マルコによる福音書8章 イエスについて来る


アウトライン

1A 神の子キリスト 1−26
  1B 群衆 1−10
  2B 弟子 11−21
    1C パン種 11−13
    2C 悟らない心 14−21
  3B 盲人 22-26
2A 人の子キリスト 27−38
  1B 告白 27−33
    1C 弟子 27−30
    2C イエスご自身 31−33
  2B 思い 34−38

本文


 マルコの福音書8章を開いてください。ここでのテーマは、「イエスについて来る」です。私たちは、前回イエスが女の娘から悪霊を追い出して、また耳が聞こえず口の聞けない人をいやされた場面を読みました。悪霊の追い出しの出来事では、イエスは、はるか遠くから、何も命じられることもなく、女の子から悪霊を追い出されました。また、いやしの出来事では、耳と口という二重の障害を一度にいやされました。このように、イエスのなさるみわざは、ますます大きいものになっていました。そこで、今日学ぶところに入ります。

1A 神の子キリスト 1−26
1B 群衆 1−10
 そのころ、また大ぜいの人の群れが集まっていたが、食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はもう3日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。」

 イエスは、これからこの前と同じような、群衆に食べ物を与える奇蹟を行われます。最初に行われた奇蹟と比べながら読むと面白いのですが、それとここで起こる奇蹟はその手順までほとんど同じです。けれども違うところは、前回は、弟子たちがイエスに話しかけたのに対し、ここでは、イエスが弟子たちに話しかけておられることです。今回は、ご自分から率先して奇蹟のわざを行われようとしています。イエスは、「かわいそうに」と言われました。イエスは、つねに人々の必要に敏感な方です。そして、「3日間もわたしといっしょにい」るとありますが、群衆は、イエスのみわざを見たり、またイエスの教えを聞くためにいっしょにいました。それが次々と行われていたので、人々は、それに見入って、実際に3日間も物を食べることをさえ忘れていたようです。

 「空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」

 前回の奇蹟も、へんぴな所における出来事でした。また、弟子たちが群衆に食べさせるような多くのパンを持っていないことも、同じような発言です。

 すると、イエスは尋ねられた。「パンはどれくらいありますか。」弟子たちは、「7つです。」と答えた。

 この前の奇蹟では、5つのパンでした。

 すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから7つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、

 前回の奇蹟では、イエスは祝福をされました。食べ物は、神からの祝福であり、私たちは感謝をもって受け取ります。

 人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。

 前回も、イエスは弟子たちに与えて、弟子たちに配らせました。この奇蹟の出来事を、弟子たちが見るだけでなく、深く関わりを持つようにされています。

 人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを7つのかごに取り集めた。

 前回の奇蹟では、12のかごに入っていました。

 人々はおよそ4千人であった。

 前回は、5千人でしたね。このように、数の違いこそあれ、ほとんど同じ奇蹟が行われています。

 それからイエスは、彼らを解散させられた。そしてすぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方へ行かれた。

 群衆が満腹になった後、イエスはすぐに彼らと離れました。その理由がヨハネの福音書に書かれていますが、イエスはこう言われています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。(6:26)」群衆は、イエスを捜していたのですが、捜している動機が変わってしまいました。人々がいやされるというような自分たちの必要ではなくて、もっと何かを得たい、というような貪欲に変わったのです。それで、イエスは群衆から離れられました。そして、ダルマヌタ地方とは、ガリラヤ湖の西側の岸に当たります。今までは、デカポリス地方のあたりの岸にいましたが、それは東側の岸辺です。

2B 弟子 11−21
1C パン種 11−13
 パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。

 ガリラヤ湖の東側に来たら、パリサイ人たちがいました。彼らは「天からのしるし」を求めました。彼らの議論によると、イエスの行われていた奇蹟は、みな地上のものです。人をいやしたり、悪霊を追い出されるのは、みな地上のことであって、天に属するものではありません。しかし、地上のものは悪魔や悪霊に属するものであり、イエスが悪魔によって奇蹟を行なっているという論理を、彼らは展開させました。彼らは、そのような議論をふっかけて、イエスが神からの者であることを証明する奇蹟のわざを求めています。私たちは、こうしたパリサイ人を見て、あまりの馬鹿馬鹿しさにあきれてしまいます。これほど多くの奇蹟のわざが行われていて、今さっき、5千人の食物を用意された奇蹟もあったばかりです。それに、聖書には、メシヤが地上において奇蹟を行われる預言が書かれています。「盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び踊る。(イザヤ25:4、5)」とイザヤは預言しました。

 イエスは心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。

 イエスは、しるしは絶対にないと断言されました。今の時代とは、パプテスマのヨハネが来て神のことばを話したときから、紀元70年にエルサレムが滅びるまでの時代です。その時代には、彼らの求めていたようなしるしは絶対にありません。イエスは、ご自分が行われていた奇蹟と、彼らの求めたしるしとを分けておられます。イエスは、十字架の上においても、「たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。(マルコ15:32)」というユダヤ人の要求にも答えられませんでしたが、それもここでのしるしと同じ類いのものです。それでは、このしるしとイエスが行われていた奇蹟には、どのような違いがあるのでしょうか。

 イエスは、人々が信仰を持つように奇蹟を行われたからです。多くの人がいやされ、悪霊が追い出されましたが、それは彼らがイエスに信仰を持つようになるためでした。信仰というかぎり、それは、信頼関係です。自ら進んでイエスに近づき、イエスに信頼を置くことです。イエスは、人を説得して、その人の意思に反して、無理やりご自身を受け入れるようにすることはなさいません。ですから、イエスと人々との問に、信仰による人格的な関係を生み出すためでした。ところが、パリサイ人たちが求めたしるしは、信仰を生み出しません。彼らは、「しるしを行なって、俺たちを信じさせてみろ。」と要求しているのわけで、無理やり信じさせてみろと言っているのです。そのような奇蹟を行われる気は、イエスにはさらさらないのです。ただ、この時代が過ぎ去ると、しるしはあります。この章の一番最後のところで、イエスは、「人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来る」と言われましたが、そのときに、すべての者がひざをかがめて、イエスが主であると告白します。それは、信仰による告白ではなくて、さばきの御座で有罪に定められる者たちの告白です。

 イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

 イエスは、群衆だけでなく、パリサイ人からも離れておられます。その理由は、彼らの不信仰です。群衆のときは、肉の欲でイエスを求めましたが、パリサイ人は、敵対心によってイエスに近づきました。ガリラヤ湖の東側の岸辺についたばかりですが、すぐに西側へ移られています。

2C 悟らない心 14−21
 弟子たちは、パンを持ってくるのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」

 イエスは、パン種というたとえでもって、彼らに十分気をつけるように言われています。思い出してください。パン種をパン生地の中に入れると、それが全体に広がってパンをふくらませることになります。ユダヤ人は、それを罪の象徴とし、過越にはパン種を入れないパンを食べたし、パウロは、コリントの教会に入っている悪をパン種にたとえています。弟子たちにとって、パリサイ人とヘロデの不信仰がパン種でした。イエスはこれまで、弟子たちに、数多くの奇蹟のわざをお見せになり、数多くの教えを教えられました。

 群衆にも、この奇蹟と教えを与えられたのですが、弟子たちには特別です。ある時は、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、またある時は、群衆に話されたたとえの意味を教えられました。それらによって、彼らは、少しずつですが、イエスがどのような方なのかを理解し始めました。そこに、先ほどのようにパリサイ人のようなものたちが入ってくると、弟子たちの弱い信仰は、滅ばされてしまいます。そこで、イエスは、彼らを守るために、「十分気をつけなさい。」と言われたのです。

 そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始められた。

 彼らは、イエスの言われているたとえがわからずに、パンを持っていないことだと自分勝手に決めつけてしまいました。

 それに気づいてイエスは言われた。「なぜパンがないといって議論しているのですか。」

 イエスは、弟子たちをきびしく叱られます。それは、たとえがわからなかったというよりも、彼らがパンがないことで議論していたからです。イエスが手塩をかけて弟子たちを教え、奇蹟を見せておられるのに、彼らはまだわからなかったのです。

 「まだわからないのですか。悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。」

 イエスは、続け様に、反語的な質問をされています。その初めの、「わからないのですか。」という言葉は、認知するという意味です。漠然と見ていたり、漠然と聞くのではなく、見ているもの、聞いているものが自分の意識の中に入ってくることを言います。次の、「悟らないのですか。」は、その意識の中に入ったいくつかの事柄が、一つの意味をもって入っていることを言います。弟子たちは、わずかなパンが大勢の人が食べるほど増えることになったと認知することができ、物が増えているのなら、イエスが創造の働きができる方であること意味をつかむことができます。なのに、彼らは、わかることも、悟ることもできなかったのです。その理由は、彼らが「心が堅く閉じてい」たからです。イエスに対して、完全に心が開かれていないのです。霊的な事柄については受動的でいたのです。でも、イエスは無理やり人を悟らせることはできません。その人が自分で選択して心を開かないのであれば、だれも、イエスでさえも悟らせることはできません。

 「目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。」

 私たちは前回、耳が聞こえないのにイエスに信仰を持った人の話を読みました。物理的に聞くことと、霊的に聞くことは、別の能力なのです。そして、霊的な耳や、霊的な目は、「覚えている」つまり、思い出すことによって養われます。弟子たちは、舟の中にパンを一つしか入れていなかったのを見て、2つのパンの奇蹟を思い出すべきでした。自分が見聞きしたことにしたがって、それを他の場面で応用させるべきでした。イエスは、前にあれだけのことをしてくださった。だから、この場面でもイエスは私たちを助けることができる、と考えるべきでした。私たちも、同じようにみことばを思い出し、それを具体的な場面に当てはめていく必要があります。

 「わたしが5千人に5つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのか ごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「12です。」「4千人に7つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」j彼らは答えた。「7つです。」イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」

 弟子たちは、パンを食べた人の人数、もともとあったパンの数、そして残ったパンのかごの数をみな知っていました。おそらく、奇蹟が行われているとき、イエスがその数を強調されていたのでしょう。そんなにきちんと覚えているのに、自分でその数を比較させることを怠っていたのです。5つのパンが、5千人に渡っただけでなく、12のかごに入るパンになった。7つのパンが、4千人に渡っただけでなく、7つのかごにはいるほどの残りが出ました。小学校1年生でも、それは人間の業ではない、奇蹟だ、とわかるのです。こんなにも明らかなことなのに、彼らは悟ることができませんでした。私たちも、聖書のことばが明らかなのに、それを悟ることのできないことが多くあります。

3B 盲人 22-26
 そこでイエスは次に、ある意味で象徴的な奇蹟を行われます。盲人の目を二段階でいやされることです。

 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れて行かれた。

 イエスは、盲人を村の外に連れていかれます。そこに弟子たちもついて行ったことと 思われます。

 そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。

 イエスは、耳の聞こえない者と同じように、この盲人が信仰を持つことができるような素振りをされました。

 すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。

 ぼんやりと見えました。そこに見える人々は、立ち会っている弟子たちだったかもしれません。

 それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。


 2回目に両手を当てられたら、はっきり見えました。イエスは、弟子たちが一回日のぼんやり見える目しか持っていないことを指摘されたかったのではないでしょうか。イエスについて、まだぼんやりしか知らない。だから、はっきりと見えることが必要だ、と言われたかったのではないでしょうか。私たちはどうでしょうか。イエスについて、はっきりとした姿を見ているでしょうか。

 そこでイエスは、彼を家に帰し、「村にはいって行かないように。」と言われた。

 イエスは意図的に、群衆からこの奇蹟を見せないようにされています。イエスは弟子たちを、パリサイ人からも離しましたが、その理由は、弟子たちと今から、とても大切な話をされるためです。

2A 人の子キリスト 27−38
1B 告白 27−33
1C 弟子 27−30
 それから、イエスが弟子たちとピリボ・カイザリヤの村々へ出かけられた。 ピリボ・カイザリヤは、ガリラヤのずっと北にある地方です。 途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしたちをだれだと言っていますか。」

 イエスは、わたしはだれであるか、という質問をされています。ここまでの奇蹟やいやしは、そんなことをされているイエスの正体は何か、という質問のためでした。イエスはまず、人々がご自分を何と言っているか聞かれています。

 彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。」これは、ヘロデの意見でした。「エリヤだと言う人もいるし、」これは、マラキ書に預言されている、終わりの時に現われるエリヤのことです。「また預言者のひとりだと言う人もいます。」

 多くの人が、イエスをこのように見ているでしょう。神からの啓示をいただいたかもしれないが、イエス自身はあくまでも人であり、良い教えを広めたとぐらいしか考えていません。人々はイエスを見てこう言っていました。しかし、弟子たちには、単なる預言者以上の何かをイエスのうちに見てきたはずです。

 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

 イエスは、弟子たち自身の告白を求めておられます。

 ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」

 あなたは、キリスト、メシヤです、とペテロが答えました。イエスは、天地を創造された神いがいのだれでもない。神のひとり子であるキリストが、あなたである。イザヤは、ひとりの子が私たちに与えられ、その名は、「力ある神、永遠の父」と呼ばれる、と預言しました。この無限大のように見える宇宙でも、現代の科学では有限であることが証明されています。聖書では、その宇宙よりもはるかに大きい天が存在し、その天に神がおられて、その神は、その天よりも大きく、無限に大きい方であることが証言されています。その神のふところにおられるひとり子が、はじめから神とともにおり、この宇宙も天もご自分で造られた神が、人となって、今、ペテロと他の弟子たちの前に現われているのです。これは、言葉で言い尽くすことのできない、ものすごいことです。ペテロは、天の御父からの啓示によって、それを悟りました。

 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた。

 このような、ある意味で恐ろしい事実は、他のだれにも漏らしてはならないものでした。

2C イエスご自身 31−33
 そしてイエスは、ようやく次のことを言うことができます。ご自分がキリストであるが、そのわたしが、次の使命のために世に来られました。それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、待法学者たちに捨てられ、殺され、3日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

 イエスはご自身を「人の子」と呼ばれていますが、これはメシヤの称号です。でも神の子やキリストという言葉よりも、はるかにインパクトの少ない言葉であります。そして、その人の子が苦しみを受け、ユダヤ人指導者に拒まれて、殺されて、そして3日後によみがえります。これは、当時の人々が想像するキリスト像とは、あまりにもかけ離れていました。また、私たちの考えからもかけ離れてはいないでしょうか。天と地を造られた主(ぬし)が、その全知全能の神が、多くの苦しみを受けて、指導者に拒まれて、殺されるなど、まず私たちの普通の頭では考えられないことです。私たちは、キリストを深く知る必要があります。私たちはとかく、自分たちのうちに縮こまって信仰生活を歩んでいますが、信仰の相手は全能の神であることを知らなければいけません。そのキリストを心に抱いたので、イエスは、みこころにかなう祈りなら、みなそれは聞かれると告げられました。しかし、そのイエスが殺されて、なぶりものにされて、死んでいくのです。ただ、その全能の力はよみがえりの中で現われますが、それでも、その前段階の十字架の姿はあまりにも惨めです。

 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとベテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

 ずっと前、私がこの文を読んだとき、あれ、これ、印刷ミスではないか、と思いました。イエスがペテロをいさめているなら、よくある光景だけれども、ここではペテロがイエスをいさめている。ペテロ、あなたは何を考えているのか、と思ってしまいますが、イエスが全能の神キリストであるという啓示を受けたのですから、そのような行動を取った理由は理解できます。

 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ベテロをしかって言われた。ペテロだけでなく、弟子たちにも向けてしかられています。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 サタン呼ばわりされたペテロは、相当ショックだったでしょう。でも、イエスはペテロをサタンと呼んだのではなくて、サタンがペテロの思いに入ってきて、イエスをいさめるようさせたのです。先ほどは神から啓示を受けたのに、今度はサタンの声を聞いています。サタンが思いに入ってきた理由は、ベテロ自身が神のことを思わなくて、人のことを思っていたからでした。そうです、神が人となること事態ものすごいことですが、そのキリストが殺されることは、もっと考えられないことです。信じられない、というのが私たちの自然な感情です。しかし、それに従ってはならないとイエスは言われています。自分の思いを神に従わせる必要があります。そのことは、キリストの十字架にとどまらず、私たちの生活全般に言えることです。

2B 思い 34−38
 そこで、次の場面にうつります。それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。

 イエスは、弟子たちだけでなく、群衆をも呼び寄せています。弟子にも群衆にも共通にあった問題を指摘されるからです。

 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

 弟子たちも群衆たちも、イエスについて来ました。しかし、イエスにつき従うためには、2つの条件があると言われています。自分を捨てることと、自分の十字架を負うことです。

 
まず「自分を捨てる」ことですが、自分を中心にした思いを捨てることです。群衆はイエスについて来るときに、自分の必要だけでなく自分の欲望も満たそうとしました。また、弟子たちは、神のことを思わず、人のことを思ってイエスをいさめました。いずれも、イエスをキリストとして、あるいは、力のある預言者として認めましたが、その力を自分の思う通りにしようと思ったわけです。私たちは、自分の生活のうちに、イエスが力強く働かれてほしいと願います。確かに、イエスは力ある働きをすることを望まれています。しかし、私たちが自分の思う通りに、自分を喜ばせるためにその力を求めるのであれば、的外れです。願いがかなえられなくて、私たちは神は生きておられるのかと疑ってしまいますが、神が生きておられないのではなく、しばしば、自分の願いが自己中心的だから、かなえられないのです。

 そして、自分を捨てることといっしょに行われることが、「自分の十字架を負う」ことです。これは、自分を、完全に神に従わせる、自分の言い分を捨てて、神の言い分で生きていくことです。ローマ帝国の十字架は、自分のすべてがローマの権力に従わせられている姿です。イエスは、神の権威にすべてを従わせるために十字架への道を進まれますが、私たちも神のみこころにすべてを従わせます。みことばを自分の権威とし、自分の気持ちや考えで、物事を考えたり行動したりしないという習慣を身に付けるのです。

 そして、この道を歩んで、はじめてキリストの力を体験することができます。その力を体験できていないと感じるとき、自分の胸に手を当てて考えてください。「それでは、私は、神のみことばに自分を従わせているか。」です。電車に乗るときに、切符を買って初めて乗ることができるように、私たちはみことばに従って、初めてキリストとその力のうちに歩むことができます。みことばに従っていないのに、クリスチャン生活が楽しくないのは、切符を買わずして電車に乗ろうとしているなものです。キリストの力は、私たちがキリストに従っているときにはじめて体験できます。そして、従うには、自分を捨てて、自分の十字架を負う必要があります。

 「いのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者はそれを救うのです。」

 この「いのち」とは、生活全般と考えてよろしいでしょう。ですから、いのちを救うとは、自分のために生活していくことです。神もキリストも持っていない人は、たとえ犠牲的な生活をしていたとしても、自分のために生きています。そういう人は、永遠のいのちを失います。その反対に、キリストと福音のために生きる人は、いのちを失います。これは、みことばのために、生活に不便が出てきたり、人間関係が悪くなったりすることです。もちろん、文字通り殉教もここには含まれます。けれども、そうしたら、永遠のいのちを持ちます。

 「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」

 イエスは、自分のために生きることと、キリストのために生きることを秤にかけておられます。全世界を得るとは、自分のために生きる人にとっては最高の状態でしょう。しかし、そのために永遠のいのちを損じるのです。また、そのいのちは、何をもってしても買い戻すことはできません。死んだらもう遅いのです。たった100年近くの幸せと、それから後の永遠の幸せのどっちが得ですか、とイエスは聞かれています。

 「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときは、そのような人のようなことを恥じます。」

 姦淫と罪の時代とは、先ほどの「今の時代」と同じです。キリストが来られているのに、それに従わず、福音が宣べ伝えられているのに、それを信じない時代のことです。そのような時代に私たちも住んでいます。その時代にとって、キリストとキリストのみことばは馬鹿らしいものです。踏んで捨ててしまいたいものです。できれば、まったく聞きたくないものです。だから、自分のために生きるなら、福音は恥ずかしいものとなります。けれども、パウロは言いました。「私は福音を恥じとは思いません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じる人すべてにとって、救いを得させる神の力です。(ローマ1:16)」この福音を恥とせずに、キリストを、しかも十字架につけられたキリストを誇り、キリストのみことばを誇るなら、私たちは御国で偉大な者となります。しかし、それを恥じるなら、キリストもそのような人たちを恥じます。

 こうして、「キリストについて来る者」と題して話させていただきました。キリストに従うには2つのことを覚えていなければなりません。キリストが全能の神であること、そして、キリストは十字架の道を歩まれたことです。私たちがキリストに従うとき、キリストの力は、自分の欲ではなくて、必要に働きます。自分の強さではなくて、自分の弱さに働きます。称賛ではなくて、屈辱のなかに働きます。主はパウロに言われました。「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。(2コリント12:9)」また、パウロはこう言いました。「私たちは・・・人に知られていないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(2コリント6:9-10)」この、全能の力と十字架の道と言った、一見、矛盾したような真理が、キリスト者のうちに働くのです。


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