ルカの福音書21章 「時の接近」

アウトライン

1A 模範 1−4
2A 訓戒 5−33
   1B 惑わされない 5−11
   2B 悟る 12−28
      1C 迫害 12−19
      2C エルサレムの滅亡 20−24
      3C 天変地異 25−28
   3B しるしを見る 29−33
3A 警告 34−38

本文

 ルカの福音書21章をお開きください。ここでのテーマは、「時の接近」です。この世のものは過ぎ去る時が近づいていることを悟りなさいという、イエスの教えと訓戒と警告があります。それでは早速、1節から読んでいきましょう。

1A 模範 1−4
 さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。

 イエスは今、宮の中におられます。私たちは前回、イエスが宮で教えられておられたとき、宗教指導者たちが挑みかかってきたことを学びました。彼らは、さまざまな詰問をイエスにあびせますが、イエスは見事に答えられて、彼らを黙らせてしまわれました。そして、弟子と民衆に、彼らのようになってはいけないことを注意されました。彼らは、宗教的な活動を人に見せるために行なっているのだとおっしゃられました。そこで、この場面が出てきます。金持ちが献金をしているのですが、その動機が悪かったのです。彼らには、人に見せたいという願いがありました。


 そこに、対照的な人物が登場します。また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。レプタは、二、三百円に相当するような額です。それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

 
イエスは、比喩を話されたのではありません。「真実を告げます。」と強調されています。天においては、実際に、このやもめが一番投げ入れたように記録されているのです。例えば、いろいろな会社の商品の売上げ表があっても、その純利益の表はまったく違うものが出てくる場合があります。それは、計算の方法が違うからです。天国と地上においても違います。次を見て下さい。

 みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。

 
天国においては、人がどれだけの犠牲を払ったかによって計られます。生活費の全部を投げ入れたやもめのほうが、金持ちよりもずっと大きな犠牲を払ったからです。でも、なぜこの女性が、多くの犠牲を払うことができたのでしょうか。ヤコブの手紙2章5節に、こう書かれています。

 よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。

 貧しい人たちは、この世の財産により頼むことができないので、神により頼むことをよく心得ています。そして、この世ではなく、後に来る神の国に期待をかけています。したがって、この世の財産にしがみつくことなかったので、大きな犠牲を払うことができたたのです。イエスは、次から、神の国が訪れる時のことを話されますが、やもめは、それを待ち望む人の模範となっています。


2A 訓戒 5−33
1B 惑わされない 5−11
 宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。

 人々は、この献金箱で起こったことを見た後で、宮の外に出ました。そして、外から見る神殿のすばらしさに圧倒されました。大理石で出来ているすばらしい石、そして、金箔で覆われている奉納物を見て深く関心していたのです。けれども、神殿と言っても、建物そのものはこの世の栄華であります。彼らは、貧しいやもめからまだ学んでいなかったのです。

 するとイエスはこう言われた。「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」

 これが文字通りに起こりました。紀元70年に、ローマはエルサレムの神殿に火をつけました。その熱によって覆われた金箔が、大理石の亀裂の中に入りました。ローマは、その金を採取するために、一つ一つの石を取り除き、文字通り、一つも積まれたまま残ることがなく、石がくずされました。


 彼らは、イエスに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。」

 彼らは、神殿が壊されるのがいつかということと、世の終わりの前兆について聞いています。神殿がこわされることと、世の終わりがほぼいっしょに起こると考えたのです。ゼカリヤ書14章をお開きください。ゼカリヤ書は、旧約聖書の、一番最後から2番目の書物です。ゼカリヤ書14章の最初からお読みします。「見よ。主の日が来る。」これは、世の終わりのことです。「その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から絶ち滅ぼされない。」彼らは、エルサレムの滅亡をイエスから聞いたとき、この言葉を思い起こしたのです。そして、次を見て下さい。「主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。

 ですから、神殿が滅ぼされることと、世の終わりにキリストが来られて、神の国を立てられることがほぼ同時に起こると考えたのです。ところが、ここに預言を読むときの難しさがあります。神は、永遠の視点からご自分の言葉を与えておられるので、一つの出来事ともう一つの出来事の間に、大きな時間の隔たりがあっても、それらを隣り合わせにお書かせになることが多いのです。そこで、イエスは、神殿の崩壊と、キリストが来られることに起こることを詳しく説明されます。まず最初に、総合的に何が起こるのかを述べられます。その次に、詳しく起こる出来事を順番に述べられております。


 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」

 イエスは、終わりの時のしるしではない出来事を、まず話されました。自称キリストが現われたりしても、終わりではありません。また、戦争や暴動のことを聞いても終わりではありません。そして、イエスは、「惑わされないように気をつけなさい。」と言われています。言い換えますと、世の終わりというのは、恐怖心を駆り立てたり、あるいは逆に好奇心をそそるような形で来るのではない、ということです。私たちが、「終末」とか、「世紀末」という言葉を身の回りでよく聞きますが、それらはみな、恐怖心や好奇心を引き起こさせるようなものばかりです。けれども、私たちは、世の終わりをそのように見てはいけません。本当に、世の終わりのことを知ると、貧乏人のやもめのように、自分を神におささげするように導かれます。ですから、終末についての話で、自分が振り回されることがないようにとイエスは勧められました。


 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、

 
ここからが、世の終わりの初めです。民族は民族に、国が国に敵対して立ち上がります。これは、地域紛争ではなく、複数の国の連合国と、また別の連合国が戦うことを意味します。つまり、世界大戦です。私たちは今世紀の初め、2つの世界大戦を経験しました。

 大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。

 大地震があります。世界の人々は、今世紀になってから、大規模の地震を頻繁に経験しました。また、疫病、例えばエイズとかを経験しています。また、ききんによって、多くの人が世界で餓死しています。私たちは、世の終わりの初めにいると言うことができます。けれども、恐ろしいこと、天からのすさまじい出来事はまだ見ていません。これは、これから先のことです。イエスは、これらのことが世の終わりだとおっしゃっています。科学技術によって、人間は進歩したかのように見えました。また、過去の間違いをとおして、人間は道徳的にも良くなってきているように見えました。でも、真理はその逆であり、さらに状態は悪くなっているのです。なぜなら、献金箱を投げ入れた金持ちのように、また、神殿のすばらしさに感嘆する人々のように、この世のものに信頼を置いているからです。思い出してください、アベルを殺したカインの子孫から、さまざまな文明が生み出されました。農業が発達し、芸術や工学(エンジニアリング)も発達しました。けれども、カインよりもずっと多くの殺人が起こったことが記されています。その人類に対して、神は洪水を起こされることによって、さばかれました。ですから、世の終わりとは、好奇心や恐怖心を駆り立てる対象ではなく、世にあるものに信頼することのむなしさを知るためのものなのです。


2B 悟る 12−28
 イエスは、こうしてこれから起こる出来事を総合的にお話になりましたが、次から詳しく述べられます。

1C 迫害 12−19
 しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

 
イエスは、時代ををずっと前にさかのぼって、使徒たちが生きている時に戻られています。教会が誕生してから、彼らは迫害の中に入りました。まずは同胞のユダヤ人からです。「会堂や牢に引き渡し」と書かれています。次は、異邦人からの迫害です。国主やローマ総督の前で法廷に立つことになります。使徒行伝を読むとき、これらがみな成就したことを知ることができます。

 それはあなたがたのあかしをする機会となります。

 そうですね、思い出せるでしょうか、ペテロもステパノもパウロもみな、法廷の前であかしをしました。イエスは、あなたがたは、エルサレム、ユダヤとサマリヤ全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります、と言われました。ペテロとヨハネが受けた迫害によって、エルサレムからユダヤへと福音が広まりました。ステパノが殉教したことによって、サマリヤ全土にみことばが宣べ伝えられるきっかけとなりました。さらに、ユダヤ人から命を狙われ、エルサレムの教会からよく思われていなかったパウロは、ヨーロッパの各地に福音を宣べ伝え、地の果てにまで広がったのです。このように、迫害の中で、福音がさらに広まるような計画を神は立てられております。なぜでしょうか。迫害や苦しみによって、彼らが神に以外のものにより頼むことができなくなったからです。私たちは、順調に物事が進むと、何時の間にか目に見えるものに頼ってしまいます。すると、神の働きはそこでストップしてしまいます。けれども、迫害によって神にのみしか頼ることができなくなり、それで神が生きてお働きになってくださるのです。


 それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。ここでも、同じです。自分の考えであかしをするのでなく、神から知恵とことばをいただきます。しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。

 これも、初代教会においても、今までの教会においても起こったことです。ユダヤ人は今でも、イエスを信じる者が家族の中から出ると、葬式を行ないます。もう死んだとみなすのです。また、名前は忘れてしまいましたが、マザーテレサの宣教を引き継いだ人は、回心したとき、父親が刃物を持って娘のところにやって来たということを読んだことがあります。

 しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。

 今、憎まれて殺される者も出てくると言いながら、なぜ髪の毛一筋も失われることがないとおっしゃられるのでしょうか。おそらく、これは比喩的な表現なのでしょう。私たちの魂は、いっさい害を受けることはないということを意味しておられるのだと思われます。御子を信じる者は、ひとりとして滅びないということと、同じことでしょう。

 あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。

 忍耐は、クリスチャンに欠いてはならない性質です。このような激しい迫害にあったら、普通でしたら、反発します。けれども、イエスは、御霊によって自分の心や思いを制して、わたしにゆだねなさいと勧められています。


2C エルサレムの滅亡 20−24
 ここまでが、神殿が破壊される前までのことです。確かに、私たちの今の生き方にも通じるものがありますが、主に、初代教会で起こることについてのことでした。しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。

 
ローマが、エルサレムの町を包囲しました。長い期間包囲したので、その中にいるユダヤ人は飢餓状態になりました。互いに食べたいと思って、殺し合いが起こったりしたのです。ヨセフスは、ローマ人がユダヤ人を殺したよりも、ユダヤ人が多くユダヤ人を殺した、と記しています。

 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。

 
この記述は、マタイの福音書とマルコの福音書に出てくるのと似ています。マタイの福音書では、「ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。」となっています。けれども、実は二つの異なる出来事が記されています。マタイとマルコの福音書では、「荒らす憎むべき者が、聖なる所に立つのを見たならば」とあります。つまり、反キリストが至聖所に入るときに始まる大患難のことを指しているのに対し、ルカは、ローマがエルサレムを包囲することを記しているのです。そして、このイエスのみことばを持っていた初代教会の人々は、逃げて生き残ったとされています。伝統によりますと、教会の人々が夕方に集まって祈っているとき、聖霊が預言によって、「夜に、東の門から逃げなさい。」と語られました。エルサレムを包囲しているローマは、不思議なことに、その日は東の門に兵を置いていなかったということです。彼らは実際に逃げ、使徒ヨハネは、さらに20年生きて、パトモス島で黙示録を書きました。


 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。

 イスラエルが神に逆らうことによって起こるさばきが、聖書で書かれています。それが成就する日となります。

 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。


 ローマは、女も子どもも容赦なく殺しました。

 この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
この民、つまりイスラエルに神の怒りが臨みます。人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。

 
紀元70年のとき、少数ながら生き残ったユダヤ人は、ローマへ連れて行かれました。そして、ローマが勝利したことを喜ぶ凱旋の行列で、さらしものとなったのです。そして、ここで「異邦人の時」という言葉が出てきます。これは、神のご計画を知る上で、とても大切な用語になります。なぜなら、この時が終わったら、神がキリストによってエルサレムから世界を支配するようになるからです。つまり、神の国が始まるからです。異邦人の時は、バビロンが紀元586年にエルサレムが滅ぼされてから始まりました。70年後にユダヤ人たちは帰還することができましたが、あくまでも異邦人の国の、支配の下に生きていたのです。それからずっと、つい最近までエルサレムは異邦人の支配の下にあったのです。1967年、イスラエルはエルサレムをアラブから奪回しました。1967年から、エルサレムはイスラエルのものとなりました。したがって、私たちは今、異邦人の時が終わってから、キリストがエルサレムに戻ってこられる時までの移行期にいます。キリストの再臨は間近なのです。


3C 天変地異 25−28
 そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。

 世の終わりの最終段階は、天変地異です。これは、旧約聖書の至る所に預言されています。何もかもがめちゃくちゃになったら、人が頼るべき最後のものは、当然この地上です。けれども、それまでが揺り動かされることによって、人々は頼るものがなくなります。そして、次を見て下さい。

 そのとき、そのとき、です。何もかもより頼むものがなくなったときです。人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。

 
キリストが来られます。つまり、キリストのみが私たちを支える岩なのです。詩篇の著者はこう言いました。開いてみましょうか。詩篇の46編です。「神はわれらの避け所。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。」そして、次が好きです。「川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。」後の来る世界、神の国は、この地上よりもはるかにしっかりしたものであります。決して揺るぎません。

 これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。


 これらのこととは、10節から読んだことであります。もうすでに起こったことがたくさんあります。ですから、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなければいけません。つまり、教会がこの地上から取り去られるのです。天からキリストが来られます。私たちは一瞬のうちに引き上げられ、この朽ちるからだが朽ちないからだに変えられ、空中で主とお会いします。


3B しるしを見る 29−33
 こうしてイエスは、ご自分が戻って来られるときまでの前兆について話されました。次は、こうしたしるしを見ていくこと必要性と義務について語られます。

 それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。」


 私たちは、今、世界がどのような状況になっているのかを、聖書に照らして見ていく必要があります。牧師の中にも、「預言のことを調べるのは危険だ。不必要な恐怖心を掻き立てるだけだ。」という人がいます。けれども、真理はその逆です。いちじくの木や、その芽を見ていかなければならないのです。そして、私たちは、ますます貧しいやもめのように、神に自分をささげていくように駆り立てられていくのです。

 まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

 
この時代とは、民族とも訳すことができ、ユダヤ民族のことだと言うこともできます。あるいは、イエスが生きておられた時代、つまり、イエスが来られて、この方を救い主として受け入れる機会が与えられている時代と解釈することもできます。どちらの解釈をとっても、現実のものとなっています。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。イエスは、ご自分が言われたことが、作り話や希望的観測ではなくて、確かに真実であることを強調されています。ヨハネが天のエルサレムを見て、その栄光の輝きを見たときに、御使いは、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。(黙示録22:6)」と太鼓判を押しました。


3A 警告 34−38
 こうしてイエスは、世の終わりを説明されることによって、この世のものに頼ってはならない理由を説明されたのです。そして、最後に警告を与えられます。

 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。

 原語は、「自分自身に気をつけなさい。」となっています。パウロもテモテに、「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。(1テモテ4:16)」と言いました。私たちは確かに、放蕩をしていないかもしれません。深酒もしていなかもしれません。けれども、「この世の煩い」はどうでしょうか。この世とは、神とキリスト以外のすべてのものを含みます。私たちの心がキリストにまっすぐ向けられているでしょうか。それでも、何か他のことで思い悩んでいるでしょうか。ヘブル書の著者は、こう言いました。「私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。(12:1)」私たちがこの世に深くかかわっているときに、突然わたしがあなたががたに臨むとイエスは警告されます。


 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

 イエスの次の警告は、「油断せずに祈っている。」ということです。祈るとは、自分自身により頼まずに、神により頼む行為であります。先ほどから学んでいたテーマは、この祈りによって可能になります。みなさんは、私たちは、自分がどのように祈っているかを点検してみなければいけません。いろんなことをして、何か都合の悪いことが起こったら、祈り始めるでしょうか。それとも、いろんなことをする前に、まず神に祈り求めるでしょうか。イエスが願われているのは、後者であります。油断せずに、祈ることです。


 そして、こうした祈りの生活をしているとき、私たちは、やがて起ころうとしていることからのがれることができるとイエスは言われます。イエスの願いは、私たちが悲惨な苦難を経験しないことです。大患難を通らない事です。大患難の目的は、キリストを拒んだこの世に対する神の怒りとさばきです。けれども、パウロはこう言いました。「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(1テサロニケ5:9」ですから、私たちは大患難をとおらないように定められています。

 さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。

 
オリーブの山に、弟子たちといっしょにいる場所があったのでしょう。だから、ユダは、イエスを裏切ったとき、祭司長たちをイエスのおられるところに連れてくることができました。

 民衆はみな朝早く起きて、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとに集まって来た。


 イエスは、続けて民衆を教えられていますが、これも間もなく終わります。


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