ヨハネによる福音書7章136節 「イエスを判断する人々」

アウトライン

1A 公の場に出ないイエス 1−13
   1B ご自分を憎む世 1−9
   2B 恐れる人々 10−13
2A うわべの裁き 14−24
   1B 正規の学問 14−19
   2B 自己矛盾 20−24
3A イエスを捕える動き 25−36
   1B 人間的に裁く人々 25−30
   2B 理解不能の言葉 31−36

本文

 ヨハネによる福音書7章を開いてください。今日読むところは、イエス様について、ああだ、こうだと言って、誤った判断をする人々の話です。誤った情報、また足りない情報の中で早急な判断を下したり、また偏見によって殺意まで抱いています。それで、メッセージの題が「イエスを判断する人々」です。早まった判断をすること、人を裁き、非難するという私たち人間にある身近な問題を見ていくことができます。

 7章においてイエス様は、ガリラヤからエルサレムに動かれています。ユダヤ人の祭りがあるからです。けれども、そこにはご自分を殺そうと思っているユダヤ人たちがいる所でした。覚えていますか、5章でイエス様が同じくユダヤ人の祭りの時に、ベテスダの池で横たわっていた38年間、足の利かない男を立ち上がらせました。その日が安息日だったので、ユダヤ人はイエス様に迫害を始めた、とありました。称して「ベテスダ事件」です。このベテスダ事件によって、ユダヤ人の宗教指導者はイエスを殺す方針を固めていました。そのような敵対的な雰囲気に満ち、そして危険な地域の真ん中にイエス様が行かれます。

1A 公の場に出ないイエス 1−13
1B ご自分を憎む世 1−9
7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。7:2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。

 「仮庵の祭り」とは、ユダヤ人の三大祭りの中で秋の祭りです。レビ記23章に詳しく説明があります。春の祭りに、3月から4月にかけて行なわれる過越の祭りがあります。それから五十日後に五旬節、ペンテコステがあります。そして夏を通り越して、今の9月から10月にかけてこの「仮庵の祭り」があります。

 「仮庵」という日本語は、「仮の庵」言い換えれば「仮住まい」です。仮庵の祭りは、イスラエルの民がエジプトから出て、約束の地に行くまでの旅を神が守ってくださったことをお祝いする祭りです。荒野での天幕、テント生活のことを思い出すために、仮住まいとなる家を作って、その中で寝ます。木の枝によって作るその仮庵の中に住んで、例えばこのようなお父さんと子供の会話があります。「お父さん、枝のすき間から星が見えるよ。」お父さんが、「そうだね。昔、私たちの先祖も夜に、このようにして星を見ていたんだよ。」また子供が、「ちょっと寒いね。」と言ったら、お父さんは、「私たちの先祖も、砂漠の夜の中で寒い思いをしながら寝ていたのだよ。」このようにして、父から子へ、先祖たちの荒野の旅を言い伝えて、イスラエルの神の真実さを教えていました。

 仮庵の祭りも、他の二つの祭りと同じく、ユダヤ人の成年の男性は必ずエルサレムに上り、参加しなければいけません。ですからユダヤ人であるイエス様も参加しなければならなかったのです。

7:3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。7:4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

 イエス様の「兄弟たち」ですが、正確に言えば「半兄弟」です。イエス様はまだ夫婦の関係を持つ前にマリヤから聖霊によって生まれましたが、彼らはマリヤとヨセフとの間に生まれた弟たちです。

 一見、イエス様が行なわれていることを認め、イエス様を支持しているような発言をしています。ガリラヤで数多くのわざをイエス様は行なわれていました。けれども、その働きをユダヤ人たちに公式に認めてもらうためにエルサレムに行くべきだ。そしてユダヤ人たちが集まる祭りの時に行くのは絶好のチャンスではないか、という助言です。でも、ヨハネは注釈を入れて、「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」と言っています。

 先週、私は実家に戻りました。両親に会いましたが、彼らがイエス様を信じたのが2003年と確認できました。7年前のことです。今でこそ、息子がしていることを私の父は神に感謝して、応援してくれていますが、信仰を持つ前は違いました。

 父は店を経営している経営者ですが、ある牧師が行なった講演ビデオを私に見せてくれました。経営者向けの講演です。そして父は、「お前もこのように大きなことを目指して頑張りなさい。小さな所でちまちまやらないで、世の中に役立つようなことを行なって活躍しなさい。」つまり、この世で認められるようになりなさいという勧めです。これと同じような感じでイエスの兄弟たちは、ユダヤに行きなさいと勧めたのです。

 他にも私は、インターネットの掲示板である未信者の人から、「これだからキリスト教会は布教がうまくいかないのだ。もっと伝わるように、言い方を変えなければいけない。」と説教(?)されたこともあります。そしてキリスト教会までもが、これと同じ意見を持っていることがあります。「この世に調子を合わせないから、人々が教会に来ないのだ。私たちが伝え方を変えなければならないのだ。」と言います。果たしてそうなのでしょうか?

7:6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。7:7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

 イエス様は、ここヨハネの福音書の中で、「わたしの時」というのを何度も使っておられます。これは、「わたしがキリストとして、メシヤとして公に現われる日」ということです。その日は定められています。ダニエル書924節に、「七十週が定められている」とあります。六十九週が来ればメシヤが来て、それから彼は断たれる、つまり殺される、とあります。イエス様が、「ホサナ!」という群衆の歓喜の声に囲まれて、メシヤとして公にエルサレムに入城し、その五日後、十字架に付けられて殺されます。その時が「わたしの時」です。まだそれは来ていません、と言われます。

 そして世は「わたしを憎んでいる」と言われます。世は、イエス様を認めないのです。教会の福音の伝え方が良くないから、キリスト教が日本に伝わらないのではないのです。もともと世は、イエス・キリストの福音を憎んでいるのです。福音に反対して、敵対しているのです。

 理由は、「わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです」とイエス様は言われます。前回も学びました、イエス様を信じるということは、自分の心の王座から自分が退き、イエス様に着いていただくことを意味します。自分がこれまで生きていた、その自尊心を捨てて、初めてイエス様を信じることができます。これは今までの生き方の大転換です。自分の生き方が間違っていたのだ、と悟らせるのがイエス様です。それゆえ、自分のあり方を捨てたくない人はイエスを憎むのです。

 けれども、この世からキリスト教会が受ける正当な侮りや憎しみがあります。それは、この世に調子を合わせていないから受ける侮りではなく、むしろこの世に調子を合わせているから受ける憎しみです。教会が金儲けをしたらどうでしょうか?教会が教会員の人数が増えるように競争したらどうでしょうか?教会に有名人を招き入れて、その人の名前を使って教会の名前を宣伝しようとしたらどうでしょうか?また、ちょうど週刊誌が行なっているように教会の間で中傷や非難が横行したらどうでしょうか?これらのことによって、一般の人が教会に嫌悪感を抱いても仕方がありません。けれどもそれは、むしろこの世のやり方に調子を合わせたからなのです。

2B 恐れる人々 10−13
7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。7:11 ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか。」と言って、イエスを捜していた。

 この日本語訳はよくないですね、「あいつは、どこにいるのか。」が正しいです。イエスを犯人扱いして捕えようとして捜しているのです。

7:12 そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ。」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ。」と言う者もいた。7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。

 イエス様について、静かな意見を持つことはできません。「良い人だ」「群衆を惑わしている」と、真っ二つの意見に分かれるのがイエス様です。イエス様について中立でいることはできません。ある有名な神学者はこう言いました。「イエスは、嘘つきか、気違い、あるいは主であるかの、どれかである。」皆さんは、どういう意見を持っておられるでしょうか。

 そしてここで大事なのは、いろいろな意見は持っているが、「ユダヤ人を恐れて」ひそひそ話をしていただけだった、ということです。この時点で、公にイエスがキリストであり、自分の主であると言ったのであれば、ユダヤ社会から追放されることになります。だから、ひそひそ話していたのです。

 みなさんは、いかがでしょうか。日本ではキリスト教に対する興味は高いのですが、周囲が自分をどう思うのかを気にして、それで一歩前に出て、はっきり信仰を言い表すことができません。「人への恐れ」があります。人目を気にしています。密かに思うことはできても、思い切って人前で言うことができないのです。けれども、主イエス・キリストに出会うためには、この勇気が必要です。

2A うわべの裁き 14−24
1B 正規の学問 14−19
7:14 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」7:16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。7:17 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。7:18 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。

 ユダヤ人たちは、イエス様が正規なユダヤ教神学校の教えを受けていないのに、どうして学問があるのかと驚いています。キリスト教会にも、この雰囲気があるので私は嫌いです。牧師の肩書きには、数々の神学校の学位が書かれています。その学位を取るために多くの人が神学校に行きます。

 日本人も「学位」には弱いです。マスコミに登場する人で、「どこどこの大学教授」などの肩書きがあると、その人の言っていることを鵜呑みにします。まるで学位を崇拝しているかのようです。

 けれどもイエス様は、「わたしの教えは、わたしを遣わした方のものです」そして、「自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、不正がない」と言われています。謙虚に、神からの教えを受けることが、真の学問なのです。主から語られたことをそのまま受け止められる謙虚な姿勢、これが教えに求められることです。

7:19 モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」

 モーセの律法の管理者であると自負しているユダヤ人宗教指導者らが、正当な理由もなくイエスを殺そうとしていました。モーセの律法には何と書いてありますか?「殺してはならない」です。この大きな戒めに違反しているのに、自分たちはモーセの座に着いていると自負しています。

 このような思い違いを私たちはしばしば行ないます。人を裁いている時に行ないます。イエス様は、「裁いてはいけません。裁かれないためです。」と言われましたね。私の好きな本の中にこんな逸話が書いてありました。書いた人は牧師さんです。
 

「何年か前、ある教会のご奉仕にうかがったとき、集会の後で一人の方から個人的な相談を受けた。教会のある大切な奉仕を担当し、自分なりに精一杯やっているつもりであるが、先生がいちいち細かい点を言い過ぎる、これではやる気がしない、というような相談だった。

 

お話を聞いた後、私は次のように答えた。確かに先生の言い方は悪いだろう。ほめないで欠点だけ指摘されたら、やる気を失うに違いない。だが先生の側のことは別にして、先生に対して怒っている、そのあなた自身の怒りはどうなのか―。

 

その方は、虚をつかれたようにはっとして、『そうでした、わかりました。』と答えた。

(「聖霊に導かれて進もう」 井戸垣彰著 いのちのことば者 7頁)

 「牧師のくせに、こんなことをしている。」「愛が足りない」と言いながら、自分自身が怒り、愛しておらず、見下している態度は完全に放置しています。「裁いてはいけない」と言いながら、相手を裁いています。私たちは他人を欺くことができるだけでなく、自分自身を欺くことができます。自分が何をしているか全く分からないようにすることができるのです。それは人を裁くことです。

 これは教会の中だけではありません。不信者の人たちもその裁きの罪から免れません。「キリスト教は排他的だ、独善的だ。」と言いながら、キリスト教に排他的になっています。(つい最近も、民主党の幹事長がこの発言を行なって問題になりました。)「日本社会は多神教で寛容だ。一神教は宗教戦争を引き起こす。」と言いながら、キリスト教信仰を持っている人を平気で攻撃します。

2B 自己矛盾 20−24
7:20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」

 ずいぶん酷い非難ですね。人を悪霊に憑かれていると罵っています。現代的な言い方をすれば、「あなたは気違いになっている。精神科に行かれては。」ということです。けれども、この群衆も自分たちは知っていると思い込んで、陰謀については無知だったのです。

7:21 イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。7:22 モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。・・ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。・・それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。7:23 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。7:24 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」

 イエス様が言われている「わざ」とは、ベテスダの池における御業のことです。足なえだった男が「床を担いだ」という行為を、「荷物を運んではならない」という安息日の掟を破った、と憤慨しているのです。

 それでイエス様は、彼らの律法解釈がいかに矛盾に満ちているかを指摘されました。律法の中に生後八日目の男の子の赤ちゃんに、割礼を施しなさいという命令があります。割礼とは、おちんちんの包皮を切り取ることです。モーセの前に、既に神はアブラハムに対して割礼の命令を行なっていました。

 けれども、ちょうど八日目が安息日に当たる時ももちろん沢山あるわけです。その時、彼らは割礼を施すという、いわば「仕事」を行なっているのです。彼らの解釈する安息日の掟を破りながら、他のモーセの律法を守ろうとしている矛盾を突かれました。

 初代教会の指導者ペテロは、自分たちの律法の解釈を守りきれていない現実を告白しています。救われるために異邦人も割礼を受けるべきだと主張した人々に対してこう言いました。「それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。(使徒15:10

 私たちが律法主義的になると、このような過ちに陥ります。掟を守らせようとして、自分自身でさえ守りきれていないのに他の人々に熱心に働きかけるのです。

 そしてイエス様は、「うわべで裁かず、正しい裁きをしなさい。」と言われています。とても大事ですね。昔、イスラエルの歴史の中でダビデという偉大な王が起されました。けれども彼が神に選ばれる時、彼は八人息子のうちの末っ子で、当時は羊飼いをしているまだ紅顔の少年でした。預言者サムエルが神に命じられて、エッセイという父の息子にイスラエルの王として油を注ぎなさい、と言われた時に、長男から彼の前に連れてこられました。サムエルは、「この男だ。」と思いましたが、主はこう言われました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。(1サムエル16:7

 いかがでしょうか、私たちは絶えず、うわべで人を裁いています。サムエルが誤ったように、容貌を見ますね。男の人は、美人に対しては親切にしてえこひいきします。女性は、相手の男性にお金がある、ないで判断します。身分や学歴はいかがでしょうか?民族的なものもあるでしょう。私は外国にいると、私個人ではなく「日本人」として見られます。年齢も大きな裁きの要因です。私はしばしば、私の声だけを聞いて私に初めて会う人が、「もっと歳を召した方だと思っていました。」と言われます。声が顔よりも年を取っているように聞こえるみたいです。

 キリストは、これらの人間の間にある裁きをご自分にあって完全に粉砕されました。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:28

3A イエスを捕える動き 25−36
1B 人間的に裁く人々 25−30
7:25 そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。7:26 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。7:27 けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」

 群衆の中に、ユダヤ人指導者がイエスを殺そうとしていることを知っている人がいました。けれども、彼らはイエス様がガリラヤのナザレで育ったことも知っているようです。「私たちはこの人がどこから来たのかを知っている。」と言っています。ナザレの町あるいはその近辺にいる人々なのでしょう。それでイエスは単なる人間であり、神から来たキリストであるはずがないと判断しています。

 果たしてそうなのでしょうか?キリストは彼らが言うように、突然、どこからともなく現われる方なのでしょうか?イザヤ書532節には、「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝くもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」とあります。キリストが人間として、しかも質素な、目立たぬ生活を送られることを預言者は預言していたのです。

 家族伝道が最も難しいと言われる所以がこれです。新しい霊の誕生を経験しても、家族の人たちは昔からの自分を見つづけます。それでその人の生活にキリストがおられることを認めることができません。その時に思い出してください、自分の主であられるイエス様も同じ問題を持っておられたことです。弟子は主人にまさることはありません。

7:28 イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。7:29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」7:30 そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。

 イエス様は皮肉を込めて叫ばれています、「あなたがたはわたしを知っています。」と。確かにナザレ出身であることを知っている、と。けれども、「わたしは神を知っていて、あなたがたは知らない。わたしは神から来た者である。」とはっきりと言われました。

 人間にしか過ぎないと思っていた者は、イエス様が神から遣わされたと言ったので腹を立て、イエスをユダヤ当局に引き渡そうとしました。けれども、まだ「イエスの時」が来ていなかった、とあります。先ほどお話した、イエス様が公にキリストとしてエルサレムに入られる時のことです。

2B 理解不能の言葉 31−36
7:31 群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」7:32 パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。

 ユダヤ当局も、イエスの捕縛を実行に移そうとしました。興味深いことに、次回また読みますが、イエスを捕えることができずに戻ってきた役人たちは、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。(46節)」と言っています。他の多くの人々と同じように、イエス様の教えを聞いて影響されたみたいです。

7:33 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。7:34 あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」7:35 そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。7:36 『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」

 どういう意味だと思いますか?イエス様は神から遣わされました。神がおられる天から遣わされて、それで今、地上におられます。けれども、間もなく天に戻ることになる、と言われているのです。けれども祭司長やパリサイ人のユダヤ人宗教指導者らは、その天の中に入ることはできない、ということです。

 彼らはこの意味が全然分かりませんでした。物理的に考えていました。ギリシヤ人の所に行方を晦ますのか?と思ったのです。けれどもこれもある意味、その通りになりました。イエス様の使徒たち、特にパウロが異邦人の所に言って、ユダヤ教会堂で教え、異邦人にも福音を宣べ伝えました。

 話は続きますが、今日はここまでにしましょう。この後、イエス様が大声で説教を行なわれて、その後、心を動かされる人々がたくさん出てきますが、それでも言いがかりをつけてイエスを否定する人たちが出てきます。みな、誤った情報や足りない情報に基づいています。また純粋な偏見を抱いています。

 私たちは、どこまで正しい判断をしているでしょうか?教会の中ではどうでしょうか?また、イエス様をまだ信じていない人は、どこまで偏見を持たずにイエス・キリストとは誰かを探求しているでしょうか?

 人をうわべでさばかない教会は幸いです。そこに、人はやって来ます。そこに裁かないというのは、罪を指摘しないということではありません。悔い改めを呼びかけない、ということではありません。イエス様を心にお迎えすること自体が、自分の悪を示されるから迎えることができるのです。

 石破茂という自民党の政治家がこのようなことを言われました。彼はクリスチャンですが、小沢氏の「キリスト教は排他的だ」という発言を意識してこう言われました。「・・・キリスト教は寛容です。ただし、それは曖昧という意味ではない。キリスト教信者として妥協できない領域は確かにあります。」(www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20091214/plt0912141628005-n2.htmそうです、寛容だけれども曖昧ではありません。いや、曖昧でないからこそ、真の意味で寛容になることができます。イエス・キリストは真理であられる方です。この方に触れることによって、初めて人間の中にあるうわべだけの裁きから解放されることができます。


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