マルコによる福音書14章後半 つまずきの石キリスト


アウトライン

1A 霊の思い 27−31
2A 肉の弱さ 32−72
  1B 眠る(肉の思い) 32−42
  2B 撃ちかかる(肉の行ない) 43−52
  3B 遠くからつける(世の愛) 53−65
  4B 否む (死) 66−72

本文

 マルコの福音書14章を開いてください。今日は、14章の後半部分、27節から学びます。ここでのテーマは、「つまずきの石キリスト」です。私たちは前回、12弟子のひとりであるユダが、イエスを裏切る決意をするところを見ました。彼は、イエスに、「わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」と指摘されて、過越の食事を途中にして、イエスと他の弟子たちのもとを離れました。こうしてユダはイエスを離れましたが、私たちが今から見るところは、他の弟子たちがイエスを離れていく場面です。それでは、本文を読みましょう。

1A 霊の思い 27−31
 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊はみな散り散りになる。』と書いてありますから。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」

 彼らは、ちょうど過越の食事を終えたところです。イエスは、そこでご自分の血による新しい契約を弟子たちが受け取るようにさせました。イエスと彼らの間には、切っても切ることのできない、深い関係が結ばれました。ところが、イエスは、弟子たちがご自分を見捨ててしまうことを予告されたのです。弟子たちは、イエスが復活されてから、この深い関係の中に入ることになりますが、その前に、イエスを見捨てるという辛い経験をすることになります。

 イエスが、これまでも、ご自分が十字架につけられ、よみがえられることを予告されて来ました。弟子たちは、それがどういう意味だが理解することができず、自分で勝手に、イエスはエルサレムで政治的な支配者となられる、と考えたのです。弟子たちは、十字架の出来事を、イエスという他人のこととして捉えていましたが、今は違います。十字架によって、自分たちがイエスを見捨てて、イエスから離れるというのです。しかし、この出来事は、彼らが本当の意味でイエスのことを知り、イエスを自分の救い主として信じるには必要なことだったのです。なぜなら、人は、自分に神とキリストに敵対する性質を持っていることを認めない限り、本当に自分は救いを必要としていることを知ることができないからです。

 私たちも、聖書を学び、キリストについて学んでいますが、聖書は、私たちがキリストに敵対している罪人であることを告げています。私たちも、弟子たちと同じように、イエスのみことばを理解できないで、自分勝手に、自分が納得できるような形でそれを理解しようとします。日本人でしたら、もっぱら、自分の徳が高められるため、自分が成長するため、自分の幸せをつかむために、例えば、あなたを休ませてあげます。というような聖書のことばを、ありがたい、と言って読むのです。しかし、十字架のことばを読むときに、私たちは、そのような読み方をすることができなくなります。イエスが、「羊は散り散りになる。」と言われたように、私たちは、もともと、すべて正しいこと、真実なこと、清いこと徳と言われるようなことを憎み、そのような良いものの源であるキリストに反抗する性質を持っているのです。パウロは、「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。(ローマ7:18)」と言いました。私たちは、ありのままの姿では、目に見えないけれども、生きて働いておられる神に、真っ向から敵対しているのです。

 ところが、私たちは、その事実を認めたくはありません。弟子たちもそうでした。次を見てください。

 すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」

 ペテロは、「私は」と言って、自分自身の力を信じました。自分には、何か良いものがあると認めたいのです。ペテロがなぜ、自分を信じることができたかというと、他の弟子たちと自分を比べたからです。「たとい全部の者がつまずいても」と言っていますね。私たちも、人間的な基準で自分を評価するので、自分はさほど悪い人間ではない、自分はたいして弱い存在ではないと思い込みます。クリスチャンでさえも、自分は盗みは働いてない、そんなに怒らない、嘘もついてない、などと、自分の正しさの基準を、自分自身に置くことが多々あります。「あなたは、今、主から離れた生活をしています。」と指摘されたら、ペテロのように、いや、そんなことはない、と言って反発するでしょう。問題はみな、他の人と比べる、つまり、人間的な基準で自分を計っているからです。

 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと3度言います。」ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。」

 ペテロは、再び、「私は」という言葉をくり返しました。自分の肉を誇っています。しかし、私たちがこの章を読み進めると、一番最後に、このイエスのみことばが文字通り成就するのを見ます。次から、ペテロがどのようにして、イエスを否定してしまうようなことになってしまうか、見ていくことができます。急にそうなったのではなく、段階を踏んでいます。

2A 肉の弱さ 32−72
1B 眠る(肉の思い) 32−42
 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。

 イエスに、十字架の時が迫ってきました。苦しみの時です。まず、肉体の苦しみを受けられます。十字架は、当時のローマの刑罰の中で、もっとも痛みの伴うものとして知られていました。手と足に釘が打ちつけられ、つけられた人の骨の関節は、みなはずれます。そのため、呼吸をするのが困難になり、からだを持ち上げようとするのですが、釘を打たれている手から激痛が走ります。このようにして、徐々に体力は衰え、極度の脱水症状になり、最後は窒息して死ぬことになります。けれども、イエスの苦しみは、肉体だけのものではありません。人々からのけものにされ、ののしられます。ご自分は何一つ罪を犯していないのに、罪を犯している者たちから罰せられるのです。こうした精神的な苦痛もありますが、最も大きな苦痛は霊的なものです。神との交わりができなくなる、唯一の障壁は罪であります。イエスは、私たちの罪を負って十字架につけられたのですが、今まで一度も経験したことのない、父なる神との断絶を味わいます。申命記には、「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。(21:23)」と書いてありますが、イエスは、神にのろわれた者とされたのです。こうした苦しみを目の前にして、イエスは祈り始め、深く恐れもだえ始められたのです。

 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」

 イエスは、目をさましていなさい、と命じられました。この時は夜だったので、実際に目をさましていることでもありますが、霊的に目をさましていなさい、という命令でもあったのです。これは、差し迫る状況に対して、心の準備をしておくことです。イエスが捕らえられ、十字架につけられる状況が目の前に迫っています。

 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。」

 イエスは、3人の弟子たちからも「少し進んで離れられました。父なる神に一対一で語られるからです。このように、祈りは、神との一対一の関わりであり、他の人や他のものが入ってくる余地はありません。そして「地面にひれ伏され、父なる神の権威を認めておられます。祈りは、自分が神を動かして、自分の願いをかなえるためのものでなく、むしろ、神が自分の心を動かして、神の願いに沿うようになるためのものです。神が主権を持っておられるのです。そして、イエスは、この苦しみの時が過ぎ去ることを願われていますが、次を見てください。

 またこう言われた。「アバ、父よ!」

 アバは、「お父さん」とか「パパ」とか言うような、親しみのこもった父の呼び名です。

 「あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

 イエスは、神が何でもできるお方であることをご存じでした。イエスご自身、「どんなことでも、神にはできるのです。(10:27)と言われました。だから、イエスが受けられる苦しみを取り除けることも、実に簡単におできになるのです。しかし、神は、ご自分のひとり子がこの苦しみにあわない限り、私たち人間が罪から救われないことを知っておられました。神は、私たちをこよなく愛して、私たちが罪から救われるために、御子があえて苦しみを受けるように、あえて、故意に、そのように仕向けられたのです。批評家は、イエスが死んだのを、神の失敗であるとか、神の弱さであるとか言いますが、とんでもないことで、むしろ、全能の神の力の現われであります。そして、このイエスの祈りで大切な言葉は、「しかし」であります。イエスはご自分の意思よりも、神の意思を優先させました。神は、永遠の方であり、すべてを知っておられます。すべてを知ってから、最も良いと思われることを計画されます。したがって、神のみこころが私たちにとって、もっとも益になることなのです。

 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

 ペテロは、眠っていました。目をさましていることができませんでした。それで、イエスは、誘惑に陥って肉の欲に従ってしまいます、と警告されています。思い出してください。ペテロは、自分の肉を誇りました。自分は何とかなると思っていたので、神により頼む必要性を感じないで、それで祈らなかったのです。ペテロは、イエスを否定してしまう下降線をたどる、第一段階を踏んでいます。それは、自分がどのような状況にいるか、見えなくなってしまうことです。実際に身に迫っていることがわからなくなってしまいます。問題を持っていることを、一番、認めたくないのは問題を持っている本人ですね。それは、肉の思いによって、自分が何をしているのかわからなくなっているのです。感覚が鈍くなっています。それは、自分を信じ、自分に何か良いものがあると思い込んでいるからです。

 イエスは、再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。

 ペテロと違って、イエスは祈り続けられました。御父に依り頼むためです。イエスは、ご自身ではその苦しみは耐えられないことを知っておられたのです。

 イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が来ました。」

 ユダが、祭司長や役人たちを率いて、イエスのところにやって来ています。

2B 撃ちかかる(肉の行ない) 43−52
 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、12弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。

 ユダは、過越の食事の席を途中ではずしてから、すぐに祭司長たちのところに行って、イエスを捕らえる準備を始めました。

 イエスを裏切る者は、

 マルコは、ずっとユダを、「12弟子のひとり」と呼んでいましたが、この時点で、「裏切る者」と呼び始めています。

 彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生。」と言って、口づけした。

 ユダが、イエスに□づけしました。ギリシャ語の口づけには、いろいろな言葉があります。よく聖書でも用いられているのは、あいさつをするときの口づけです。中東では、今でもそうしています。けれども、ここで用いられている言葉は、恋人がする情熱的な口づけです。ここから、ユダの背信行為が、どれほど恐ろしいものであったか、よくわかります。

 すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。

 切り落とした本人は、ペテロであることがヨハネの福音書に記されています。重い瞼を開けて、最初に見るものは、剣や棒を持っている集団でした。それで、自分の剣をさやから抜き、辺り構わず振り回したのです。ペテロは、自分の衝動にまかせて、人を傷つけました。つまり、肉の行ないに走ったのです。これが、イエスを否定するに至る第二段階です。ペテロは、自分は大丈夫だと思って、神に依り頼むことをせず、そのため、差し迫った状況に鈍感になっていました。それで、実際に事が起こると、御霊によって反応せず、自分の肉に反応したのです。これが、自分は罪人ではないと主張する人々の姿です。自分にとって試練や困難なことが迫ると、怒ってみたり、あわててみたり、お金を無駄に使ったり、と肉の行ないに走っていきます。自分には何もすることができないことを認めたくないので、そうした無駄な行為を続けるのです。

 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためなのです。」

 聖書のことば、つまり、神ご自身のことばが状況をすべて掌握されていることが、わかります。この前、過越の祭りの日にイエスが殺されることが、神のご計画であることを学びましたが、この時点で捕らえられなければ、その通りにはなりません。

 すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。

 弟子たちのことです。イエスの言われた通りになりました。

 ある青年が素はだで亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。すると、彼は、亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。

 これは、多くの人がマルコ自身であろうと、言っています。マルコは、当時、12、13歳の少年でした。彼の家族はみな、イエスに関わっていたので、少年がするように、イエスの回りをうろうろしていたのだと思われます。マルコの福音書は、大部分がペテロから聞いたことによって記されていますが、ここでは、マルコ白身が自らの体験を挿入したのです。それならば、マルコが、自分の失態をあからさまにしたことになります。だれが、自分の失敗を人に知らせるでしょうか。

 これを書いているマルコも、また、マルコに話しているペテロ自身も、自分たちがどうしょうもない罪人であることを告白してやまなかったのです。

3B 遠くからつける(世の愛) 53−65
 彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た。ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中にまではいって行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火に当たっていた。

 ペテロは、碓かにイエスについて行きましたが、遠くからあとをつけていました。そのため、なんと、先ほどまで剣で殺そうとしていた役人たちといっしょに、火に当たっていたのです。イエスを否定するに至る第三段階に入りました。それは、敵である世を愛することです。イエスに、遠くからついて行くことは、とても危険です。ヤコブは、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(ヤコブ4:8)」と言いました。おりにかなった助けを得るために、私たちは、絶えず、イエスに近づき、知恵と力を得なければいけません。でも、それができるのは、キリストなしには自分は何もできない、と知っている人だけです。自分の精神力を信じている人や、精神力で解決しようとしている人は、いずれ、自分がイエスに、遠くからついて行っているのに気づくでしょう。先ほど言いましたように、何か困難なことが起こると肉の手段に出るのですが、それでも埒があかないので、自分はどうしようもない人間だと言って自己憐憫に陥ったり、現実逃避に走ります。そうして、世の提供する欲望に自分を従わせるようになるのです。

 さて、祭司長たちと全議会はこの議会は、サンヘドリンのことです。イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。イエスに対する偽証をした者が多かったが、一致しなかったのである。

 これは、イエスには何一つ、罪を見いだすことはできないことを証言しています。イエスは、何一つ罪を犯されたことのない方です。

 すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。「私たちは、この人が、『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、3日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる。』と言うのを聞きました。」しかし、この点でも証言は一致しなかった。

 イエスは確かに、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、3日でそれを建てよう。(ヨハネ2:18)」と言われたことが、ヨハネの福音書に記されています。しかし、それはご自分のからだを神殿にたとえて、復活することを言われていたのです。

 そこで大祭司は立ち上がり、真中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。

 イエスは、何も弁明されませんでした。もし、弁明すれば、たちまち無罪であることがわかってしまうからです。しかし、イエスは死刑にされなければなりませんでした。イザヤは、キリストについて、こう預言しています。「毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(53:7)

 大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」


 大祭司は、イエスが、神の御子キリストであるかどうかを聞いています。キリストは、私たちを神のもとへ導き入れる仲介者のことです。また、神の御子は、天地を造られた創造主の子であり、神ご自身であります。人間は、宗教をつくって良いこと、神に到達する方法を考えました。また、真理とは一体何であるかを捜しあぐねたのです。それで、いろいろな宗教ができました。また、真理を説明するいろいろな理論が生まれました。この大祭司の質問は、それではいったい、どれが正しいのか、というものです。現代の人は、どれが正しいのかわからないので、「仏教も、キリスト教もみな、もともとは一つであって、それぞれの人にあった信じ方がある。」と答えます。また、「宇宙は、ビッグ・バンによって始まった。」と説明するかもしれません。

 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。」


 イエスは、宇宙の始まりはビッグ・バンではなく、わたし自身である。わたし以外に、何者も神に導き入れる者はいない、と言われているのです。「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るからです。」これは、ダニエル書7章13節にある、キリストについての預言です。このように、ご自分がキリストであることを、この場ではっきりと告げられました。今まで、このようなかたちで答えられたことはありません。けれども、死刑に定められる法廷の中で、あえてそれを証言されたのです。なぜなら、イエスが殺されるのはただ一つ、キリストである、という理由でなければならなかったからです。単なる人間が死んでも、他のだれかの救いになることはありません。しかし、キリストが死なれることは、その時代を越えて、また、イスラエルという地域を越えて、全人類の罪のいけにえになることを意味したのです。

 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。

 確かに、人が自分を神と言うことは、神への冒涜です。日本は、かつて天皇を現人神にしましたが、それは、ひどい罪です。けれども、イエスが本当に神であるならば、むしろ、彼らの方に罪が帰せられます。王としてひれ伏すべき方を、死刑に定めるという大罪を犯すのです。

 そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当ててみろ。」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。

 彼らは、イエスを侮辱しました。顔におおいがかけられていたので、そのパンチをイエスはまともにくらいました。そのため、イザヤは、「その顔だちは、そこなわれて人のようではな」いと証言しています(53:14)。

4B 否む (死) 66−72
 そして、ついに、ペテロがイエスを否定する場面が出てきます。 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、ペテロが火に当たってみるのを見かけ、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。しかし、ペテロは再び打ち消した。

 これで2回目です。

 しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」

 ペテロには、ガリラヤ地方のなまりがありました。

 しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。

 なんと、ペテロはイエスをのろいました。

 するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと3度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。


 ペテロは、決して自分はしないと誓ったことをしてしまい、激しく泣きました。心では、イエスさまを本当に愛していました。自分の職業を投げ打って、この方こそイスラエルを救ってくださると信じ、ついて行ったのです。イエスとともに生活をし、イエスに教えられ、責められ、ほめられ、そして、イエスはペテロをいつも助けてくださいました。その愛するイエスを、今はのろいをかけて知らないと言ったのです。けれども、彼が知らなかったことは、肉の弱さでした。「私は、つまずきません。」「私は、知らないなどと、決して申しません。」と言った、「私」が問題でした。そのため、まず、祈って神に依り頼むことを怠りました。そのため、自分の身に迫っている状況を見分けることができなくなり、肉に従って行動してしまいました。それで、イエスから遠くはなれ、敵とともに火に当たっていたのです。

 
私たちも、ペテロと同じです。私たちの生まれつきの姿は、これほど醜く、神に反抗するものなのです。そんなことはないと否定する人たちは、キリストの十字架を見てください。その同じ苦しみを受けることを想像してください。十字架の苦しみどころか、ペテロが、横にいた女中のことばによって、すぐにつまずいたように、本当にちょっとしたことでつまずくことに気づくでしょう。自分の行ないによって生きる人は、キリストはつまずきの石なのです。

 しかし、後に、ペテロは回復しました。彼は、後に復活されたイエスに出会い、教会を導く指導者になります。そして、聖霊が弟子たちの上に下られたあと、ペテロは、イエスが立たされた場所とまったく同じ、大祭司の連なるサンヘドリンの前に立たされます。そこで、イエスを否むどころか、「世界中で、(イエスの)御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)」と大胆にイエスの名を告白しました。これは、ペテロがイエスを知らないと言った、約2ヵ月後の出来事です。なにが、そんなに彼を変えたのでしょうか。

 72節をもう一度、見てください。「ペテロは、『鶏が鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと3度言います。』というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。」とあります。彼は、イエスのみことばを思い出し、それに同意したのです。自分は、実にひどい事を犯したことを認めたのです。これを言い換えると、信仰です。みことばが、自分について言っていることを聞いて、それを、「そのとおりです。アーメン。」と、うなずいて受け入れるのです。たとい、それが自分にとって非常に都合の悪いことばであっても、自分のやって来たことをみな否定するようなことばであってもです。私たちのすべきことは、ただ信じていくことです。良い行ないは、神がキリストにあって、備えていてくださいます。信じる者にとっては、キリストは、つまずきではなく救いの石になります。


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