ルカ2章120節 「低い者に現れる栄光」

アウトライン

1A 住民登録 1−5
2A 飼葉おけ 6−7
3A 羊飼い 8−20

本文

 ルカの福音書2章を開いてください。1節から20節をお読みします。

 私たちがお祝いするクリスマスの意味は、もともと「キリストのミサ」というものです。「ミサ」は、カトリック教会の使っている礼拝を意味する言葉で、「キリストを礼拝する」ということです。具体的には、この時期にキリスト教会で、「神の子が人となられた」という出来事を思い出します。天地を造られた神が、人と同じ肉体の姿を取って現れたことを覚えるものです。

 そして、今、お読みしたところはイエスがお生まれになった箇所であります。先ほど交互に朗読したところ(ルカ1:2638)は、天使ガブリエルが処女マリヤに対して、キリストをみごもることを告げた所で、イエスは夫婦の間に生まれたのではなく、その関係を持つ前に聖霊によって神がイエスをマリヤの胎の中に宿させたわけです。

 これらの話を聞いただけでも、私たちが耳にするのは奇跡だらけですね。処女が赤ちゃんを宿した?そして、その赤ちゃんは天地創造の神の子である?そのとおり、これは奇跡そのものであり、私たちは自分の知力によってこのことを悟ることはできません。けれども、この出来事をそのまま信じて、心に受け入れることによって、みなさんの心の中にも大きな神の奇跡を知ることができるようになります。

1A 住民登録 1−5
 もう一度、本文を少しずつ読んでいきましょう。

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

 時は、ここにある通り「皇帝アウグスト」が統治していた時です。アウグストは、ローマが帝国となった初代皇帝であります。紀元前27世紀からローマ帝国が始まっています。ここの「全世界の住民登録」とあるように、ローマ帝国は世界帝国でした。もちろん、文字通り地球全部を支配していたわけではありませんが、世界全体に影響力を及ぼしていた帝国と言えます。今で言えばアメリカ合衆国のようなものです。

 アウグストの前までは、さまざまな戦争が繰り広げられていましたが、その権力闘争の末、彼は北アフリカ、中東、そしてヨーロッパのかなりの広範囲を平定し、平和を確立しました。それでこの時期は「パクス・ロマーナ」と呼ばれています。けれども、それはあくまでも武力による平和です。住民を強く抑えた上での平和になります。

 その証拠に、アウグストはここで全住民に対して住民登録をしなさい、という勅令を出しています。紀元前4から6年の間の出来事と思われます。ところで、私たちは今、2011年に生きており、間もなく2012年になろうとしていますが、それはイエス・キリストの降誕を分岐点としています。ただ数年のずれがあるのは、暦を計算した人がキリストの誕生の時期を間違って計算したからです。けれども、この小さな赤ん坊の誕生によって、人間の歴史が大きく二つに分かれるほどの影響力を持っているのです。

 ところでこの住民登録は、してもしなくても良いという緩やかな勅令ではありません。自分がどんな状況であっても、必ずしなければいけない登録であり、そこには住民の人権は無視されています。この日本であれば、このような不埒な命令に対して反旗を翻すとか、ただ従わないで抵抗するかすることでしょう。次の選挙では、必ずその政権与党は倒れます。けれども、そのような自由は一切ありません。うんも言わせず守らせます。

 その中にヨセフという人がいました。彼は、イスラエルの王ダビデの末裔でした。ダビデは、ユダヤのベツレヘム出身でした。けれどもヨセフの家庭はガリラヤ地方のナザレにあります。ナザレからベツレヘムまでは直線距離でも百キロ以上あります。南下していく時、サマリヤ地方を避けてヨルダン川沿いに歩いて迂回しますから、実際はもっと遠かったことでしょう。今であれば自動車がありますが、当時はロバです。いいなずけのマリヤは妊娠して、臨月になっていました。この過酷さは尋常ではありません。けれども、いま話しましたように、選択肢はないのです。行くしかありませんでした。

 ところで今、この時代に世界中の人に、この世により影響力を与えた人物は、ここに出てくるアウグストか、あるいはイエスかどちらかを尋ねてみたら、どちらでしょうか?もちろんイエス・キリストです。いま話したように人類全体の歴史を、イエスの誕生を境にして分けられたのです。キリストを信じることによって、これまで何億、いや何百億の人々の人生が変えられ、社会が変えられ、そして国が変えられ、世界がひっくり返りました。比べることができないほどの影響力の差です。

 けれども、当時はいかがでしょうか?イエスの両親は貧しい家庭でした。そして世界帝国の皇帝の勅令に、臨月の妻を連れていかなければいけないという、あまりにも圧倒的な力の差異です。 

 マリヤはイエス様を身ごもった時に、このような歌をうたっています。マグニフィカトと呼ばれるマリヤの賛歌として有名ですが、ルカ15153節をお読みします。「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。(ルカ1:51-53

 私たちは、この世に住んでいて、権力を持つ者が自分のやりたいようにすることができ、そうではないものはただ今の定めの中に生きなければいけないと思っています。けれども、実はその正反対なのです。弱められている者たちが、主なる神に見出されていくその過程の中で、実は世界の支配者よりも大きな影響力をもって進んでいる、という原則を神はこの世に作っておられます。多くの人が、その原則を知らずになるべく財産を持とう、なるべく権力を持とう、なるべく知識を得ようとします。けれどもへりくだる者たちにこそ、大いなる報いが後の日に用意されているのです。

 私たちは、何ら力を持っていない者だと思っているかもしれません。ヨセフとマリヤと同じように、状況の中に縛られているかもしれません。やるせない時があるかもしれません。けれども、その時は理解しなくても、神を愛する者には必ず、あらゆることを善に変えてくださり、その流れにどんな世の力も打ち勝つことはできないのです。

 アウグストは自らを神とし、また救い主としました。これだけの絶大な権力と栄光を持っているのだから、私こそが主権と力を持っていると思っていました。ところが、彼は単なる操り人形だったのです。約八百年前に、ミカという預言者がいました。彼はこう預言していました。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ5:2」ベツレヘムにイスラエルの支配者になる者が出てくる、と前もって語りました。そしてミカ書を続けて読むと、この支配者は世界の大国をさえ服従させるような力ある方であることを教えています。

 神はご自分のこの言葉を果たすために、当時の世界の支配者であるアウグストを用いられました。彼は自分の権力を誇示し、住民を支配するために登録をさせたのですが、神は彼のその権力欲をさえ用いて、ご自分のなさろうとしていたことを行なわれたのです。片田舎で無名の町ナザレにいたヨセフとマリヤですが、マリヤが臨月になりました。その時に神は、二人をベツレヘムに動かし、そこでご自分のキリスト、救い主を生まれるようにされたのです。このように、へりくだった者こそが、力をもっています。なぜなら、この世界の支配者の上でさらに支配しておられる方が、貧しい者、弱い者、苦しんでいる者のために働いてくださるからです。

2A 飼葉おけ 6−7
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 二人はベツレヘムに着きました。けれども、その時に彼女は陣痛が始まり、出産間近となってしいまいました。ベツレヘムの町には、同じように住民登録のために移動してきた人々でごったがえしています。宿という宿が客でいっぱいになっています。そこでようやく、マリヤに出産させることができるところは、なんと家畜のいるところだったのです。

 私たちは讃美歌の中でも、そこが家畜小屋であるという内容を歌いました。けれども、実は聖書にはイエス様が家畜小屋で生まれたという記述はありません。ただ「飼葉おけ」とあるのみです。今もベツレヘムに行けばよく分かりますが、そこにはたくさんの洞窟があります。私たちがしばしば出かける救援旅行の被災地の月浜地区は、その集落の家々の多くが岩に横穴を開けて、そこを物置にしていたようです。ベツレヘムやイスラエルの町々は、岩の洞穴を家屋にしていました。そして、庶民は洞穴を家にしていることもあり、家畜をその一番奥で飼っていることもありました。

 つまり、ヨセフとマリヤはそこら辺の洞穴の中にとりあえず入って、そこに飼い葉おけがあったということになります。今で言えば、そこらへんにある物置のガレージを見つけてそこを出産場所にしたということです。

 そしてもう一つは、「布」でくるんでいますが、もしかしたらそれは死体をくるむ時の布であったかもしれません。当時の洞窟は家畜を住ませる空間として使ってもいたし、また墓として使用していたこともあります。イスラエルの当時の遺跡には、たくさんの墓跡がありまして、それは洞窟です。ですから、赤ん坊のイエス様は飼葉桶の中で、死体にも使われるような布でくるまわれた、ということなのです。

 いかがですか、これが、イエス様が生まれた環境です。卑しい姿でお生まれになりました。そしてこの姿が象徴的にこれからの人生を表しています。イエス様は、ユダヤ人の間で受け入れられることはありませんでした。最後は、キリストを待ち望んでいたはずのユダヤ人宗教指導者が、彼を十字架につけるべく画策したのです。死体のための布でくるまれたというのは、キリストが死なれることを暗示していたのです。

 そして家畜が餌をほおばるところで生まれたというのも、この方が人間扱いされなかったのです。まさに仏教での「畜生」のような存在です。ミカと同じ時代にイザヤという預言者がいましたが、彼はキリストについてこう預言しました。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:3-5

 けれども、このように貧しい者となり、卑しくなられたからこそ、キリストを受け入れた者たちは豊かな者となることができるのです。私たちを豊かにしてくれる人というのは、どのような人々でしょうか?力ある存在、強い人、高い地位にいる人々が豊かにしてくれるでしょうか?そうではないですね、仕えてくれる人が豊かにしてくれます。高い地位にいる人でも、私たちと同じところまで降りてきてくれて、私たちと同じようになってくれるからこそ私たちは豊かになることができます。

 そうでなければ、私たちがそのような人々に自分を合わせて、自分のものが取り上げられていかなければいけません。だから壁ができます。富む者と貧しい者との間にある壁、笑う者と泣いている者の間にある壁、幸せな者と悩む者との間にある壁が生じます。

 地震と津波の後、天皇陛下と皇后また皇太子ご夫婦は、精力的に被災地の避難所や仮設住宅に訪問されました。ひざまずき話しかけてくださるその姿は、被災者を大いに励ましたことでしょう。けれども、やはり皇室の方々の周りには護衛がいます。マスコミがいます。そして会えるのはわずかな間です。人間天皇は、やはり我々庶民には遠い存在です。

 けれども、キリストはいかがでしょうか?この方は、私たちよりも低くなられました。私たちの多くは、産科の病院や助産院で生まれたのではないでしょうか?この方は飼葉桶でお生まれになりました。きれいな布に包まれたのではないでしょうか?この方は死体に使用されるような布にくるまれました。そして、私たちは罪を犯していないのであれば、多くの場合、裁判においてその権利が保証されているのではないでしょうか?イエス様は何一つ罪を持っておられなかったのに、十字架というローマの極刑に処せられたのです。

 イスラエルの支配者、そして世界の支配者であると定められたイエス様は、こんな卑しい姿にまで降りてきてくださったので、私たちはこの方によって豊かにされることができるのです。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(2コリント8:9

 そしてイエス様は言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ10:45」命を与えるというところまで、イエス様は私たちに仕えられました。それは、「贖いの代価」だと言われます。私たちの最も大きな問題は、罪であります。自分が神に反抗するという心の問題であります。この問題を取り除くために、ご自分が身代わりになって命を差し出したのです。ローマの極刑の死刑台において、私たちの罪のために身代わりの死を遂げてくださったのです。

 この謙りにある愛こそが、世界をひっくり返す力を持っています。みなさんを変える力は、私たちの心の根っこにある罪を取り除く、キリストが流された血によってのみです。アウグストにあるような名声、権力、富によっては変わらないのです。

3A 羊飼い 8−20
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。2:12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 場面は、ベツレヘムの野原になります。今でもベツレヘムの町を少し離れると、羊飼いの姿を見ることができます。パレスチナ・アラブ人の子供たちが、羊を飼っている姿を私も見かけました。

 羊飼いという仕事は、社会的には底辺の仕事です。当時のユダヤ人社会は、神殿への税金が課せられており、それに加えてローマからの様々な税金が課せられていました。一般のユダヤ人は、前者は支払うことができましたが、さらにローマからの税金を支払うことに嫌悪感を抱いていました。けれども羊飼いは貧しかったので、神殿税さえ支払うことが出来なかったそうです。それで、彼らは一般のユダヤ人からは見下された人々、嫌われていた人々の部類に入っていました。

 そうした彼らのところに、とてつもない神の栄光の幻が迫ってきたのです。天使が主の栄光をもって現れ、彼らは恐れましたが、「私は、この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」と言っています。この喜びの知らせこそ、「福音」と呼ばれているものです。それはユダヤ人たちが長いこと待ち望んでいたキリスト、ダビデの子孫が今、お生まれになったという知らせです。

 そしてその後に天の軍勢、つまり無数の天使が叫び、賛美して言いました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。

 私たちは天使ということを聞くときに、赤ちゃんが羽を付けて飛んでいるような、メルヘンチックなものを描きますが、聖書は一切そのような姿を描いていません。それはヨーロッパの異教にある天使の存在です。実際の天使は、実に力強い存在です。ダニエル書によりますと、なんとペルシヤやギリシヤのような当時の世界大国の支配者として登場します。イエス・キリストが墓からよみがえられた時も、たった一人の天使がやってきただけで大地震が起こりました。

 ダニエル書という預言書で、ダニエルのところにガブリエルという天使長がやってきて、メシヤが来ることを告げました。神殿が再建されてから七週と六十二週だと言います。一周は七年間のことなので、合計473年になります。計算すると、ちょうどイエス様が地上に生きていた時のことになります。したがって、天使にとっては、ついにユダヤ人を救う方が来られたのだという、大いなる喜びで沸き立っていたのです。

 天使たちは、「いと高き所に、栄光が、神にあるように」と賛美していますが、黙示録にはその情景が克明に書き記されています。「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」(黙示5:11-12」このように、天地万物を造られた神と、その独り子キリストに対して多大なる賛美と礼拝が捧げられているのです。そのキリストは「ほふられた小羊」つまり、いけにえの小羊のように死なれたけれども、よみがえられて神の右の座におられる方、ということです。

 この賛美をもって迫ってきたときに、「地上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」とあります。御心にかなう、つまり神に喜ばれる人々には、豊かな平和が与えられるということです。この世における、目に見える世界のみならず、それを超えた天にあるもののあらゆる祝福が、地上にいる者たちに与えられる時に、私たちは平安と平和の中に生きることができます。

 いかがでしょうか?みなさんは、自分は平和を持っている、心に平安を持っていると言えますか?キリスト者は、このように大胆に言うことができます。「心に、まったき平安を持っています。」キリストが成し遂げてくださった十字架の業によって、私たちの心に一点たりとも不安になることのない、確固とした平安を持っています。キリストが全ての罪のために死んでくださり、自分の罪を一切、消し去ってくださった、洗い清めてくださったことを知っているからです。

 再び神は、貧しく、低められている羊飼いたちに対して、このような偉大な栄光をお見せになりました。この世界の最もすばらしいことを、天地を造られた神は支配者や学者や有名人に見せるのではなく、何でもない人々、卑しめられたような人々に見せられるのです。だから、この栄光は恵みの栄光と呼ばれています。「ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14

2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 羊飼いの話を聞いた人々がみな驚きました。けれども、マリヤはすべて心に納めて、思いを巡らした、とあります。ここは、「じっくり考える、熟考する」というような意味があります。マリヤは、先ほど引用したように、「低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。(ルカ1:53」と自ら歌いました。自分自身が、飼葉桶のところにいて、そして羊飼いが天使の軍勢を見たということで、「そうなのだ、私たちは卑しい者たちであるが、神はこうした者たちを高めてくださるのだ。」ということを、じっくり考えていったのです。

 みなさんはいかがでしょうか?今、じっくりとここにある物語を考えてみました。私たちは、当時のローマと同じような世界に生きています。今、自分が抱えている問題、また多くの問題を抱えている社会の中に生きています。争いもあります。私たちはアウググストのような救い主を求めているでしょうか?今の自分の状況を解放してくれるような、力をもって変えてくれるような人物が出てきてくれれば、と願うでしょうか?それとも、自分ではどうしようもない状況の中にいながらも、自分の重荷と罪をすべて負うために仕えてくださったキリストを救い主として願うでしょうか?へりくだった者が、最終的には、いかなる高い所にいる者よりも高らかに立つことができます。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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