ヨハネの福音書7章 「分裂」

アウトライン

1A イエスの良さ 1−13
   1B 悪い行ないのあかし 1−9
   2B 憎しみ 10−13
2A イエスのしるし 14−36
   1B うわべのさばき 14−24
   2B 神から来る方 25−31
   3B 神へ戻る方 32−36
3A イエスのことば 37−53
   1B 生ける水 37−44
   2B 誤った情報 45−53

本文

 ヨハネの福音書7章を開いてください。ここでのテーマは、「分裂」です。それでは、本文を読みましょう。

1A イエスの良さ 1−13
1B 悪い行ないのあかし 1−9
 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。

 
私たちは前回、6章の学びにおいて、イエスがガリラヤで宣教を行なわれていた話を読みました。そして、その理由がここに書かれています。ユダヤ人がイエスを殺そうとしていました。これは、5章のことに戻ります。5章では、イエスがエルサレムにおいて、38年間足なえの男をおいやしになった場面がありました。男に対して、イエスは、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われました。すると男はすぐに直り、床を取り上げたのですが、その日は安息日だったのです。そのことを知ったユダヤ人指導者は、イエスを死刑にしなければならないと考えたのです。5章18節には、「このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。」とあります。イエスは、ご自分のいのちが取られるのを恐がって、彼らを避けていたのではありません。イエスは、ご自分のいのちを捨てるために、この世に来られました。けれども、それには時があるからです。公にご自分がキリストであることを示し、全世界の罪の供え物としてご自分をささげする時が、定められていました。この時がまだ来ていないので、イエスはエルサレムにいる、ご自身を殺そうとするユダヤ人を避けておられました。


 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。

 
仮庵の祭りが近づいています。7章では、仮庵の祭りが舞台設定になっています。仮庵の祭りとは、ユダヤ人が例年行なう3代祭りの一つであります。3代祭りとは、過越の祭りと五旬節と仮庵の祭りです。仮庵の祭りは、イスラエルがエジプトを出て荒野の生活をしたとき、神が彼らを守って下さったことを祝うものです。荒野の中で仮住まいをしていたことを思い出すために、木の枝や葉っぱで仮の庵をつくって、8日間そこに住みました。仮庵からは、夜空の星が見えます。子どもが、「お父さん。夜空のお星さまが見えるね。」と言うと、父親は、「私たちの先祖は、同じように夜空を見て、荒野の生活をしたんだよ。」と語りかけて、神がイスラエルにしてくださったことを語るのです。そして、仮庵の祭りの時、神殿では、毎日祭司が肩に大きな水瓶を担ぎ、シロアムの池に下っていったと教えられています。シロアムの池で祭司は水瓶に水を満たし、神殿の山へのたくさんの階段を上って行進したのです。人々が集まって詩篇115編から118編を歌う中、祭司は、舗装道路に水を注ぎ出すのでした。先祖が渇きで死にそうになっている時、どのように神が水を岩から出して備えてくださって、先祖が生き延びることができたかを思い出すためのものでした。

 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」ヨハネは、この発言に対し、兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

 と説明しています。兄弟たちの発言は、一見、イエスの働きを認め、それを支えているように聞こえます。エルサレムの弟子たちだって、教えが必要だろう。それに公に出なければ、教師としてみなに認められないではないか、とアドバイスしているわけです。けれども、実際は、イエスのいのちをユダヤ人たちの手に渡すような恐ろしいことを勧めていたのです。彼らはそれに気づいていなかったでしょうが、結果的にはイエスを殺す方向に導こうとしていました。


 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。

 
わたしがエルサレムに公に現われる時はまだ来ていません。けれども、あなたたちはいつでもエルサレムに行けます、ということです。

 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。

 
がイエスの兄弟たちを憎むことができないのは、兄弟たちはまだ世の一部だからです。けれども、世はイエスを憎みます。たとえイエスを敬っているように見えるような人々でも、イエスを心のうちに受け入れていないのなら、根本的には憎んでいるのです。えっ、まさかと思われるかもしれませんが、イエスを受け入れるということは、次の働きが心の中で起こるからです。

 わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。

 
イエスは、私たちの行ないが悪いことをあかしされます。それは、さばく、ということではなく、明らかにすることです。例えば、悪いことをしている集団の中に、一人だけ良いことをしている人がいます。その良いことをしている人を見ると、他の人は、自分が悪いことを行っていることに気づきます。良いことをしている人は何も他の人を責めたりしていないのだけれども、悪いことをしている人たちは、責められた気分になります。それは、自分が悪いことを行なっているからです。これと似た働きを、イエスは行なわれていたのです。ですから、この働きを嫌がる人は、イエスを憎みます。イエスのことばが、心の奥底にまで突き刺すので、単なる嫌悪感ではなく憎悪になるのです。

 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

2B 憎しみ 10−13
 しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。

 人目につかないような小道を通って、エルサレムに行かれたのかもしれません。

 ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか。」と言って、イエスを捜していた。そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ。」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ。」と言う者もいた。

 
群集の間で意見が真っ二つに分かれています。良い人だ、という人たちもおり、群集を惑わしているという人もいました。イエスについて世界は二つのグループに真っ二つに分かれています。イエスの味方か、イエスの敵かのどちらかのグループの中に入るのです。イエスは言われました。「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。(ルカ12:51)」でも、多くの人が自分は中立だと思っています。とくにイエスに敵対なんかしていないと感じます。けれども、それはイエスが言われたこと、イエスが行われたことに注目していないからです。もしイエスのことばとわざをまじめに受けとめるなら、中立だと思っている人はみな自分がイエスに激しく敵対していることに気づきます。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしともに集めない者は散らす者です。(ルカ11:23)」とイエスは言われました。

 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。

 イエスをキリストと言ったら、神殿から追放されるように決められていたので、彼らは恐れていました。

2A イエスのしるし 14−36
1B うわべのさばき 14−24
 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」

 彼らは驚きました。イエスは大工の息子であり、エルサレムにおいてラビから教育を受けたわけではない。でも、なぜこんなに知識があるのかと思い驚きました。

 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。


 イエスは、ここで、「私は、ラビからではなく父なる神ご自身から教育を受けました。」とおしゃっているのです。

 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。


 イエスの教えには、不正がありませんでした。自分の栄光ではなく、神の栄光を求めるようなものでした。憎むのではなく、赦しなさいと教え、嘘ではなく真実を話すことを教え、弱った者を助けるように教えられました。その教えに、何も悪いことはありません。

 モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。

 
ものすごい告発です。律法を守っていることを誇っていたユダヤ人指導者に対して、律法を守っていないと訴えておられます。実際、だれも律法を守ることができていませんでした。ペテロがそれを認めています。使徒行伝15章ですが、「それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。(10節)」と言いました。

 「あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」

 この群集は、世界中から巡礼に来たユダヤ人なので、エルサレムで指導者たちがイエスを殺そうとしていたことを知らなかったのでしょう。だから、イエスは気が狂ったかと思ったのです。

 イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。38年間足なえだった男をお直しになったわざのことを話されています。モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。・・ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。・・それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。

 モーセの律法には、男の子が生まれたら8日目に割礼を授けなければいけないという掟があります。そして、同じくモーセの律法に、安息日には働いてはならないという掟があります。ですから、8日目がちょうど安息日になったとき、彼らの解釈によれば割礼を施してはならないことになりますが、彼らは実際、割礼を授けていました。彼らは、イエスがいやしのわざを行なわれたことに腹を立て、イエスを殺そうとしていたのですが、それがいかに偽善的であるかをイエスは指摘されたのです。しかも、イエスの行われたことは、「人の全身をすこやかにする」という良いわざです。なのに、なぜそれに腹を立てるのか、と訴えておられます。

 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。

 これが、彼らの問題でした。正しくない、うわべだけのさばきをしていました。人は、イエスによって悪い行ないが明らかにされると、それを続けたいのでイエスを憎むようになります。そして、イエスを憎むようになると、イエスについてのことを正確に理解することができなくなります。感情が先走って、物事をありのままに見つめることができなくなるのです。

2B 神から来る方 25−31
 そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。

 
エルサレムの住民は、この人はユダヤ人がつけねらっているイエスだと言うことに気づきました。

 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」

 彼らは、イエスがキリストでない理由として、自分たちはイエスの素性を知っていることを挙げています。イエスがガリラヤ地方のナザレで育ち、母親がマリヤで父親がヨセフであることを知っていました。また兄弟の名前も知っています。けれども、彼らは、キリストは突如として現われると信じていました。確かに、主は突如として天から雲に乗って来られる預言はあります。けれども、キリストは同時に、「女の子孫」と呼ばれ、また、「私たちに、みどりごが与えられる。」という預言もあります。人として、赤ちゃんとして生まれることが預言されているのです。そこで、イエスは彼らに答えられます。

 イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」


 私は確かに人として生まれたが、わたしは神だ、とおっしゃっているのです。

 そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。

 
全能で主権を持っておられる神が、イエスをまだユダヤ人の手に渡されないようにされています。けれども、ここで人々がイエスを捕らえようとしていることは興味深いです。彼らは、イエスが何を言わんとしているか理解できたので、捕らえようとしたのです。彼らはむろん、イエスを信じないと言うところに問題はありましたが、一つだけ正しいことがあります。それは、イエスのことばを重大に受け止めたことです。あまりにも多くの人が、イエスのことばを軽く受けとめます。ある時、私に、失恋して人生のやり直しをしようとしている人が、ある聖書のことばを見て元気づけられたと言いました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)」と言うものでした。それを見て私は、「では、キリストを信じますか。」と聞いたら、「いや。クリスチャンの方々には申し訳ないのですが、その部分は飛ばしているのです。」というようなことをおっしゃいました。でも、きちんと読めば、人生のやり直しどころか、彼はまだ古いのです。彼はまだ死んでいるのです。おそらく、そう言ったら彼は怒りまくったでしょうが、でも文字通りの意味はそうなのです。ですから、神のことばの意味を真剣に受けとめるなら、それがいかに、自分の心を突き刺す、剣のようなものであるかを発見します。

 見てください、今度も、イエスのことを真剣に受けとめる人たちが現われます。群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」彼らは、イエスが38年間足なえの男が直ったことなどのさまざまなしるしを見て、信じました。先ほどは、「良い人だ」と言っていましたが、今度は、「もしかしたら、この方はキリストかもしれない。」というものでした。イエスは、ものすごい反対に会っていると同時に、ものすごい勢いで、人々を信仰に導いておられます。

3B 神へ戻る方 32−36
 パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」

 
これは、イエスが十字架につけられたあと、天に上られる話しであります。そして、彼らは天に来ることができない、つまり地獄に行くことを話されています。

 そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。彼らは、イエスのことばを地上のこととしてとらえました。『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」

 このように、イエスはご自分が神から来て、神のところに戻られることを語られました。

3A イエスのことば 37−53
1B 生ける水 37−44
 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

 祭りの終わりの大いなる日です。これは仮庵の祭りの8日目のことです。主の聖なる安息日でしたから、労働をしてはいけませんでしたので、祭司はシロアムの池への行進をしませんでした。これは、安息日には重荷を負ってはいけないことになっていたからです。8日目は、水を注ぎ出すことは行われませんでした。しかし、神が約束に約束を守ってくださり、水が豊かな土地、乳と蜜が流れる土地と描写されている土地に導いてくださったことを認める重要な意味がありました。このように、8日目は、祭りの大いなる日だったのです。そこで、イエスが大声で叫ばれたのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、・・その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

 私たち人間はすべて、神に対する渇きを持っています。人がみな水を欲するように造られているように、神を欲するように造られているのです。けれども、私たちは不思議に、神への渇きを他のもので満たそうとします。物によって、人間関係によって、知的な活動によって満たそうとします。ある時は、教会の活動さえ、自分を満足させるための代用物になるのです。しかし、それが偽の満たしであるかどうかは自ずと分かります。また渇いてしまうからです。神によって満たされるのであれば、また渇くことなく、ここに書かれているとおり、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」のです。そして、その川が自分から流れ出るようになる方法は、「イエスのところに来て、イエスを信じる」ということになります。これは、心の奥底にある飢え渇きをイエスに持って行き、心の中のものをすべて、そのままイエスに持っていくことです。これは実に簡単な行為ですが、と同時にとても難しい行為です。なぜなら、私たちは単純に心を他者に明け渡すことを恐れるからです。他者に明け渡せば、裏切られ、傷つけられることを知っています。そのため、普段は仮面をかぶって、自分で自分を守って日々の生活をするわけです。

 でも、恐れることはありません。相手は人間ではなく、誤りのない、きよく正しい神だからです。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

 私たちがイエスのところに来るとき、聖霊なる神が私たちに臨んでくださいます。イエスがこのことを話された当時は、だれもその意味がわからなかったのですが、使徒ヨハネは、約50年後にこの福音書を書きました。だから、その間、イエスが何のことをおしゃられたのかを理解できたのです。聖霊は、慰め主と呼ばれ、もうひとりの助け主と呼ばれています。イエスが弟子たちとともにおられて、弟子たちをいつも助けてくださいました。私たちは、聖書に書かれている弟子たちの姿を見て、なんとうらやましいことかと思います。イエスがそばにいて、いつも助けてくださったからです。けれども、イエスは、「いや、あなたがたも同じように助けられます。わたしは、わたしと同じ性質をもった助け主を送ります。」と言われました。私たちの生活と、弟子たちの生活の間にギャップがあるでしょうか。彼らには愛があるのに、私たちにはない。彼らはイエスを本当に慕っていたのに、自分にはない。彼らはともに祈って一つになっていたのに、自分にはない。そうしたギャップを感じるなら、聖霊を求めましょう。聖霊を求めて、福音書と使徒行伝に書かれているイエスと弟子たちとの関係が、私たちのうちにも実現するように祈りましょう。

 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。

 先ほどは、「キリストであるかもしれない。」という反応でしたが、今は、「この方はキリストだ。」と断言しています。多くの人が、イエスのことばを聞いて信仰に導かれました。けれども、また他のグループの人たちがいます。

 またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」

 彼らはイエスを信じませんでしたが、その理由は、不完全な情報によるものでした。彼らは、イエスがナザレで育つのを知っていたので、生まれたのもナザレであると考えました。またダビデの子孫ではないと思っています。ところが、ヨセフはナザレには住んでいましたが、彼はダビデの子孫でありました。住民登録のために、ダビデの町であるベツレヘムに宿をとったとき、マリヤからイエスがお産まれになったのです。彼らは、聖書は知っていましたが、イエスのついての正確な情報を持っていなかったのです。

 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。

 
分裂は、さらに激しいものとなりました。

2B 誤った情報 45−53
 それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」

 ものすごいですね。イエスを捕らえに行った役人が、逆にイエスのことばに惹きつけられています。イエスが、「わたしのところに来て、飲みなさい。」と言われたことばに魅了されたのです。

 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。

 これは嘘です。以前イエスに会ったニコデモはイエスを信じたし、その他アリマタヤのヨセフなども信じました。

 だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」

 ものすごい高慢です。自分たちは律法を知っているが、群集はのろわれていると言っています。イエスを拒むことによって、このように悪が明らかにされるのがわかるでしょうか。イエスを拒むことによって、自分の心の奥底に持っている罪が搾り出されます。ですから、私たちはすぐに、イエスのところに行くのが良いのです。私たちがイエスに近づけば、イエスが私たちの心をきよめ、罪を取り除いてくださいます。

 彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」

 ニコデモは、イエスに直接聞きに行った人物です。律法に従っていました。けれども、彼らはこの律法を無視します。

 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」


 いいえ。聖書の多くの預言者が、ガリラヤ出身だと言われています。ヨナ、ホセア、ナホムはガリラヤ出身であり、もしかしたら、エリヤ、エリシャ、アモスもガリラヤから出てきたかもしれないと言われています。ですから、彼らは一貫性をなくしています。彼らの心の罪があぶり出されただけでなく、このように一貫性をなくしてしまいました。

 そして人々はそれぞれ家に帰った。

 こうして、仮庵の祭りにおけるエルサレムの状況を見てきましたが、人々が真っ二つに分かれたことがおわかりになられたと思います。イエスは、私たちの悪い行ないを明らかにされます。私たちはその時、主の御前にへりくだり、イエスのみもとに出て行くなら、生ける神の御霊が心の奥底からあふれ出るようになります。けれども、それを拒むのであれば、イエスを憎み、憎むとますます悪がにじみ出てきて、一貫性を失ないます。「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なる者とされなさい。(黙示22:11)」と御使いがヨハネに言いました。選択はみな、私たちにかかっているのです。祈りましょう。



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