども、心の奥底では神を求め、そしてメシヤを求めていた人であること。そして彼女の生活が変わり、他の人々にもキリストを伝えていく人であることを知っておられました。それで、民族的、宗教的違いを越えて、サマリヤの地域を通られたのです。

 ニコデモとの話とサマリヤの女の話を比べてみてください。ニコデモのほうからイエス様に近づきましたが、ここではイエス様がサマリヤの女に近づかれました。私たちは逆を考えるわけです。人格的で、宗教的にも敬虔な人が神に最も近いと考え、娼婦のような不道徳な女は神から遠く離れていると思うわけです。けれども、キリストの福音、キリストの良い知らせは、その人間の考えをまったく正反対にします。イエス・キリストの福音は、恵みの福音なのです。受けるに値する神の裁きを受けずに済むようになり、それだけでなく、受けるにまったく値しない神の祝福を、受けることができるようになることです。

 もしご自分が、「私はクリスチャンになる資格はない。」と思っている人がおられるなら、どうかサマリヤの女を思ってください。違います、全然違います。イエス様はそのままのあなたを受け入れ、そして変えてくださるのです。


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