ヨハネによる福音書8章112節 「律法 対 恵み」

7章53節−8章2節: 続けて宮で教えられるイエス
仮庵の祭りが終わった後も、イエスは残っている巡礼者に宮の中で御言葉を教えられた。

「オリーブ山に行かれた(1節)」: イエスはエルサレムにおられるとき、弟子たちとしばしばそこに行かれて時間を過ごされた。そのため、イスカリオテのユダがイエスを裏切るとき、どこにおられるかを彼は知っていた(ヨハネ18:2)。

3−6節: 姦淫の現場で捕えられた女
7章から、エルサレムに来ていたイエスとユダヤ人指導者との確執が続いている。

姦淫の罪を犯せば、モーセの律法によれば石打ちの刑である。けれども、律法を守り行なうためにこの女を連れて来たのではなく、「イエスを試した」とある。

「姦淫の現場(3節)」: この女は男と一夜を共にしていた。朝を迎えて同じ寝床でいたときに、律法学者とパリサイ人たちがやって来て捕まえた。けれども律法にはこう書いてある。「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。(申命記22:22」寝ていた男はどこに行ったのだろうか?おそらく、「イエスをためし」たとあるので、男は律法学者とパリサイ人の共謀者だったのであろう。

「イエスを告発する理由を得るためであった(6節)」: ユダヤ人はみな、モーセが語ったことは神の言葉であると信じていた。だからイエスがこの女を赦せば、イエスは神からの者ではないと判断することができた。(そして、たとえ「石を投げなさい」とイエスが言われたとしても、死刑執行の権利をローマはユダヤ人から剥奪していた。したがって、どちらにしてもイエスを告発できた。)

イエスがこの女を赦すであろうことは、ユダヤ人指導者は知っていた。彼が、「恵みとまことに満ちておられた(ヨハネ1:14」ことを、彼ら自身も認めていた。彼らはイエスを、「取税人や罪人たちといっしょに食事をする(マルコ2:16」と非難していた。

「身をかがめて、指で地面に書いておられた(6節)」: まるで彼らを無視するかのように書いておられた。ところで、何を書いておられたのだろうか?そのヒントは7節以降に(↓)。

7−9節: 「罪のない者が、石を投げなさい」
「罪のない者が石を投げなさい」・・・イエスは石を投げてはならない、と言われなかった。「投げなさい」と言われた。つまり、モーセの律法を実行しなさいと言われた。 → イエスは罪を大目に見るという考えは間違いである。

しかし、「罪のない者が」この女を裁きなさいと命じておられる。もし告発者に同じ罪があるなら、本人も石打ち刑を受けなければいけない。だから、罪のない者だけが刑を執行する力がある。

「もう一度身をかがめて、地面に書かれた(8節)」: イエスはおそらく、彼らの罪を地面に書かれたのだろう。イエスは、おそらく彼らが以前行なった姦淫の罪(思いや行動において)を書き記されていたのだろう(マタイ5:2728)。

‐ 「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。(出エジプト31:18」父なる神は、ご自分の指で律法を書かれた。そして今、子なる神がご自分の指で律法を地面に書いておられる。

「年長者から初めて、ひとりひとり出て行き(9節)」: 彼らは罪を示されたようである。年長者であればそれだけ自分がこれまで犯してきた罪が多いので、彼らが初めに立ち去った。→ これが律法の目的である!

自分が神の律法(聖書の言葉)に照らして、死ななければいけないことを悟らない限り、神の救いとその恵みを味わうことは決してない。
1)罪が分からなければ、キリストの死は分からない。
2)分かっても、その刑罰が死であることを認めなければ、キリストの死は分からない。
3)罪の赦しも、救いも、永遠の命も、「自分が死刑を受けるべき罪人だ」ということが分からなければ、そこに感動も恵みも感じられない。
4)だから、ユダヤ人指導者のように、戒めの一つでも徹底的に守ろうと努力してみるのも良いかもしれない。(いかに守れないかを知るため)

10−11節: 罪に定めなかったイエス
唯一、石を投げる権利を持っておられた方が、罪に定めなかった!

「婦人よ(10節)」: イエスはどんな身の低い人に対しても、尊厳をもって接せられる。

「だれもいません(11節)」: この前に「主よ」と女は呼んでいる。イエスを主として受け入れた。

「わたしもあなたを罪に定めない(11節)」: なんという福音であろうか!主は、罪の赦しを与えられるためにこの世に来られた。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17

「今からは決して罪を犯してはなりません(11節)」: 女はイエスの恵みとまことに触れた。それゆえ、彼女はこのイエスの言葉を喜んで受け入れたことだろう。「自分は死ななければならなかった。けれども赦された!」という感動があるからこそ、人は変わることができる。

12節: 「わたしは世の光です」
律法学者やパリサイ人は、イエスの光に触れてその場を去っていった。女は光のもとに来て、この方に従うことができた。「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(ヨハネ3:19-21」あなたは、光から離れる方か、それとも光のところに来る方か?