ルカの福音書12章 「神を恐れる」



アウトライン

1A 人を相手にしない 1−12
  1B 偽善 1−3
  2B 恐れ 4−7
  3B 信仰告白 8−12
2A 富を相手にしない 13−34
  1B 貪欲 13−21
    1C 遺産相続 13−15
    2C 財産にない命 16−21
  2B 心配 22− 34
    1C 生活の必要 22−30
    2C 御国の相続 31−34
3A キリストを柏手にする 35−59
  1B 主人の帰り 35−48
    1C 帯とあかり 35−40
    2C 管理人 41−48
  2B イエスの到来 49−59
    1C 分裂 49−53
    2C 時代の見分け 54−56
    3C 和解 57−59

本文

 ルカによる福音書12章を開いてください。ここでの主題は、「神を恐れる」です。さっそく、本文に入りましょう。

1A 人を相手にしない 1−12
 そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。

 そうこうしている間にとは、パリサイ人や律法学者が、イエスに激しい敵意を抱いて、イエスを質問攻めにしていたときです。イエスが、彼らを忌まわしいものだと呼ばれて、彼らがそれに歯向かいました。その激しい論争を見て、これはいったい何が始まったのか、と思って、群衆が集まってきました。

1B 偽善 1−3
 イエスはまず弟子たちに対して、話し出された。 群衆が集まっていますが、まず弟子たちに話されます。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。」

 偽善に気をつけよ、と呼びかけておられます。このギリシャ語のもともとの意味は、演技であります。舞台で他の人を装って、観客を相手にして振る舞います。パリサイ人は、そのような者たちでした。会堂で、人からよく見える上席を好んだり、人の集まる市場で、あいさつされることを好みました。つまり、彼らは神を信じていたのではなく、人を相手にして生きていたのです。これが偽善ですが、イエスは弟子たちに、パン種だから気をつけなさい、と言われました。パン種はパンのイースト菌のことで、少しパン粉に混ぜたら、全体に広がります。同じように、弟子たちも、いつの間にか、神ではなく、人を相手にして生きるようになってしまうということです。 そこで、イエスは大事な真理を教えられます。

 おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたが暗やみで言ったことが、明かるみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。

 これは、人間すべてが、必ず神に対して申し開きをしなければならないをことを示しています。私たちに人間は、他の人間に対し、すべてのことを明らかにしていません。自分にしか知らない隠された部分があります。だから、人に対する自分と本当の自分を使い分けることができるのですが、神にはそうではありません。「造られたもので、神の前でかくれおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(4:13)」とヘブル書の著者は言いました。そこで、パウロも、「こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きをすることになります。(ローマ14:12)」と言っています。

2B 恐れ 4−7
 「そこで、わたしの友である、あなたがたに教えてあげましょう。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。」

 弟子たちは今、パリサイ人たちがイエスに怒り、腹を立てているのを目の前にして見ています。半分、脅しに近い言い方を彼らはしていたのです。それで、イエスは、人を恐れてはいけない、という話を始められました。

 「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」

 イエスは、基本的に、本当の私たちはからだでなく、霊であることを話されています。死んだらそれで終わりなのではなく、死んだ後にも、存在し続けるのです。そして、肉体が滅びた後の運命は、神の御手の中にあります。神が決定されております。ゲヘナとは、火と硫黄の池とか、暗やみとか呼ばれており、永遠に苦しむところであります。そこに入ることのほうが、もっと、ずっと恐ろしいことであり、それに比べたら、からだが殺されることは大したことはありません。

 5羽の雀は2アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられていません。」

 アサリオンとは、1円のような貨幣の単位です。そんなに安く売られている雀も、神に養われています。

 「それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」

 弟子たちは、これから自分たちが多くの迫害を受けることになります。けれども、神が雀を守られているように、私たちはなおさらのこと守られ、大事にされているのです。実に、髪の毛の数を数えておられるほど、神は、私たちについて小さいことを気にかけておられます。だから、人の目を気にするな、人を相手にして生きるな、と言われます。

3B 信仰告白 8−12
 「そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」

 神を恐れて、人を恐れない結果、人の前で主を認めることができます。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。(箴言3:6)」とソロモンが言いました。そして、イエスが私たちを認められるのは、神の御使いの前だということです。天使たちの前で、つまり、目に見えないところの世界、霊の世界、天における世界において、私たちを認めるか、認めないかを決められます。ですから、私たちがこの地上で行なっていることは、直接的に天における私たちの評価に結びついていることがわかります。

 「たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし聖霊をけがす者は赦されません。」

 聖霊によってもたらされる、イエス・キリストの証しを拒むと、決して赦されず、神から罰を受けることになります。聖霊は、罪が赦される道はただ一つ、十字架につけられたイエスを仰ぎ見ることであることを教えられます。それを拒むなら、その人には罪が赦される術が残されていません。

 「また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」

 聖霊は、救いの道を教えられるだけでなく、救い主キリストについて弁明するときにも働いてくださいます。キリストについて何を言うべきかを教えてくださいます。

2A 富を相手にしない 13−34
 こうして私たちは、人よりも神を恐れる、人よりも神を相手にして生きなければならないことがわかりました。次には、地上の財産よりも神を気にする、地上の富よりも天にある富に気を止めるべきであることが書かれています。

1B 貪欲 13−21
1C 遺産相続 13−15
 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。 兄弟どうしが、相続争いをしています。すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 先ほどは偽善に気をつけよ、と言われましたが、次は貪欲に気をつけよ、と言われています。偽善は、人から歓心を得たいという強い思いですが、貪欲は、物を得たいという強い思いです。イエスが話されている「いのち」は、ゾーエ、霊的ないのちのことです。自分はどうして生きているのか、死んだ後にどうなるのか、そうした生きる意味について人間は考えます。けれども、多くの人は、その空白を物で満たそうとします。「これさえあれば、私は幸せになれる。生きがいを見出すことができる。」と思います。そして、実際に欲しいものが手に入ると、「いや、まだもっと何かがあるはずだ。」と思って、さらに多くのものを求めます。けっして満足することがないのです。

2C 財産にない命 16−21
 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして、言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

 このたとえは、貪欲がうまく表現されています。英語の聖書を見ると面白いのですが、「私はどうしよう。私はこうしよう。私は、あの倉を取りこわして、私は私の穀物や私の財産をみなそこにしまっておこう。」と、「私が」とか「私の」という言葉がくり返されています。つまり、貪欲になっているとき、自分の意思が優先して、神のことが入ってくる余地がなくなっているのです。また、「安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」という箇所には、接続詞が入っていません。英語ですとa n dがないのです。ですから、「(あせって言う)安心し、食べ、飲み、楽しむぞ!」と言っているわけで、一歩下がって、神がどう考えておられるか何も気にしていないのです。本当なら、「安心した。さて、神さま、これをどうすればいいですか。食べてもいいですか。どうでしょう?」というような心の状態でなければいけないのです。

 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

 いのちは一時的なものです。そして、死ぬときに財産を持っていくことはできません。よく言われるように、裸で生まれたのだから、裸で帰るのです。

 「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 神の前に富むというのは、先ほどの神を恐れることと同じであります。この地上で行なっていることを、天において申し開きをすることです。けれども、神を恐れるのは、悪から離れるという消極的な行為であるのに対し、神の前に富むとは、善を行なうという積極的な行為です。イエスは、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。(マタイ7:12)」言われましたが、神の前でした良い行ないは、一つももれることなく、天において高く評価されます。

2B 心配 22− 34
 それから弟子たちに言われた。

 イエスは、群衆ではなく弟子たちに話されます。群衆の一般的な問題は貪欲でしたが、弟子たちにありふれた問題は心配です。不信者は物がもっと多くなることに気を使いますが、信者は、物がなくなることに気を使うことが多いです。

1C 生活の必要 22−30
 「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。」

 烏は、鳥の中でも醜い動物として数えられていました。それが、神によって見事に養われているのですから、ましてや、烏よりもずっと尊いあなたがたが、養われないはずがありません。

 「あなたがたのうちのだれが、心配したからと言って、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」

 ここは、「身長を伸ばすことができますか。」と訳すことができます。自分が背が低いからと気にしたからって、それを伸ばすことはできません。だから、心配することは時間の無駄なのです。

 「こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか、紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾っていませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。信仰の薄い人たち。」

 不思議なことに、私たちは、神がよくしてくださることを信じ切ることができません。悪いことが起こるのを信じたくないというのならわかりますが、良いことをしてくださるのを信じることができないんです。自分がある人をとっても気にかけて、愛しているのに、その人は自分に閉じこもって悩んでいるということを経験されたことはないでしょうか。とっても、じれったいでしょう。ましてや、神は、自分の内で思い悩んでいる私たちを見て、じれったく感じられているのです。

2C 御国の相続 31−34
 「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めるものです。」

 先ほどの貪欲な人がそうでした。「しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。」

 再び、イエスは神のことを、「父」と呼ばれました。私たちが、このことを思い出すときに、神が私たちを十分に養ってくださることを容易に信じられるはずです。

 「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは、それに加えて与えられます。小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」

 イエスは、神の国を求めなさいと言われました。なぜなら、神の国を相続することになるからです。先ほどからずっと同じですね。神を恐れる、神の前に富む者となる、神の国を求める、つまり、神や神のことを柏手にして生きていきなさいということです。神を相手にして生きるときに、私たちは大きな報いを受けます。これも、申し開きの一つです。私たちのしたことが数えられて、報いを受け取ります。

 「持ち物を売って、施しをしなさい。」

 心配するどころか、持っているものまでをあげてしまいなさい、とイエスは言われます。

 「自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。」

 天における報いは、地上のものと異なり、朽ちず、損なわれず、いつまでも保ちます。だから、地上のことよりも、天のことや神のことを考えていなさいということになります。

3A キリストを柏手にする 35−59
 ですから、人を相手にするのでもなく、神を相手にしなさいということです。それでは、具体的に、どのようにして神を相手にして生きるのでしょうか。次からそのことが書かれています。キリスト、メシヤが来られるとき、人間がしたことの清算、評価が行われます。神の国が立てられ、報いを受けるべき者は報いを受け、罰を受けるべき者は罰を受けるのです。ですから、キリストが来られることを見つめることによって、私たちは神を相手にして生きることができます。

1B 主人の帰り 35−48
1C 帯とあかり 35−40
 「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。」

 腰を帯に締めるとは、仕事をしやすいように、衣の裾を上げることです。つまり、主のために働きなさいということです。神の国を相続するために、天に宝を積み上げるために、勤勉に働きます。パウロは、「機会を充分に生かして用いなさい。(エペソ5:16)」と言いました。そして、あかりをともすことについてですが、前回11章で、「からだのあかりは、あなたも目です。(11:34)」とありました。キリストを見つめることによって、その光を見つめることによって、私たちからキリストが現われ出ます。その光をともしていなさい、ということです。

 「主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに、戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。」

 主人がキリストで、しもべは弟子たちです、婚礼から帰って来られるとは、キリストが再び来られること、再臨のことを意味します。

 「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓につかせ、そばにいて給仕してくれます。」

 これは、イエスが私たちを豊かに祝福してくださる様子です。

 「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。」

 いつでも目をさましているのがポイントです。これは、イエスが今日、戻ってこられるかもしれない。今、この時間に戻ってくるかもしれない、と考えることです。そういう期待感をもてたとき、私たちはどうするでしょうか。今、神が私に報いてくださるかもしれない。今日、すばらしい御国に入れてくださるかもしれない。今、イエスに、顔と顔を合わせてお会いすることができる、と、数々の祝福を期待することができます。そのため、私たちは、喜びをもって主に仕え、しなければならないことをしていく ことができるのです。神を第一として生きることが、キリストが来られるのをいつでも待ち臨むときに可能となるのです。

 「このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」

 先ほど、イエスが来られるのは、真夜中かもしれないし、夜明けかもしれないとありました。夜のときとは、罪と不法がはびこり、愛が冷えて、正しいことを行なう人、光の中にいる人々が迫害されるときです。そのような人たちにとって、戸をたたく音は待っていたものが来たことになります。救いがおとずれたことになります。それに、キリストの光が自分の部屋に差し込んでも、自分の部屋にもあかりがついているので、驚くことはありません。けれども、この世と同じように暗闇の中にいたらどうなるでしょうか。戸をたたく音は思いがけないものとなります。救いではなくて、さばきがおとずれることになります。なぜなら、自分のしている悪い行ないが、キリストの光によって一気に明かるみに出されるからです。だから、夜中に盗人が自分の家を襲いかかるようになってしまいます。

2C 管理人 41−48
 そこでペテロは言った。「主よ。このたとえは私たちのために話してくださるのですか。それともみなのためなのですか。」

 イエスはずっと、弟子たちに対して語られていたのに、ペテロはこのような疑問を持ちました。自分としては、キリストが盗人のように来られるなんて考えられなかったからです。自分はいつもイエスの側に立っていているから大丈夫だと考えていたのでしょう。だから、みなのためにも語られているかもしれないと思ったのです。けれども、イエスはこう言われています。

 「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人とは、いったいだれでしょう。」

 イエスは、ペテロや他の弟子たちを管理人にたとえられています。他の信者たちを神から任せられて、彼らを養うように命じられています。みことばによって、彼らの魂の糧をきちんと与え続けます。そして、「思慮深い」とありますね。他の箇所では、慎み深く とあります。思うべき限度を越えて思い上がるのではなく、小さなことに忠実な者になることです。

 「主人が帰って来たとき、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」

 ものすごいですね。キリストがもっておられる富をすべて任せられるのです。キリストの富って、どのくらいあるのでしょう。この地球、宇宙はみなキリストのものです。それをみな、任せられるのです。

 「ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ。』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。」

 この管理人は、自分の立場を利用して、信者を打ちたたき、自分の腹を肥やします。それでは、なぜ、このような悪いしもべになるのでしょうか。「主人の帰りはまだ遅い。」と思っているからです。「イエス・キリストが来られるのが、今日かもしれないなんて馬鹿げている。何の兆候もないではないか。10年後かもしれないし、100年後かもしれない。」というような態度のことを話しています。キリストの再臨について、このような無関心、軽々しさは、私たちを不忠実なしもべとし、キリストヘの信仰も捨てるようになります。そこで次を見てください。

 「そして、彼をきびしく罰して、不忠実なしもべどもと同じめに会わせるに違いありません。」

 この不忠実は、不信者と訳すことができます。ですから、キリストの弟子と呼ばれる人であっても、ゲヘナに投げ込まれる可能性は十分あるのです。

 「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」

 ですから、ペテロが他人事のようにして聞いていた、神のさばきは、実は自分たちにも大いに当てはまるのです。後にペテロは、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。(1ペテロ4:17)」と言いました。不信者には、与えられた神への責任がありますが、信者にもあるのです。イエスを信じてから、神に申し開きをする責任がなくなったと考えると、とても危険です。思い出してください。多くの祝福を約束されたイスラエルの民は、40年間荒野をさまよい、荒野でしかばねをさらしたのです。クリスチャンも多くの約束を与えられていますが、約束を手にすることなく滅びることはありえるのです。自分が特別だ、ということは決してありません。パウロも言いました。「だまされてはいけません。あなたがたは、正しくない者が神の国を相続できないことを、知らないのですか。(1コリント6:9参照)」 私たちは、神のことについて多くを知っています。ですから、多く要求されているのです。

2B イエスの到来 49−59
1C 分裂 49−53
 「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。」

 イエスは、「わたしが来たのは」と過去形で言われています。先ほどまで主人の帰り、つまり再臨のことについて話されていました。これからは、初臨について話されます。イエスは、地に火が投げ込まれることを願いました。ご自分が話された、神への申し開きについて、今それが行われることを願われています。神のさばきが怠りなく行われて、きよめられることを願われています。けれども、次を見てください。

 「しかし、わたしは受けるパブテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」

 まず、イエスは、さばきを行われる前に、苦しみのバプテスマをお受けになります。十字架に至るまでの、また十字架上での苦しみをイエスは受け取られます。それがあって、はじめて、イエスはさばきを行われます。

 「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家5人は、3人がふたりに、ふたりが3人に対抗して分かれるようになります。父は息子、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗して分かれるようになります。」

 これはもちろん、イエスに従う者と逆らう者に分かれるということで、イエスが争うことを命じられているのではありません。イエスは、11章で、「私の味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は、散らす者です。」と言われました。中間は存在しません。さばきのときに、人はみな、天の祝福にあずかる者と、火の中に投げ込まれる者と選り分けられるのですが、その前兆を、この地上で見ることになるのです。この地上で、イエスに受け入れられる者と、拒まれる者が分けられていきます。

2C 時代の見分け 54−56
 「群衆にもこう言われた。」

 イエスは弟子たちに、ご自分の初臨の意味について話されましたが、今度は群衆に話されます。

 「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実そのとおりになります。偽書者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」

 今のこの時代とは、キリストが来られた時代です。数多くのしるしがあったのに、彼らはイエスをメシヤとして受け入れませんでした。ダニエル書9章にも、エルサレムに神殿が再建されてから、483年後にメシヤが来られる話がのっていて、今はもう483年目なのです。それを見逃していました。私たちの世界もそのとおりです。キリスト教は昔の宗教だ、奇跡などは信じられないなどと話す人たち大勢いますが、どうでしょうか。科学を見たら、聖書の教えと合致するエントロビーの法則が、最近になって発見されました。歴史を見たら、聖書の預言と合致する、イスラエルの国の建設が行われました。政治経済を見たら、聖薯の預言と合致する、世界経済、世界共同体が出来ています。これだけの証拠が連なっているのに、見分けることができていないのです。

3C 和解 57−59
 そこでイエスは、こう言われます。「また、なぜ自分から進んで、何が正しいか判断しないのですか。」

 多くの人が、自分から進んで、イエスの言われていることは正しいかどうか、調べようとしないのです。クリスチャンが言うことに任せて、あらを探すと、キリスト教はだから間違っているとしか話しません。

 「あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するように努めなさい。」

 これはたとえです。告訴する者はキリストご自身であり、被告人は群衆たちです。キリストに逆らわないで、さばきが来る前に和解しなさい、と言われています。

 「そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。」父なる神のことです。「裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。」

 執行人は、おそらく御使いたちのことでしょう。

 「あなたがたに言います。最後の1レブタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。」

 これは、むろんゲヘナの状態を現わしています。ある人が、福音をどうしても受け人々ない舅に、こう言いました。「イエスさまを信じなかったら、地獄に行くよ。」彼はアメリカ人なのでかなりはっきりしています。そして、日本人の舅はこう答えました。「地獄から這い上がる。」確かに、地獄から這い上がることはできるかもしれません。さばきの時は、清算の時です。自分が持っている負債をすべて支払えば、何の問題もありません。問題は、その負債を払い切れるか、と言うことです。今まで犯してきた罪、行ないだけでなく思いの中で犯した罪もみな、負債として残っています。ことわざである、「水に流す」という考えが全く通用しない世界に入るのです。すべてのことは明らかにされて、すべてのことについて申し開きしなければならない時が来ます。その時が来る前に、イエスを自分の救い主と受け入れて、すべての負債を帳消しにしていただきましょう。


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