ヨハネの福音書9章 「目を開けるわざ」


アウトライン

1A イエスという人 1−12
   1B 従順 1−7
   2B 告白 8−12
2A 預言者 13−23
   1B 純真 13−17
   2B 恐れ 18−23
3A 神から来た方 24−34
   1B 確信 24−29
   2B 新しい事 30−34
4A 神の子 35−41

本文

 ヨハネの福音書9章を開いてください。ここでのテーマは、「目をあけるわざ」です。生まれつきの盲人の目をあけるわざが記されています。ヨハネは、イエスが多くのしるしを行なわれたのを知っていましたが、そこから八つしるしを選び取りました。そして、イエスが神の子キリストであることを明らかにしています。目をあけるしるしは、第六のしるしです。それでは本文を読みます。

1A 従順 1−12
1B 神のわざ 1−7
 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

 他の翻訳では、通りすがりに、となっています。イエスは通り過ぎることなく、立ち止まって盲人をご覧になられました。イエスは、必要のある者にもっとも関心を持っておられます。私たちが必要を感じているとき、イエスは関心を持っておられます。

 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」


 この人は、単なる盲人ではなく、生まれつきの盲人でした。そして、弟子はラビでもあるイエスに、このことが起こった理由を尋ねています。このような災いが起こったのは、この人が生まれる前に母親の胎内にいるときに犯した罪があるからか。それとも、両親の罪がこの子に受け継がれているのか、と聞きました。

 弟子たちによって、とても大切な質問が投げかけられています。私たち人間は、何か不幸に思われること、悲しむべきことが起こると、それはどうして起こったのかとその原因を追求します。そして、その原因を発見すると、それを非難し、咎め、責めるのです。多くの人が、「なぜ神さま、私にこんな災難を下されるのですか。」と神を責め始めます。あるいは、「こんな自分がいるのは、過去に親がこんなことをしたからだ。」と言って、家庭や周りの環境のせいにします。時には、「こんな風になってしまったのは、みんな私がこんなことをしたからだ。ああ、私はもうだめだ。」と思って自分を責めます。私たちは、自分ではどうにもできない状況に出会うと、その原因を探って、その原因のせいにする性質を持っています。宗教は、こうした人間の性質を利用して出来あがるのですが、仏教では輪廻転生というものがあり、今の不幸は生前の悪行によるものとします。またユダヤ教では、胎内における罪から来たものと考えられました。

 しかし、イエスは、私たちとは全く異なる見方を持っておられます。イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

 
だれかのせいではなく、ただ神のみわざがこの人に現われるためだ、とイエスは言われています。イエスは、過去に私たちが何を行なったかは、とくに関心がありません。イエスが最も考えておられるのは、人々が今の状態から回復して、神のいのちにあずかることです。これが福音であり、恵みです。私たちは、過去という暗やみの鎖につながれた存在ではないのです。神によって解放されて、新しいいのちにあずかることができます。過去に何を行なったかは問題にされず、全く新しくされます。「だれでもキリストにある者は、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去りました。見よ。すべてが新しくなりました。」とパウロが言いました。苦しみや病気は、確かに罪によってもたらされたものです。アダムが、神に禁じられた木の実を食べてから、病気や死が入ってきました。けれども、神はその苦しみをも用いて、人が神を知り、キリストを知るようにされます。また、たとえ、私たちが自分の罪によって、今の生活がめちゃくちゃになっていても、神は私たちを咎めません。それよりも、今、どのようにして、この人を回復させることができるのか、ということを考えておられるのです。

 そして、ここの「神のわざ」という言葉は、面白いことに複数になっています。このわざとは、この人のうちで単に目があけられるだけではないようです。私たちはこれから、この男がしだいに、イエスがどのような方であるかを知っていく過程を読みます。

 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。これは、イエスが間もなく、十字架につけられることを話しています。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。

 
8章においても、ご自分が世の光であることを話されました。8章では、私たちの暗やみの行ないが明らかにする働きとして紹介されていました。9章ではさらに一歩進んで、自分が暗やみの中にいると認める者に光を与え、暗やみの中にいないと言い張る者にはさらに暗やみを与えるという働きが紹介されています。つまり、自分に過ちあると認める者が正しくされるが、ないと言い張る人が罪人にされる働きです。

 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。

 
イエスは人をいやされるとき、どれ一つとして同じ方法を用いられませんでした。ここでは、つばきをして泥を作って、盲人に塗られましたが、ある時はさわったりして直し、またある時は、ただ言葉で話すことによっていやされました。ですから、いやしには特に決まった方法がありません。けれども大事な事があります。どのような方法であれ、イエスの言われたことに聞き従うことです。

 次を見てください。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 彼は、イエスが言われたとおりにしたので、見えるようになりました。彼は、「こんなことは、だれもしたことはないではありませんか。」と反論することができたでしょう。けれども、彼は、たとえ自分では理解できなくても、イエスの言われたことに従ったのです。これは、私たちにも必要なことです。私たちは、過去に神が働かれたように、今も働いてくださるように期待します。けれども、神は、いつも違った新しい事を行なわれます。それは、私たちが、自分たちの悟りに頼ることなく、ただ神を信頼して、神の命令に聞き従うようにするためです。この男のようにイエスの命令に従うとき、私たちは神のみわざにあずかることができます。そして、シロアムとは「遣わされた者」と言う意味がありますが、彼はイエスの証人として、ユダヤ人の中に遣わされることになります。

2B 真理 8−12
 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。

 面白いですね、人々は彼についていろいろな意見を持っていましたが、事実は目があいていました。本人が一番知っていたのです。イエスもそうでしたね。ユダヤ人たちが、イエスについていろいろな意見を持っていましたが、イエスご自身はご自分のことを知っていました。今でも、人々は、イエスについていろいろな意見を言います。けれども、それで事実が変わるわけではありません。

 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」彼は、イエスを、「イエスという人」と呼んでいます。彼はこれから霊の目が開けて、しだいにイエスの本当の姿に気づき始めます。また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。

 彼はユダヤ人の中で、自分の身に起こったことをそのまま伝えました。しかし、これが大切です。自分の身に起こったことをそのまま伝えることは、簡単なようでとても難しいことです。なぜなら、主が私たちのうちで行なってくださったことを、この世は打ち消そうとするからです。何事も起こらなかったように、私たちに思い込ませます。イスラエルの民は、10の災いを見て、紅海が分かれたのを見たのにも関わらず、そのことを忘れて、エジプトを恋い慕いました。けれども、主が自分にしてくださったこと、してくださっていることを見続けるのです。

2A 分離 13−23
1B しきたり 13−17
 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。ユダヤ人たちは、このような大きな出来事の意義を、宗教指導者たちに評価してもらうために彼を連れて行きました。ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。

 彼らの律法の解釈では、泥をつくることは禁じられている働くこととされていました。イエスが彼に行なった神のわざは、彼らの伝統と真っ向から対立していたのです。イエスは、あるとき、「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。(マルコ2:27)」と言われました。神の律法は私たちに自由といのちを与えますが、人のしきたりは私たちを縛り、いのちを失わせます。したがって、神のみわざは、しばしば人の伝統をこわすような形で現われます。人を解放する一方、人を束縛していたしきたりにことごとく違反するようになるのです。

 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」

 見てください、彼のイエス理解がさらに深まっています。先ほどは、「イエスという人」でしたが、ここでは預言者です。そして、イエスが預言者であることを、国家権力の前で表明しています。多数派の意見に流されることなく、自分の信じていることを言い表しました。神のわざが私たちのうちで始まるとき、こうした決別が始まります。自分を捨て、この世のものを捨てる必要が出て来ます。私たちが慣れ親しんできた習慣や、文化や、社会など、私たちが捨てなければいけないことがあるのです。そのときに、私たちの霊的な目が開かれて、神のいのちにあずかることができます。

2B 家族 18−23
 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」両親が連れ出されています。そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。彼らはここまでは、事実を話しています。けれども、次を見てください。しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。

 これは嘘です。二人はイエスが彼を直してやられたことを知っていたはずです。

 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。

 両親が知らないと言ったのは、イエスという名を口にすることを恐れていたからです。けれども、イエスという名によってのみ、私たちは救いを得ることができます。ペテロは言いました。「この方以外にはだれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)」私たちに神が良くしてくださったとき、私たちは、イエスの名を口にすることをためらいます。なぜなら、この世は、私たちにその名を言わせまいとするからです。けれども、イエスの名を口にすることは、神のみわざを知るのに大切なことです。日常の会話の中で、イエスの名をはっきりと語ってください。世間のことは気軽に話せても、イエスと自分自身の関係について話すことができないような人にならないでください。なぜなら、イエスの御名に、私たちのいのちがかかっているからです。

 ところで、両親にとって、息子の目があいたことほど、良い知らせはなかったはずです。先ほど、「両親の罪ですか」と弟子たちが聞いていましたが、二人は周囲から、罪を犯した者、罪人と思われていたかもしれません。だから、自分たちにとっても、これはすばらしい知らせなのに、彼らはユダヤ人社会の中にいることを選んだのです。福音が、このようにして多くの人々の生活にはいるのが妨げられています。その一方、このもと盲人は、イエスが行なわれたことのために、両親とも決別せざるを得なくなりました。しきたりだけではなく、両親、家族とも離れなければならなくなったのです。しかし、これも、神のわざを見るためには必要なことなのです。イエスは言われました。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。(ルカ18:29−30)

3A 告白 24−34
1B 反対 24−29
 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」

 神に栄光を帰しなさい、と言っているのは、彼らはイエスが冒涜の罪を犯していると思っていたからです。人間なのに自分を神としていると思っていました。

 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

 
自分がイエスという方がだれであるか分析することはできないが、ただ一つの事実は知っている、と言うことです。彼は、再び神が自分になさったことを、そのまま伝えました。そして、それが最も強力な証拠でした。自分が知的に相手を説得するのではなく、自分の人生が変えられていることが、最も大きな証しでした。キリスト教で、もっとも強力な証拠は私たち自身です。私たちの人生が変わることによって、人々の反論の口を閉ざすことができるのです。

 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」

 もと盲人は、あきれかえっています。彼らの子どもだましのような尋問に聞き疲れてきたのでしょう。

 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」

 ののしりました。もと盲人に挑みかかっています。彼は反対に会っています。私たちも同じです。主に良いことをしていただき、それに応答して従おうとすると、必ず反対が来ます。しかし、私たちはこの反対に抵抗することによって、ますます主の働きを見ます。彼もまた、このことを通して、ますます目が開かれます。次を見てください。

2B 弁明 30−34
 彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。彼はますます大胆になっています。伝道者のようになっています。神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。

 これは興味深い発言です。このような大きなわざがイエスによって行なわれているのだから、イエスは罪人であるわけがない、と言いました。彼による罪の定義は、神のみわざを受け入れないことそのものにありました。詩篇には、祈りが聞かれないのは罪があるからだということが書かれています。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。(66:18−19)」私たちはとかく、聖書に書かれている基礎的な戒めを守っていれば、自分は罪を犯していないと思います。殺すな、姦淫するな、偽りを言うな、という戒めを守っていれば罪を犯していないと思います。しかし、聖書によると、神がみなさんのうちに働かれたいと願っているのに、特にそれを欲しがることがなければ、それは罪だと定義されています。ユダヤ人たちは、言い伝えられたおきてを守り、いつもと変わりのないことを行なっていれば、それで
OKだと思っていました。しかし、それはむしろ罪なのです。なぜなら、神はみなさんの内なる人を日々新たにし、キリストによって強め、日々、主のあわれみを受け取り、主によって日々変えられることを願っておられるからです。主に対していつも心を開き、何でも良いからあなたの考えておられる事を行なってください、と私たちが祈ることを願っておられるのです。神が、今日、何をしてくださるか私たちが楽しみにしているのを、望んでおられます。

 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」

 イエスが行なわれたような大きなことは、旧約聖書には何も記録に載っていません。全く新しい働きです。そこでもと盲人は、イエスが神から来た方であると結論づけています。こうして彼は、サンヘドリンにおいて弁明をしました。ペテロは、反対されたとき、私たちも弁明できるようにしておきなさいと勧めています。「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(1ペテロ3:13−15)」私たちはたとえ反対にあったりしても、主を告白し続けるなら、ますます信仰が強められるのです。

 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。

 彼らは弟子たちと同じように、盲目で生まれてきたことを罪のしるしとしています。彼らは、人が不幸な状態にいるのを助ける気持ちはなく、分析して、その罪を示すことに満足していました。そして、彼を追放します。ユダヤ人社会から破門にします。もうシナゴーグで神を礼拝することはできません。正しいことを貫いたゆえに、このような辛い目に会いました。

4A 礼拝 35−41
 けれども、彼の霊的な目は完全に開かれました。次を見てください。イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」他の写本では、「あなたは神の子を信じますか。」となっています。人となった神を信じますか、と聞いておられます。その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」

 見てください、彼はイエスを、「主よ」と呼んでいます。最初は、「イエスという人」でした。次に、「預言者」と呼びました。今は、自分の主になっています。

 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」


 ここは、イエスがご自身のことを明かす数少ない聖書箇所です。サマリヤの女に対して、イエスは、「あなたと話しているわたしがそれです。(4:26)」とおっしゃられました。彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。彼はイエスを拝しました。ユダヤ人は通常、人を拝むことは決してしません。ですから、イエスを神として認めているのです。

 イエスは、この人の目をあけるわざを行なわれましたが、それだけではありませんでした。この人がイエスを信じ、イエスを拝するまで導くことも、神のわざでした。生ける神を拝し、あがめることが、人間が創造された究極の目的なのです。ダビデは言っています。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。(詩篇27:4)」これは、人生の中で、生活の中で、イエス・キリストを知ることが、自分の最も大きな願いになっていることです。また、自分の成功でもなく、自分の幸せでもなく、イエスのみが自分の望みになることです。力が必要なときにイエスを求め、知恵が必要なときにイエスに願います。イエスだけが自分にとって真理であり、この方を知ることだけが道であり、この方にのみに生きがいを見出します。イエスが自分にとってすべてになっているとき、私たちは神を礼拝しているのです。その人がイエスだけになり、その他のものに見向きもしない、イエスだけを愛しているようになることを神は求めておられます。

 黙示録には、天国にいる者たちがイエスを礼拝している場面が書かれています。「24人の長老は、御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して行った。『主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたの喜びのために、万物は存在し、また創造されたのですから。』(4:11参照)」また、こうも書いてあります。「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。』(5:11−12)」みなさんの生活が、礼拝になっているでしょうか。もし、そうでなければ、イエスは、盲人にされたように、その働きを行ないたいと願っておられます。イエスは、私たちの今置かれている状況から、神のわざを始めたいと願われています。また私たちが、神の言われることに従順になり、この世のものを捨てて、また真理に固く立つように導かれます。そして、イエスを礼拝することを願っておられるのです。

 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

 
この盲人は目が見えるようになりました。肉体の目だけではなく、霊の目も開かれました。イエスは、こうした救いのみわざを行なうために世に来られています。

 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」


 イエスは、私は目が見えると言い張る人が盲目であると言われました。逆に、自分は盲目であることに気づくなら、その人は目が開かれたと言われています。イエスの光によって照らし出されて、自分が本当に罪深いと気づいて、罪の赦しを神に願うなら、私たちは正しい者と認められます。逆に、自分はさほど悪い人間ではないから、これからも頑張って正しく生きていこうとするなら、その人は罪に定められます。これが、私たちクリスチャンに対する警告です。私たちがクリスチャンとして問題はとくにない、十戒は守っているし、と思うとき、実は大きな問題があるのにそれが見えなくされています。逆に、自分が大変な問題がある、神が願われているように生きていない、どうしよう、と思っているとき、もうすでに解決への道を歩み始めているのです。ですから、目が見えないと言う者は目があけられて、目が見えると言い張る者は、盲目にされるのです。

 ですから、私たちが生まれつきの盲人であることに気づきましょう。今、私たちが置かれている場所から、神は働きたいと願われているのです。


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