マルコによる福音書7章 人を汚すもの



アウトライン

1A パリサイ人、律法学者 1−23
   1B 言い伝え 1−13
   2B 内側から出るもの 14−23
2A 異邦人 24−37
   1B 汚れた霊 24−30
   2B 聾唖 31−37

本文

 マルコの福音書7章を開いてください。ここでの主題は、「人を汚すもの」です。さっそく、本文を読んでいきましょう。

1A パリサイ人、律法学者 1−23
 さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。

 パリサイ人と律法学者が、イエスのところに集まっています。イエスがガリラヤ湖周辺を中心に宣教を行われていたとき、彼らはイエスに反対し、イエスを殺す計画まで立てました。そこで、イエスは、彼らのもとを去って他の地域で宣教を行ない、その働きが大きく進展しました。前回学んだところでは、イエスは、ご自分の故郷ナザレに行かれて、ご自分の働きが受け入れられないのを知ると、そこを去って、近くの地域で福音を言い広められました。その結果、再び宣教が進展したのです。このように、イエスが福音を知らせると、人々から反対が起こり、それで他の地域で言い広めると大きく進展するというパターンがくり返されています。ここでは、ゲネサレという町でイエスが多くの人をいやされて福音が前進しているときに、律法学者とパリサイ人がやって来ています。彼らがエルサレムから来ているのは、興味深いです。言わば、宗教の本部からやって来たという感じです。パリサイ人や律法学者によるイエスに対抗する計画は、組織的に行われつつあります。

1B 言い伝え 1−13
 イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰って来たときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。−パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」

 
彼らが、イエスの弟子たちが汚れた手でパンを食べているのを問題視しています。その汚れた手とは、弟子たちが手を洗わなかったからです。当時人々は、素手で食事をしていました。普通は、私たちが聖餐式で食べる、あのパンのような平たいパンがあって、それを汁などに浸して食べました。そして、肉は手でちぎって食べていました。そのため、手は油だらけになるのですが、そのパンが手ふきの代わりになり、彼らは最後に一ちぎりのパンを残してそれで手を拭きました。そんな感じだったので、手を水で洗わないというのは、今よりも手を汚(よご)すわけです。でも、彼らの問題にしていることはそのことではありません。同じ漢字でも汚(けが)す、と汚(よご)すは違いますね。彼らにとって、手を洗わないことは、宗教的に、道徳的にけがれていました。弟子たちは非を犯している、神に逆らっていると考えたのです。

 マルコ自身が3節と4節で、読者のためにパリサイ人とユダヤ人が行なっていたことを説明しています。パリサイ人やユダヤ人は、自分を水で洗うことにさまざまな規定を持っていました。食事をするときは必ず手を洗うのですが、それは、手がさまざまな汚れている物に触れているかもしれないからです。

 彼らは、異邦人については特に細心の注意を払いました。もしかしたら、自分は異邦人がさわったものに今日さわったかもしれない。その手で食物を自分の体内に入れたら、その異邦人と自分はいっしょになってしまう、と考えたのです。また、市場に行ったら、そうした機会がいちだんと増えます。それで、手だけではなく、からだ全体を洗いました。そのほか、食器についてもいろいろな規定がありました。このように、彼らは異邦人を汚れた者とみなし、自分の体内にどのような物を入れるのか、ということを殊のほか大切に考えたのです。

 そして、彼らがたよっていたのは、「昔の人たちの言い伝え」でした。言い伝えは、文字通り、ある人から他の人へ言い伝えられたしきたりです。たいてい、最初にそれを言い始めた人は、ある事情があって一つのきまりをつくります。しかし、時がたって、その事情が変わっているのにもかかわらず、過去に行われていたという理由で、それが守られていきます。それがしきたり、あるいは言い伝えであり、私たちの生活を強く支配するものです。

 こうして、パリサイ人と律法学者は、弟子たちが汚れた手でパンを食べていることを咎めましたが、イエスはそれに応えられます。
イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」

 イエスは、彼らが言い伝えによって、神の戒めをないがしろにしていることを指摘されました。言い伝えを堅く守っている結果、彼らの心は神から遠く離れて、神を敬っても口先だけのものになりました。ですから、彼らのささげる礼拝は、神にとっては意味のないものでした。ここで、口先と心が対照になっていて、さらに、神の戒めと言い伝えが対照になっていることに注目してください。ここから、神の戒めは私たちの心に関わるものであり、人の言い伝えは私たちの口に関わることであることがわかります。

 戒め、とか、おきてという言葉を聞くとき、私たちは一つの規則のように捉えてしまいます。法律を守るように、それはとにかく守らなければいけないもの、守らないと罰を受けるものであると考えます。しかし、それは間違いです。戒めといっても神の戒めなら、それは、私たちの心に関するものです。言い換えれば、それは、私たちが生きておられる神と人格的な交わりを可能にするための手段なのです。私たちが人と会話をするときに、それは言葉だけの会話ではなく、その背後にある考えや、気持ち、その人の意思などを意識して会話します。そして、知り合いになり、友だちになれるわけです。同じように、神の戒めを私たちが聞くときに、私たちはこの生きている神がどのような方であるかを、親しみをもって深く知っていくのです。それとは対照的に、人の言い伝えは、人格のない無味乾燥したものです。とにかく守ればよい、という類いのものです。そこには私たちの心、あるいは人格が入ってきません。だから、神を礼拝していると言っても、むだなことになってしまいます。

 私たちはどうでしょうか。賛美の歌を先ほど歌いましたが、神をほめ讃えていたでしょうか。聖書をこのように読んでいますが、神の御声を聞いているでしょうか。祈りますが、神に語りかけているでしょうか。私たちは人に対してはほめたり、その人の言うことを聞いたり、また語ったりしますが、同じように、神を生きた人格のある方として捉えているでしょうか。しかし、神の戒めは、私たちの心を神ご自身に近づけます。こうして、パリサイ人・律法学者は、言い伝えによって、神の戒めをないがしろにしました。

 また言われた。「あなたがたは、自分の言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。」

 ここでの「ないがしろ」にするとは、拒否するという意味です。つまり、彼らは、言い伝えによって、神の戒めをないがしろにしただけではなく、神の戒めに違反するようなことをしていたのです。その例を、イエスは次に持ち出されます。

 「モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また 『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。」

 イエスは、モーセの律法から、父や母を扶養する義務について話されています。当時は、福祉制度も何もないですから、子どもが年をとった親を世話しなかったら、親はのたれ死ぬしかありません。ですから、扶養をすることは父と母を敬うことであり、扶養をしなかったら、父母をののしることになります。しかし、彼らの言い伝えの中には、自分の持っている物は神へのささげ物にすれば、父母に支払うお金がなくてもいい、というものがありました。今風に言えば、「私の銀行口座をすべて神にささげました。」と言って、扶養義務を放棄しているようなものです。ですから、言い伝えを守ることによって、結果的に神の戒めを破っています。

 「こうしてあなたがたは」イエスは、結論を述べられます。「自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のみことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」

 彼らは、人の言い伝えによって、神のみことばを空文にさせました。空文にするとは、無効にする、効力を発揮させなくすることです。つまり、神の言われることに人の言い伝えを差し挟むと、神の言われていることが効力を失います。例えば、ここに出てきた「あなたの父と母を敬え」という神の戒めを取って考えてみましょう。

 結婚するときに、また、結婚したときに、多くの日本人のクリスチャンはこの言葉で悩みます。自分の父母や、義理の父母を敬わなければならないのに、彼らの願いを十分にかなえて上げることができていないと考えるのです。そのために、結婚を断念したり、あるいは結婚しても夫婦仲が悪くなったりします。それでは、父母を敬わなければならない、と言った神に、何かおかしいことがあるのでしょうか。いいえ、日本の家の制度を神の戒めにくっつけている私たちが間違っているのです。神は言われました。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記2:24)」妻と結び合うために、父母を離れなければなりません。けれども、日本の家の制度は、夫はその父母に結ばれたままで、嫁はその父母にも仕えなければならないという、非聖書的なものです。このように、神の戒めにいったん人の言い伝えを取り入れてしまうと、神の戒めそのものを破ってしまう結果になります。ですから、私たちは神の言われることだけ聞いて、そこに人の言っていることを差し挟んではならないのです。

2B 内側から出るもの 14−23
 そこで、次の話に続きます。イエスは再び群衆を呼び寄せて言った。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出てくるものが、人を汚すものなのです。」

 イエスは、再び人を汚すものの話に戻られています。そして、新改訳聖書の下の欄にある、15節の説明のところを見てください。16節には、「聞く耳のある者は聞きなさい。」とあります。イエスは、聞きなさい、悟る者になりなさい、と言われました。私たちは、ある人の行動を見ると、その人が何を聞いているのかがわかります。聞きていることが、行ないに現れるからです。パリサイ人と律法学者は、昔の人の言うことを聞いていたために、神の戒めを台無しにしていました。ですから、パウロは、「よく聞いてください」と勧めています(ガラテヤ5:2)。「信仰は、聞くことからはじまり、聞くことは、キリストについてのみことばによります。(ローマ10:17)」そして、「私たちがこの世に生きているのは・・・みことばによります(ローマ10:17)」したがって、私たちは聞くことによって生きています。キリストに従う、ということも、神の御声を聞くことであり、私たちの思いは、日々、聞くことに集中されるのです。

 イエスが群衆を離れて、家にはいられると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。」

 イエスは、弟子たちが聞く耳を持っていなかったことを責めておられます。彼らは、イエスが数々の奇蹟を行われるのを見て、イエスの教えられることを聞いて、最もイエスに接していた人々です。それなのに、まだイエスのたとえを悟ることができていません。前の章で、「というのは、彼らはまだパンのことから悟ることがなく、その心はまだ堅く閉じていたからである。」とありました。心が堅いので、聞いてはいるけど悟ることができなかったのです。

 そこでイエスは、人の心について話されます。「そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわや(トイレ)に出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。

 パリサイ人と律法学者は、食物を自分の体内に入れると、それで神から汚れた者とみなされると考えていました。しかし、イエスは、体内に入れるものはあくまでも体に関することで、それが神と私たちとの関係を決定するものではないことを話されています。良くないものを食べるのはたしかに肉体的に支障を来しますし、神はこの体を造ってくださったのですから、私たちは食べる物に注意しなければなりません。けれども、それで私たちが神の御前で汚れたり、きよくなったりしないのです。

 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 まったく、そのとおりです。人を汚すものは、心に渦巻く悪い考えであります。私は、何人かの説教者が、私たちの心は泥が底に沈んでいる水のようであると言っているのを聞きました。平常なときは、私たちは透き通った水のようにきれいに見えます。しかし、何か事が起こると、水がかき回されて、底の泥によって全体が濁ってしまいます。私たちは、戦争の話を聞いて、人は何でこんなに醜くなれるのだろうか、と思ってしまいます。また、テレビや新聞を見て、なんて酷いことをするものだろう、と考えます。しかし、全く同じような悪が実は自分の心の奥に潜んでいるのです。必要な条件がそろったら、自分も同じことをする可能性は十分にあるのです。

 それでは、この醜い心から私たちは救われないのでしょうか。いいえ。「それは、人にはできないことですが、神は、そうではありません。(マルコ10:27)」まず、神の戒め、神みことばがあります。詩編の記者は言いました。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるのでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。(119:9)」そして、キリストの流された血によって、私たちの心や良心が完全にきよめられます。ヘブル書を書いた人がこう言っています。「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(9:14)」ですから、神のみことばを見つめて、そしてキリストの十字架にすがるときに、私たちの心はきよめられます。

 
そこで次に、このキリストにすがる人が出てくる部分を読みます。

2A 異邦人 24−37
 イエスはそこを出てツロの地方へ行かれた。

 ツロとは、異邦人の住んでいる地域です。つまり、イエスは異邦人の中へ入られます。今、見てきたように、それは、ユダヤ人のしきたりによると汚れた行為でした。しかし、イエスは外側のものは人を汚さず、人から出てくるものが人を汚すことを話されたばかりです。そのことが、次から読む話に如実に現れてきます。

1B 汚れた霊 24−30
 家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることができなかった。

 イエスがなぜ、だれにも知られたくないと思われたかは、この時点で定かではありません。けれども、読み進めると、これが弟子たちを教えるためであることを知ります。

 汚れた霊につかれた小さな娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。

 ひとりの女の娘が、汚れた霊につかれています。汚れた霊が、堕落した天使であろうということを私たちは学びました。自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てて、神にさばかれるように定められている者たちです(ユダ6参照)。汚れた霊がその娘の運動神経を完全に乗っ取っていますから、この娘は、先ほどのよごれた手とは異なり、本当に内側から汚されています。

 
この女はギリシャ人で、スロ・フェニキヤの生まれてあった。

 彼女は明らかにユダヤ人ではありません。生まれも、育ちも完全に異邦人です。

 そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにと願い続けた。

 彼女は、しばらくの間、願い続けました。マタイの福音書によると、イエスは一言も話さず、弟子たちは彼女を追い払おうとしています。しかし、彼女はしつこく願い続けたのです。

 するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹させなければなりません。子どもたちのパンを収り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」

 イエスは、ユダヤ人からなる弟子たちのことを「子どもたち」と呼んでいます。そして、この異邦人の女のことを「小犬」と呼んでおられます。彼らがイエスから霊的な養いを十分に受けるのが先で、あなたはその後だ、と言われているわけです。それにしても、ずいぶんひどい言い方をされるものだと、私たちは感じてしまいます。けれども、イエスは彼女の信仰を引き出すために、このようなことを言われたのです。次を読みましょう。

 しかし、女は答えて言った。「主よ、そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」

 女は、イエスの使われたたとえを的確に把捉していました。聞く耳のある者は聞きなさい、というイエスのみことばのとおりに、聞いて悟っていました。先ほど弟子たちが、悟らないことをイエスから叱られていたのと対照的です。当時の食事は手を使って食べていたことを話しましたが、彼らは、パンの一切れを最後まで残していました。そして、汚くなった手をそのパンでふきとってそのパンを自分の家で飼っている犬に与えたのです。それで女は、犬にさえおこぼれをいただくことができるのだから、この異邦人の私にもおこぼれをいただくことはできる、と言っていたのです。彼女は、イエスの言われることをしっかりと聞いており、異邦人という外側は汚れたとされているものですが、心は神に限りなく近づいていたのです。

 そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」女が帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。

 彼女の信仰によって、イエスは、今までにない大きな奇跡を行われました。今までは手を置いて人々をいやされましたが、ここでは、遠くから、しかも、特に何も言葉で命じられることもせず、娘から悪霊を追い出されていたのです。このように、イエスは、神に近いとされていたパリサイ人や律法学者から離れ、神から遠く離れているとされていた異邦人に近づくという、逆説的なことを行われました。それは、外側ではなく、内側のものによってきよめられることを示すためでした。特に、弟子たちに示されたかったのでしょう。最初ツロに来たとき、だれにも会わないようにしていたのも、また、女を「小犬」と呼ばれたのも、ユダヤ人ならではの言動です。でも、逆にそうした行動を取られることによって、弟子たちが異邦人の間に福音が広がるのをお見せになりたかったのだと思います。

 
イエスは復活してから、このことをペテロに思い出させました。彼がうたた寝をしているときに、幻で、天から四つ足の動物のいる敷物が降りて来るのを見ました。主はそれを、ほふって食べなさいと言われましたが、ペテロは、「主よ。私は汚れた物を食べません。」と言いました。主は、「神がきよめた物をきよくない、と言ってはならない。」と言われて、その敷物は天に上げられました。その後に、彼は、異邦人コルネリオの家に入り、そこでみことばを宣べ伝えて、その家にいる人々が聖霊のパブテスマを受けたのです。このことから、ペテロは、異邦人にも福音が宣べ伝えられることを発見しました。そして、こう言っています。「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。(使徒10:25)」つまり、心の問題です。外見ではなく、心が神につながっているときに、私たちは神に受け入れらた者となります。

2B 聾唖 31−37
 イエスはさらに、もう一つの奇跡を見せられます。それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリスのあたりのガリラヤ湖に来られた。

 このデカポリスも異邦人の住んでいる場所です。人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。

 この人は、身体に二重の障害を持っています。

 そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に、「エバタ。」すなわち、「開け。」と言われた。

 イエスは、ずいぶん変なことをされるものだなあ、と私たちは思ってしまいます。けれども、まず最初に、イエスが彼を群衆から連れ出していることに気づいてください。イエスはこの人と一対一の会話をされているのです。耳が聞こえないのですから、手話やジェスチャーでなければ通じません。しかし、イエスは、彼が理解できるような素振りをしました。そして、彼がイエスを信じている、その信仰が引き出させるようなしぐさをしたのだろうと思われます。

 すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。

 彼の信仰が彼をいやしました。とても不思議ですね。弟子たちや群衆は、聞く耳を持っているのに、イエスの言われていることを悟りませんでした。しかし、この人は、聞く耳を持っていなかったのに、イエスの言われたことを悟りました。また、パリサイ人、律法学者は話せる口を持っていましたが、イエスを悪く言う言葉しか出てきませんでした。しかし、この人は話す口を持っていなかったのに、イエスとしっかり意思疎通を取っていたのです。外側では障害を持っていましたが、内側では神に近づいていたのです。

 イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。

 彼らを責めることはできませんね。私たちも、こんな大きな奇跡を見たら言いふらしてしまいます。

 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさることは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようにし、おしを話せるようにしてくださった。」

 彼らのイエスに対する評価を見てください。まず、「この方のなさることは、みなすばらしい。」というものです。彼らは異邦人ですから、イエスがキリストであるとか、メシヤであるとかの認識はなかったでしょう。でも、そうした知識を持たない人が、客観的にイエスを見て、この方のなさることはみなすばらしい、と言ったのです。そして、「つんぼ」と「おし」というふうに、耳の聞こえない人と、口の利けない人を分けて言っています。一つの障害が直るだけでもすごいのに、この方は二重の障害を一度に直された、と言って、非常に驚いているのです。イエスのなされる奇跡が、このようにスケールが大きくなっています。弟子たちの心はまだ堅く閉じていましたが、この一連の奇跡を見て、ようやく、イエスが神の子キリストであり、天と地を創造された神ご自身であることをはっきりと認めるようになります。それは、次の章にありますので、来週学びます。

 こうして、私たちは、ユダヤ人と異邦人という対照的なグループを見てきました。外側はきれい、だとされているユダヤ人は、実は神から遠く離れていた。また、みことばを聞く耳を持っていなかった。そして、外側が汚れているとされた異邦人が、イエスに近づいている。また、障害を持っていてもイエスの言われること悟りました。ですから、大事なのは心です。心といっても、私たちの気持ちや気分のことを言っているのではありません。

 聖書では、知性や感情や意思を含めて、全人格の根底にあるものを意味します。その心をもって神の戒めを私たちが聞くときに、私たちの心がきよめられて神との交わりを持つことができます。そして、人の言い伝えを聞いたり、外見のみを大切にするときに、私たちの心は神から遠く離れていきます。人を汚すのは手によらず、神から離れた心によるのです。


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