マルコによる福音書6章 イエスの力あるわざ



アウトライン

1A 郷望(不信仰) 1−6
2A 使徒(権威) 7−13
3A ヘロデ(よみがえり) 14−29
   1B イエスの名 14−16
   2B ヨハネの死 17−29
4A 弟子(堅い心)30−52
   1B 5千人の給食 30−44
   2B 水上歩行 45−52
5A 群衆(さわる) 53−56

本文

 マルコの福音書6章を開いてください。ここでのテーマは、「イエスの力あるわざ」です。さっそく本文に入りたいと思います。

1A 郷望(不信仰) 1−6
 イエスはそこを去って、郷里に行かれた

 イエスは、郷里に行かれています。そこを去って、とありますが、そことはヤイロの家のことです。ヤイロの娘は、イエスによって死んでいたのが生き返りました。その前に長血をわずらう女をいやされ、さらにその前には、何千もの悪霊につかれていた男を自由にしてあげました。このように、イエスの力あるわざが人々の間で現われていました。そのような背景を持って、イエスは郷里に向かわれます。

 弟子たちもついて行った。安息日になったとき、会堂で教え始められた。

 イエスは、いつものように、安息日に会堂に入られて教えられました。

 それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。」

 郷里にいる人々は、イエスの教えや知恵、力あるわざについて驚いています。同じような状況が、カペナウムにおいてもあったことを思い出してください。1章に記されています。

 イエスが福音宣教を開始されてから間もなく、安息日に会堂に入られました。そして、汚れた霊を追い出されたのですが、人々は、「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた例をさえ戒められる。すると従うのだ。(27節)」と言って、驚きました。郷里ナザレにおいても人々が驚きましたが、彼らが、「この人」という言葉をくり返していることに注意してください。カペナウムにいる人々は、「新しい教えではないか。」と、教えについて驚いているのに対し、ナザレにいる人々は、このイエスという人について驚いています。

 「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。

 彼らが驚いた「この人」は、彼らが30年もともに生活をしてきたイエスという人間だったのです。彼は、「大工」でありました。彼らの中に、イエスの作られたくびきや家具を持っている人がいたかもしれません。そして、「マリヤの子」と呼びました。 ヨセフの子ではなく、マリヤの子と呼ばれているのは、ヨセフがすでに死んでしまったことが考えられます。あるいは、イエスがマリヤの私生児だといううわさが広がっていたかもしれません。マリヤが結婚してからイエスがお生まれになるまで月数を数えると、通常よりも少なかったはずです。そして、イエスの兄弟の名を挙げて、妹のことも言及しています。この中のヤコブは、イエスが復活されてから信者になり、初代教会の指導的な役割を果たします。彼は、「ヤコブの手紙」を書いた人です。そして、ユダも同じく信者になり、「ユダの手紙」を書いています。この人間イエスが、教えを広めたり、知恵に満たされていて、力あるわざをしていたので、びっくりしていたのです。

 つまり、彼らは、ナザレにおけるイエスを見たその経験からしか、イエスを見なかったのです。カペナウムにいる人々は、教えや力あるわざによってイエスを見ていたので、イエスが預言者であるとか、あるいはキリストであると認めることができたのです。自分の考えや経験からイエスを見るのか、その教えやみわざからイエスを見るのかで、大きな違いがでてきます。イエスは、私たちの生活のあらゆる面において生きておられます。ですから、周りにいる人々や出来事を、キリストの教えに照らして見ていくときに生きて働くキリストに出会います。しかし、私たちが自分の考えや経験から見ていくと、その生活は退屈で、つまらないものになってしまいます。

 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」

 イエスが、ご自分を「預言者」と呼ばれていますが、預言者とは、その言葉のとおり神のみことばを預かった者であります。その教えを受け入れる者は、預言者によって神を知ることができます。けれども、その預言者自身を見る者は、普通の人間にしか過ぎないのです。彼らが自分たちの経験によってイエスを見た結果が、次に書かれてています。

 それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。

 力あるわざが行われませんでした。これが不信仰の代償です。イエスが彼らの真ん中におられたのに、不信仰によってイエスを見たため、力あるみわざを経験することができませんでした。このように、私たちがキリストの御力を体験させなくする妨げは、物事を人間の知性や経験で見ようとする不信仰なのです。

2A 使徒(権威) 7−13
 それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。

 イエスは、ナザレにいる人々にその福音を拒まれた結果、近くの村々で教えられています。パリサイ人たちがイエスを葬り去ろうとする計画を立てたときも、マルコ3章7節には、「イエスは・・・湖のほうに退かれた。」とあります。イエスはいつも、福音の働きが拒まれると他の地域で働かれるようです。そして、新たな宣教を開始されて力あるわざを行われます。ただ今回は、ちょっと宣教方法を変えておられます。次を見てください。

 また、12弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。

 イエスは、ご自分の働きを12弟子にも委ねられています。弟子たちは今まで、ただイエスに付いて行っただけでしたが、今度はイエスと同じ働きを自分たちで行ないます。 それができたのは、イエスが彼らに「権威」をお与えになったからです。私たちもまた、それぞれが福音を宣べ伝えるところに遣わされているのですが、キリストの権威が授けられています。交通整理をしている警官を考えてください。警官に対して、10トントラックははるかに力があります。簡単に警官を引きつぶすことができます。しかし、交通整理のときには、警官の指示に従います。それは、警官が国からの権威の下で動いているからです。したがって、私たちはキリストの権威の下にいるので、人々に真理を見えなくさせている悪魔のしわざを追い出すことができるのです。そして、イエスは、「ふたりずつ遣わ」されています。宣教の働きに、同労者がいることは大きな助けです。思いを一つにする人とともに働くときに、キリストの御力を体験することが多くあるのです。

 また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし2枚の下着を来てはいけません。」

 宣教は、身軽で行きなさい、という命令です。そして、主の備えにより頼まなければいけません。ただ、もちろん文字通り、杖一本だけで、2枚の下着を着ないで行くことは今ではできないでしょう。というのは、次に書かれている文化の背景があるからです。

 また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。」

 当時の中東では、旅人をもてなす習慣が非常に強くありました。ですから、弟子たちはその家の人々が与えてくれるもので、生きていくことができたのです。

 もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」

 足の裏のちりを払い落とすことは、結論から言うならば、「私たちには責任がない。」ということです。ユダヤ人は、異邦人が多く住んでいる土地からイスラエルの土地に戻るときに、足の裏のちりを払い落としました。彼らは、異邦人の土地のちりでさえもイスラエルの地に持って行くのを拒んだのです。弟子たちが足の裏褒のちりを払い落とすのは、彼らに下る神のさばきに自分は無関係であることを示すためでした。ここから、私たちには、人々を回心させるところまで責任がないことがわかります。キリストを伝えれば、責任から解放されます。

 こうして12人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていた。

 3つのことが書かれていますね。まず、「悔い改めを説き広め」ました。悔い改めとは、自分の人生や生活に変化がもたらされることです。彼らは、キリストの権威によって、罪から解放される人々を見ることができました。そして、「悪霊を追い出し」ています。私たちの間であまり悪霊の顕著な働きを見ることはありませんが、クリスチャン生活そのものが、目に見えない暗やみの支配者に対する戦いと言えます。この暗闇の勢力が追い出されるときにはじめて、福音が拡大されます。そして、「病人に油を塗っていた」とありますが、ヤコブは、病気の人は、「教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗ってもらいなさい。(5:14)」と言いました。いやしは、教会における重要な奉仕の一つであります。

3A ヘロデ(よみがえり) 14−29
 このように、イエスの力あるわざは私たちが体験するだけでなく、私たちをとおして他の人が体験することができるのです。次は、このキリストの御力が、よみがえりという言葉でもって表されています。

1B イエスの名 14−16
 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にもはいった。

 ガリラヤ地方の王であるヘロデの耳に、イエスのことが伝わりました。このヘロデは、幼子イエスを殺そうとしたヘロデ大王の息子のひとりであり、ヘロデ・アンテパスという名前です。

 人々は、「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ。」と言っていた。

 人々は、イエスの力について議論していました。なぜ、あのような力づよい働きをしているのか。それで、バプテスマのヨハネが生き返ったのだ、と考え出しました。

 別の人々は、「彼はエリヤだ。」と言い、さらに別の人々は、「昔の預言者の中のひとりのような預言者だ。」と言っていた。

 旧約聖書では、エリヤを筆頭として、さまざまな預言者が力づよい働きをしています。

 しかし、ヘロデはうわさを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ。」と言っていた。

 ヨハネを殺したのはヘロデでした。しかし、彼は、物理的には彼を殺しましたが、心の中でヨハネはまだ生きていました。それを可能にしたのは、イエスの力ある働きです。イエスのみわざがヨハネのよがえりを信じさせ、彼の語った神のみことばがヘロデの心をつき刺していたのです。ヘロデと同じように、現代の多くの人が預言者を殺そうとしています。預言者の語った神のみことばを、無にしようと躍起になっています。そして、一見、滅ぼし尽くしたようになっています。しかし、実に、人々の中でみことばは生き続けているのです。

2B ヨハネの死 17−29
 次に、パブテスマのヨハネが殺された時のことが書かれています。実は、このヘロデが、自分の兄弟ピリボの妻ヘロデヤのことで、ヘロデはこの女を妻としていた。人をやってヨハネを捕え、牢につないだのであった。これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものにしていることは不法です。」と言い張ったからである。

 ピリポは、アンテパスにとって腹違いの兄弟でした。その兄弟の妻がヘロデヤでしたが、ヘロデヤは、ローマにいたピリボのところに訪れたアンテパスに付いて行って、ガリラヤに来ました。そして、アンテパスはヘロデヤを妻にしたのです。

 ところが、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。

 ヘロデヤは、かなりの悪女のようですね。ヨハネは、とても興味深い人物です。彼は、イエスから「来るべきエリヤ」と呼ばれましたが、エリヤと同じような身なりをして、エリヤと同じように、王をも恐れずその罪をあばきました。そして、王女イザベルがエリヤを憎んだように、ここでは王女ヘロデヤがヨハネを憎んでいます。

 それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。

 ヘロデは、二心をもった典型的な人物です。ヘロデヤとの不道徳な関係を持っていたいという情熱と、ヨハネの純潔さのどちらも慕っていました。彼は、ヨハネを殺そうするヘロデヤの手から彼を守るために、彼を幽閉するという妥協案を考え出して、実行したのです。しかし、みことばに妥協は存在しません。妥協は必ず敗北に終わります。

 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデがその誕生日に、重臣や、千人隊長や、ガリラヤのおもだった人などを招いて、祝宴を設けたとき、ヘロデヤの娘がはいって来て、踊りを踊ったので、ヘロデも列席の人々も喜んだ。

 この娘の踊りは、とても卑猥なものであったそうです。それを国や地方の役人がいっしょになって見ていました。昔も今も変わりません。

 そこで王は、この少女に、「何でもほしい物を言いなさい。与えよう。」と言った。また、「おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。」と言って、誓った。」

 酔いしれた時の大盤振まいです。

 そこで少女は出て行って、「何を願いましょうか。」とその母親に言った。すると母親は、「バプテスマのヨハネの首。」と言った。そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。「バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」

 母親あっての娘です。幼いがゆえに、ものすごく残虐になっています。

 王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで王は、すぐに護衛兵をやって、ヨハネの首を持って来るように命令した。護衛兵は行って、牢でヨハネの首をはね、その首を盆に乗せて持って来て少女に渡した。少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちは、このことを聞いたので、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めたのであった。

 こうして、ヨハネは殺されました。彼の殺される様子が、福音書ではこのように詳しく記されています。それは、彼がイエスの先駆者だったからです。イエスが宣教を開始される前に、ヨハネが開始しました。同じように、イエスが十字架で死なれる前にヨハネが殺されるのです。

4A 弟子(堅い心)30−52
 こうして、ヘロデがヨハネを殺したけれども、よみがえったと信じさせたのがイエスの力あるみわざでした。人々が神のみことばをつぶしにかかっても、必ずよみがえらせるのがイエスの働きです。それでは、次に、イエスの力あるわざを弟子たちが見ていく記事を読んでいきます。

1B 5千人の給食 30−44
 さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。

 先ほど通わされた12弟子は、今、戻ってきました。

 そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。

 イエスも弟子たちも、宣教の働きによって疲れをおばえ始めています。それで、休みたいと思い始めています。

 そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。

 ガリラヤ湖にある舟は陸からも見ることができました。そこで、使徒たちが乗っている舟を見ながら、彼らは使徒たちが到着する場所まで来てしまいました。けれども、イエスの次の対応を見てください。

 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。

 イエスは疲れているから、「もう疲れているから、近づいてこないでください。」と言うことはできました。しかし、彼らを深くあわれみ、いろいろと教えられたのです。そして、「教える」ことが「羊飼いのいない羊」と関係して語られています。教えを聞くことは、導き手である羊飼いを持つことです。導きを持つので、良い草を食べることができます。つまり霊的に健康になります。また、導きを持つので狼から守られます。つまり、偽りの教えなどから守られるのです。

 そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめい買うようにさせてください。」すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」

 ここでは、「あなたがたで」という言葉が強調されています。イエスは、この機会を用いて、弟子たちにレッスンを教えたいと思われているのです。

 そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、200デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、と言うことなのでしょうか。」

 彼らは、それが無理な話であることをすぐに悟りました。1デナリは一人の一日分の労働賃金なので、200デナリは8ヵ月分の労働賃金に値します。そんなの自分たちには持ち合わせていません、と弟子たちは言っています。

 すると、イエスは彼らに言われた。 「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは碓かめて言った。「5つです。それと魚が二匹です。」

 イエスは、弟子たちに、人間的に無理であることをさらに碓認させました。それから、ご自分で奇跡を行われます。

 イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。

 イエスは、食事を配ることができるように、彼らを整えて座らせました。

 するとイエスは、5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた、また、二匹の魚もみなに分けられた。

 イエスは、典型的なユダヤ人の食前の祝福をされた後、奇跡を行われました。ここの「与える」という動詞は、「与えられていた」という継続を表しているので、イエスの手の中でパンと魚が増えたことが考えられます。この魚は、もちろん稚魚ではなく成人の魚のはずです。したがって、イエスは創主にしかできないみわざを行われました。成人のアダムを造られ、成長した動物を一瞬にして創造された方が、今、魚を創造されているのです。そのみわざを弟子たちは見ていました。

 人々はみな、食べて満腹した。

 彼らのお腹がパンパンになるまで、パンと魚は増えました。

 そして、パン切れを12のかごにいっぱい収り集め、魚の残りも取り集めた。

 残りは、最初の5つよりも多くなっています。

 パンを食べたのは、男が5千人であった。

 男が5千人ですから、女と子どもを合わせたら1万人ぐらいいたのではないでしょうか。このように、マルコは、この出来事を詳細に描くことによって、この奇跡が本当に奇跡であることを示しています。しかし、ここには「驚いた。」といういつもの反応が記されていません。弟子たちは、この奇蹟から奇跡として悟っていなかったのです。

2B 水上歩行 45−52
 それで、イエスはまだ別の奇蹟を行われます。それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。

 
ここで群衆は、イエスをメシヤに担ぎあげようと強いたことを使徒ヨハネは記しています。それで、イエスは群衆を解散させておられます。

 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。

 イエスは、休息を得るために祈られました。祈りは、私たちがよく考えるような労働ではありませんね。祈りによって、神と交わり、気持ちがすっきりし新たな力を得るのです。

 夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。

 マルコは、これから起こる事が奇蹟であるのをはっきりと示すために、再び詳しく描き始めています。舟は湖の真中にあって、イエスは陸地におられました。

 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の3時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。

 月が出ている時は、ガリラヤ湖に浮かんでいる舟は、陸からはっきりと見ることができました。そして、よく山からの風が吹いてきます。弟子たちはイエスの命令にしたがったのに、大変な状況に見舞われました。先ほどと同じように、イエスは彼らに、レッスンを与えようとされています。

 しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。

 彼らは、こともあろうにイエスを幽霊と見ました。面白いですね。ナザレの町の人々はイエスを大工と見ました。ヘロデはヨハネの生き返りと見ました。ここでは、弟子たちが幽霊と見ています。

 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。 彼らは、ようやくここで驚いています。というのは、彼らはまだパンのところから悟ることがなく、その心は堅く閉じていたからである。

 弟子たちは、イエスのみわざを間近で見る特権がありました。それなのに、それらを奇跡と認める事なく、この方が幽霊かのように誤解したのです。これは、キリストの弟子ならば、しばしば起こる問題であります。奇跡を当たり前の出来事のように受け止めて、あるときは、イエスをキリスト以外のものとして捉えて恐れてしまうのです。私たちは、弟子たちと同じように自分には何もできない状況に置かれたことはありませんか。そこから抜け出たとき、「ラッキー」と思うだけで、それを奇蹄だと思わないことはないでしょうか。また、困難な状況にいるときに、聖書的な助けを怖がってしまいませんか。弟子たちは、主の恵みにいるがゆえに、恵みに鈍くなってしまいがちです。

5A 群衆(さわる) 53−56
 こうして、イエスの力あるみわざが、堅い心によって当たり前のようになってしまいました。次に、力あるみわざがイエスに触れることによって起こることが記されています。

 彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ。そして、彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついて、そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に乗せて運んで来た。

 多くの人が、いやしを求めてイエスのところに来ています。

 イエスがはいって行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせて、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。

 彼らは何とかしてイエスにさわろうとしています。その時に、いやされました。同じように、私たちの間におられるイエスの御力を体験するには、私たちがさわることが必要です、自分の必要をイエスに持ち出し、そしてそれを取り扱っていただくことが必要です。「私は、こんな大変なところにいるけれど、しょうがない。」と思っていたら、決してこの力に触れることはないのです。大胆に近づいてください、そうすれは、主が近づいてくださいます。こうして、イエスの力あるみわざについて見てきました。そのみわざが、ナザレでは不信仰、使徒たちにおいては権威、ヘロデにおいてはよみがえり、弟子たちにおいては堅い心、そして群衆たちにおいては触るという行為に関連して語られていました。私たちも、この御力を体験したいものです。そのときに、ここに出てくる人たちの話を思い出してください。自分の経験や考えによって物事や人々を見るなら、その力は経験できません。逆に、キリストの権威を意識するときに、みわざが私たちのまわりで行われます。その力あるわざは、たとえ多くの反対にあってもよみがえります。けれども、奇跡があるのに当たり前のように受け止めるようなことのないようにしましょう。そして、大胆に主に近づいてください。そうすれば主が近づいてくださいます。


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