ルカの福音書7章 みことばを受け入れる者

アウトライン

1A みことばにへりくだる者 1−16
  1B みことばの権威 1−10
  2B みことばの力 11−17
2A みことばを認める者 17−35
  1B みことばの実現 17−23
  2B みことばの正しさ 24−35
3A みことばに感謝する者 36−50
  1B みことばによる愛 36−39
  2B みことばによる救い 40−50


本文

 ルカの福音書7章を開いてください。ここでの主題は、「みことばを受け入れる者」です。私たちは前回、イエスさまが、いろいろな教えをされたところを学びました。敵を愛しなさい、とか、与えなさい、という教えです。私たちは、それを自分自身の力で行なおうとするのでなく、イエスの力によって行なわなければならないことを見ました。手のなえた人に、「手を伸ばしなさい。」と呼びかけられたように、敵を決して愛することのできない私たちに、「敵を愛しなさい。」と呼びかけられるのです。したがって、「私にはできませんが、でも、おことばですから行なってみましょう。」と、信仰によって一歩踏み出ることが必要です。その時に、行なうことができる力をイエスが備えられます。今日は、この信仰について学びます。パウロは、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストのみことばによるのです。(ローマ10:17)」と言いました。キリストのみことばをどのように聞いていくべきか、そして、どうやって信じればよいのかを見ていきます。

1A みことばにへりくだる者 1−16
1B みことばの権威 1−10
 イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムにはいられた。ところが、ある百人隊長が重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。

 イエスは、民衆にいろいろなことを話されましたが、最後に、岩の上に建てた家のたとえを話されました。みことばを聞いて、それを実行する者は、岩の上に建てた家のようであり、洪水が来てもびくともしない、とイエスさまは話されました。そして、今ここで、人生に洪水が押し寄せる人の話が出ています。ローマの兵隊のひとりが、病気に死にかけていました。彼の上司に当たる百人隊長は、彼のことをとても慕っていました。ですから、彼の上に、今、人生の試練、洪水が押し寄せています。

 百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来て下さるようお願いした。

 百人隊長は、ローマ人でありユダヤ人ではありません。イエスは、多くの人の病気を直されていましたが、あくまでもユダヤ人に対してでした。それで、彼は、ユダヤ人の指導者の人たちに頼んで、自分の部下を助けに来てくれるように頼んだのです。

 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」

 彼らは、百人隊長が助けを受ける資格があることを、訴えました。部下が病気を直してもらうに値する、りっぱな人物であると訴えたのです。しかし、次を見てください。

 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちに使いを出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」

 百人隊長自身は、自分は何の資格もない人間だ、と言っているのです。イエスが自分の家にお入れするに値しない人間だ、と言っています。彼は、イエスから助けをいただくために、自分の正しさとか、自分のすばらしさに頼んでいません。むしろ、助けをいただく価値などないと認めているのです。これが、信仰の第一歩です。自分には、神から救いや祝福などをうける価値がないことを認めることです。私たちはそれができません。なぜなら、自分を他の人と比べて、さほど悪い人間ではないと思っているからです。しかし、イエスご自身と自分を比べるとき、私たちは、どれだけ自分が罪深いか、汚れているか、醜いかを知ることができます。百人隊長は、イエスを「主よ。」と呼びかけました。イエスをありのままの姿で受け入れているのです。 そのとき、聖いイエスさまが汚れた私に近づいてはならない、と感じるようになります。そばにいることはできない、と思うようになります。彼は、自分の家にイエスをお入れする資格はないと感じました。

 「ですから、私のはうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」

 彼は、自分には助けをうける価値は何もないと認めましたが、イエスのみことばを信じました。おことばさえあれば、しもべは必ずいやされると信じたのです。イエスが来てくださるのでなく、しもべにさわってくださるのでなく、ただおことばを話されることによって、死にかけている病気がなくなってしまうと信じたのです。神が初めに、天と地を創造されたときのことを思い出してください。神は、「光よ、あれ。」と言われたら、光が造られました。「大空よあれ。」と言われたら、大空が造られました。ことばによって、天と地を創造されました。

 同じように、イエスは、ことばによって悪霊を追い出し、ことばによって病気を直されました。したがって、みことばを信じることが大切です。私たちは、自分の感じることによって神を知ろうとしたり、自分が頭にイメージとして思い描くことによって、神を信じようとしたりします。この暖かい気持ちが神さまなのかな、イエスさまはどんな優しい顔をしているのかな、とか考えますが、それでは決して神を知ることはできません。聖書を読むことによってのみ、私たちは、生きている神に触れることができるのです。百人隊長のしもべがイエスに触れられるためには、ただみことばだけが必要でした。

 「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに、『行け。』と言えば行きますし、別の者に、『来い。』と言えば来ます。また、しもべに、『これをせよ。』と言えば、そのとおりにします。」

 彼は、みことばに権威があることを認めました。「私も権威の下にある者ですが」と彼は言いましたが、イエスのみことばの権威の下に自分がいると認めたのです。ことばに権威があることをよく知っているのは、子どもたちです。学校の先生が教えることを、そっくりそのまま受け取ります。単純に、ああそうなんだ、と思って聞きます。わからないところは、素直に質問します。そして、教えられたことによって、自分の生き方が変えられます。これを言い換えると、柏手の言っていることの権威を認めているのです。けれども、大人は、自分の生き方を変えてほしくないと願っています。だから、だれかの言葉を聞くと、自分の都合の良いように解釈します。理解しようとするのですが、支配されようとは思いません。しかし、私たちが聖書を読むときに、子どものような読み方をしなければなりません。そこに書かれてある明らかな意味を、そのまま受け取っていく訓練が必要です。「行け。」と言われたら、そのまま行かなければならない、「来い。」と言われたら、そのまま来なければならないと思うようなとらえ方が必要なのです。

 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来た群衆のほうに向いて言われた。

 何と、イエスご自身が驚かれています。今まで、群衆や弟子が、イエスの教えやみわざに驚いたという記事は多くありますが、そのイエスが驚いておられるのですから、よほどすごい信仰なのです。

 「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。

 こうして、イエスは物理的に近づくことなく、みことばによって彼を直されました。

2B みことばの力 11−17
 そして次に、イエスのみことばがどれだけ大きな力を持っているかを見ます。

 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母のひとり息子が、死んでかつぎ出されるところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。

 先ほどは、病気で死にかけている状態でしたが、ここではもう死んでいる状態です。そして、息子の母親はやもめでした。当時、やもめであることは今よりもずっと大変なことでした。仕事は今のように得られません。母子への手当を政府から受け取ることもありません。ですから、やもめは、誰かの他の人が手助けしなければ飢え死にしてもおかしくない立場にいて、聖書では、やもめを特に大切にしなければならないことが書かれています。ですから、彼女にとって、唯一の命綱は息子でした。経済的にも精神的にも、彼が頼りでした。しかし、その彼が死んで、棺おけに入れられています。もう、どうしたらよいかわからない状態です。

 主は、その母親を見て、かわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。

 イエスは、この女性に頼まれることなく、お近づきになりました。彼女をかわいそうに思われたからです。先ほど、私たちは、自分たちの正しさやすばらしさで、イエスから助けを受けるのではないと聞きましたが、それではどうやって助けてもらうかというと、一方的にイエスがあわれんでくださるから、助けてもらうことができるのです。私たちは、本当なら何も救ってもらったり、助けてもらう資格はありません。そのまま死んで、地獄に行ってしまっても、何の文句も言えない存在です。しかし、イエスが私たちをかわいそうに思ってくださり、私たちに近づいてくださり、私たちは助けを受けることができます。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました(ローマ9:15)。

 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」と言われた。

 イエスが、ことばをかけられています。死体にことばをかけておられます。これを普通の人間がやったら、単なる独り言になってしまいますが、イエスの場合はそうではありません。「光よ。あれ。」と言われたように、無いものを有るもののようにお呼びになっているのです(ローマ4:17)。死んでいるのに、生きている者のように呼ばれています。

 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。

 死人が生き返りました。イエスのみことばは、死人に命を与えるほど力のあるものです。ただ、この生き返りは復活とは違います。この青年は、生き返りましたが、年老いて死んでいきました。しかし、復活は、まったく新しいからだをもらうことです。今の肉体のからだではなく、天国で住むのに都合のよいからだであり、朽ちることなく、老いることがありません。しかし、イエスは、この復活をも、「わたしは3日目によみがえります。」と言われて、それを実現させてしまいました。命を与えてしまうほどの力が、神のみことばにはあるのです。

 人々は恐れを抱き、「大預言者が私のうちに現われた。」とか、「神がその民を顧みてくださった。」などと言って、神をあがめた。

 人々が言っている大預言者は、エリヤやエリシャのことを指しているのでしょう。彼らは、同じように母親の息子の命を吹き返かえさせました。ですから、人々のイエスに対する理解は、預言者というものだったのです。預言者とは、神のことばや御業を預かる者と言うことであり、彼の話すことばは神のみことばであり、彼の行なうわざは神の御業になります。しかし、彼自身は人間であり、神を信じる信仰者なのです。そこで、人々のこのような意見に対して、疑問を持つ人物が若干一名現われます。次を読んで見ましょう。

 イエスについてこの話がユダヤ全土と周りの地方一帯に広まった。

2A みことばを認める者 17−35
1B みことばの実現 17−23
 さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。すると、ヨハネは、弟子たちの中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」と言わせた。

 預言者ヨハネは、もともと人々と違う意見を持っていました。イエスは預言者ではなくて、おいでになるはずの方、メシヤであると信じていたのです。彼は、イエスにバプテスマを授けるときに、神から、「聖霊がとどまられるその方こそ、メシヤである。」と言われていたのです(ヨハネ1:33参照)。歴代の預言者たちは、神のことばを語り、神のわざを行なう他に、救い主キリストが来られることを告げ知らせました。ですから、イエスはまさに、預言されていた本人であり、イエスが預言をするのではないのです。しかし、今、ヨハネは、人々の意見を聞いて、もしかしたら、イエスはキリストではなくて大預言者のひとりではないか、という疑問を持ち始めました。確信が揺らいでしまったのです。私たちも、そのようなことがありますね。一度、イエスを主として口で言い表したのだけれど、本当にこの方が主なのか、神なのか、という疑問が出てきます。本や、テレビや、周りにいる人々の意見を聞いてしまいます。それで疑問を持つのです。それで確信が揺らいでしまいます。ちなみに、ヨハネは今ヘロデ王によって牢屋に入れられています。

 それに対し、イエスはどのようにお答えになるでしょうか。見てみましょう。ふたりはみもとに来て言った。「バプテスマのヨハネから遣わされてまいりました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか。』とヨハネが申しております。」ちょうどそのころ、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしていたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。」

 イエスは、イザヤ書61章1節に書かれてある、キリストについての預言を引用されました。また、これは、イエスがナザレにある会堂で、お読みになった箇所です。イエスは、キリストについて預言されていることをまさに行われていたのです。聖書のことに精通していたヨハネに、これは大きな確信をもたらすはずです。ヨハネは人々の意見を聞いて、他の方ではないかと思いましたが、おそらく、このことで、神が自分に語られたことを思い出したでしょう。彼は、自分の信じていることを再び確認しました。このように、聖書によって、自分の信じているイエスが真理であり、道であり、命であることを確認します。信仰が揺らいだら、神のみことばに戻ってください。そうすれば、自分の周りで実際に起こっていることと、神のみことばが一貫していることに気づくでしょう。そうやって、私たちは信仰を深めることができるのです。

 「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」

 つまずくとは、イエスを信じなくなると言い換えられます。ですから、イエスを信じ続ける者は幸いだということになりますが、信じ続けるのはイエスさまのためではなくて、私たちのためなのです。みなさんがイエスを信じても信じなくても、イエスさまは痛くもかゆくもありません。イエスはずっと変わらず真実であり続けます。変わるのは、私たち自身です。信仰を捨てたら、希望がなくなり、愛がなくなり、生きている意味を見失います。けれども、信仰を保ち続ければ、日々新たにされ、希望は増し加わり、死ぬときには喜びにあふれるのです。

2B みことばの正しさ 24−35
 ヨハネの使いが帰ってから、イエスは群衆に、ヨハネについて話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。」 ヨハネは、荒野で説教をしていました。「風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。」

 
イエスさまは、少し群衆をちゃかしています。ヨハネは、らくだの毛でできたごわごわの服を着ていました。

 「きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。」ヘロデ王のことです。でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。その人こそ、「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。」と書かれているその人です。」

 イエスは、ヨハネのことを、預言者よりもすぐれた者と呼ばれました。なぜなら、「あなたの道」すなわちキリストの道を備える使いだったからです。預言者はキリストが来られることを告げ知らせましたが、みな「いつか来る方」として知らせました。しかし、ヨハネは、「もう目の前に来られている」と告げたのです。ですから、彼がすばらしいのは、キリストがすばらしいからであり、彼自身のことではありません。キリストのことを身近に伝えることができたからです。

 「あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」

 ヨハネが、この世で生まれてきた人物の中でもっともすぐれた人であると、イエスはほめておられます。しかし、なんと、神の国でもっとも小さな者が、彼よりすぐれているのです。これは、神の国が、この世よりも、はるかにずっとすぐれていることを示しています。よく言われるのが、世界で注目の的を浴びている大きなダイヤモンドの宝石は、天国に行けば道ばたの石ころにしかすぎないというたとえです。それほど、次元が違います。イエスは、この神の国は、貧しい者が入ることができると話されました。貧しい者は、自分がもうだめだと気づき、キリストに救いを求める人のことです。その人は、神の国で、ヨハネよりもはるかにすぐれた者となるのです。

 「ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちでさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。」

 ヨハネの説教に応答した人と、拒否した人たちのことを、イエスは話されています。その教えを聞いて悔い改めた人はバプテスマを受けました。取税人のような人をだます悪人でさえ、ヨハネは神のみことばを語っていることを認めました。けれども、パリサイ人のような、正しい人のように言われた人が、かえって悔い改めることを拒んだのです。それはなぜでしょう。イエスはその理由を説明されています。

 「では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。市場にすわって、お互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』」

 手を替え品を替えて人々の注意を引き寄せようとしても、だれも反応してくれなかったと言うことです。

 「というのは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう洒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』とあなたがたは言うし、人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ、見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。」

 ヨハネは、断食をして禁欲的な生活をしていました。また、イエスは、多くの人といっしょに食事をしました。パリサイ人たちは、「あの人は、ああいうところが気にくわない。」と言って、信じないことの理由にしていましたが、結局は言い訳にしかすぎなかったのです。彼らの根本的な問題は、神を見ていたのでなく人を見ていたことです。29節では、バプテスマを受けた人々は、神が正しいことを認めた、神を正しいとしたのです。けれども、パリサイ人たちは、自分を正しいとしました。そして、自分と他の人を比べることによって生きていました。だから、ヨハネやイエスの教えに耳を傾けることをせず、彼ら自身に目を向けて、あら探しをしました。多くの人が、神を正しいとしないで、他の人のことを批判します。イエスさまを信じなかったり、教会に行かない理由を、「教会にいる人たちは偽善者だ。」と言ったりします。「あの牧師につまずきました。」と言ったりします。本当は、神の言われることに自分が聞き従っていないだけなのに、周りを批判することによって自分を正当化するのです。神を正しいとするのでなくて、自分を正しいとします。

 「だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」

 神を正しいとした人々の生活を見れば、その教えが正しいことが証明されるというものです。それで、次に、神のみことばを受け入れた女の人の話が載っています。

3A みことばに感謝する者 36−50
1B みことばによる愛 36−39
 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。

 イエスの話を聞いたことのあるこのパリサイ人は、反発を感じながらも、イエスが本当に人々のいうような預言者なのか確かめたかったのでしょう。イエスを食事に招きました。

 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、番地のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

 ひとりの罪深い女、というのは、ギリシャ語から売春婦であろうと思われます。彼女が、この家に入って来ました。当時は、家には中庭があって、そこにはだれもが出入りすることができるようになっていました。そこから彼女は家に入って来たのでしょう。そして、泣いており、イエスの足を涙でぬらし、口づけして、香油を塗りました。彼女は、自分が罪赦されたことを知って、涙を流してイエスに感謝しているのです。彼女は以前、イエスにお会いしたのでしょう。そして、「すべて、疲れた人、重荷を背負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。」というようなイエスのみことばを聞いたのだろうと思われます。

 自分の人生がぼろぼろになっていたのを、イエスのみことばを聞いて心がいやされました。それで、涙を流してイエスに感謝しているのです。

 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。

 やはり、このパリサイ人はイエスの批判をしています。パリサイ人は、心の内のことではなく、外側の行ないを大切に考えていました。そして、汚れは、それに触ることによって移るように考えたのです。例えば、子どもたちがだれかをいじめるとき、「この人にさわったら、菌が移るぞ。」と言って、その子の持ち物に触ることや、その子が触った者を避けるようにします。いじめている人たちの心の状態のほうがもっとばっちいのですが、パリサイ人も同じことをやっていたのです。

2B みことばによる救い 40−50
 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。

 このパリサイ人の名前はシモンと言うようです。彼が心ひそかに思っていたことは、イエスにばればれでした。

 シモンは、「先生。お話ください。」と言った。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは500デナリ、はかのひとりは50デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」言われた。

 借金を帳消しにすることは、「赦す」という言葉と同じです。

 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。」 彼女は、何回も何回も口づけしたようです。「あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に塗ってくれました。」

 当時、自分の家に人を迎えるとき、必ずしたもてなしがありました。汚くなった足を洗ってあげます。頬に口づけをして、頭に香油を塗ってあげます。しかし、シモンは、これらのことを何一つしていませんでした。常識はずれの無礼なことを、彼はイエスに対してしていたのです。それに対し、この女は、これらのことをみな行ないました。シモンは、この女は罪深く、自分は正しいと思っていました。しかし、真理は逆で、女の方が正しいことを行ない、シモンは愛に欠ける悪いことをしていたのです。

 「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」

 多くの罪が赦されると、それだけ感謝があふれます。イエスが自分にどれだけのことをしてくださったかを考えると、ただ感謝して、イエスに従いたい、イエスを愛したい、イエスを一番にして生きていきたいと願うようになるのです。だから、福音というのは、多くのまじめな人に拒まれてしまっています。神の国に一番近い人たちが集まっているところは、もしかしたら刑務所かもしれません。彼らの多くが、自分たちが罪人であることを認めているからです。イエスを信じると、その多くはイエスを熱烈に愛して、イエスに自分のすべてをささげます。でも、自分が罪深いという意識が少ない人は、イエスを信じてもあまり感激がありません。だから、それほど愛せないのです。だから、イエスは、「貧しい人は幸いです。泣いている者は幸いです。」と言われたのでしょう。自分の罪深さを知れば知るほど、イエスをさらに愛することができます。

 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。すると、いっしょに食卓にいた人たちは、こう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

 罪を赦すことは神にしかできないことを、私たちは学びました。だから、彼らはイエスは人間であるのに、そんなことを言うとはいったい何者だろうと思ったのです。もちろん、イエスは、ご自分が神の御子であることを示されていました。

 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

 イエスは、百人隊長に続けてふたたび、信仰という言葉を使われました。先ほどは、信仰とは、キリストのみことばに権威があることを信じることであることを学びました。ここでは、信仰とは、神の恵みに応答することであることがわかります。神が豊かに罪を赦してくださったことを知るとき、私たちの心から自ずと賛美と感謝がわいてきます。イエスさまに従いたい、イエスさまを愛したいと強く願うようになります。そこから出てくる行ないは、もはや自分が救われるためのものでなく、イエスさまへの感謝の現われです。こうした応答が信じることであり、正しい信仰からは必ず、良い行ないが生まれるのです。

 こうして、百人隊長、パブテスマのヨハネ、イエスの足を洗う女から、みことばを受け入れることについて学びました。お祈りしましょう。


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