ヨハネによる福音書6章129節 「誤ったメシヤ観」

アウトライン

1A パンを食べる群集 1−15
2A 嵐の中における主 16−21
3A 永遠の命に至る食物 22−29

本文

 ヨハネによる福音書6章を開いてください。今日は1節から29節までを学びます。前回の学び5章後半では、イエス様がユダヤ人指導者に対して、聖書の知識を持ちながら、またイエス様が行なわれる業を見ながら、なおこの方を信じない問題について話されたところを読みました。今回は、群集がイエス様を信じないことについてです。

 時はイエス様が約30歳の頃に、公に宣教活動を始められて1,2年経った時のことです。イエス様の公生涯は約三年間ですが、もう半ばに入っています。イエス様が行なわれるしるしは、数多くの人々に伝わっていました。特にガリラヤ地方では、数多くのユダヤ人民衆がイエス様に従っていました。

 6章は、イエス様がたった五つのパンと二匹の魚から五千人の男に食事を与える奇跡から始まります。けれども6章の終わりは、その数多くの人々がイエス様から離れていき、十二人の弟子や、その他少数の人々しか残らなかったところを読みます。彼らの期待にイエス様が合わず、失望して離れ去ったのです。イエス様についてきて、イエス様を求めているように見えているけれども、実は勘違いをしている人々の姿をここで読みます。

 そこで今日の説教題は「誤ったメシヤ観」です。前半部分だけを読みます。

1A パンを食べる群集 1−15
6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。

 場所は「ガリラヤ湖」です。イスラエルの北部がガリラヤ地方と呼ばれ、ガリラヤ湖はその東部に位置します。北からヨルダン川が流れ込み、そして湖の南から再びヨルダン川へ水は出て行き、南にある死海に流れ込みます。

 この南西の湖畔に「テベリヤ」という町がありました。それでガリラヤ湖がテベリヤ湖とも呼ばれていました。

6:2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。

 そうですね、これまでイエス様は数多くの病人を直されました。ここヨハネの福音書だけでも、カペナウムの王室の役人の息子が、癒されました。エルサレムでは、ベテスダの池のところに伏していた足なえが立ち上がりました。それで沢山のユダヤ人がイエス様に付いてきていたのです。

6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。

 ガリラヤ湖の北側は丘になっています。ガリラヤ湖を一望することができ、景色もすばらしいです。そこからイエス様は、以前、長い説教を行なわれました。有名な「山上の垂訓(Sermon on the Mount)」です。マタイの福音書5章から7章に書かれています。

 当時は教える者が座って、弟子たちが立ってその教えを聞いていました。山上の垂訓においても、主は座って教えられました。そこでここでも、イエス様は座っておられます。丘になっているので、下にいる人々はイエス様の姿を見ることができました。

6:4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。

 五千人に食事を与える、給食の奇跡は他の福音書にも記されていますが、もう一度思い出してください、ヨハネは他の三つの福音書が記されてからずっと後に、この福音書を書きました。ヨハネだけが、この奇跡の時期を記しています。「ユダヤ人の祭りである過越」です。

 これまでも何度か説明しましたが、イスラエルの民によって過越の祭りは最も大切なものです。今でも宗教的ではないユダヤ人でも、正月のようにしてこの祭りを祝います。なぜなら、過越の祭りがイスラエルの民のルーツになっているからです。

 イスラエル人がエジプトの地で非常に増え、強くなったときに、エジプトの王パロは彼らを奴隷として酷使しました。それで主はモーセを遣わし、この民をエジプトから去らせるように命令しましたが、パロは言うことを聞きませんでした。それで主は、合計十の災いをエジプトに下されましたが、十番目の災いである、エジプト人の男子を殺す災いの前に、主がイスラエルの家で、子羊をほふってその血を、門に塗って、そしてその肉を食べなさい、という命令を主がされました。死をもたらすところの天使が、その血を見て、その家は過ぎ越すと約束してくださったのです。

 それでイスラエル人がエジプトを出て、紅海まで行きましたが、パロが追ってきました。けれども主は紅海の水を分けてくださり、イスラエル人がその中を通り、エジプト軍が後を追っていますが、イスラエル人が渡り終えた時に、主はその水を元に戻されたのです。

 このことによって、主はイスラエル人に、ご自分が彼らの神であり、彼らを救う方であることを示されたのです。ここからイスラエル人は、自分たちが神の所有の民であることを知り、今日に至っています。

 だからユダヤ人が過越の祭りを祝う時は、最もメシヤ待望が強くなります。自分たちが救ってくださる方が来られることを、最も強く意識します。かつて自分たちが奴隷状態であったのを、神がエジプトを救われたのと同じように、今、自分たちがローマの圧制からメシヤが我々を救い出してくださるという期待が膨らんだのです。その時に、イエス様が給食の奇跡を行なわれました。

6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

 他の福音書では、もう夕方になっているので、彼らを解散させて、近くの村々で食べ物を買うようにさせてください、と弟子たちがイエス様に頼んでいたことが分かります。けれども、イエス様は、「あなたがたで食べさせなさい。」と言われました。

 そこでピリポが答えているのですが、「二百デナリのパンでは足りません。」とのことです。一デナリは一日分の労働賃金なので、200日分の労働賃金です。この人たちにパンを用意するだけで、34ヶ月分の給料の費用がかかります、と答えました。

 でも、これはイエス様が「ピリポを試して言われた」とあります。イエス様はピリポの口から、「主よ、あなたこそご存知です。」という言葉が出てくるのを期待されていたのだと思います。主はこれまで人々の必要を満たし、備えてくださいました。例えば、カナの婚礼で、ぶどう酒が切れた時に水をぶどう酒に変えられました。だからピリポは、自分たちでその必要を満たすのではなく、イエス様ご自身に目を向ければよかったのです。

 主は、信仰者をこのような状況に導かれます。必要に事欠くようにされます。そして、私たちにテストを与えられるのです。ちょうど学校で試験があるように、必要の源であられるイエス様の所に行くことができるかどうかの試験を行なわれます。

6:8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

 アンデレは、ピリポよりは信仰があったようです。とりあえず行動に移しました。けれども、少年がパン五つと魚二匹しか持っていない、と言って、やはりイエス様に必要の満たしを求めることをしませんでした。

6:10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。

 イエス様は他のユダヤ教のラビ(教師)が行なわれるように、食前に感謝の祈りを捧げておられます。そして奇跡が起こりました。

6:12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」6:13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。

 ここの「十分食べた」というのは、「お腹がはちきれそうなぐらい満腹した」という意味です。それでもなお、パンが十二の籠いっぱいに余っています。この「十二」という数字は、おそらくイスラエル十二部族を表していたことでしょう。主なる神が、イスラエル全部族の必要を満たし、備えてくださる方だ、ということも暗示していると思います。

 なお、ここの奇跡の記事を読んで、いろいろな人がいろいろな解釈をします。クリスチャンと呼ばれる人でさえ、「実は、ここにいる人々は懐に自分のパンを隠していたのだ。それを、少年が自分の食べ物を持ってきたのを見て、その自己犠牲の姿に感動して、自分を恥じて、それで自分のパンを出し始めた。」と言います。

 次の節に、このしるしを見て、人々がイエス様を預言者だと感嘆し、王として担ぎ上げる場面が出てきます。自分の懐からパンを取り出しておいて、それでイエス様を預言者だと驚くでしょうか?非論理的です。

 この世は、すべての奇跡的な出来事を非論理的だとして片付けることが多いです。「ナルニア物語」の中に、面白い話があります。一番下のルーシーが、衣装ダンスからナルニア国に入りました。それを上の三人のお兄さん、お姉さんに話したのですが、信じてもらえません。お姉さんのスーザンは、その家の持ち主の教授に「ナルニアという国があるなんて論理的ではない。」と言いました。けれども、教授は「ルーシーは嘘を付くような子かい?」と聞きました。三人はルーシーが正直者であることをよく知っています。それで教授は言いました。「ルーシーは嘘を付かない。そのルーシーが、ナルニアはあるという。ならば、ナルニア国が実在すると考えるのが論理的なんじゃないのかい?」と尋ねました。目に見えない世界は存在することをすべて非合理的だと考えるほうが、むしろ非論理的だ、ということです。(参照:http://w2322.nsk.ne.jp/~tkchurch/narnia_3.html

6:14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。6:15 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。

 ここが、この6章における重要な箇所です。イエス様がこれまで数多くの奇跡を行なわれました。それを多くのユダヤ人が見て、信じました。そして過越の祭りを前にして、五つのパンと二匹の魚から五千人の男に食事を与えるという奇跡を行なわれました。それで、彼らのメサイア・フィーバー、メシヤ待望感が頂点に達したのです。

 「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言っているのは、ユダヤ人が最も偉大だと考えているモーセが語った言葉です。彼らがエジプトから出て行くのを導いたあのモーセこそが、神に選ばれた大預言者であるとユダヤ人は認めていたし、今もそう思っています。

 そのモーセが死ぬ間際にこう預言しました。申命記1818節にこう書いてあります。「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。」この「もうひとりの預言者」がメシヤ、救世主であられ、自分たちを救ってくださる預言者であると考えました。

 ところがイエス様は、このご自分を祭り上げる動きにすばやく反応されました。その場から急いで離れて、独り山に退かれたのです。

 なぜでしょうか?イエス様は、イスラエルのメシヤとしてこの世に来られたのです。ユダヤ人の王としてこの世にお生まれになりました。そして多くのユダヤ人がご自分を王として認めようとしています。けれども、イエス様は、これは危険な動きだと思いすぐに引き下がられたのです。

 なぜでしょうか?ご自分を王にしようとするその動機が誤っていたからです。26節をご覧ください、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」言い換えれば、民衆は自分を支配する王を迎えていたのではなく、自分の必要を満たす、自分に仕えてくれる存在を求めていたのです。王として担ぎ上げることによって、自分の得になるよことをしてくれると期待して、王にしようとしていたのです。

 私の妻は、韓国の時代劇が好きです。朝鮮王朝のドラマです。そこには必ず苦悩している王の姿を見ることができます。王は絶対君主であり、自分が正しいと思うことをことごとく行なうことができる地位にいるはずなのに、実は何もできないことを発見する苦悩です。宮廷内のある派閥が、王族のある人を擁立するために働きかけます。それでその人が王になれば、自分たちの派閥の権益を、王を通して宮廷内に広げようとします。自分を王としてくれた人々だから、その人々の要求に応えなければ自分の立場が危うくなる、という葛藤です。

 これは実は教会内でも起こります。ある信徒が「何々先生!先生の説教は本当にすばらしいです。」とほめちぎります。その一方で、「先生が今日、話されたことは、信徒の心を傷つけます。配慮が足りません。どうか訂正してください。」と言います。「牧師なのだから、こうあるべきだ。」という理想像を牧師に要求することによって、実は、自分の欲求を満してくれる僕にしているのです。

 そして、信仰を持つべきかどうか迷っておられる方がおられるなら、一つ知らなければいけないことがあります。信仰を持つことは、一つの大きな決断をすることです。これまでは、「自分が生きていくためには、自分がそうすればよいのか。」という哲学を持って生きてきました。その手段として、いろいろな人に出会い、本を読んで教養を深めたり、またもちろん一生懸命働いて、お金をもうけました。その延長線上で、キリスト教も自分を生かすために有益ではないかと思っておられるならば、失望します。ちょうどイエス様が、ユダヤ人民衆から離れられたように、イエス様は離れてしまわれます。

 なぜなら、自分を生かすのではなく、自分の心の王座にイエス様が着かれることを決断するのが信仰だからです。イエスが主であると告白することが、キリスト者の信仰だからです。自分を生かすための僕ではなく、自分が死に、キリストが自分の心の王としてお迎えすることなのです。

2A 嵐の中における主 16−21
6:16 夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。6:17 そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。6:18 湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。

 ガリラヤ湖の付近に行きますと、風が強く吹いています。ガリラヤ湖から死海にかけて南北に、「ヨルダン渓谷」という低地が走っています。世界で最も低い陸地が死海であることは有名ですね。ガリラヤ湖も海水面下にあります。したがって、気温の変化などで強い風が吹くことはしばしばです。そこで彼らは向こう岸にあるカペナウムに行こうとしましたが、強風に見舞われました。

6:19 こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。6:20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」6:21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。

 驚くべき奇跡ですね。水の上を歩かれて、しかも舟に入られたらその強風は止み、目的の地に着きました。

 ここで大事なのは、「わたしだ」という主の言葉です。他のイスラエルの人々は、自分たちの腹を満たしてくれたからこの方を王としようとしましたが、弟子たちは「わたしだ」というイエス様の言葉を聞いて、安心し、喜んで舟に迎え入れていることです。弟子たちは、イエス様をイエス様として、そのままのお姿を喜び、迎え入れていたのでした。

 これが本当の信仰です。ヨハネの福音書には、「わたしだ」という言葉が数多く出てきます。ギリシヤ語では、「エゴ・エイミー」です。自分の必要が満たされる前に、この方をこの方としてそのまま受け入れ、信じることです。なぜなら、この方が全ての全てになられるからです。

 この後で、イスラエル人たちが「あなたはパンを天から降らせてくださるのですか。」と聞きますが、イエス様は、「わたしがいのちのパンです。(35節)」と言われました。また、人が暗やみのこの世において光を求めている時、「わたしは、世の光です。(8:12」と言われました。人々が人生の導きを求めている時、「わたしは羊の門です。(10:7」「わたしは良い牧者です。(10:11」と言われました。ラザロという人が死んで姉妹が悲しんでいるとき、主は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。(11:25」と言われました。そして弟子たちが、「どうしてあなたが行かれる道が分かりましょうか。」と聞いた時に、イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(14:6」と言われました。

 そして、この「わたしだ」あるいは、「わたしがある」、英語ですと"I AM"という言葉は、出エジプト記で、神がモーセに現われた時にご自分の名前を紹介された時に言われた言葉です。「わたしは、『わたしはある。』という者である。(3:14」と言われました。

 矛盾するようですが、この方を初めに受け入れ、この方こそが自分の全てであると認め、自分の人生をこの方に明け渡す時、私たちの必要は付いて満たされます。自分を生かすためにこの方を用いようとするならば、決して受け取ることができると期待してはいけませんが、この方にすべてを明け渡す時に、主がその必要をすべて満たしてくださいます。イエス様は、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者はそれを救うのです。(マルコ8:35」と言われました。

3A 永遠の命に至る食物 22−29
6:22 その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。6:23 しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。6:24 群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。6:25 そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」

 59節を見ると、イエス様はカペナウムのユダヤ教会堂(シナゴーグ)にて、教えておられました。その姿を見て、「いつここに来られたのですか。」と尋ねました。

6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」

 イエス様は、彼らの質問には答えず、再び「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」という言葉から始められています。主は真理に満ちた方ですから、人の心にあるものを全て知っておられます。彼らの動機を全て知っておられたのです。

 そこで、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と言われたのです。皆さんに質問をします。「ご自分が死なれたら、どうなりますか。」この質問に明確に答えられないのであれば、イエス様がここで言われている「なくなる食物のために働いている」ことになります。自分の肉体を生かすために勉強をして、仕事をして、他の趣味をしています。でもその人生も70歳、80歳で終わりです。多くの人は病気になったり、事故などでもっと早く死んでいます。その肉体の人生だけ考えて生きている、つまりなくなる食物のために生きているのです。

 だから「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と言われました。聖書は、この肉体だけではなく、人には魂そして霊があると教えています。体は地面のちりに帰るが、霊は神のところに行きます。それで霊が確かに神と共に生きることができるのか、その確証はあるか、そのために考えて、生きなさいと言われているのです。

 イエス様はご自分を「人の子」と言われています。これはダニエル書7章で、メシヤのことを指しています。「わたしが神に認証を受けたキリストである」と言われているのです。

6:28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

 群集の質問とイエス様の答えは対照的です。群集は「何をすべきでしょうか」と聞いているのに対して、イエス様は「信じることです」と答えられています。

 人の「行ない」と「信仰」、実は「行なう」ことの方が簡単なのです。信じだけで救われるのであれば、たくさんの修行をして、良い行ないを積み上げて救いを得るより、ずっと楽で、易しいではないかと思われるかもしれませんが、実は信じるほうが大変なのです。

 もし、「あなたが永遠の命を持ち、クリスチャンにためには、これから二ヶ月間、一回も休むことなく教会の礼拝に通ってください。」と言われたら、楽です。それさえ行なえばクリスチャンになれる、という明確な目標があります。「祈りを毎朝、10分でいいので行なってください。」「聖書を2章分ずつ読みましょう。」こう言われたほうが楽なのです。

 「救われるために何もする必要はありません。主イエス・キリストを今、信じてください。」と言われると、とまどってしまいます。自分が何をすればいいか分からなくなるからです。はっきりした目標設定ができなくなるから困ります。

 なぜなら、それはこれまでの生き方の大転換だからです。「これこれをすれば、自分のためになる」という生き方から、「神がキリストにあってこれこれのことをしてくださった。これからは、この方が私の内に生きて、この方に生きていただくのだ。」という生き方に変えるからです。これまでは自分の知恵や力により頼んでいましたが、これからは神の知恵や力により頼みます。これまで読んできたイエス様の奇跡を、今度は自分の人生と生活の中で体験する生活に変わるからです。

 神がキリストにあってしてくださったこと、それは「あなたを愛された」ということです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10」罪から来る報いは死です。死んで、神の裁きを受けなければいけません。けれども、神はその裁きをキリストの上に置いてくださいました。あの十字架がその死刑台です。つまり自分の罪のため、身代わりとして死んでくださったのです。それはあなたの罪を赦して、そして神のおられる天に入ってきてほしい、永遠の命を得てほしいと願われているからです。

 そしてすでに信仰を持たれている方は、「信仰によって始まったのだから、信仰によって完成してください。」と言います。神のわざを行なうには、イエスを信じることです。「私が神の業を行なわなければいけない。」と思っても、何度も何度も失敗しないでしょうか?奉仕をたくさん行なって、疲れないでしょうか?礼拝が強制的なものになっていないでしょうか?神のわざを行なうのは、イエス様を信じることです。

 「イエス様を信じることはしている」・・・ではありません。イエス様がどのような方か、どのようなことを行なってくださっているのか、この方を見つめることです。この方に触ることです。この方をじっくりと見つめることです。ヨハネは第一の手紙で言いました。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、・・このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。・・(1:1-2」これこそが、永遠の命なのです。そしてイエス様は父なる神にこう祈りました。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17:3」知ることそのものが、永遠のいのちなのです。

 そして行ないではなく、信仰によって御霊が与えられます。「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(ガラテヤ3:2」信仰をもってイエス様を見つめる人の内で、聖霊が働いてくださいます。それで、私たちではなく、私たちを通して聖霊が神の業を行なってくださるのです。

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