マルコによる福音書11章 「神の都エルサレム」


アウトライン

1A 碓かな預言 1−11
  1B ろばの子 1−6
  2B ホサナ 7−11
2A 生きた信仰 12−26
  1B 実 12−14
  2B きよめ 15−18
  3B 祈り 20−26
3A 神の権威 27−33

本文

 マルコの福音書11章を開いてください。ここでのテーマは、「神の都エルサレム」です。それでは、本文を読みましょう。

1A 碓かな預言 1−11
1B ろばの子 1−6
 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとべタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子たちを使いに出して、言われた。

 イエスと弟子たちは、エルサレムに入ります。このエルサレム、聖書の中では中心になる町です。神は、これまで、この町を中心にして歴史を動かして来られました。アダムが罪を犯して、悪魔が自分の国を造ったとき以来、神は、救い主によって、ご自分の国を再び立てられる計画をお持ちでした。そして、神は、御国を立てられるとき、エルサレムの町を選ばれて、それを都とされたのです。  したがって、救い主なるキリストがエルサレムに入られることは、神のご計画にとっては、中心の中心というべき重要な出来事であります。その重要性をはっきりとしたものにするために、イエスは、次のことを行われました。

 「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて行きなさい。もし、「なぜそんなことをするのか。」と言う人があったら、「主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。」と言いなさい。」 そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。

 イエスは、ろばの子を連れて来るように弟子たちに命じられました。それを、全知と全能のご性質を力を用いられて、行われています。まだ、目で見ていないろばをすでに知っており、また、ろばを飼っている人が、それを貸すのを許すように動かされました。でも、なぜ、ろばの子なのか、と思われるかもしれません。それは、神は、みことばをもって、そのことを前からあらかじめ定めておられたのです。

 創世記49章を開いてください。ここは、ヤコブが12人の子どもに終わりの日のことを預言した部分です。10節を見てください。「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足を離れることはない。」 つまり、神の国の支配者がユダから出てくるというものです。「ついにはシロが来て」このシロは、キリストのことです。「国々の民は彼に従う。」そして、次を見てください。「彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。」次にゼカリヤ書9章の9節を見てください。「シオンの娘よ。大いに喜べ、エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗ってこられる。それも雌ろばの子のろばに。」ですから、神は、エルサレムをみことばをもって支配されており、ここにおいては、救い主キリストをろばの子に乗せて支配されたのです。

2B ホサナ 7−11
 それだけではありません。マルコ11章に戻って、7節を見てください。そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って自分たちの上着をその上に掛けた。 イエスはそれに乗られた。すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。

 これは、王が立てられるときに行われていました(2列王記9:13)。

 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んで行った。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」

 このキリストヘの賛美も、神のみことばの中にありました。詩編118篇25節と26節です。前を行く人々が、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と歌うと、あとに従う人々は、「祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。」と歌います。そして、前を行く人々が、「ホサナ。いと高き所に。」と歌い、順番に合唱したのです。このことも、神が、はじめから定めておられました。

 
したがって、エルサレムがなぜ重要な町であるのかというと、神が、エルサレムにおいて重要な出来事を、みことばによって定めておられたからです。つまり、エルサレムが、エルサレムとしての機能を果たすのは、神のみことばがあったからです。東京が日本の首都としての機能を話さなければ、首都であっても意味がないように、エルサレムが神のみことばに裏づけされていなければ、無意味なのです。しかし、当時の祭司や律法学者は、預言のことばを理解していませんでした。彼らは、みことばに対し心が閉ざされていたのです。

 私たちは、ある意味で、ひとりひとり自分のエルサレムを持っています。すなわち、神は、ひとりひとりの生活の中で働かれたいと願われています。神は、そのときに、みことばでもって働かれます。私たちが、自分の気持ちや考えで動くのではなく、みことばを謙虚に見つめていくときに、私たち自身が神のみわざの中心的な場所となります。しかし、みことばの裏づけがなければ、たとえ、自分がクリスチャンだと言っても、それは口だけのものでしかありません。みことばを持たないエルサレムが、他の町と何ら変わらない町に化してしまうように、みことばのないクリスチャンは、他の人と何ら変わらなくなります。

 こうして、イエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてを見回った後、時間ももうおそかったので、12弟子といっしょにべタニヤに出て行かれた。

 イエスは、宮にはいられました。宮は、神の都のなかでも、さらに中心部分であります。なぜなら、そこに神ご自身が住まわれているからです。イエスはそこを見回りましたが、そこで見たものは、神が住まわれるところとは、ほど遠いところでした。でも、時間がおそくなっていたので、宮にとどまることをせずベタニヤに行かれたのです。

2A 生きた信仰 12−26
1B 実 12−14
 翌日、彼らがべタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉のしげったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。

 いちじくのなる季節ではないのに、イエスが何かありはしないと見に行かれたのは、不思議です。でも、過越の季節である4月上旬には、食べることのできる芽がいちじくの木に生えます。そして、これらの芽は落ちて、5月下旬と6月に実がなります。その、食べることのできる芽が出ていないと、その年は、その木は実を結ばせません。ですから、イエスが何かありはしないかと見に行かれたのは、その芽を探しておられたのです。

 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。

 イエスは、いちじくの木を呪われました。お腹が空いていたから、のろわれたのではありません。象徴的な意味があったからです。聖書では、イスラエルがいちじくの木にたとえられています。エレミヤ書8章には、「わたしは彼らを、刈り入れたい。・・・しかし・・・いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。(13)」とあります。また、ホセア書9章には、「わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖を、いちじくの初なりの実のように見ていた。(10)」とあります。したがって、イスラエルは、実が結ばれるために、神の祝福と聖さが現われ出るために、神に選ばれました。しかし、イエスがご覧になられたのは、葉は生い茂っているけれども、実を結ばせない木だったのです。口や頭では神を信じているかもしれないけど、実質をともなっていないイスラエルの姿を表していました。それを見て呪われたのです。

 みことばの裏づけがないエルサレムが無意味であったように、実を結ばせないイスラエルは無意味でした。このことが、クリスチャンの場合にも当てはまります。イエスは言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。(ヨハネ15:5-6)」私たちは、実を結ばせるために召されたのです。

2B きよめ 15−18
 この、葉ばっかり生い茂っていて、実がなかったイスラエルの姿が、次に具体的に書かれています。それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。

 イエスは、宮を荒らし回られたのではありません。宮をきよめられました。宮の中では、ささげ物に使う動物がべらぼうな値段で売られており、宮で用いることのできる貨幣に両替するとき、ものすごく高い通貨レートが敷かれていました。イエスは、神を礼拝するものを無心している、これらの行為をきよめられたのです。

 そして、彼らに教えて言われた。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。

 イエスは、神の宮が、祈りの家であることを、聖書を用いて教えられました。エルサレムの中心に、神への祈りがなければいけない。イスラエルの中心に、神への祈りがなければいけない。なぜなら、人は、祈りによって神との交わりをすることができるからです。私たちは、どうでしょうか。私たちの生活が、祈りにささえられているでしょうか。生きた神を意識して、神の導きに敏感になり、神の御声を聞いているでしょうか。自分の願いや心配を、神に打ち明けているでしょうか。私たちは、祈りによって、神との交わりをすることができます。イスラエルの民は、エルサレムにある神の宮で祈りました。けれども、今は、キリストを信じる者ひとりひとりのうちで行われます。パウロは言いました。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(1コリント3:16)」自分のからだを、祈りの家にするか、それとも強盗の巣にするかは、私たち次第です。

 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからである。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。

 ここから、イエスが何回も予告されていたことが始まります。人の子が、祭司長や律法学者たちに捨てられる、ということです。彼らが、イエスを殺したいと思った理由は、人々がイエスになびいているのを見たからです。ここから、彼らは潜在的に、群衆を自分たちのものにしたいと考えていたことがわかります。 自分を、人々が神に近づくのを手助けする奉仕者とは考えずに、神が、人々が自分に近づくのを手助けすると考えたのです。おそろしいことですが、これは、人が初めから持っていた欲望です。エバは、禁じられた木の実を食べたのは、神のようになりたいと思ったからでした。このことについては、27節から始まる、権威についての話に詳しく出てきます。

3B 祈り 20−26
 次にイエスは、祈りについて詳しく話されています。朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

 翌日、彼らが同じところを通ったら、イエスの呪われた木は、根まで枯れていました。ペテロがそれに気づいたのです。

 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」

 イエスは、祈りの中で大切なことは、神を信じることであると言われました。いちじくの木が枯れたのは、神の全能の力によるものです。その全能の力を信じて祈るなら、私たちは、生きた神の働きの中に入っていきます。イエスの言われた「この山」は、オリーブ山のことです。そして「海」とは、死海のことです。つまり、弟子たちが目の前に見ているものが、神はその全能の御力によって動くのです。私たちは、どうでしょうか。自分たちの目の前にあること、自分たちの身近にあることに対して、神を信じているでしょうか。一番、身近にある自分自身に対して、神を信じているでしょうか。

 私たちは、「しょうがない。」という言葉を使って、自分の祈ることに限界をつけてしまいます。私がアメリカで、ある兄弟と祈り会を持っていました。彼は、「祈りに限界はない。人間的に不可能だと思われることを、祈るといいよ。」というようなことを勧めてくれました。信仰の祈りは、山をも動かすことができるのです。

 「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

 ここには、祈りがどのように答えられるかが書かれています。祈り求めたことを、すでに受けたと信じると、それがかなえられます。私たちは、自分の生活の中で、祝福があまりない、神のいのちや力を体験しない、という思いがありますが、多くの場合、自分が祝福を信じない、神の御力を信じないことによって起きています。

 ある牧師が、礼拝の後に、人々に挨拶をしていました。人々は、牧師に話を聞いてもらったり、祈ったりしてもらうために、列をつくって並びます。そこに、35歳ぐらいの女性がいました。彼女は、ずっと結婚したいと思って祈っているのに、デートさえできていない有様でした。教会にいる子どもの世話をして、子どもがほしい、神を愛する母親になりたいと、何度、思ったことでしょう。そのことを牧師に告げました。牧師は言いました。「 あなたの問題は、信じていないことです。もしかしたら、今日、あなたは生涯の伴侶に出会うかもしれませんよ。 」彼女は、いや、そんなことはありません。」「神が、あなたを見捨てられたとでも、お思いですか。」彼女は、「そう感じています。」そんな会話が続きました。そのとき、列の後ろには、まだ一度も結婚したことのない、ひとりの男性がいました。彼は、教会の事務所から彼女の電話番号を聞いて、電話しました。「きょう、もしよかったら、いっしょに座って、礼拝に出席しませんか。」彼女は、冷静さを保って、「はい、わかりました。」と言って電話を切ると、大声で喜び叫んだのです。今は、その二人は非常に幸せな夫婦となり、すでに子どもも与えられているそうです。祈って求めるものは、すでに受けたと信じなさい、とイエスは言われました。

 このように、祈るときに、神の全能の力を信じることは大切ですが、また、神の赦しを信じることも大切です。次をご覧ください。「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」そして、26節は、下の脚注のところにあります。「しかし、もし赦してやらないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの罪を赦してくださいません。」

 人を赦しているか、そうでないかは、私たちが神の赦しを信じているか、信じていないかによります。もし人を赦さず、苦みを持っているのであれば、その人は神の赦しを本当に信じているとは言えず、その人自身が神の赦しを受けることができるかが定かではありません。なぜなら、神の性質そのものが、赦しとあわれみであり、その神と交わりを持っているなら、自ずと赦しとあわれみによって生きざるを得なくなるからです。使徒ヨハネが、同じことを言っています。「 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に目に見えない神を愛することはできません。(1ヨハネ4:19-20)」したがって、人を赦すことは、神との交わりを持つに当たって、非常に重要なことになります。

 このように、神を信じることはとても大切になります。祈りの中で神を信じ、その生きた交わりに入ると、私たちのうちから実が結ばれます。イエスは、エルサレムの中にその実を見たいと願いましたが、見ることができませんでした。彼らは、預言のみことばに心が閉ざされていただけでなく、生きた信仰を持っていませんでした。

3A 神の権威 27−33
 彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」

 彼らは、イエスの権威について質問しました。宮きよめをしている権威は、どこから来ているか、という質問です。 しかし、彼らは、自分たちが権威であるという前提から、そのようなことを言っています。 自分たちが、自分の思いのままに、神殿を支配することができる、という思いが彼らにあったことは、疑いの余地がありません。こうした、自分を神にしたいという思いは、私たちひとりひとりにも潜んでいます。パウロは、「 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないということを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。(1コリント5:19)」と言いました。

 彼は、私たちが神の所有物であると言っていますが、私たちは、自分の所有物であると言います。神の神殿を、自分のものである、自分が権威を持っていると考えるのです。この動機をもって、祭司長と、律法学者はイエスに近づいたのです。神の都であるはずのエルサレムが、いつの間にか、祭司長と律法学者たちの都に変わっていたのです。

 そこでイエスは彼らに言われた。「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。」

 聞かれた質問に、質問で答えていますが、これは、ラビが行なう典型的な教え方です。「これは、どういう意味か教えてください。」と言うと、ラビは、「なんで、その意味を知りたいのか、答えなさい。」と聞きます。そうして質問をしていくうちに、真理を悟ろうというものです。パウロが、これをローマ人への手紙で連発しています。例えば、6章1節には、「 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。 」とあります。質問をして、質問の答えをするのです。

 「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」

 天から来た、というのは、神の権威をもった預言者であることを示しています。人から出たとは、預言者であると自称しているが、実は、自分の思いを話しているに過ぎないということです。イエスはここで、ご自分の権威がヨハネの権威と同じところから出ていることを、醸し出されています。イエスは、ヨハネの宣教の補強をし、ヨハネは、イエスをキリストであると宣言して、その到来の前ぶれをしました。したがって、彼らがヨハネに対して下す結論は、イエスにも当てはまることになります。

 すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったと言うだろう。」

 彼らは、ヨハネが神からの預言者であると知りながらも、彼を信じませんでした。しかし、天から、と言えば、神の預言者を信じない非を犯して、神ご自身を拒否した非に問われます。したがって、天から、ということができませんでした。同じことが、私たちにも言えます。「神のみことばには、こう書いてありますが、あなたはそれにどう応答しますか。」と聞くと、「わからない。」と答えます。しかし、わからないのではなく、正しいと知っていることを信じていないのです。そのみことばに背いている、と言えば、自分を罪に定めてしまうので、「わからない。」と答えるのです。

 「だからといって、人から、と言ってよいだろうか。」一 彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。

 彼らが、人から、ということができなかったのは、群衆を恐れたからです。人への恐れです。それは、人からよく見られたいという虚栄心にもつながり、見せかけの偽善にもつながります。

 そこで彼らは、「わかりません。」と言った。

 彼らは、あやふやな答えをしました。一つは自分のプライドのため、もう一つは人への恐れのために、こうしたあいまいな返答しかできなかったのです。

 そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われた。

 イエスは、彼らの質問に答えるのを拒みました。「わからない。」と答えたからです。これが、神の御声を聞くことをできなくする、もっとも悪い返答です。イエスは、「『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ』とだけ言いなさい。(マタイ5:37)」と教えられました。「わからない。」 というのは、本当にわからないのではなく、わかっているけど信じていない、従っていないことの証拠です。ただ、自分にプライドがあるから、信じていないということができません。それは、祭司長と長老のように、神殿が自分のものだと思っているからです。自分が生活の中で王座を占めているからです。

 しかし、神の権威を認める者は、「はい。」だけでなく、「いいえ。」と言うこともできます。「いいえ。」と言ったあとに、心砕かれて、神の御前にひれ伏すことができるからです。 福音書の比較をして、これは矛盾している、という批判が多くあります。その一つに、イエスとともにつけられた二人の非人の証言ですが、マタイもマルコも、どちらもイエスをののしったとあるのに対し、ルカは、一人が、自分のしたことを認め、イエスに天国に行かせてくれるよう願ったことを記しています。これは矛盾ではなく、どちらも真理でした。この強盗は、初めはイエスをののしったのですが、次に悔い改めたのです。初めは、「いいえ。」と言ったのですが、十字架につけられているイエスを見て、「はい。」と答えたのです。このように、私たちが自分の思いをすべて、神の御前にさらけ出すことは大事です。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して、弁明をするのです。(ヘブル4:13)」

 こうして、私たちは、「神の都エルサレム」について見てきました。エルサレムには、神のみことばの裏づけがあり、祈りによる生きた信仰があり、そして、神の権威があるべきでした。しかし、みことばを無視し、宮の中で商売をして、自分を権威者としていたのが現状でした。私たちは、ここからチャレンジを受けなければなりません。私たちはクリスチャンですが、キリストのみことばに裏づけされた人になっているでしょうか。私たちは、クリスチャンですが、キリストの全能の力とその赦しを信じる、生きた信仰を持っているでしょうか。私たちはクリスチャンですが、キリストを権威者として認めているでしょ  うか。お祈りしましょう。


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