マルコによる福音書12章 「見捨てられるかなめ石」


アウトライン

1A 任務 1−12
  1B 自己追求 1−9
  2B キリスト否定 10−12
2A 教え 13−37
  1B 分離と服従 13−17
  2B 知恵 18−27
  3B 知識 28−37
    1C 小事にこだわる 28−34
    2C 大事をおこたる  35−37
3A 献身 38−44
  1B 偽善 38−40
  2B 犠牲 41−44

本文

 マルコの福音書12章をご覧ください。ここでのテーマは、「見捨てられるかなめ石」です。私たちは、イエスと弟子たちがエルサレムに入った話を読みました。イエスが、宮で教えられているとき、祭司長と、祭司と、長老たちがイエスのところに来て、質問をしました。彼らは、ユダヤ人議会の議員たちです。それから、イエスと彼らは、激しい議論を開始しました。12章は、その議論の真最中での出来事です。それでは、本文を読みましょう。

1A 任務 1−12
1B 自己追求 1−9
 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、洒ふねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。」

 このたとえは、ユダヤ人にとって真新しいものではありません。なぜなら、イザヤ書5章からの引用だからです。そこを読むと、ぶどう園がイスラエルであることがわかります。神がイスラエルをこよなく愛し、これを養い、大切に育てられました。けれども、続けて、「酸いぶどう酒ができてしまった。」とあります。また、「主は公正を望まれたのに、見よ、流血。」とも書いてあります。期待していたものと、逆の結果が生まれてしまったのです。

 
季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。

 ぶどう園の持ち主は、もちろん神ご自身であります。しもべは神の預言者ですが、農夫たちは、この話を聞いている宗教指導者たちのことです。彼らは、イスラエルの民が良い実を結ぶように、民を育てる務めを神から任じられていたのです。新約聖書では、牧者や教師などがそうした務めを任じられています。ところが、逆説的なことが起こります。良い実を結ばせるように導き、公正を求めるように指導する者たちが、逆に悪い実を結ばせて、流血を引き起こすように指導するのです。酸いぶどう洒になり、流血が起こるというイザヤの預言は、実は、この農夫たちのしわざによって起こるのです。

 ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り返した。

 神の預言者が迫害されました。神は、ご自分の計画を実行されるとき、ご自分とこころを一つにする者を選ばれて、その者をとおしてご計画を実行されます。聖書の歴史のはじめの方に、ヤコブの息子ヨセフがいました。神は、ヨセフを、イスラエルの民が形成されるための最初の器として選ばれましたが、兄弟たちは彼を捨てたのです。

 そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。

 迫害されたのはヨセフだけではありません。モーセもそうでした。彼は、ヘブル人の奴隷を助けるためにエジプト人を殺しましたが、ヘブル人はかえって彼をエジプトに告発しました。

 また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。

 モーセの後も、預言者たちが使わされましたが迫害を受けました。

 続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。

 ダビデの子ソロモンがいなくなってから、イスラエルとユダは神に逆らう道をたどりました。その時から、今までになく大ぜいの預言者が登場しています。神が多くの預言者を遣わされたのは、何とかしてイスラエルを滅びから救いたい、ご自分に立ち上がらせるようにしたい、という熱情から出てきたことです。神は、とても忍耐される方なんですね。しかし、預言者が迫害されずに受け入れられた例は、一度もありませんでした。しかも、それらの迫害は、一般の民衆ではなく指導者たちが起こしたものであります。

 その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、「私の息子なら、敬ってくれるだろう。」と言って、最後にその息子を遣わした。

 神は、預言者とは違う立場の人を遣わされました。愛する息子、つまり神ご自身のひとり子です。イエスは、地上におられたとき預言者としての働きをされましたが、その本性は神でありました。そして、「最後に遣わした。」とあるように、神の御子が最後のみことばになったのです。ヘブル書1章には、こう書いてあります。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」この後に、神の新しい啓示を教えるような預言者は現れませんでした。なぜなら、御子が神の本質の完全な現われであり、完全なのですから、それ以上の啓示は必要としないからです。使徒行伝に預言者たちは現れていますが、彼らは、地域的な状況や特定の事柄について語るだけで、普遍的な神のみことばを語ったのではありません。

 イスラム教は、モハメットが最後の預言者であるとし、イエスを他の預言者のひとりとしていますが、ここからその主張は否定されています。

 すると、その農夫たちはこう話し合った。「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。

 農夫たちは、最後の息子までを殺してしまいます。彼を、ぶどう園の外、つまり、イスラエルの民の外で投げ捨ててしまいます。現に、イエスは、異邦人の手に渡されて殺されました。彼らが、この息子を殺した動機が記されています。息子の財産を自分のものにしたかったのです。神の御子に与えられている立場や、いのち、栄光を奪い取って、自分の立場を高く上げ、自分のいのちを救い、自分の栄光を求めたのです。これが、祭司長たちや律法学者たちの指導者たちが、イエスを殺した動機になったのです。彼らはサンヘドリンで、こう話し合いました。「もしあの人(イエス)をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。(ヨハネ11:47、48)」ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ばし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。これは現に起こりました。紀元70年に、ローマ人によってエルサレムは滅び、そして、ユダヤ人ではなくて、多くの異邦人が実を結ばせるようになったのです。

2B キリスト否定 10−12
 そして、イエスは、このたとえの結論を導き出すために、旧約の預言を引用されます。あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」

 イエス・キリストは、神の家が建てられるときに、絶対に必要な礎の石、かなめ石でありました。キリストは、あらゆる律法と預言の中心テーマであり、この方を除けば、旧約聖書は単なる抜け殻でしかなくなります。キリストはこれほど重要なのに、いや、重要であるがゆえに、家を建てる者たち、宗教指導者たちに捨てられてしまいました。かなめ石は、目立つような石ではなく、実際に、ソロモンの神殿を建てた人が、いらない余計な石だとして、野原に捨ててしまったのです。キリストも、人の興味をそそるような方ではなく、自分を捨てるものでなければ、この方を主とすることはできません。したがって、神ではなく、自分自身を求める者にとっては、簡単に捨てられてしまう存在なのです。パウロは、「だれもみな自分自身を求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(ピリピ2:21)」と言いました。クリスチャンは、キリストを求めているようではいるが、実は自分自身を求めているときがあります。規模は小さいかもしれませんが、これら宗教指導者たちと同じことをしてしまうことがあります。

 彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。

 彼らは、イザヤ書のたとえを知っていたので、イエスの言わんとされていたことをすぐに悟りました。

2A 教え 13−37
 次に、彼らが、どのような形で自分自身を求めていたのかが、イエスとの議論の中で描かれています。

1B 分離と服従 13−17
 さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。

 ここから、サンヘドリンにいるさまざまなユダヤ教の宗派の人たちが現れます。最初は、パリサイ人です。パリサイは、もともと、「分離」を意味していました。世の汚れから離れて、主の聖さにあずかるわけですが、これは、もちろん主の教えにあります。旧約だけでなく新約にもあり、パウロは、「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖さを全うしようではありませんか。(2コリント7:1)」と言いました。しかし、彼らは行き過ぎました。異邦人の土地に入ったら、しっかりと衣をしばって、決して異邦人に触れないようにする。市場に行ったら、全身をきよめたりしていました。そうしたことを行なうことによって、自分は他の者のように汚れていないと高ぶっていたのです。同じことが私たちにも起こりますね。タバコを吸っていないことや、教会に毎週通っていることなどを、誇りにしてしまいます。

 そして、パリサイ人と逆の立場の宗派が、ヘロデ党でした。彼らは、この世に順応することを大切にしました。また、国家に服従することを大事にしました。これらもまた、ある意味で、聖書の教えの一つであります。パウロは、「すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。(1コリント9:22)」と言いました。また、ペテロは、「人の上に立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい(1ペテロ2:13)」と言いました。ところが、彼らも行き過ぎました。ローマ帝国に迎合し、例えば、神殿にローマの異教的な装飾を施したそうです。私たちクリスチャンも、伝道のために世の人々と同じ立場に立つ必要がありますが、しかし、妥脇してしまうときがあります。

 このように、ヘロデ党とパリサイ派は正反対の教えを持っており、互いに敵対していました。それなのに、ここでは、祭司長の促しで、いっしょにイエスのところに来ています。なぜなら、彼らには、自分自身を求めているという共通項があったのです。自分に死になさい、と命じられるキリストは、彼らにとって邪魔者でした。そして、イエスを憎むことにおいて一致することができたのです。

 彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」

 彼らは、先ほどのイエスのたとえ話から、人の顔色を見ない、真理を率直に言う人であると、ほめています。しかし、もちろん、それは、次の質問に答えさせるためのわなです。

 「ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。」

 ここの税金は、人頭税です。生存権のために払う税金で、年に数百円だけでした。しかし、ユダヤ人は、ローマに税を納めることを嫌い、特にこの人頭税は嫌いでした。イエスが、もし、「律法にかなっている。」と言えば、たちまちイエスは群衆の信頼を失います。私たちは、ここまでローマに抵抗してきているのに、ここで何と妥脇か、と失望させるに違いなかったのです。もし、「律法にかなっていない。」と言えば、ヘロデ党の者たちはローマ憲兵のところに走っていき、イエスがローマに謀反を企てていると告発することができたのです。実に、よく考えられた質問でした。

 イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。 「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銅貨を来て見せなさい。」

 イエスは、人頭税に使われる、最も小さい単位の硬貨を持ってこさせました。

 彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。

 カイザルには忠誠を誓わなければならない、カイザルは主であり、神である、という考えがありましたから、ユダヤ人、とくにパリサイ人にとっては、その硬貨を取り扱うのにも嫌想感を感じたに違いありません。

 するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。

 これは知恵です。そんなにカイザルが嫌なら、カイザルにそれを返してしまいなさい。けれども、あなた方自身は神のものである。自分の身を、生きたいけにえとして神にささげなさい、ということです。世にいる人々と同じ義務を果たしながら、なおかつ、主にささげます。これが神の道であり、私たちは、どちらかだけを行おうとすると自分自身を求めはじめます。

2B 知恵 18−27
 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。

 次のユダヤ教の宗派は、サドカイ派です。祭司長の多くは、サドカイ派でした。彼らは、 パリサイ人と対照的に、盲信的になってはいけない、原理主義に走ってはいけない、という立場を持っていました。人には常識があり、理性がある。それを押し殺してまで律法の文字にこだわる必要はない、と考えていました。これも、ある意味で真理であり、私たちは自分の思い、すなわち理性を使って神を愛するように命じられているし、また、イエスが、「律法の中でははるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。」とパリサイ人に言ったことにも通じています。しかし、彼らも行き過ぎたのです。彼らはモーセの5書だけが神のみことばであると信じ、復活や天使や霊などは信じませんでした。こうやって、彼らは自分たちは賢いことを誇っていました。私たちクリスチャンの中でも、奇跡の部分を文字通り信じなかったり、聖書の一部は人間によって書かれたと言っている人たちがいます。

 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、 しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』」

 申命記に書かれています。ただ、その前でも、ユダがタマルに弟息子を婿に与えている場面があります。

 「さて、7人の兄弟がいました。長男が嫁をめとりましたが、子を残さないで死にました。そこで次男がその女を嫁にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。こうして、7人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。7人ともその女を妻にしたのですが。」

 彼らは、復活の考えがいかに馬鹿げているかを示すために、こうした論理的な説明をしました。しかし、イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」

 イエスは、彼らが思い違いをしていることを指摘されました。具体的には2つのこと、聖書と神の力であります。最初に、神の力について話されます。

 「人が死人の中からよみがえられるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いのようです。」

 彼らは、肉体のからだから復活のからだに変えられる、神の力を知りませんでした。聖書の奇跡の記述は、「初めに、神が天と地を創造された。」ということばを理解することができれば、すべて理解することができます。天と地を創造されたのですから、何でもおできになるのです。地上において最も親密な関わりは、結婚でありましょう。けれども、その祝福は天における祝福と比べたら、ちんけなものなのです。だから、結婚しなくても、復活のからだのほうがはるかにすばらしいのです。

 イエスは次に、聖書について話されます。「それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の筒所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。」

 イエスは、彼らの信じているモーセ5書から復活の教えを話されています。

 「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」

 ここの記述によると、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセが生きていたころに、まだ生きていることがわかります。死んでからもいのちは存続していたのです。しかし、サドカイ人は、人間の知恵にたより、自分自身を誇って、神の真理をあなどる者となっていました。私たちは、みことばを読むときに、常に謙虚さが要求されます。書かれてあることを、そのまま受け止めていくという謙虚さが必要になります。

3B 知識 28−37
1C 小事にこだわる 28−34
 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。

 また、違うグループの人が現れました。律法学者ですが、これは、パリサイ派やヘロデ党のようなユダヤ教の宗派ではありません。学問的な専門家の集まりです。

 「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」

 彼は、他の宗教指導者と違って、本当に答えを知りたくてイエスのところに来たようです。というのは、律法学者の間で、一番たいせつな律法が何であるかが議論されていたからです。モーセの律法の条項は613ありますが、それがどれも有効ではあるけれども、どれが最重要事項であるか、話し合っていました。そのようなこと細かい神学論争の中で、この律法学者は真理がわからずに思い悩んでいたのでしょう。このように、律法学者は、サドカイ派と対照的に、聖書の文字の一字一句を大事にしました。使徒パウロも、「聖書はすべて、神の霊感によるもの」であると認めています。けれども、彼らも行き過ぎてしまい、単純に神のみことばを信じて、神に従うことを怠っていたのです。神を知るための聖書研究にならず、自分を知識によって高ぶらせるための研究になってしまったのです。私たちに中にも、聖書を霊感されたことばだと信じている人たちの中で、決して徳を高めるとは言えない、不毛な神学論争に陥っている人たちがいます。

 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。』」

 これは、申命記にあるシェマと言われるおきてです。熱心なユダヤ人は、これを一日に2度唱えました。

 「心を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これは、神と人との関係についての、おきてです。「次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」これは、人間関係のおきてです。「この2つより大事な命令は、ほかにありません。」

 この2つのおきての命令は、どちらも「愛せよ。」でした。言い換えると、関係をもっとも大切にすることであります。日本人が「おきて」から想像することは、自己鍛練です。「嫉妬をなくす。」とか、「心の安らぎ」とかというものが、日本の宗教の主流です。自己向上、自分の幸せが究極的な目的になっています。しかし、聖書のおきての中心は、神との親密な関わり、人格的な関係であります。私たちが結婚において深い関係を結ぶように、神を個人的に深く知り、神と交わるのが究極的な目的です。また、イエスは、「主が唯一」であることも指摘されましたが、真の愛は、ひとりとひとりの人格の関わりから生まれます。夫婦の片方が不倫をしたら、その関係が崩れるように、人が他の神々を求めたら、たちまち主との関係はくずれてしまいます。

 そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなたがた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」

 彼は、基本的にイエスの言われたことをくり返しました。けれども、イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」

 とほめておられます。最も賢い答え、神の国にはいることのできるような答えは、イエスのみことばを、そのまま受け入れることだからです。自分で納得できるように、少し変えてみたり、付け足したり、差し引いたりすることなく、そっくりそのまま受け入れるのです。

 それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。

 ヨブ記には、「神は、知者を彼ら自身の悪知恵を使って捕らえる。彼らのずるいはかりごとはくつがえされる。(8:13)」と書いてあります。

2C 大事をおこたる  35−37
 イエスが宮で教えられたとき、こう言われた。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。」

 今度は、イエスが律法学者たちに質問をされました。キリストについての質問です。ご存じのとおり、キリストはヘブル語のメシヤであり、メシヤは、「油注がれた者」という意味です。王が即位するときに、油が注がれました。つまり、キリストは、神のすべての権威を持つ王であります。

 「ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。」

 ダビデのことばが、霊感によるものであることをイエスは認めておられます。先ほども言いましたが、聖書はすべて神のみことばです。

 「主は私の主に言われた。」

 最初の主は父なる神であり、2つめの主はキリストです。

 「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。

 これは、反語的な質問です。キリストはダビデの主であり、なおかつダビデの子であります。つまり、神でありかつ人であります。当時の族長的な社会では、父が深く敬われていたので、子が父を「主」と呼ぶことはあっても、決して父が子を主と呼ぶことはありませんでした。それで、律法学者たちは、何も答えることができなかったのです。彼らは、聖書の端っこにあるような話題については、よく知っていましたが、聖書の中心の中心と言うべきキリストについては無知でした。私たちは、聖書の示されているキリストを、しっかりと知ることなしには、どんなに聖書を知っていたとしても無益なのです。

 大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。

 彼らは、イエスがいつも偉そばっている宗教家たちをぎゃふんと言わせたのを見て、喜びました。私たちも、偉そうにしている日本人の知識人や評論家を、ぎゃふんと言わせるキリスト者がいると、痛快ですね。世の知恵は、神の御前には愚かなものです。

3A 献身 38−44
 こうして、イエスは、彼らの教えに現れている欺瞞や誤りを見事に暴かれました。そして、次に、彼らが神に自分自身をささげているという嘘を、はっきりと指摘されます。

1B 偽善 38−40
 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、良い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。」

 彼らの献身しているという姿は、みな人々の注目を引き寄せるものでした。神にささげているどころか、神から栄光を奪い取っているのです。

 「また、やもめの家をくいつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けます。」

 当時の律法学者は、給料が与えられなかったので、ユダヤ人たちの献金に依り頼んでいました。けれども、彼らは、それを悪用して金儲けをしていたのです。しかも、明日の食事がどうなるかわからなうような、やもめの家からも金を巻き上げました。また、見えのための長い祈りをしました。こうしたものを見て、私たちは、強い嫌悪感を覚えます。現在の日本人が、宗教アレルギーになっているのも一理あるわけです。けれども、私たち以上に、神ご自身が、イエスご自身が、それを忌み嫌っており、誰よりもきびしい罰を地獄で受けるのです。

2B 犠牲 41−44
 これと対照的な出来事が次に書かれています。そして、そこから、真の献身とは何かを見いだすことができます。 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。

 金持ちたちが、見せびらかすようにしてお金を入れていました。

 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を2つ投げ入れた。それは1コランドに当たる。

 1コランドは、1円の4分の1ぐらいしかありません。

 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。」

 すごいですね。天においては、金の勘定の仕方が地上と異なるようです。イエスは、金額で大小を決めておられません。それでは、何によって大小を決められるのでしょうか。

 「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」

 金持ちは、あり余る中から投げ入れたので犠牲をともなっていません。しかし、やもめは大きな犠牲を払いました。したがって、イエスは、犠牲によって大小を決めておられます。これが、本物の献身です。見かけの姿ではなく、自分が実質的にどれほど神にささげているかが問われています。

 イエスは言われました。「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」自分を捨てること、自分に死ぬことが、本当に大切な真理なのです。建物のかなめ石なのです。私たちには、神からゆだねられた務めがあり、守るべき教えがあり、また、神にささげるように導かれています。そのときに、本当に大切なことは、私たちがとかく見捨てるようなところにあります。私たちは極端が好きです。それは、私たちが自分自身を求めたいからですが、キリストはつねにバランスを持っておられます。クリスチャン生活が、たとえ目立たないことであっても、自分たちの気持ちや精神に訴えるようなものではなくても、かなめ石キリストを、つねに見つめていてください。


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