ルカによる福音書2章 「へりくだる神」

アウトライン

1A みどりごとして 1−21
  1B 従属 − 人間の制度 1−7
  2B 証言 − 羊飼い 8−20
    1C 御使いの現われ 8−14
    2C 応答 15−20
  3B 移行 ― 御使いによる名 21
2A 幼子として 22−40
  1B 従属 − モーセの律法 22−24
  2B 証言 − 神の人 25−38
    1C 聖霊に満たされた人 25−35
    2C 女預言者 36−38
  3B 移行 ― 神の恵みによる成長 39−40
3A 少年として 41−52
  1B 従属 − 祭りの慣習 41−45
  2B 証言 − イエスご自身 46−50
  3B 移行 − 神と人の愛による成長 51−52

本文

 ルカの福音書2章を開いてください。ここでの主題は、「へりくだる神」です。前回、私たちは、バプテスマのヨハネの誕生の記事を読みました。そこでは、奇跡的な事が起こりました。妻のエリサベツも祭司のザカリヤも、同じヨハネという名前を子どもにつけて、ザカリヤは、名づけた途端、口が開けて、神を賛美しました。このことは、ユダヤの山地全体に広まり、人々は、このヨハネのことを心に留めました。そして、ヨハネは、成長してから荒野に住み、公の活動をする準備をしました。神の預言者として、人々の期待と気運が高まっています。その一方、イエスの誕生の記事を読むと、それとは正反対の出来事を読みます。イエスは、人々の期待にはそぐわないような、誕生と成長を遂げられました。それでは、さっそく本文を読んでいきましょう。

1A みどりごとして 1−21
1B 従属 − 人間の制度 1−7
 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。そこは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。

 ルカは、福音書を書き始めた時と同じように、世界史による舞台設定をしています。皇帝アウグストは、紀元前27年から紀元14年までローマを治めていました。そして、クレニオは今まで、紀元7年から9年までの総督であるとされていましたが、最近の歴史的文献によりますと、それは2回目の統治であったということがわかりました。紀元前にも総督になった時があったのです。

 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。

 アウグストの勅令に、人々はみな従いました。彼の覇権は、すべての家庭を動かしてしまうほど拡大していました。アウグストは、世界の超大国であるローマの最初の皇帝でした。このときから、「カエザルは主である。」と人々に呼ばせて、皇帝が神と同じ身分に置かれるようになったのです。

 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。

 ここで、超大国の皇帝アウグストの話から、その国の一住民であるヨセフの話に焦点が絞られています。ヨセフはナザレという評判の良くない町に住んでおり、先祖はベツレヘムという、これまた小さい町に住んでいました。ただ、ヨセフについて特別なことは、彼がダビデの子孫であったことです。

 彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなづけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

 マリヤは、このとき妊娠していました。ナザレからベツレヘムまでは、130キロぐらいあります。妊婦にとって、この長旅は非常に酷なことでありましたが、皇帝の勅令には逆らうことができませんでした。そして、マリヤが「身重になっているいいなづけの妻」と呼ばれていますが、これはあってはならない表現です。婚約中だけれども妊娠しているのですから、それが発覚したら、ユダヤ人たちから石打ちにされます。彼らの立場は、社会一般よりも低かったことがわかります。

 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 マリヤは、家畜小屋の中で子を産みました。そこは、糞のにおいがして、とても非衛生的なところです。そんなところで出産した理由が、「宿屋には場所がなかった。」とあります。この宿屋は、ホテルや旅館のようなものではなく、ただ雨風をしのぐために、覆いがされているような場所でした。そこにさえ、彼らの泊まる場所がなかったというのです。

 パブテスマのヨハネの誕生と比べてください。彼は祭司の子どもでありますが、イエスの親は、何でもない人です。ヨハネは、人々の喜びと楽しみの中で生まれましたが、イエスは、人々に追い返されるようにしてお生まれになりました。このように、イエスの誕生は、実に卑しいものでした。

 しかし、これは人間サイドから見たらでの話です。神側からこの出来事を見ますと、ミカの預言があります。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(5:2)」神は、マリヤの出産が近いことを知って、彼らがベツレヘムに行くように導かれたのです。皇帝アウグストを動かして、全世界の住民登録の勅令を出すようにされました。ヨセフとマリヤは、宿屋の主人さえも動かす力がなかったのですが、神は、皇帝アウグストスを動かす力を働かせておられたのです。

2B 証言 − 羊飼い 8−20
1C 御使いの現われ 8−14
 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

 話は、ベツレヘムの土地にいる羊飼いのことに移っています。イエスの生きておられた時代において、羊飼いは、ダビデの生きていた時代にあったような尊敬はなくなっていた、と言われています。どちらかといえば、疑問視されるような評価しか受けなかったようです。でも、神は、この羊飼いを、イエスの誕生の出来事を言い広める人たちとして選ばれます。ヨハネの誕生について、祭司ザカリヤが預言したのと比べると、月とスッポンです。しかし、これも人間的な見方です。ベツレヘムで飼われていた羊は、過越の祭りのために使われるものでした。その羊は、傷や欠陥がないものでなければいけなかったので、ベツレヘムとう場所で、大切に育てられたのです。私たちは、マルコの福音書の学びにおいて、イエスが過越の小羊であることを学びました。過越の祭りでは、エルサレムで羊がほふられたように、イエスはエルサレムで十字架につけられました。そして、ベツレヘムで過越の子羊が生まれ育ったように、イエスはベツレヘムでお生まれになったのです。ですから、ベツレヘムの羊飼いたちに、イエスの誕生が知らされることは、とても大きな意味があったのです。

 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

 主の使いが、主の栄光をたずさえて羊飼いに現われました。これは、天国が、いきなり彼らの前に現われたようなものです。預言者イザヤも同じような経験をしました。そのとき、イザヤは、「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるのけがれた民の中に住んでいる。(イザヤ6:5)」と嘆きましたが、羊飼いたちも、ひどく恐れています。なぜなら、天国は神が住んでおられるところであり、すべてが完璧なのに対し、私たちは不完全であるからです。しかし、御使いはこう答えています。

 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民、全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」

 恐れることではなく、喜ぶことを御使いは知らせに来ました。この「喜びの知らせ」のギリシャ語は、「福音」と同じであります。

 きょうグビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 その福音は、救い主が来られることです。彼らがひどく恐れた主は、人として彼らに接近してくださいました。御使いが、「あなたがたのために」と、個人的に語っていることに気づいていください。救い主によって、神と人との間にあった隔たりは取り除かれ、人の罪と汚れはきよめられ、神に受け入れられる者となります。そして、この方は、主キリストであります。主とはヤハウェという神の名前のことを表し、キリストは神に油そそがれた者という意味です。ですから、この方は、世界の支配者アウグストスでさえも従わざるをえない、王の王、主の主であります。私たちと個人的に接してくださる方が、すべてを支配される方であることを知るのは、とても慰められることです。

 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。

 大部分の人にとっては、これは受け入れがたいしるしであったでしょう。主でありキリストであられる方が、飼葉おけで寝ておられるとは、どんなに狂ったしても考えられないことです。でも、この羊飼いたちには、信じることができました。

 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人にあるように。」

 御使いは、神に対しては栄光が、人に対しては平和があるように、と賛美しています。このみどりごに神の満ち満ちた姿が現われおり、この子を自分の救い主として受け入れる者には、平和が心におとずれます。なぜなら、神に敵対して、いずれさばかれる存在が、キリストの死によって、神との和解を持つことができるからです。

2C 応答 15−20
 次の羊飼いたちが、御使いのメッセージに応答します。御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

 彼らは、喜びと期待感で3人を捜しました。

 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。

 聖書の中の、最初の伝道活動が記されています。すばらしい喜びの知らせをたずさえて、自分たちも喜んで心を燃やし、他の人々に知らせるのです。

 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

 羊飼いの言ったことは人々に伝えられましたが、あまりインパクトはなかったようです。驚いただけで、心には留められなかったのです。それに対し、ヨハネのときは、「聞いた人々はみな、それを心にとどめて(1:66)」とあります。たぶん、話したのが羊飼いということで、信じられなかったのでしょう。しかし、マリヤは、心に納めて、思いを巡らせていました。彼らが言ったことの意味は何か、いろいろ考えていました。マリヤだけが、羊飼いのメッセージに応答したのです。

3B 移行 ― 御使いによる名 21
 8日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。

 割礼は、ユダヤ人になることのしるしであります。これはとても大切な儀式とされ、8日日が安息日であっても、割礼を施すことが許されたほどです。そして、イエスという名前が与えられました。これは、「ヤハウェは救い。」と言う意味です。また、両親が、御使いに言われたように、名づけたことに気づいてください。彼らは、神に対し従順な人たちでした。

2A 幼子として 22−40
 そのことは、次の筒所にも現われてきます。

1B 従属 − モーセの律法 22−24
 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムヘ連れて行った。それは、主の律法に、「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。  また、主の律法に、「山ばとが一つがい、または、家ばとのひな二羽。と定められたことに従って犠牲をささげるためであった。」

 二人は、モーセの律法を忠実に守っていました。これは、主の律法と言い換えられているように、神のおきてであります。神が、モーセを通して、イスラエルの民に与えられました。「きよめの期間」とありますが、母親が男子を出産したら33日間こもらなければならないことが、レビ記に書かれています(12:1−8)。その後に、その子を主の御前にささげなければいけませんが、特に、最初に生まれてきた男子は、主に聖別された者となることが出エジプト記に書かれています(13:2)そして、彼らは、山ばとか、家ばとのひなをいけにえとしてささげたようですが、これは、羊を買う余裕のない人たちがささげることができるように、律法の中で定められています(レビ12:8)。このことから、ヨセフとマリヤは貧しかったことが伺えます。

 このように、ヨセフとマリヤは、ローマ帝国の勅令に従っただけでなく、モーセの律法にも従っていました。社会的に身分が低いだけではなく、神の徹前にへりくだる人たちでした。イエスは、そうした両親からお生まれになることによって、ご自分を低くし、人々に届こうとされたのです。イエスは、「暗黒と死の影にすわる者たちを照らす日の出」とザカリヤから呼ばれました。すべての人を照らすために、すべての人のしもべの立場を取られたのです。

2B 証言 − 神の人 25−38
 そして、羊飼いがキリストを証ししたように、ふたりの人が証しをします。

1C 聖霊に満たされた人 25−35
 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。

 ひとり目の証人は、シメオンです。彼は、正しく敬虔な人でした。なぜなら、イスラエルが慰められることを待ち望んでいたからです。しかし、多くのユダヤ人は、慰めよりも力を求めていました。ローマ帝国から独立したい、自分たちの国を持ちたい、という政治的な解放の欲求が強かったのです。しかし、もし自分が高ぶったままで政治的に解放されたとしても、本当の自由ではありません。一人一人が神の御前にへりくだり、主に立ち返り、心のいやしをいただくことによって、初めてイスラエルの救いは完全なものとなります。その、本当の意味での救いを求めていたのがシメオンです。それが出来たのは、彼の上に、聖霊がとどまっておられたからです。聖霊が、聖書に書かれてある希望を、私たちの心に知らせてくださいます。

 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。

 彼は、もう年寄りでした。彼は個人の将来を、聖霊によって告げ知らされました。

 彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。

 彼は御霊に感じました。聖霊が彼の上にあり、聖霊のお告げを聞いて、今、ここでは御霊に感じました。彼は、御霊の人でした。でも、祭司でも何でもありません。普通の人でした。神は、牧師や伝道者のような立場にいる人だけでなく、どんな人をも、聖霊によって満たすことがおできになります。

 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」

 彼は、幼子イエスご自身を、「御救い」と呼んでいます。なぜなら、ことばや幻などでご自分を示された神は、今、人間の姿でご自分を示されたからです。救いを聞くだけでなく、さわって、見ることができました。

 「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」

 これは、驚くべき発言です。ユダヤ人にとって、救い主は、あくまでもイスラエルを救う方でした。異邦人は全く考慮に入れられていませんでした。しかし、御救いが異邦人の光としておとずれると、シメオンは言っているのです。

 それで、
父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。

 とあります。彼らが従っていたのは、あくまでもモーセの律法です。イスラエルのために与えられた神のおきてです。しかし、この幼子は、イスラエルという枠組みを越えて、すべての民族に救いをもたらす方となります。

 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの者が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」

 イエスが異邦人にとって光となる一方で、肝心なイスラエル人の多くが彼に反対します。

 「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるからです。」

 マリヤは、イエスが多くの人の憎しみを受けるのを見るようになります。その究極が、あの十字架刑でした。マリヤは、その場に立ち会っています。このように、イエスは多くの人から拒まれます。イエスは、その誕生だけでなく、全生涯においてへりくだった立場を取られたので、心高ぶった人たちは、彼を受け入れることができませんでした。

2C 女預言者 36−38
 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと7年間、夫とともに住み、その後やもめになり、84歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの願いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。

 シメオンの次は、アンナという女性が幼子イエスのことを証言しました。彼女はシメオンと違って、宮で仕えている預言者でした。けれども女性です。ユダヤ人社会は、異邦人ほどひどくはなかったけれども、男尊女卑でした。けれども、その女性がイエスのことを語っている事実は、福音が女性にも行き届くことを示しています。パウロは、「男も女も、・・・キリストにあってひとつだからです。」と言いました。

 こうして、聖霊に満たされた人と、女預言者によって、イエスのことが証しされました。イエスは親に抱かれる以外に、何もすることのできない幼子でした。しかし、神の御子としての力は、皇帝を動かし、御使いを動かし、羊飼いを動かし、そして、ここで、シメオンとアンナを動かしています。

3B 移行 ― 神の恵みによる成長 39−40
 さて、彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰った。幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。

 イエスは神の御子でありながらも、人として成長されました。他の子どもと同じように、言葉をおぼえたりしていたに違いありません。でも、多くの人は、神の御子ならば学習をする必要なないではないか、と疑問を持つでしょう。でも、逆に、小さいときからもし何の学習もする必要がなかったら、イエスは子どもたちに届くことができるでしょうか。子どもたちが持っている悩みや苦しみを、どのようにして理解することができるのでしょうか。イエスは、子どもたちの救い主となるためにも、子どもとして成長されたのです。イエスは、完全な神であられると同時に、完全に人でした。

3A 少年として 41−52
 そこで、次の話に移ります。

1B 従属 − 祭りの慣習 41−45
 さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。イエスが12歳になられたときにも、両親は祭りの慣習に従って都に上り、祭りの期間をすごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっていた。

 イエスの両親は、モーセの律法だけでなく、祭りの慣習にも従っていたようです。律法には過越の祭りに参加することが命じられていますが、慣習として、ユダヤ人の男性の成人は、3大祭りの一つに参加するために、エルサレムに行くことがありました。3大祭りとは、過越の祭りと、五句節と、仮俺の祭りです。ヨセフは、この慣習に家族ぐるみで従っていたようです。

 少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムにまで引き返した。

 イエスがはぐれてしまいました。12才と言ったら、両親にぴったりくっついているのでなく、あっちやこっちや、いろんなところをうろうろしてるような時期であります。両親は、親族や知人の人たちと大ぜいで帰っていたので、イエスもいっしょに付いてきていると思ったのでしょう。ところがいないので、彼らは非常に心配しました。

2B 証言 − イエスご自身 46−50
 その前に、46節を読みます。そしてようやく 3日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

 イエスは、教師たちのところでいっしょにすわって、その教えを聞いたり、質問をされました。ラビが弟子に教えるとき、このように質疑応答で話が進んでいきました。

 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。

 先ほど、イエスが「知恵に満ちていった」と書かれていましたが、今は、その知恵が教師たちを驚かせています。少年としての知識は限られていましたが、その知識をどのように適用させるか、つまり知恵に満たされていたのです。

 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」

 マリヤが気分を害しています。母親として、気分を害しました。しかし、次のイエスの発言を見てください。

 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになるのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」

 ここの「家」は、仕事と訳すことができます。両親に向かって、「わたしは、わたしの父の仕事をしている。」と言われたのです。これは、まぎれもなく、ご自分が神のひとり子であることを証言しているに他なりません。マリヤは、母親としてイエスを見てしまいましたが、今イエスは、御子としての仕事を始められているのです。 幼子イエスには、他の人々の証言が必要でしたが、もう立派に言葉の話せるイエスは、そんな必要はありません。ご自分でご自分のことを証しされたのです。

 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。

 両親にとって、イエスを子どもに持つことは大きな試練でした。子どもは自分の子どもであると考えて当然なのですが、そう考えるとイエスの本当の姿が見えないのです。後で、ナザレの人々は、「あれはヨセフの子ではないか。」と言って、イエスがキリストであることを認めることができませんでした。それだけ、イエスの成長している姿は、あまりにも他の人間と変わらない普通の姿だったのです。

3B 移行 − 神と人の愛による成長 51−52
 それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。

 この「仕えられた。」という言葉が、ものすごく大きな意味を持ちます。この両親は、社会的にも、経済的にも身分の低い人たちでした。また、モーセの律法やその慣習を守る、神の御前にもへりくだる人たちでした。その両親に仕えることは、自分を本当に低い立場に置くことです。むろん、神が人となること自体に、ものすごいへりくだりがあるのですが、人間の世界の中でも低い立場を取られました。神のひとり子である意識を抱きながら、人々に仕える姿を取られたのです。パウロは言いました。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のありかたを捨てることができないと考えないで、ご自分を無にし、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質を持って現れ、自分を卑しくされました。(ピリピ2:6−8)」

 母はこれらのことをみな、心に留めておいた。

 彼女は、再び心に留めました。マリヤは、母親としてイエスを育てながら、主のはしためとしてイエスのことを考えました。イエスは、いったいどのような方であるのか。キリストであり、主である方は、今は、わたしの父の仕事をしていると言われて、エルサレムにとどまっておられた。この方は、次に何をされるのだろうか、と考えていたのでしょう。 彼女は、肉のつながりと霊のつながりの狭間に立ちながら、深く思い巡らしたに違いありません。

 イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。

 イエスは成人へと成長されていきました。思春期も経験されました。こうして、イエスご自身、私たちと同じ道を通られたのです。こうして、イエスは、ご自分を卑しくされることによって、人の弱さを学ばれたのです。知識がないとはどういうことか。親に従うとは、どういうことか。国の法率に従い、また、神のおきてを守るとはどういうことか。イエスは、これらすべてを知っておられます。このイエスが、私たちの「不思議な助言者」です。カウンセラーです。私たちを慰め、励まし、導びかれます。そして私たちのために、全能の力を働かせて、すばらしい事をしてくださいます。力強いけれど、あわれみに富んだ方です。どうぞ、イエスのもとに行って、休み、くびきを負い、そして学んでください。


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