マタイ131-50節 「天の御国の奥義のたとえ」

アウトライン

1A 種蒔き 1−23
   1B 四つの種類の土 1−9
   2B 悟らない心 10−17
   3B 御言葉を聞く心 18−23
2A 見分け 24−43
   1B 毒麦のたとえ 24−30
   2B 大きくなる御国 31−35
   3B 毒麦の解き明かし 36−43
3A 買い戻し 44−50

本文

 私たちは今晩、「天の御国」あるいは「神の国」についてたくさん考えたいと思います。マタイによる福音書13章を読んでいきます。

 私たちは今、富士山麓にいて、このすばらしい神様の造られた自然の中でしばしの安息を得ています。けれども私たちはここから降りれば、いつもの生活が待っています。そこには再びストレスのある生活があります。私たちはもはや、自分の周りのことだけを考えていく生活はできなくなりました。

 まず、異常気象があります。これまでにない洪水、そしてもちろん大地震があり、それが日本だけに留まらず世界中で起こっていることを知っています。日本のこと、そして世界のことを考えざるを得ません。そして自分の社会のことを考えざるを得ないでしょう。学校のいじめがあります。もはや、子供が安心して勉学に励む環境ではなくなりました。親はいつも、学校のこと、教育委員会のことなど考えて行かねばなりません。

 そして経済的な不安があります。消費税を増税する法案が国会を通過しました。2015年には消費税は10パーセントになります。自分が買い物に行く時には、その物価の一割が消費税になります。また会社の経営がかんばしくなく、中年男性の中に自殺が多くなっています。そして鬱で悩む人もいます。身近な人で、鬱で悩んでいる人がいないということが、もうほとんどいないのではないでしょうか?もはや自分の身近で起こっていることだけを考えていることができなくなりました。

 そしてもちろん、世界情勢は不安定です。イランとイスラエルの間に戦争が起こるかもしれません。そうしたら、ホムズ海峡をイランが封鎖するという事が起こるかもしれません。石油輸入ができなくなります。脱原発へ動いている日本が今、火力発電をフル稼働している中でこれはとてつもない打撃です。もはや、自分の個人的な生活と、世界や国内で起こっていることを引き離して考えることができなくなっている時代になっています。

 そうした中で多くの人が、スピリチャル系のものを求めたり、癒し系のものを求めたりして、現実逃避をしています。バーチャルな世界、あるいは自分だけの世界を求めて、他の人々との接触をなるべくなくそうとしています。これもまた危険な動きです。

 実は、こうした社会不安は今に始まったことではありません。実は新約聖書時代、今から約二千年前の中東でも起こっていました。イスラエルにはユダヤ人が住んでいました。けれども、そこはローマ帝国の支配下にありました。自分たちの王として、ローマはヘロデを任命しました。けれどもヘロデはユダヤ人ではありません。ローマは、自分たちのやりたいように住民を虐げていました。人権というものは存在しませんでした。けれども、ローマの町は実に発達していました。技術的には発達していたのですが、社会は滅茶苦茶でありました。

 けれども、ユダヤ人たちには希望がありました。彼らには、千数百年前から預言者によって神の国が到来することを約束されていました。この世界は、初めは、すべてが良く造られていました。創造主がこの天地を造られました。そしてこの世界を治めるべく、神は人を造られました。ところが悪魔が来て人の妻をだまして、人も神の言われることに反して、禁じられた木の実を食べました。そこで悪魔がこの世界を支配するようになりました。今、天災が起こったり、いろいろな不正義や不正があるのは、悪魔が自然界に働いたり、人の罪の中に働いているためです。

 けれども神は、この世界を立て直すための救い主を与える約束を下さいました。キリストを与える約束を下さいました。神はアブラハムという人によって、彼の子孫をふやして民族にすることによって、そこからキリストを出して、ご自分の国を立て直す計画を立てられていました。その民がイスラエルなのです。神はイスラエルにたくさんの預言者を与えられ、この悪くなった世界に裁きを下し、そして新たな国をキリストによって建てられることを約束してくださっていたのです。

 そうしたキリストへの待望、あるいはメシヤへの待望の雰囲気に満ちていたのが、約二千年前のイスラエルでした。人々は、イエスが多くの奇蹟や不思議を行なわれるのを見て、もしかしたらこの方がキリストではないかという期待を持ちました。けれども、どういうわけか多くの人は無頓着でした。人は不思議なもので、自分が求めているものについて、実際にそれが与えられても認めないことがよくあります。そしてユダヤ人の宗教指導者が何と、イエス様の行なわれていることを悪霊から来ている、としました。神はイスラエルの民のためのキリストを与えられたのに、肝心のイスラエルの民がこの方を拒むことを行なっていたのです。

 これが、これから読むマタイによる福音書13章の背景です。私たちには、すばらしい神のご計画がすべての人に立てられています。それは、自分の周りにある問題、自分自身の問題が、自分を造られた神によって立て直されるための計画です。けれども、イスラエルの民と同じように不思議にもその救い主を認めないのです。それがなぜかを、イエス様は「天の御国の奥義の喩え」によって話されます。

1A 種蒔き 1−23
1B 四つの種類の土 1−9
13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。13:2 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。13:4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。13:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。13:6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。13:7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。13:8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。13:9 耳のある者は聞きなさい。」

 イエス様は、ガリラヤ湖のカペナウムのペテロの家を出て、おそらく朝でしょう、湖のほとりに座っておられました。するといつものように、大勢の群衆が集まってきました。それで漁師に舟を出すように言って、それで舟に腰かけて彼らに教えました。昔のユダヤ人は、教師が座って聞く者が立っています。ガリラヤ湖はとても静かな所で、舟から語るイエスの言葉は何千人もの群衆に響き渡ったことでしょう。

 ところが、イエス様は、はっきりとした教えを垂れませんでした。単に、種蒔きのことを話されました。そしてしめくくりを「耳のある者は聞きなさい」と言われています。つまり、全ての人が理解する、悟ることを期待しておられなかったのです。聞く耳ができている人だけが聞きなさい、と言われています。

 この喩えは、イスラエルの民にとってはずいぶん身近な内容でした。種蒔きをするときに、必ずしもすべての種が実を結ばせるのではありません。必ず、良い土地ではないところに落ちる種があります。イエス様は四つの種類の土を話していますが、あぜ道に落ちた種はもちろん実をむすばず、かえって鳥の餌になってしまいます。そしてイスラエルには日本と違って、かなり乾燥した気候で、岩地が多いです。土はあるのですが非常に浅いです。そこに落ちた種は、土が浅いのでかえって早く芽を吹きますが、根が深くないので日が照ると枯れてしまいます。そして、いばら、つまり雑草のあるところに落ちた種は、確かに芽が出て育ちはしますが、いばらが絡み付いて実を結ばせるには至りません。

 けれども良い土地に落ちた種は、実を結びます。その実は一つの種に比べれば何十倍にもなります。ここが植物、いや動物の中にもある不思議です。人間も数多くの男性の精子が、たった一つだけ卵子と結び合されれば、その受精卵の何千倍もの細胞によって成り立つ人体が生み出されます。大事なのは、種がどこに落ちるのか、ということであります。

2B 悟らない心 10−17
13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。13:14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

 弟子たちは、これまでのイエス様の説教を聞いていますから、この謎々のような語り口に変わったのにすぐに気づきました。これまでイエス様は、天の御国について語っておられました。天の御国とは、ここでは死んだ後に行く天国のことではありません。神が支配する国そのものであり、今、イエス・キリストを自分の主として受け入れる者たちに与えられる、神の支配であります。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」という言葉からイエス様は、天の御国に入る道を教えられました。

 けれども、そのような直球の言葉を投げかけず、四つの種類の土に蒔いた種が落ちることについて語られたのです。弟子たちがどうしてなのか尋ねますと、イエス様は、「彼らは見ているが見ず、聞いているが聞かない。悟ることもしない。」という過去に預言者が語った言葉を引用されました。そうです、直球で語ってもそれを拒むのであれば、それを何か異なる、日常に存在する喩えによって語るしかないです。

 これは恐いことですね。私たちの心は、初めに語られた時にその良心が痛めば、その時に悔い改める必要があります。けれども、今の自分のあり方を変えたくないと思います。聞いた言葉に基づいて動くのであれば、今、自分のしていることを根本的に改めなければいけません。だから、またの機会にしよう、と思います。私が昔、ある大学生に伝道しました。彼は数年教会に来ていたそうです。彼はこう言いました。「就職してからも信仰を保つことができるかどうか分からない。就職してから、その様子を見て信じてみたい。」もう社会人の人はみな分かりますね、大学生のような時間のある時にそこまで思い煩いがあるのであれば、社会人生活をしたらもっと思い煩いが増えます。つまり、二度目聞くときには、状況が良くならずもっと悪くなるのです。自分の心が、福音の言葉を聞き、それを拒むたびに、もっと固くなっていきます。そしてついには、聞き入れることのできない堅い心に変化してしまいます。

 イエス様は、「天の御国の奥義」と言われました。これまでは天の御国を宣べ伝えていましたが、今はその奥義を語っていると言われます。この日本語訳は良くないと私は思っています。新共同訳では「秘儀」とも訳されていますが、正確には、「かつては隠されていたが、今は明らかにされた真実」と言ってよいでしょう。昔は科学者がなかなか分からなかった現象が、今の科学技術発展でその全貌が明らかにされた、というような意味です。それでイエス様は、天の御国の全貌を、喩えをもって語り始められたのです。

13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。13:17 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。

 弟子たちは、とても幸いな人たちでした。昔、旧約聖書の中にある預言がありました。そして神から啓示が与えられていました。キリストについての啓示です。神の国についての啓示です。けれども、それが本当のところどのような意味を持つのかはよく分かりませんでした。時が満ちる必要がありました。そして今、キリストご自身が彼らの前にいるのです。この方にあって、すべての預言が、ジグゾーパズルの大事な部分が埋められて全貌が見えてきたのと同じです。だからイエス様は、「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。」と言われたのです。

 そして、弟子たちの時代は今にまで至ります。イエス様は、当時の弟子だけでなく、ご自分に従い、ご自分のそばにいる者たちには、同じように、友としてご自分のことを明らかにしてくださいます。同じように、「幸いです」と呼ばれる祝福された人々になることができます。

3B 御言葉を聞く心 18−23
13:18 ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。13:19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。13:20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。13:21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。13:22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。13:23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

 イエス様は先ほどの四種類の土の喩えを解き明かされました。天の御国、あるいは神の国というのは、実は私たち人間が、神の言葉をどのように受け入れるかにすべてかかっていることが、ここから分かります。私たちの周囲にある問題は様々です。自分自身の内にある問題も山積しています。けれども、それらの問題を取り除くことが問題ではなくて、神が語られる言葉をそのまま素直に聞いて、悟ることができるかにかかっています。その心が神の言葉を受け入れてさえいれば、自分で問題を解決するのではなく、ちょうど良い土地に落ちた種が自分で成長して実を結ぶように、神がその問題を不思議な方法で解決してくださるのです。

 これはとても不思議な神の働きであり、御言葉とそれを聞く人々の心で天の御国は構成されています。ですから神を信じる者たちの集まりである教会は、何か政治活動をするのでもなく、その他の社会活動をするのでもなく、神の言葉である聖書に聞くことを第一としています。

 同じことを語っていても、それを聞き方は人それぞれです。初めのあぜ道に落ちた種は、御言葉を聞いていてもすぐに心を閉ざす人の例です。「悪い者」とは悪魔のことです。聖書の言葉を聞いても心を閉ざしているので、その言葉の記憶さえも悪魔は消し去ってしまいます。地獄には数多く、「私は、イエス・キリストについて聞かなかった。」と叫んでいる人でいっぱいでしょう。けれども、実際は聞いていたのです。それでも心を閉ざしていたから、その記憶さえも消されています。

 そして二つ目の土は岩地でしたが、それが「すぐに喜んで受け入れる人」であります。この人は表面的に受け入れています。感情的に受け入れています。あるいは知性面だけで受け入れています。生活や人生の中心に神の言葉を据えていません。ですから、受け入れている、信じているように見えるのですが、何か困難や不都合なことが起こると、「こんなはずではなかった」と言って、信仰を捨ててしまうのです。

 イエス様は天の御国について、「わたしのために迫害される者は幸いです。」と言われました。キリスト教は迫害から始まりました。この言葉を聞いていた弟子たちは、イエス様が復活された後に力強い証人となり、一人ヨハネを除いてみなが殉教しました。今現在でも世界中のクリスチャンの多くが迫害を受けています。日本においても、イエス様を信じたことで家族や親戚から引き離された人もいます。イエス様を信じたことで、会社での昇進を逃した人もいるかもしれません。イエス様を信じたことで、夫から離婚を迫られた人も知っています。

 けれども試練や困難というのは、私たちの真実を表す鏡になっています。困難によって初めて私たちは、自分が生きていることについての本当の意味を見出すことができます。一度も挫折したことのない人が周りにいたら、その人とは付き合いづらいですね。それは人格が練られていないからです。人格が練られるのは、困難を通してであり、困難は神からの賜物なのです。信仰者にとって、試練は成熟に向かわせる貴重な機会になっています。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。(ヤコブ1:2-4

 そして三つ目の土は、「思い煩いのある人」の心です。私は個人的には、この範疇に入る人がかなり多いのではないかと思います。イエス様は、こう弟子たちに語られました。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:31-33

 イエス様は、空の鳥と野の花の例えを使われました。空の鳥は種蒔きも、刈り入れもしていないのに、養われています。野の花は、あんなに美しいですが、世界で栄華を極めたソロモン王よりも美しく着飾っています。ではなおさらのこと、ご自分のかたちに造られた人をどうして神が養わないはずがあろうか、ということです。けれども、「もし神の言葉を受け入れたら、これこれのことはどうなるのか?」という恐れが出てきます。一度、信じたように振る舞ってみたものの、心と魂をすべてイエス様に明け渡したわけではありません。そういう人は、生活に信じたことによる変化を見ることがなくずっと日々を送ってしまうことになります。神の言葉で、「こうしなさい」と命じられているにも関わらず、自分の心の内側で「いや、これだけは譲れません。」という牙城を造っています。

 けれども、人はもっとまっすぐに造られています。単純に造られています。神にまったく依存するように造られています。「でも、自分でも努力しなければいけないのではないか?」と聞かれるかもしれません。はい、努力しますが、それはちょうど子供が父の言うことを聞くようなものです。子供が、まるで父になったかのように、自分で養うと言ったらどうなるでしょうか?これは実に滑稽ですが、「私は努力をするので、素直に神の言うことを聞けません。」というのは、子供のくせに父のなりふりをしているのと同じです。思い煩いを捨てましょう。

 そして四つ目は良い土地ですが、御言葉を聞いてそのまま理解したとおりに受け入れることです。その回心は劇的ではないかもしれません。その瞬間は、感情が伴っていないかもしれません。その人の生活は、初めは変化が見えないかもしれません。けれどもそれはちょうど芽を出して、成長しているのと同じです。確実に、自分ではない力で、つまり神ご自身が自分の内に働いてくださり、成長させてくださるのです。

2A 見分け 24−43
 以上が天の御国に入るための入口ですが、続けてイエス様は興味深い喩えを語られます。

1B 毒麦のたとえ 24−30
13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。13:26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。13:27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』13:28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』13:29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

 この喩えは、すでに良い地に種が落ちた人たちの間で起こることです。イエス様は後で弟子たちのこの喩えの解き明かしをされますが、敵というのは悪魔のことです。そして、良い小麦は御国の子であり、悪い小麦は悪い者の子どもたちだと言います。そして収穫はこの世の終わりであり、悪い者の子らは火で焼かれる、つまり地獄に行き、御国の子らは神の国において太陽のように輝く、と言われました。

 これは、神の御言葉を受け入れたとされる人々の中に、偽物も混じっていることを表す世界です。目で見える形では神の国に属しているように見えて、実は属していない人たちがいるということです。実を結ばせていないのであればすぐに見分けが付きますが、実を結ばせているかのように見えるのです。それを悪魔がさせる、と言っています。

 これは、具体的にはキリスト教の世界だと言っても良いかもしれません。多くの人がキリスト教について質問します。「キリスト教の名の下で、多くの殺戮が行なわれてきたではないか。宗教戦争もあったし。」その通りなのです。キリストの名を使って行なわれた流血に世界はまみれています。それらは、目で見える形ではキリスト教を名乗っていますが、実際は毒麦であって、神の審判の時には火で焼かれてしまうものであるということです。・・・キリスト教の本質は宗教ではありません。キリスト教の本質は、あくまでもイエス・キリストを知ることです。この方を知って、自分を造られた神と人格的な関係を持つことです。それから離れている教えはすべて偽物です。

 私たちはイエス・キリストを自分の救い主として主として信じて受け入れた後、私たちに与えられている命令は、「見分ける」ことであります。ヨハネは、グノーシスという異端と戦っていましたが、自分たちの教会にいる者たちの中で、キリストが肉体を持って来られたことを否定し、教会から離れた者たちがいました。そこでこう言っています。「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。(1ヨハネ4:1-3」事実、教会という舞台の中で悪魔の働きが活発になっています。私たちには、すべてをうのみにして信じるのではなく、試す、あるいは吟味することが命じられています。

 けれども大事なことがあります。こ主人が毒麦の刈り取りを、収穫の時までやめさせたところです。その理由は、「麦もいっしょに抜き取るかもしれない」ということです。ヨハネ316節には、「御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」とあります。毒麦があるからといって、いっしょに滅びる人がいてはならない、ということです。

 イエス様には「明らかにされるまで、待っている。」という忍耐の働きがあります。収穫まで時間を待たねばならないように、早まった判断を下さず、じっくりと実が結ばれるまで待つことを行なわれます。実は、イエス様の中の十二弟子でも悪魔の子がいました。イスカリオテのユダです。彼はイエス様を裏切り、ユダヤ人の宗教指導者に売り渡しました。彼がご自分を裏切ることを初めから分かっておられたのに、なぜイエス様は彼を追放しなかったのでしょうか?「明らかにされるまで待つ」という忍耐を働かせておられたからです。だから私たちは何が良いことで正しいかを吟味するのですが、同時に主が戻って来られるまで早まった判断をしてはいけない、ということです。

 教会には、完璧はありません。すべてが良い麦ではないのです。必ず欠点があります。集まっている人間に欠点があるからです。けれども、その欠点を敢えて用いられて神は、「キリストがあなたがたを愛されたように、互いに愛し合いなさい。」と命じられています。私が聞いて思いっきり笑ってしまうのは、「教会は偽善者たちの集まりだ。」という言葉です。自分のことを差し置いて、その中に欠点を見つけると偽善者だということです。私がおすすめするのは、「完璧な教会を見つけたら、そこに行かないでください。あなたが行くことによって、その教会は完ぺきではなくなります。」であります!

 人に弱さがあるから、私たちは人を愛せるのです。欠点のない人がいたら、その人を愛したからといって、どうしてその愛の真価が分かるのでしょうか?愛されるに値しない人を愛するから報いがあるとイエス様は言われました。互いに愛し合い、互いに仕え合い、互いに訓戒し、互いに励まし、互いに祈り、互いに罪を告白し・・・という言葉が教会に対して与えられています。それは欠陥があるからこそ成り立つ神の命令です。

2B 大きくなる御国 31−35
13:31 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」13:33 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」13:34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。13:35 それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」

 イエス様は毒麦も蒔かれている畑のことを語られて、そして「からし種」と「パン種」の喩えを話しておられます。どちらも、小さなところから非常に大きくなるというのが特徴です。キリスト教の世界の話をイエス様は続けてしておられます。からし種についてですが、その大きな木に空の鳥が巣を作るほどになるとあります。先ほどの四種類の土の喩えで、鳥は悪魔のことを表していました。そして、このような大きな木については、後に悪に満ちた世界を象徴するバビロンに対して、ネブカデネザル王にダニエルがその夢を解き明かした時に、この大きな木について話しました。つまり、キリスト教の世界が膨張して広まっていく姿を表しており、先ほどの毒麦がかなりの範囲で広がっていることを表しています。

 同じようにパン種も、聖書の中では良い意味で使われていません。パリサイ人の偽りの教えであるとか、また罪であるとか、そのような否定的なものに使われています。

 ここで気をつけなければいけないのは、「私たちは流行を追ってはいけない。」ということです。もちろん自分の来ているものであるとか、好きな歌手であるとか、そういうものには流行があって当然でしょう。けれども、自分の信じる神の言葉について、福音の言葉については流行というものは存在しないのです。もし流行があって、それがものすごい広がりを見せているのであれば、むしろそれを私は疑います。ものすごい広がりの中で、この世に対して地の塩になっているのではなく、むしろ自分たちがこの世のようになっていることが多いのです。「他の教会がやっているから」とか、「他のクリスチャンがやっている」とか言うのは言い訳にしかすぎません。

 パウロは霊的成長、また教会の成長について話した時にこう言いました。「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4:14-15」教えの風に吹きまわされず、愛をもって語られる真理に耳を傾けてください。

3B 毒麦の解き明かし 36−43
13:36 それから、イエスは群衆と別れて家にはいられた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。13:37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。13:38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。13:40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。13:41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、13:42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。13:43 そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

 このように、世には必ず終わりがあります。私たちが生きている世界の中には、必ず清算の日があります。この世において行なわれたこと、自分が人生で行なってきたことについて、それをすべて申し開きする時が定められています。それは、キリストが再び戻って来られる時です。その時に全ての事柄についての審判が行なわれるのです。生きている時には、自分にしか知られないことであっても、すべて神の前では裸です。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:13

3A 買い戻し 44−50
 そしてイエス様はこのような神の国の全貌を、「買い取り」という言葉によって教えておられます。

13:44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

 畑は人間全体、あるいはこの世界を表しています。そして、その中で見つけた宝は、キリストを信じる、神の御言葉を受け入れる人々です。けれども、畑は他の人に属しています。けれども、その宝を得るために、全財産を払って畑全体を購入します。

 これが、神が世の始まる時から世の終わる時に行なわれることです。初めの人が罪を犯してから、この世界が悪魔の支配下に入ったことを先ほど話しました。けれども、神はキリストをこの世に送られます。そして、ご自分を信じる者をそこから救い出してくださいます。教会が、キリストが戻って来られる時に地上から引き上げられて天に上げられる時が来ます。そして、この地上に教会と共に戻って来られて、この世に裁きを行なわれると同時に、この世界を完全に神のものとします。その支払った代価というのは、キリストご自身の命です。

 イエス様が十字架につけられた、というのは、単なる犠牲の行為ではありません!そんなことだけであれば、フィリピンには受難週の時に実際に自分を十字架に釘づけにして人々に見せる人たちがいます。そんなのではなく、私たち人間の罪の対価を支払うためなのです。ご自分の命を対価にして、代わりに私たちが生きるようにしてくださるためです。それほど、神は私たちを愛してくださっているのです。

 神は二重に私たち人間を愛しておられます。ある貧しい家の子どもの話があります。彼は、自分で舟の模型を作りました。そしてそれを川に浮かべましたが、紐が外れて流れて行ってしまいました。ところが、彼は古物屋さんで自分の作った舟があるのに気づきました。それは自分が作ったものだと言いましたが、店の主人は「お金を払わないとだめだよ。」と言いました。自分の持っているおこずかいの全てをはたいて、彼はその舟を取り戻したのです。彼は言いました。「初めに造ったのだから、これは僕のものだ。けれども、今、買い取ったのだから二度、僕のものになった。」

 神はこのように愛しておられます。初めに私たち一人一人を造ってくださいました。実に母の胎内にいるときからその胎児は神に知られているということが詩篇に書いてあります。けれども、そだけで終わりません。自分中心の生き方をして、それで神から背を向けて来た的外れの生き方を私たちはしてきました。けれども、神の独り子であるイエス様が自らの命でその罪の対価を支払ってくださいました。そこまでして、神は私たちのことを愛しておられるのです。

13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

 イエス様は最後に、ガリラヤ湖におけるもう一つのありふれた風景、つまり漁師の地引き網を使ってこの世の裁きについて話しておられます。良いものは器にいれて、悪いものを捨てますが、同じように世は真っ二つに分けられます。正しい者と悪い者です。正しい者は神の国に入り、悪い者は地獄に投げ込まれます。この二つしかありません。中間地点はありません。

 正しさというのは、神がキリストにあって行なわれたこと、福音の言葉に拠ります。キリストが自分の罪の代わりに死んでくださったこと、そして三日目によみがえられたことを信じます。この方を自分の救い主、また主として受け入れます。その人が自分の正しさではなく、神が一方的に与えてくださる恵みによって、キリストの義を着物のようにして受け取ることができます。

 皆さんの周りにはいろいろな問題があるでしょう。当時のユダヤ人もそうでした。そしてユダヤ人が今にでも自分の状況を変えてくれるメシヤの到来を待ち望んでいました。同じように、今の問題が解決されればと願っているかもしれません。けれどもその日が来る前に、天の御国の奥義があります。神の国が到来して、すべてのものを正す前に、神の言葉を聞いてそれをそのまま素直に受け取ります。そして実が結ばれるまでじっくりと忍耐して信じて生きます。悪いものはたくさん周りにありますが、それでも忍耐して生きます。そしてその忍耐は、キリストが自分のためにご自分の命を捨ててくださった、その愛によって支えられています。そしてついに、キリストが戻って来られる日があり、そこで報いがあります。即効の解決法はありません。けれども、解決はあります。

「聖書の学び 新約」に戻る
HOME