マルコによる福音書5章 「願いを聞かれるイエス」


アウトライン

1A 悪霊追い出し 1−20
   1B 悪霊の接近 1−10
      1C 対象 イエス 1―2
      2C 背景 墓場 3−5
      3C 内容 懇願 6−10
   2B 悪霊の乗り移り 11−20
      1C 対象 豚 11−13
      2C 結果 恐れ 14−17
      3C 成果 宣伝 18−20
2A 病気のいやし 21−43
   1B ヤイロの懇願 21−24
   2B 長血の女 25−34
      1C 対象 着物 25−29
      2C 結果 みことば 30−34
   3B 娘の生き返り  35−43
      1C 土台 みことば 35−39
      2C 方法 信仰 40−43

本文

 マルコの福音書5章を開いてください。今日の主題は、「願いを聞かれるイエス」です。それでは、本文に入りましょう。

1A 悪霊追い出し 1−20
1B 悪霊の接近 1−10
 こうして彼らは湖の向こう岸ガラサ人の地に着いた

 彼らとは、イエスと弟子たちであります。彼らが舟に乗っていたとき、嵐が来て、舟が転覆しそうになっていました。彼らは、眠っているイエスに助けを求めました。イエスは、風をしかりつけて、湖に、「黙れ。静まれ。」と言われると、静まったのです。こうして、イエスは弟子たちに、神の御子としての力をお示しになりました。ご自身が神であることを示されたのです。そして、彼らは、ガリラヤ湖の東側にあるガラサ人の地に着きました。

1C 対象 イエス 1―2
 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。

 汚れた霊につかれた人が、イエスに近づいています。汚れた霊、または悪霊の起源は定かではありませんが、おそらく悪魔の反逆に加わった天使であろうと思われています。黙示録12章において、「その(竜の)尾は、天の星の3分の1を引寄せると、それらを地上に投げた(4節)」とあります。天使はよく、星にたとえられているので(ヨプ38:7)、投げ落とされた天使たちが悪霊として地上に這いつくばっていると考えられるのです。そして、この悪霊は人に憑いています。人の魂や体に乗っ取り、言葉を話したり、その人の体を動かしてしまうのです。

2C 背景 墓場 3−5
 次に、この悪霊つきの人について説明がなされています。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。

 彼は、墓場に住んでいました。当時の墓は、洞窟などの穴が使われていたので、そうした所に住んでいたのです。

 彼はたびたび足かせや鎖でつながれていたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったからである。

 彼は、だれによっても押さえることはできませんでした。鎖や足かせなど、人々が考えられる手段は、何も役に立ちませんでした。これは、悪霊つきの中でも重症なのではないかと思われます。悪霊追い出しでも、軽度のものと重度のものがありました。弟子たちが追い出せなかった悪霊をイエスが追い出されたとき、「この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません(マタイ17:21)」と言われています。この悪霊つきは、だれも手がつけられない類いのものだったのです。

 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。

 とてもかわいそうですね。悲惨です。見るに耐えません。このあわれな男に、福音が必要でした。

3C 内容 懇願 6−10
 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。

 彼のほうから、イエスに駆け寄っています。 そして、イエスを拝んでいます。人間には手のつけようがなかったこの悪霊は、イエスの御前では足元に服従しているのです。イエスは、舟を転覆させるほどの大きな嵐を服従させましたが、この恐ろしい悪霊をさえ服従させています。自然界だけでなく、霊界をも支配されているのです。

 いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。主の御名によってお願いします。 どうか私を苦しめないでください。

 彼は、イエスを、「いと高き神の子」と呼んでいます。他の筒所でも、悪霊は、イエスを「神の子」とか「神の聖者」とか呼んでいました。彼らは霊の存在なので、イエスの正体を知っていたのです。 そして、この悪霊はイエスにお願いしています。この「願う」という言葉が、5章には数多く出てきます。彼は、自分を苦しめないようにイエスに願いました。なぜでしょうか。「それはイエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」 と言われたからである。」とあります。悪霊は、からだを持つことを望んでいたようです。パウロは、からだについて、「この幕やを脱ぎたいと思うからではなく、かえって天からの住まいを着たいからです。(2コリント5:4)」 と言っています。私たちの霊はからだを必要とするのですが、悪霊も同じようです。ですから、霊だけでは苦しみがともなったと考えられます。また、ルカの福音書には、「底知れぬ所に行け、とお命じになりませんように(8:31)」 とありますので、底知れぬ所が苦しみの場所であったのでしょう。底知れぬ所はアブソと言いますが、ゲヘナともハデスとも違います。

 ユダの手紙によりますと、堕落した天使の多くは、既にそこに入ったようです。キリストが再び来られるときには、悪魔がその底知れぬ所に鎖につながれます(黙示20:3)。

 それで、「おまえの名は何か。」 とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。

 この汚れた器、実は一人ではなかったようです。レギオンは、ローマの6千人の兵隊に使われていましたが、大ぜいの悪霊がひとりの悪霊として動いていたようです。それで、鎖を引きちぎったり、足かせを打ち砕くような怪力を持っていたようです。

 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。

 再び願いました。彼らはこのゲラサ人の地方が気に入っていたようです。

2B 悪霊の乗り移り 11−20
1C 対象 豚 11−13
 ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」

 その土地に豚が飼われていました。「豚」は、律法によると、汚れた動物とされています(レビ11:7)。汚れた、というのは、衛生上のことがあったでしょう。今でも豚はよく炊かなければならないと言われますが、そこに寄生虫が生きている可能性があるからです。神は、聖なる民イスラエルを形成されようとしていた時に、彼らをそうしたものから守ろうとされていたのでしょう。それで豚は食べてはならないとされていましたが、ここでは豚が飼われています。つまり、不法ビジネスが行われていたのです。そして、ここでも、汚れた霊どもはイエスに「願って」います。苦しめないでください、この地方から追い出さないでください、そしてここでは、豚に乗り移させてくださいと願って、3つの願いをしました。

 イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、2千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。

 ものすごい光景ですね。2千匹もの豚が湖になだれ落ちています。「おぼれてしまった。」というギリシャ語は、「次々に自らおぼれていった。」と訳すことができます。イエスは、悪霊どもの願いを聞き入れて、豚に乗り移るのを許されました。悪霊にさえも、その意思を尊重されました。霊には人格がありますから意思があります。イエスは、人格があり、意思があるものを、ロボットのように何かを強いるようなことはなさいません。人格のある者には、必ず自由な選択があるのです。

2C 結果 恐れ 14−17
 こうしてイエスは、悪霊を追い出されました。イエスは、悪霊に関心があったのではなく、悪霊につかれていた男に関心があり、この男をかわいそうに思われました。イエスの目は、いつも人間の必要に向けられていたのです。ところが、その地方に住んでいた人々は違っていました。

 豚を飼っていた者たちは逃げだして、町や村々でこの事を告げ知らせた。そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を来て、正気にすわっているのを見て、恐ろしくなった。

 彼らは、悪霊から解放された人を見て、喜ぶのではなく、恐ろしくなりました。彼らは、この男のことをよく知っていたのです。夜昼墓場で叫び続け、石でそのからだを傷つけていたことを知っていました。そのあわれな男が、今は正気になったのです。この男のことを考えたら、喜ぶはずです。でも、なぜ恐ろしくなったのでしょうか。豚が2千匹おぼれてしまったからです。彼らは、その男よりも、自分たちのビジネスに関心があったのです。ひどいことですね。でも、この世の中は、人よりもお金に関心を持っています。

 見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるように願った。

 それで、「イエスは舟に乗ろうとされ」ています。彼らは、イエスに願いました。その願いは、イエスを追い出すことでした。それでも、イエスは彼らの意思に反してそこにとどまることはされなかったのです。彼らの自由な選択を尊重されたのです。しかしその選択は、彼らは、イエスとともにいることよりも、悪霊といっしょにいるほうを選ぶことです。イエスのおられる神の国に入るよりも、悪霊とともにゲヘナに投げ込まれることを選ぶことです。そして、神はその選択を尊重されます。

 「イエスを信じるのも、信じないのもあなたの自由だ。」ということを聞くとき、多くの人は、「ああ、自由なら信じなくても大丈夫なのだ。」という結論をつけます。しかし、それでは、自由というものを本当にわかっていません。自由があるということは、責任があるということであります。だれかに強いられているうちは、その結果を強制した人のせいにすることができます。しかし、自由に選択したことは、本人が責任を負います。今回、日銀総裁に選ばれた速見氏は、アカウンタビリティー、訳すと「説明責任」について、聖書で説明しました。「聖書では、世界の終末に神が人類を裁く『最後の審判』での、神に対する申し開きを指し、それによって生ずる責任まで負う覚悟をも求めた言葉」である(朝日新聞社説98/3/18)。パウロは、信者に対してこう言いました。「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになります。こういうことで、私たちは主を恐れることを知っている(2コリント5:9、10参照)。」私たちの自由には、主への恐れがともないます。

3C 成果 宣伝 18−20
 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。

 今度は、悪霊から解放された人がイエスに願っています。イエスといっしょにいたいという願いです。

 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。 「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんな大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」

 面白いことに、イエスはその人の願いがかなうのを許されません。しかも、お供をしたいという願いにもかかわらず、それを拒まれています。なぜでしょうか。私は、イエスが禁止されたと言うよりも、励まされたのではないかと思っています。この男は、イエスがキリストであることを認めました。イエスが彼に、「主があなたに、どんな大きなことをしてくださったか」と、「主」と言う言葉を用いられていることからわかります。また、お供をしたいのは、イエスの弟子になる希望であります。したがって、彼は、はっきりと回心をしたのでした。イエスは、彼の心が燃えているのをご覧になったのではないかと思います。主が自分に、こんな大きなことをしてくださった。主がこんなに私をあわれんでくださった。そうした感動が彼の心のうちに渦巻いていたのだろうと思われます。それで、12弟子のように、いつもイエスのそばにいるような立場を求めている彼に対して、イエスは、「いや、そうではない。そのままのあなたでいなさい。主がどれほどのことをしてくださったかを、そのまま語り告げなさい。特に、あなたのことを、あなたの家と家族の者は知っている。彼らに福音を宣べ伝えなさい。」と言われたのでしょう。イエスがお許しにならなかったのは、禁止したのではなく、むしろ励まされたのです。

 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広めた。人々はみな驚いた。

 彼は、力強い主の証人となりました。次の章の53節以降では、この地方の人々が大ぜいイエスのみもとに来ていることを見ることができます。こうして、イエスは、大ぜいの悪霊を追い出されることによって、ご自分がキリストであることを示されたのです。

2A 病気のいやし 21−43
 次は、病気のいやしによって、イエスが神の御子としての力を示されます。

1B ヤイロの懇願 21−24
 イエスが舟でまた向こう岸に渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。

 またガリラヤ湖の西側に戻ってきました。

 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が治って、助かるようにしてください。」

 ここでは、会堂管理者ヤイロがイエスに願っています。会堂管理者は、単に会堂という建物を管理していたのではありません。律法学者のように、トーラを管理していた者でもありました。したがって、会堂管理者たちもイエスに敵対していました。しかし、ヤイロには問題がありました。自分の娘が病にかかり、今にも死のうとしているのです。

 そして、それを治すことのできるのはイエスだけであることを知っていました。そこで、イエスのところに来て、いっしょうけんめいイエスに懇願しているのです。このように、神は、非常にきびしい状況をとおして、人をご自分に近づけることがあります。平穏で幸せな状況にいるなら、心をかたくなにしてイエスの方に目を向けない人が、ヤイロが直面しているような困難を通して、イエスのところに来るようになります。

 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

 一刻を争うような状況のときに、多くの群衆がイエスについて来ました。 イエスは群衆について来るのを許さないようにできましたが、それはしませんでした。押し迫るままにされていたのです。つまり、ヤイロの願いはイエスに聞き入れられましたが、ヤイロの期待するようにはイエスは動かなかったのです。彼が期待するように、すばやくひとり娘のところに行くことはありませんでした。私たちにも、ヤイロと同じようなことが起こります。願って祈るのだけれども、神が動いておられるように見受けられないことが起こります。ヤイロは次に、もっと辛い方法でこのことを経験します。

2B 長血の女 25−34
1C 対象 着物 25−29
 ところで、12年の間長血をわずらっている女がいた。

 この長血とは、婦人の不正出血のことです。それが、12前から始まりずっと続いています。女性の方には、この辛さを知っている人は多いでしょう。ただ、当時は、そうした辛さに加えて、イスラエルの共同体の中に入れないことがありました。長血をわずらっている女は汚れているとされ、人々の中に入ることが許されませんでした(レビ15:25−30)。

 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。

 これも悲惨ですね。医者に行ってもきちんとした治療をしてくれなく、お金ばっかり取られていきました。昔も今も変わりません。

 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。

 女は、危険を冒して群衆の中に紛れ込みました。出血のため弱っていたからだをひきずって、近づいたに違いありません。そして、着物にさわれば自分は治ると信じていました。彼女の信仰は、着物にさわることに置かれていました。先ほどのヤイロは、娘にイエスが手を置いて下されば、娘は治ると信じていました。信仰の持ち方は違いますが、同じイエスに対する信仰です。

 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが治ったことを、からだに感じた。

 あざやかな描写ですね。女はすぐにいやされました。

2C 結果 みことば 30−34
 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか」

 イエスは、群衆が押し合いへし合いしているのに、一人だけさわった人がいることに気づいておられます。力がご自分から出て行くのに気づかれたからです。多くの人はイエスを物理的に触っていたのに、本当の意味で触ってはいませんでした。イエスに対して信仰を持っていた女のみが、本当の意味で触ることができました。それは彼女がイエスを信じたからです。私たちも同じですね。私たちが集まるときに、ここにおられるキリストに触れるという信仰を持つことによって、はじめてイエスの御力を体験することができるのです。

 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

 女も、ヤイロと同じようにイエスの前でひれ伏しています。悪霊のときもそうでしたが、願いを聞かれるのとひれ伏すことが関連して書かれています。その願いは、単にお願い事をするのと異なり、願いをする相手の権威や力を認めて、自分自身をその相手にゆだねているからです。イエスが十字架につけられていたとき、いっしょに十字架につけられていた犯罪人のことを思い出してください。ひとりは、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」 と言いました。もうひとりは、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言っています。どちらも願っているのですが、後の方が、イエスの権威と力を認めて、イエスに自分をゆだねています。それゆえイエスは、「あなたは、きょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われて、彼の願いを聞かれたのです。したがって、自分が主の御前でひれ伏すということは、願いが聞かれることの前提なのです。

 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」イエスは、彼女に慰めのことばをかけられました。「娘よ。」と声をかけられています。

3B 娘の生き返り  35−43
 ところが、この状況を見ていたヤイロは、どのような心境だったでしょうか。彼は、彼女が話す一部始終を聞いていました。群衆でイエスがさえぎられていたのに、さらに拍車をかけるようにさえぎられています。イエスに自分の娘のいやしを願ったのに、他の女をいやされています。こんなことがあって良いものだろうか、と思ったに違いありません。私たちにも、このことはよく起こりますね。祈ったのに聞かれない。他の人は早々と聞かれているのに、自分だけは聞かれない。そうしたとき、私たちの信仰はためされます。

1C 土台 みことば 35−39
 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管里者の者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」

 一番聞きたくない知らせを受けました。何と、他の女をおいやしになって、その者と話をされているうちに、自分の娘が死んでしまいました。人間的に考えたら、最悪の状況です。そこですかさず、イエスは言葉をかけられています。

 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

 このみことばがなければ、ヤイロはその場で倒れていたかもしれません。しかしイエスは、あなたは娘に御手が置かれたら治ると信じていたのですが、それを信じ続けなさい、と言われています。

 そして、ペテロとヤコプとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。

 イエスはようやくここで、群衆が来るのを、お許しになりませんでした。また、3人の弟子たち以外の者は連れていきませんでした。この3人は、イエスが栄光の御姿に変えられるときに連れられた3人であり、また、ゲッセマネの園でイエスが祈られたときの3人でもあります。イエスは、12人の弟子たちにご自分のことを明かされましたが、重要な出来事においてはさらにそこから3人を選ばれたのです。

 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、収り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中にはいって、彼らにこう言われた。

 葬儀が行われていました。そこで、大声で泣く者、わめいたりするものがいましたが、当時は、プロの泣き屋があったそうです。その子がどれだけ愛されていたかを近所の人々に知らせるためでした。

 「なぜ収り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」

 イエスが「眠っている」と言われたとき、それは、今は死んでいるけれども生き返ることを意味されていました。キリストにあって死んだ者たちも、聖書では、「眠った者」と表現されています。

2C 方法 信仰 40−43
 人々はイエスをあざ笑った。

 先ほどまで、泣いてわめいていた人たちが、今はあざ笑っています。人の感情とはこのような浅はかなものです。

 しかし、イエスはみなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。

 あざわらった者たちは外に出されました。イエスのみわざを見ることのできる人たちは、イエスを信抑する者たちだけです。不信仰は、自分を神のみわざに参加させないようにします。

 そして、その子どもの手を取って、 「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)

 ヤイロが願ったように、イエスは御手を娘に置かれました。そして、彼女の手を取られました。

 
すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。12歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

 少女は生き返りました。もし、あの長血をわずらう女がイエスにふれなかったら、おそらく驚くようなみわざを見ることはなかったでしょう。病はいやされたけれども、究極の病である死がいやされることを見ることはありませんでした。ですから、時が遅れたことはよかったのです。時が遅れたのは、さらにすばらしい神のみわざを見るためだったのです。ここに、私たちが、神のみわざを待つことの重要性を見ることができます。主が預言者ハバククに言われました。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(ハバクク2:3-4)」 そして、被女が12才であったことに注目してください。同じ数字が先ほど出てきました。先ほどの女は、12年前に長血をわずらい始めたのです。ちょうどその時には、ヤイロの家に新しい命が誕生していました。その幸福の生活が始まったときに、女は不幸の道を歩み始めたのです。けれども、それらはみな、神の摂理の中にありました。ヤイロの家に信仰が与えられるために、また、この女に信仰が与えられるために、ほぼ同時に、ご自分の計画を実行し始められたのです。神のなさることは、時にかなって美しく、ご自分の計画にしたがって、すべてのことを益として働かせてくださるのです。

 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。

 イエスのなされたみわざを理解することのできる人々は、そこに居合わせた人たちだけでした。また、少女は病と死の中でずっと食べていなかったので、イエスは食事をさせるように命じられています。彼女は体は、まだ地上の体であり、いちか朽ちるものでした。ですから、復活とは異なります。復活の体は決して朽ちることはありません。

 こうして、私たちは2つの大きな出来事から、イエスが神の子キリストであることを見ることができました。悪霊の追い出しと、病人のいやしによって、イエスは肉体を取られた全能の神であることを示されたのです。このイエスが、私たちの願いを聞き入れて下さいます。使徒ヨハネは言いました。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ、神にたいする私たちの確信です。(Tヨハネ5:14)」 そして、その願いは、神にひれ伏すこと、神を恐れることから始まることを学びました。パウロは言いました。「愛する人たち。・・・いつも恐れおののいてじぶんの救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです(ピリピ2:12、13)」お祈りしましょう。


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