ヨハネ5章118節 「不可能な命令」

アウトライン

1A 慈しみの行ない 1−9
   1B 無力な病人 1−5
   2B イエスの問いかけ 6−9
2A 安息日の規定 10−18
   1B 束縛 10−15
   2B 迫害 16−18

本文

 ヨハネによる福音書5章を開いてください。1節から18節までを読んでいきます、ここでのメッセージ題は、「不可能な命令」です。

 私たちはこれから、ヨハネによる福音書に記されている第三の徴を読みます。38年足のいうことが利かない人が、イエスの命令によって起き上がったという奇蹟です。前回は、王室の役人の息子を、遠くにいるところから「直っています」という言葉だけでもって癒された奇蹟を読みました。それが第二の徴であったことを思い出してください(2:54)。この福音書には七つの徴があって、最後の第八はイエスご自身が死者の中からよみがえられることです。

 イエス様が徴や不思議を行なわれているけれども、それが大事なのではなく、その語る言葉に力があることを私たちは前回学びました。そして神の言葉への信仰、その確信によって私たちは神の徴を見ることができるのだ、ということを学びました。

 そしてここでは、「信じていく」ことについて学びます。信じると言っても、どのように信じるのかが問題です。例えば、綱渡りの天才がいるとします。彼はこれまで一度も失敗したことがなく、絶壁から絶壁へ垂れている綱の上を渡ったこともあるとします。誰もが次に行なう綱渡りも成功すると信じて疑いません。けれども、「今度は皆さんのうちで誰か、彼が背負いながら綱を渡ります。だれか彼の背中に乗っかりたい人はいますか。」と聞かれたらどうでしょうか?実際に、頭の中でそうだと信じることと、そして具体的に行動によってその信仰を表すことは意味が違うのです。この違いを、私たちは足なえがイエスの命令で起き上がった話から知ることができます。 

1A 慈しみの行ない 1−9
1B 無力な病人 1−5
5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。

 場所は再びエルサレムに戻りました。覚えていますか、イエスは初めにエルサレムにいてから、ユダヤ地方に行かれ、そしてサマリヤを通られてガリラヤに行かれました。そこでカナにおいて、王室の役人の息子を癒されたのです。

 そしてどのくらいの期間を経たのか知りませんが、ユダヤ人の祭りになりました。レビ記23章に書いてありますが、ユダヤ人が守る祭りは年に7回あります。その中の三つは大きな祭りで、3月の終わりから4月の初め辺りにある過越の祭り、そしてその50日後に行なわれる五旬節、そして秋に仮庵の祭りがあります。この三大祭りには、ユダヤ人の成年男子が集まることが律法で命じられています(出エジプト23:17)。それでイエス様はその一つの祭りに参加するため、エルサレムに都上りをされました。

5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。

 エルサレムは城壁で囲まれた町です。当時の町はみな城砦になっていましたが、もちろんいくつかの門があります。東側に位置する神殿のちょうど北に、「羊の門」というのがありました。実は、今のエルサレムでも、つい最近までその辺りでアラブ人たちの羊市場があったそうです。

 そして「ベテスダと呼ばれる池」があります。北から流れる水をせき止めて、人々の飲み水、そして神殿でほふられる動物の血などを洗浄する水のために溜められた池がありました(写真参照)。新約聖書はギリシヤ語で書かれていますが、ヨハネはそれをヘブル語で「ベテスダ」と呼ぶと言っています。この意味は「慈しみの家」です。(「ベテ」が家で「ヘセド」が慈しみという意味です。)

 そして「五つの回廊」があります。これはモーセ五書と呼ばれていますが、旧約聖書の最初の五冊、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記を指していると言われています。ですから、神の律法があり、その真ん中に神の慈しみがあるのだ、ということを表している池です。

5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。

 なぜか?その理由が、新改訳聖書ですと下の引照部分に続きがあります。「彼らは水の動くのを待っていた。主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初にはいった者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである。」この文章がないと、なぜ彼らがここに集まっているのかが分かりませんね。

 実際に天使がここにやってきて、その水をかき回しているのかどうかは分かりません。もしかしたら、間欠泉のように定期的に水や温水が噴き出すものがどこかにあって、それで水がスパのように動かしていたのかもしれません。けれども、説明はともあれ、実際に癒された人がいることは確かです。もし何も起こっていなかったら、このようにして病人が集まってくるはずがありません。

 水が動くのが天使によるものであること、そして最初に入りさえすればどんな病気でも癒されること、これを信じて彼らはそこにずっと伏せっていたのです。

 聖書の中に、人々が癒されるとき重要な要素があります。それは「信仰」です。「これさえあれば、私は癒される。」と具体的な行動に移すことによって、癒されるのです。例えば、12年間、長血を患っている女がいました。月経の期間でもないのに不正出血をして、12年間もそれに苦しんでいたのです。医者に診てもらいましたが、かえって悪くなる一方で、そのお金も使い果たしてしまいました。

 そこで女はイエス様のことを耳にして、群集の中に紛れ込み、うしろからイエス様の着ている物に触ったのです。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。(マルコ5:28」と考えていたからです。そして彼女は直りました。イエス様は、「あなたの信仰があなたを直したのです。(5:34」と言われました。その着物そのものに特別な力があったのではありません。そうではなく自分がイエス様によって癒されると信じて、「着物に触れば直る」という具体的な接点を見つけるところまで行動に移したのが、癒された理由でした。

 これを「積極的な信仰」と呼んだらよいでしょう。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7:7」と主は言われましたが、食らいつくように求めていくのです。

 もう一つ「消極的な信仰」と呼んでよいものがあります。「神は癒しを行なわれることは信じる。けれども、今、自分がこの病を持っていることに対しては・・・どうなんだろう、分からない。」というものです。確かに、神がいつもすべての病を直されるわけではありません。それはイエス様が戻ってこられて、私たちの体を変えられるまでは保証できません。けれども同時に、もし積極的に自分から癒しを求める信仰がなければ、癒されようもないことは事実なのです 

 また、信仰そのものを持つべきか、持たないべきか迷っておられる方がいるかもしれません。「この21世紀の時代にももしかしたら神がおられて、イエスも生きておられるかもしれない。けれども、まあ、何か次の機会があれば真剣に考えてみることにしよう。」こういう姿勢では、いつまで経っても神に出会うことはないでしょう。実際に、今の状況の自分を神に任せてみる具体的な決断が必要なのです。

5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。

 38年間です、とても長い期間ですね。これを記しているヨハネの思いには、おそらくイスラエルがシナイの荒野(砂漠)でさまよっていた事があったかもしれません。

 イスラエルの民は、エジプトを出てからしばらくして、神が約束してくださったカナン人の地に入ろうとしたとき、多くの者がそこに巨人がいるとのことで不信仰に陥り、神が裁きとしてエジプトを出てから40年間、そこをさまよい歩くと宣言されました。そしてその大人の世代がみな死に絶えさせるというものです。申命記2章14節に、改めて約束の地に向かう旅を38年後に始めることになったことが書かれています。

 ここには象徴的な意味があるでしょう。ベテスダと呼ばれる神の慈しみの池があります。モーセの律法を表す五つの回廊があります。けれども、そこで神の憐れみを求めていた多くの病人は、水が動いたらもしかしたら癒されるかもしれないというかすかな希望を抱いて、救いようのない状態に置かれていたのです。そしてこの男は、イスラエルが荒野をさまよった38年間と同じ期間、その状態であるのです。

 ヨハネの福音書のはじめに、イエス・キリストの紹介がありました。「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(1:17」律法は、神の正しさ、聖さ、すばらしさを示しはしますが、その力を与えることはできません。けれども、イエス・キリストが来られたことによって、その力、命、恵みが与えられ、律法の意図していることが実現するのです。

 私たちも同じではないでしょうか?私たち日本人は、規則の中に生きている民族です。他の人々に比べれば言われたことをきちんと行なっていく、規律がしっかりした国民です。けれども、今、人々が破壊されています。多くの人が鬱で悩み、自殺をします。ちょうど、この池の周りに座っている病人のように、です。

2B イエスの問いかけ 6−9
5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

 イエス様は数多くの病人を、この池の回りに見ました。けれども、この38年間足なえであった男にのみ近づかれました。「長い間のことなのを知って」とありますが、単に情報として知ったということではありません。「長い期間、このようになっていたのだな」と同情されて、憐れんで言われたのです。ベテスダという名のように、神の慈しみをもってこの男に近づかれたのです。

 イエス様は、このように個人に近づいてくださいます。イエス様は、大学病院のように、短い時間でなるべくたくさんの人を診療して、ベルトコンベアのごとく患者が入れ替わり、立ち代りするようなそういう非人間的な方ではありません。一人ひとりを見ておられます。もしこの中で、「私のような者は、誰も見てくれない。同じような問題を持っている人は多いのだから、私個人の問題とイエスは関係がない。」としたら大間違いなのです。イエス様は、ただ憐れんでくださいます。大勢いる人々の中から、あなたを捜して、そして同情してくださるのです 

5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

 イエス様は、「よくないたいか。」と尋ねられました。けれども男は、「はい、よくなりたいです。」と答えませんでした。なぜ直っていないかの理由を、言い訳をつらつら述べているだけです。彼は、体だけが病んでいるのではなく、癒されたいという意思まで砕かれてしまっています。

 私たちはどうでしょうか?多くの人は、今、自分の置かれている状況の中で失望しています。あきらめています。「良くなりたいか」と問いかけられたとしても、「これまで自分で努力していましたが、努力する度にその期待が裏切られるのです。」と答えるのではないでしょうか?そして無力な状態で、無気力なまま、その問題をそのままにしていることはないでしょうか?

 けれども、イエス様は、「よくなりたいか」と聞かれます。聖書には、全ての人が罪の中で死んでいるとあります。罪の力の中にいることが、自分の自然の状態なのだと思っているのです。そして、今の世界は、「そうです、あなたがそうなっているのは環境のせい、病気のせいなのです。」と説明するのです。

 私の知り合いに、元ゲイの人がいます。今、同性愛者と言えば、それは先天性のものであり病気だから直すことはできない、と言います。そして同性愛者として生きていこうと本人たちもしています。けれども、もし同性にそのような欲求がなくなったら、なくなってほしいですか。」と聞いたら、「もちろん」と答える人が多くいるでしょう。そうなんです、だれも同性愛で幸せではないのです。

 その人は、ある牧師の説教を聞きました。自分のうちから悪霊が出で行ったと証言しています。彼は今、牧師です。その他にも、世界には数多くの人が同性愛から解放されています。

 私は同じように、「永遠の命がほしいとは思いませんか。」とお尋ねしたいです。多くの日本人の人は、「私は命が短いから、精一杯生きられるのだ。」と答えます。本当でしょうか?もともと永遠の命などないと諦めているから、そう言い訳しているのではないでしょうか?もし、永遠の命があったら欲しいと思っているはずです。ただそれをあきらめているだけです。

5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」5:9a すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。

 イエス様のこの命令を聞いた男のことを考えてみましょう。今、病気が直らない説明をしたばかりです。それにも関わらず、「起きなさい」とこの人は言われます。でも起きてみたのです。するとたちどころに足とくるぶしが強くなり、起きることができたのです。

 福音書の中には、このようなイエスの命令が数多くあります。「こうしなさい」という命令は、人間的には不可能です。けれどもその命令にあえて従ってみようとする時に、それに従うことのできる力を神が与えてくださいます。大事なのは、従ってみようとする意志と決断です。

 自分にはクリスチャンとしての人生を歩む自信がないと思われる方が多くおられるでしょう。けれども、問題は自分ができるかできないか、ではないのです。自分が思い切って、その道、イエス様に従う道を歩んでみようと思うその決心なのです。これがありさえすれば、自分ではなく、イエス様が必要な力を与えてくださるのです。

5:9bところが、その日は安息日であった。

 ここまではすばらしい神の憐れみの業の話でしたが、ここからユダヤ人とイエス様の間にある激しい確執の話しに入っていきます。

 「安息日」というのは、モーセの律法の中に定められている一つの規定です。神は六日でこの天地を造られ、七日目に休まれたのを記念して、モーセを通して神はイスラエルに民に、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エジプト19:8」と命じられました。これは日曜日ではなく土曜日です。今でもイスラエルの国では、土曜日には公共機関はすべて停止し、お店もほとんど全てが閉まり、ちょうど日本の正月のようになります 

2A 安息日の規定 10−18
 でもなぜ、この足なえが直ったことが安息日と関係があるのでしょうか?

1B 束縛 10−15
5:10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」

 律法には、安息日に仕事をしてはいけないという戒めがあります。エレミヤ書17章に、「また、安息日に荷物を家から出すな。何の仕事もするな。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりに安息日をきよく保て。(22節)」とあります。そこで、時のユダヤ教指導者は、自分が伏していた床を運ぶのも仕事のうちに入ると解釈していました。けれども、エレミヤ書のこの箇所は、商売をするためにエルサレムの門のところで物を持ってきてはならない、屋台を立ててはならないという文脈で語っていることです。病気が直って、その床を運ぶことを意図しているのではありません。

 ですからイエス様の命令は、神の律法に違反するようなことではなく、律法に関する彼らの解釈に違反していたのです。これが彼らを怒らせました。

 でも、彼らもこの男が長い間、ベテスダの池にいて伏せっていたのを見ていたはずです。顔なじみになっていたはずです。そして今、恵みの御業だとして神をほめたたえてもおかしくないはずです。それなのに今、床を運んでいることで息巻いているのです。神の意図されない規則というものが、いかに人を束縛するか知れません。

5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。」5:13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。

 なんとこの男は、イエス様が誰か知らずに、癒していただいていました。それは、イエス様がすぐにその場を立ち去られたからだとあります。ユダヤ当局のこの締め付けを意識されていたからかもしれません。また、騒ぎがすぐに起って、この男に続けて話しかけることができなくなるからと思っておられたからかもしれません。

5:14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」

 イエス様はこの男を忘れておられたのではありません。むしろ、この男が真の意味で健康でいられるように、続けて働きかけを行なっておられます。体が直ることよりももっと大切なことがあります。それは「」です。体が癒されるよりも、魂の癒し、罪の赦しとその悔い改めが、私たち人間にとって、ずっと大切なことです。

 聖書には、「罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23」とあります。そして、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27」とあります。病気が直っても、必ず死にます。そして罪の赦しがなければ、神の審判が待っています。けれどもキリストが私たちの罪のために十字架につけられ、死んでくださった。このことを信じれば、罪の赦しと霊魂の癒しが与えられるのです。

 よくなっても、イエス様がここで言われているように、「もっと悪い事が起こる」人がいます。宝くじで、億単位で当選した人が、人生の奈落の底を味わうという話があります。同じように、自分がどんなに神から良いことをしていただいても、心の中にある罪の性質を解決してもらわなければ、自分で自分を制御することはできなのです。

5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。

 なんと彼は、イエス様のことをユダヤ当局に通告してしまいました。罪のことを指摘されてからかもしれません。自分に都合の悪いことを言われて、嫌になったかもしれません。または、当局を恐れていたからもしれません。

 実際、イエス様に目を直していただいて、目が見えるようになって、当局に連れられた人がいます。彼も安息日に癒していただきました。彼はユダヤ人議会の中で、この方は神から来られた方だと発言し、そのためユダヤ人共同体から追い出された後に、イエス様に出会い、イエス様を自分の主として受け入れた話があります(9章)。

 イエス様を信じるとは、家族の中での確執、また共同体や社会の中での確執があることを意味します。イエス様との関係はそれほど堅く、強いものなので、対立は避けられないのです。それでも、主に従っていく時に、私たちには何物にも変えがたい報い、永遠の命があります。

2B 迫害 16−18
5:16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。

 福音書は、安息日のことで、ユダヤ教のパリサイ派が中心となってイエスを死刑にするように働きかけたことを記しています。このベテスダの池での出来事が、その発端となる事件でした。

5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」

 確かにその通りです。安息日と言えども、神は生きて働かれているのです。もし働きを止められたら、この地球、宇宙の秩序はたちまち破壊されてしまいます。「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。(詩篇121:4」と詩篇にあります。

5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

 皆さんが日本語で書かれたキリスト教についての書物を開けば、大抵こう書いてあります。「イエスは、自分のことを神であると主張したことはない。」いかがでしょうか?もしイエス様がご自分のことを神であると主張していなかったら、ユダヤ人はこのようにイエスを殺そうなどと思わなかったのです。イエスは神を「わたしの父」と呼ばれています。ご自分を神の部類に入れられておられるのです。もちろん神が二人いるのではなく、神学用語で「三位一体」と呼びますが、三つにして一つの神であられます。

 そしてこれから、イエス様がここにいるユダヤ人たちに、ご自分が神と等しいことについて、そしてその証拠があることについて、そして証拠があるにも関わらずなおも受け入れないことについて話されます。

 ベテスダの池で起こったことを通して、私たちは神の慈しみ、恵みがあることを知ります。今、皆さんが置かれている状況の中にも、神の恵みが働く余地があります。イエス様は、「よくなりたいか」と呼ばれています。そして、「起き上がりなさい」と言われています。それがたとい不可能のように見えても、起き上がってみようとする意志さえあれば良いのです。クリスチャン生活は、自分の生活ではありません。自分を通してキリストが生きてくださる生活です。自分ではなく、神の力を体験する生活です。

 けれども、恐れがあるかもしれません。安息日の規定のように、今の日本社会、自分の家、職場の枠組みから外れてしまう恐れがあるかもしれません。けれども、この機会をベテスダの池の男のように失わないでください。規則や規定の中でがんじがらめになり、罪の中で死にたいですか?それとも、そこから外れても、イエスにある永遠のいのちを持ちたいですか?


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