ルカの福音書11章 「イエスに逆らう者」


アウトライン

1A 祈る者 1−13
  1B 祈り方 1−4
  2B 求め方 5−10
  3B 頼り方 11−13
2A 逆らう者 14−36
  1B 内容 14−28
    1C 仲間割れ  14−23
    2C かたづいた家 24−26
    3C イエスの母 27−28
  2B 報酬 29−36
    1C さばき  29−32
    2C 暗やみ 33−36
3A 散らす者 37−54
  1B 内側の汚れ 37−44
  2B 預言者の迫害 45−52
  3B 言いがかり 53−54

本文

 ルカの福音書11章を開いてください。ここでの主題は、「イエスに逆らう者」です。

 私たちは前回まで、弟子たちがどのように歩まなければいけないかを見てきました。イエスがエルサレムに御顔を向けて、よそ見をされなかったように、私たちも一心にイエス見て、よそ見をしないことがわかりました。そうした、すべてをイエスにささげきった者が、イエスの弟子となることができます。

1A 祈る者 1−13
 そこで、11章の最初の部分には、そうした弟子たちに与えられた特権が書かれています。その特権とは、父なる神に祈ることができることです。

1B 祈り方 1−4
 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子たちのひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

 イエスが祈っておられるのを弟子が見て、自分たちがどう祈ればよいか聞きました。そこで、イエスが答えられます。

 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。』」

 祈るときは、まず祈る相手がだれであるかを知らなければなりません。祈る相手は、「父」であります。つまり、私たちが神を父とするような親密で、個人的な関係がなければ、祈りをすることはできないということです。私たちはとかく、祈ること自体に重きを置いてしまいます。「私はクリスチャンなのだから、とにかく祈らなければいけない。」というように、儀式的に義務的になってしまいます。けれども、もし私たちが、神が父であることを知ったらどうでしょうか。自ずと祈りへと導かれるのではないでしょうか。その方と意志伝達をしたいと思うはずです。ですから、祈るときには、その相手がだれであるかを意識しなければいけません。

 「御国が来ますように。」

 祈る相手がわかったら、今度は、その方の考えておられること、願っておられること、計画されていることが実現するように願います。自分の願いや考えよりも、信頼する父が願っておられること、考えておられることが実現することほうが、もっと有益だからです。私たちが、父ご自身のなさることを自分の喜びとするとき、父は私たちにご自分の願いを置いてくださいます。そして、それを私たちが願うと、その願いはかなえられるのです。

 私たちの日ごとの程を毎日お与えください。

 今度は、実際の生活の場面で、父に生きて働いていただくようにします。日ごとに、毎日お与えくださいと、毎日願うことが強調されていますね。いつも、絶えず、父に自分の身をゆだねていかなければいけません。「ここの部分は自分でいろいろやるから、後で神さま、あの部分をやってください。」というようなものではないのです。糧とあるように、物質的なことに父が関心を持っておられることを認めます。

 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。

 今度は、実際の生活の場面でも、霊的なこと精神的なことについてです。つまり、神との関係と、人との関係について祈ります。クリスチャン生活にとって、例えば、病気になったとか、盗難にあったとか、そのような不幸は不幸に数えられません。苦しみは、しばしば神から与えられる賜物です。けれども、罪を犯すことは神との関係を崩します。すぐに関係の修復のために取り組まなければいけません。また、例えば夫婦が貧乏になっても、問題ではありません。けれども、けんかをしていれば問題です。ですから、神との関係、人間関係のために、父が働いてくださるように祈ります。

 私たちを試みに合わせないでください。

 最後に、御国の外にいる者から守られるように祈ります。使徒ヨハネは、「わたしたちは神からの者であり、全世界は、悪い者の支配下にあることを知っています。(1ヨハネ5:19)」 と言いました。私たちは、つねにこの世と接触しているので、受ける誘惑も大きいのです。ですから、私たちが誘惑に立ち向かうことができるように祈ることは大切です。

2B 求め方 5−10
 こうして、イエスは、祈り方を教えられました。次にイエスは、私たちが父に求めるとき、どのような姿勢で臨むべきか教えられています。

 イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを3つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。」

 当時は、旅人をもてなすことが尊ばれたので、パンがないことは一大事でした。

 「すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』」

 当時の家は、戸締まりは鍵穴に鍵をさすような簡単なものではありません。また、狭いところで、家族が一かたまりになって寝ています。子どもも同じ布団の中に寝ているのです。彼が起き出したら子どもも起きてしまい、また寝につかせることは容易ではありません。

 「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」

 ここで大事なことばは、「あくまで頼み続けるなら」というところです。友だちのような関係でさえ、しつこく頼み続ければ、その願いを聞いてくれます。ましてや、父が、私たちのしつこい求めに、答えないはずがない、というのが、イエスのおっしゃりたいことです。

 「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば、与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

 ですから、私たちがお願いをするときに、しつこく、執拗な求め方が必要になります。申しわけなさそうに祈って、祈りが答えられなくてがっかりするのでなくて、大胆に、神の恵みの御座に近づいてください。

3B 頼り方 11−13
 「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょうか。してみると、あなたがたも、悪い者であっても、自分の子どもたちには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

 イエスは、再び、あなたの祈りを聞かれる相手を思い起こしてくださっています。私たちを愛してくださっている父なのです。悪い父親であっても、お腹が空いて魚を求めているのに、蛇を与えたりはしません、ましてや、父が私たちの必要を満たしてやらないということはないのです。ですから、祈るときに、私たちに良い物を与えようと待っておられることを知る必要があります。そのような深い信頼による祈りは、必ず聞かれるのです。

 このように、自分のすべてをイエスにささげた弟子たちが持っている特権は、祈りであることがわかりました。神は、私たちにものすごく緊密な関係を望んでおられるようです。 私たちが主にささげ、主も私たちが求めるものを何でもお与えになります。ここにあるのは、夫婦の関係のように、お互いをささげ合った、何でも分かち合って、いつでもどこでもいっしょにいるような深い関係です。

2A 逆らう者 14−36
 そして、ここで、神が「聖霊を下さる」ことについて触れられていることに注目してください。こうした深い関係の中に生きることは、聖霊が働かれる領域に生きることになります。けれども、次に、聖い御霊ではなく、悪い霊が働いている領域に生きる人々のことが描かれています。

1B 内容 14−28
 イエスは、悪霊、それもおしの悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、おしがものを言い始めたので、群衆は驚いた。

 イエスが、おしを直されました。

1C 仲間割れ  14−23
 しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼベルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。」また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。

 イエスの行われた奇蹟は、普通に考えれば、神からのものであることは明らかでした。しかし、それを認めたくない人、イエスが神から来られた方であることを信じたくない人は、2種類の言い訳をしています。一つは、この現象を、悪霊のかしらによるものと説明したことです。 もう一つは、もっと証拠がほしい、そうすれば信じるからという、「天からのしるし」を求める人もいました。イエスはまず、悪霊のかしらによって追い出していると言った人たちに話されます。

 しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。サタンも仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼベルによって悪霊どもを追い出していると言います。」

 つまり、彼らの言っていることは、とても不合理で非論理的であるのです。

 「もしわたしが、ベルゼベルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。」

 これは、ユダヤ教の中で悪霊払いをする人たちのことです。 自分の仲間が、自分をさばく、つまり自分自身をさばくことになります。ところで、彼らが、ベルゼベルのせいにしたのは、どうしてでしょうか。先ほどお話ししましたように、全世界は悪い者の支配下にあります。神を認めない人、神を信じない人にとって、今の状態がすべてであり、神の国なんていうものは、おとぎ話であることになります。したがって、イエスが悪霊を追い出されたのを見て、その現象を悪霊によるものでしか説明できなかったのです。けれども、それは矛盾だらけの論理であり、結果的に、自分自身をさばいています。イエスが悪霊につかれているということで、自分たちが悪霊の支配にいることを露呈してしまったのです。

 しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。

 エジプトで災いが下ったとき、呪法師たちはパロに、「これは神の指です。」と言いました。ですから、イエスがなされていることは、神の御力の現れに他なりません。

 「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。」

 この強い人はサタンのことです。

 「しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分け合います。」

 もっと強い者とは、イエスご自身のことです。サタンは確かに強い人であり、武装をしています。だれも、サタンに立ち向かうことはできません。実に、この世全体に、この宇宙に支配権を持っています。だから、持ち物が安全、つまり、サタンの支配下の中で力の均衡が保たれていたのです。しかし、もっと強い方が現われました。この方は、サタンを含め、宇宙にあるすべてを創造された方です。だから、サタンはものすごい力とエネルギーを持っていますが、イエスはもっと、ずっと力がおありです。そのため、今、サタンの国に混乱がもたらされたのです。イエスが来られてから、特に十字架につけられてから、宇宙の霊的な流れが豹変しました。 そこで、イエスはこう言われます。

 「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」

 激しい霊的なぶつかり合いの中にいて、私たちは、イエスに対して中間の立場を取ることはできません。イエスに自分のすべてをささげない人は、全くささげていない人と同じことをし、逆らう者、散らす者であるのです。先ほどは、弟子たちが父なる神に祈り、執拗に求め、信頼していくという、積極的な、深く親密な交わりが必要であることを見ました。これが唯一、イエスの味方になる方法です。「いや、自分は一歩置いて、イエスを信じるだけにしておこう。このまま普通に生きていれば、とりあえず天国には行けるだろう。」と考えるかもしれません。けれども、キリストがこの世に来られた今、そのような世界は存在しないのです。キリストに積極的に服従するか、さもなければ、悪魔に思いのままに操られるか、この2つの霊的法則しか働いていないのです。

2C かたづいた家 24−26
 そこで次にイエスは、ご自分を主として受け入れない人が、悪霊追い出しをしてもらったら、どうなるかを説明されています。

 「汚れた霊が人から出て行って、水のないところをさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言います。帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を7つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」

 もし、イエスがその人の家にはいって来なければ、初めに悪霊につかれていたよりも、さらに悪い状態になってしまいます。これは、もちろん実際の悪霊追い出しに言えることですが、一般的にも適用します。つまり、人間がキリストなしに、物事を改善しようとするときに起こる現象です。キリストという真理があるから、はじめて諸問題を解決することができるのに、キリストなしにそれを解決しようとすると、初めよりも状態が悪くなります。例えば、共産主義をあげてみましょう。それは、みなが平等になる社会を求めました。けれども、これは神の国において実現されるものであり、人ではなく神が支配されるときに初めて成就します。共産主義は、神なしにそれを実現させようとしました。その結果、人間の不平等を野ざらしにする資本主義よりも、さらに不平等な官僚政治を作り上げました。ですから、キリストを自分の家に入れる、つまり、キリストを全面的に受け入れることをしなければ、悪霊から自由になることはできず、良く しようと思えば思うほど、かえって状態は悪化するのです。

3C イエスの母 27−28
 イエスがこれらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」 しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」

 この女は、一見、イエスをほめているように見えますが、実際はその逆で、イエスに逆らっています。というのは、イエスの母という人間関係の中でイエスを見ようとしているからです。多くの人が、人間関係によってイエスのもとに来ようとしませんね。そこで、イエスは、みことばを聞いてそれを守る者が幸いだと言われました。神のみことばによって初めて、私たちは、この方を父と呼ぶことのできるような、深い親密な交わりをすることができるのです。

2B 報酬 29−36
 次からイエスは、天からのしるしを求めた人々に対して語られます。

1C さばき  29−32
 さて、群衆の数がふえて来ると、イエスは話し始められた。 「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」

 この時代とは、預言者が預言したキリストが実際に来られる、特別な時代です。そして、イエスは、ご自分がキリストであることを示す数多くの不思議としるしを行われました。ですから、彼らは、信じないほうが実際むずかしい状況にいたのです。けれども、彼らは天からのしるしをほしいと言いました。屁理屈を言って、決して信じないでいたのです。現代の人々も、聖書やクリスチャンを通して、数多くの証しを聞いているのに、「目で見たら、信じよう。」と言っています。そこで、イエスは、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」と言われました。ヨナが魚の中に3日3晩いて、魚から出てきたように、イエスは、墓に葬られてから3日目に、よみがえられます。死者からの復活、これが最大のしるしであり、残された最後のしるしです。

 南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを非に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいます。」

 イエスは、ここで、最後の復活について話しておられます。人は死んだら終わりなのではなく、今まで死んだ人々が全員、復活するときが来ます。そこで、神の白い御座の前に来て、自分のしてきたことを申し開きをします。南の女王とは、シェバの女王です。彼女は、ソロモンが神から知恵をいただいていることを聞いて、ずっと遠いところから来ました。彼女は、神についてほんの少しのことしか聞かなかったのに、それに応答したのです。けれども、この時代の人々は、彼女に比べたら、何十倍も、何百倍も啓示を受けているのに、それを拒んだのです。だから、その責任は非常に重く、罰も大きいことになります。

 「ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの訣教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいます。」

 ニネベの人々も、多くの神の知識を与えられませんでした。ヨナの説教は、「あと40日で、この町は滅びる!」という、救いも希望も語られないお粗末な説教でした。なのに、彼らは正しく応答して、町中が悔い改めて、神の赦しを請いたのです。面白いことに、シェバの女王もニネベの人々も、異邦人です。異邦人がユダヤ人を罪に定めます。ここから、特権や地位ではなくて、信仰の実質が問題にされることがわかります。神の御前にはみな平等であり、神は、与えられた知識にのみ責任を問われるのです。

2C 暗やみ 33−36
 そこで、イエスは次に、ご自分のことを光にたとえられます。イエスは、神の啓示の光です。だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも悪くなります。」

 私たちは、目から入る光に反応して、行動しています。

 「だから、あなたがたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」

 
あなたの見ているものに、よく注意していなさい、ということです。自分が物事をどのように見ているかで、すべてが決まってしまいます。つまり、私たちがどのようにイエスのみことばを聞いているかによって、クリスチャン生活も決まってくるし、死後のさばきも決まってくるのです。ただ物理的にみことばを聞いていればいい、ということではなく、正しく聞いていることが大切です。

 「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように、明るく輝きます。」

 正しくイエスを見つめているなら、自分のうちに光が与えられるだけでなく、他の人々をも照らします。

3A 散らす者 37−54
 こうして、イエスは、正しく応答していない人々をきびしく責められました。しかし、次からの部分では、さらにきびしくなっておられます。なぜなら、正しく応答していないだけでなく、他の人々を正しく応答するのを妨げている人々に語られているからです。

1B 内側の汚れ 37−44
 イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家にはいって、食卓に着かれた。

 イエスは、人々の食事の招きを断られたことがありませんね。

 そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。

 きよめの洗いとは、手を上にあげて、流れ落ちる水で手をこする儀式であります。手を洗った水が、腕に流れ落ちてこないように注意します。さもないと、自分が汚れた者になるからです。

 「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪でいっぱいです。愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。とにかく、うちのものを施しなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。」

 イエスは、内側を、心のうちをきよめなさいとおっしゃられています。聖書をちゃんと読んでいるか、祈っているか、教会に通っているか、奉仕はしているか、そうした外側の行ないに気を使っているクリスチャンが、あまりにも多いです。けれども、どのように聖書を読んでいるのか、どのように祈っているのか、どのような動機で教会に通うのか、何をもって奉仕したいと言っているのか、という中身には関心が少ないのです。こちらのほうがもっと大切なのに、とくに気を使っていないクリスチャンは、パリサイ人たちと無縁ではありません。

 だが、忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそ実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。」

 イエスは、十分の一を納めることはなおざりにしてはいけないが、そのことにあまりにも気を使うために、もっと大切な公義、神への愛はなおざりにしていると言われています。教会には、いろいろなきまりと儀式がありますが、それらをなおざりにしてはいけません。洗礼、聖餐式、献金などがあります。けれども、それを中心的な課題にして、この人は洗礼を受けるべきか、聖餐式に自分は参加できるのかなど、儀式のことを中心にしているのであれば、パリサイ人たちと何ら変わらないのです。もっと大事なことは、何でそのなことをしているのか考えることです。洗礼ならば、古い人がキリストとともに死に、キリストにある新しい人を身に着けたことを表します。それでは、本当に、自分の生活がキリストにあって新たにされているでしょうか。今日が昨日よりも新たにされているでしょうか。これが、イエスが言われている公義と神への愛であり、そのことを自分の信仰生活の中心に据えなければいけません。

 
「忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。」

 人に見せびらかすことです。私たちのしていることを、人々の関心を自分に集まるため、人々に愛されるための心理的な必要を満たすために用いてはいけません。

 「忌まわしいことだ。あなたがたは、人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」

2B 預言者の迫害 45−52
 すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。彼らのほうから、自発的にイエスのさばきのみことばを招いています。しかし、イエスは言われた。「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本もさわろうとしない。」

 彼らの律法の解釈によって、人々は守ることができなくなるほどでした。けれども、自分たちがそれを実行するわけでもないのです。教えながら、自分を教えることをしない。語られたみことばを他の人に当てはめるが、自分に当てはめることをしない、あるいは、自分に当てはめることができるように曲げて解釈する。聖書への身勝手な取り組み方を、イエスは指摘されています。

 「忌まわしいことだ。あなたがたは、預言者たちの墓を立てている。 しかし、あなたがたの先祖は預言者たちを殺したのです。そのようにして、あなたがたは、自分の先祖のしたことの証人となり、それを認めています。なぜなら、あなたがたの先祖が預言者たちを殺し、あなたがたがその墓を立てているからです。」

 彼らは、預言者を敬っているつもりでしたが、実は、預言者を殺すようなことを行なっています。神のみことばを執拗に受け入れないのです。私たちは、聖書に出てくる義人や預言者に尊敬を払っています。そして、彼らを殺したり、迫害する者を見て、なんてひどいやつらなんだと思ったりします。けれども、実は、自分にも彼らを殺したい、迫害したいという思いがあるのに気づくことは少ないです。自分の肉が、神とみことばに反抗していることに気づきません。私たちは、自分の本当のことについて他人に指摘されると、ものすごく傷つきます。怒ります。いらだたしくなります。けれども、神のみことばは、それ以上です。魂と霊の間をつき刺すことができるほど、私たちについての真実を明らかにします。だから、ただへりくだって、神の御前にひれ伏すか、それとも、思いの中で、預言者のことばを殺してしまうかのどちらかを選択します。思いの中で殺してしまうとき、私たちは律法の専門家と同じ罪を犯しているのです。

 「だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。』」

 彼らは、預言者だけでなくて、後に活動する使徒たちも迫害しました。

 「それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。」

 ものすごいです。すべての責任が問われます。紀元70年にエルサレムが滅んでから、彼らは流浪の民となりました。数限りない迫害を受け、今もその責任を負っています。

 「忌まわしい者だ。律法の専門家たち。あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をもさまたげたのです。」

 イエスは、「集めない者は、散らす者です。」と言われましたが、彼らは、イエスがご自分のもとに集めようとされている人々を、散らしてしまいます。イエスを信じようとしている人、また、信仰の歩みを開始しようとしている人を妨げます。これは大きな罪で、他の箇所では、引き臼を首にくくられて海の底に沈んだほうがましだ、とあります。ですから、集めていなかったら、散らしているという事実です。人々に仕え、自分よりも他人を優れた者と見ていくことをしなければ、積極的に人を追い出していることになるし、実際に追い出してしまうのです。

3B 言いがかり 53−54
 イエスがそこを出て行かれると、律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろのことについての質問攻めが始まった。彼らは、イエスの口から出ることに言いがかりをつけようと、ひそかに計った。」

 いっしょに食事をしていたぐらい彼らはイエスと仲を良くしていましたが、ここで対立構造がはっきりしました。冷ややかな目でイエスを見ていましたが、今は、熱いまなざしで、イエスをにらみつけています。本当は、最初からそうだったのですが、自分は中間の立場にいると思って、自分を欺いていたのです。みなさんはどうでしょうか。イエスは、熱いか、冷たいかであってはしい。なまぬるいのは、口から吐き出すと言われました。弟子たちが祈りについてイエスから学んだように、御父との親密な関係を学んでください。決して、ちょっと距離を離して、神とつき合えると思わないでください。キリストを一心に見つめて、隣人を自分のように愛してください。私たちの周りには、悪魔がほえたけり、私たちを食い尽くすそうとして歩き回っています。けれども、父の愛の中に生きていれば安心です。 もっと強い方が、強い者を追い出してくださいます。


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