マタイによる福音書15章 「イエスと私たちの心」

アウトライン

1A イエスから離れた心  1−20
   1B 伝統  1−9
   2B 口に入る物  10−20
2A イエスにくっついた心  21−39
   1B 原因 りっぱな信仰  21−28
   2B 結果 イエスの近づき
      1C いやし  29−31
      2C 養い  32−39

本文

 マタイによる福音書15章を開いてください。イエス様は14章において、バプテスマのヨハネが斬首にあったことを聞かれてから、ご自身の十字架への道を意識し始められました。そして、五千人への給食、また水上歩行によって、弟子たちに対してご自身が誰であるのかを、また主の働きの中に加わることはどういうことなのかを教えられました。主は続けて、この働きを行なわれます。弟子たちが聖霊の力の助けを得ながら自分たちで宣教と奉仕の働きをする時に、必要になることが何かを考えられながら教えていかれます。

1A イエスから離れた心 1−20
1そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。2 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」 

パリサイ人と律法学者の置かれている立場を考えて見たいと思います。イエスは天の御国の義のことを話されるとき、パリサイ人や律法学者の義よりもまさらないと天の御国に入ることはできない、と言われましたが、それは彼らの教えていることや行っていることが、ユダヤ人達の中の義の基準となっていたからです。ここのパリサイ人と律法学者は、エルサレムから来ています。特別な権威と立場にいる彼らが、イエスに対し、「あなたの弟子たちは、なぜ言い伝えを犯すのですか。」と言ったのです。いわば、「あなたは法律違反をしていますね。」と言っているようなものなのです。

1B  伝統  1−9
 彼らは、「なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。」と言っています。言い伝えの内容は「パンを食べる時に手を洗う。」ことですが、これは衛生上のことではなく、儀式的な行いでした。ある人がパンを食べる時、両手を上げて他の人に水を注いでもらいます。その時に水が腕の方に流れていかないように注意します。なぜなら、汚れた手を洗った水が腕にふれたら、腕も汚れると考えたからです。 

この教えは、律法の中には存在しません。律法を解釈するところのミシュナから来ています。興味深いことに、今のユダヤ教の聖書を見ると、聖書の下にはラビによる注解があるそうです。その解釈に基づいて本文を読んでいくのだそうです。けれども、実は私たちキリスト教会も同じ過ちを犯してしまうのではないでしょうか?本文自体を読むのではなく、常に他の教師が話している解釈を付けて読んでいくことをしたら、ここのパリサイ人と同じようになってしまいます。テサロニケの近くにベレヤという町がありましたが、彼らの態度がほめられています。「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。(使徒17:11」聖書を自分自身で見て、調べるのです。

3 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。4神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。5それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、6その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。

 私たちは「神の戒め」と聞くと、それは自分を縛り付けるものであると反応してしまいます。けれども、神の律法は聖いものであり、正しいものであり、良いものです。私たちの益のために神が与えられたものです。それは、神を心から愛し、また隣人を自分自身のように愛することに集約されます。律法が私たちを縛るのではありません。律法ではなく律法主義が私たちを縛ります。律法主義とは、律法の上に人の戒めを加えることです。その人の戒めが私たちを縛り、重荷になります。

 私たちは、知らずうちに人の戒めを求めています。興味深いことに、神のみことば、神の戒めは私たちを自由にするのに、人の言っていることに私たちは自分を拘束しようとします。ことに、神の名によって行なっているけれども、実はそうではなく人の決まり事である場合はその拘束力はさらに強くなります。神に従っている、神に仕えているを自分に言い聞かせながら、実は人の戒めに従っています。私たちは自問すべきです。「それは、聖書のどこに書いてあるのか?」以外に自分自身を縛っています。

 そして律法主義は、神を敬っているようで実は神の戒めを無効にしています。神の命令にさらに付け足すことによってなお神を敬っていると思うかもしれませんが、神のみことばは完全なのです。完全なものの上に戒めを置くことはできず、実はその完全なものを退けています。それは、人の戒めを守ることによって本質的なこと、神によって取り扱わなければいけない自分をしっかり温存して、神に従っているように装うことができます。イエス様は、「あなたの父と母を敬え」を一例に挙げておられます。 

十戒にある戒めであり、また父母をののしるものが死刑に処せられるのは、レビ記に書かれています。そして当時は、父母が年老いた時の扶養は敬うことの絶対条件でした。当時は年金制度や社会福祉が整っていたわけではないからです。けれども、「これは神に捧げるものになりました。」と言ってしまえばその扶養義務から解放されます。けれども、実際は神に捧げることはなく自分のために使うのです。ちょうど、「私の財産はすべて神のものなのだから、なぜわざわざ教会に献金しなければならないのか。」と言っているようなものです。そして両親としては、「神のものになったのだから」という強烈な束縛力が働きます。神の名を使って、神の戒めを守らない、死罪に値するのにそれを免れている、ということをイエス様は断罪しておられます。

7 偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。9彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

 「偽善」という元々の由来は「仮面」です。演劇に時に本性を隠すために被るものです。私たちは素の自分を隠すために、自分自身を変えたくないために、自分の周辺にいろいろな規則を作りそれを守ることによって自分を正しいとみなそうとします。この二重生活が偽善であり、福音は私たちを神の前で裸にします。 

言い伝え、あるいはしきたりというのは、本当に拘束力を持っていますね。福音を伝える時に、お墓のこと、葬儀のことが大きな妨げになりますが、それは江戸時代にキリシタンを取り締まるために幕府が作った檀家制度であります。もう半千年紀が経っているのに未だに私たちの宗教生活を拘束しているのです。けれども私たちは人差し指を未信者の人々に指すことはできません。キリストの名によって、教会の中で作り上げた言い伝えは、私たちにより一層の強い拘束力をもたらします。

私たちが自分の欲によって動いているのに、それを神という言葉を使うことによって正しい者のように振舞う事を、偽善といいます。イエス・キリストが偽善を咎めておられますが、キリストのからだである教会の中に偽善が横行すると、教会は見事につぶれてしまいます。このイザヤの預言には、言い伝えと心の状態のつながりが指摘されていますが、言い伝えの恐さは、それを行っていると、あたかも自分が神につながっているように思わせることです。見た目は、神との関係を持っているようなのですが、実際は、遠く離れています。このように、言い伝えにより頼むようになると、偽善という罪を犯すのです。

規則を作ること自体が間違ったことではありません。本来の目的が聖書に由来しているのであれば、規則が必要になることがあります。ところが、こうした規則の背後にある神の戒めや目的を失ったときが恐ろしいです。ひどい場合は、それが救われているかどうかの基準になったりさえします。このときに私たちの心は、生きる神のことばから死んだ人間の教えへと信頼が移っているのです。

2B  口に入る物  10−20
10イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。11 口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」

 イエスは、このたとえによってパリサイ人、律法学者の教えと、ご自分の教えの違いをはっきりされています。彼らは、汚れた手でパンを食べることを問題視しました。つまり、口に入る物が人を汚すと考えたのです。言い換えると、外側の行いによって救われると考えたのです。儀式を行なったり、祈りをしたり、献金をしたり、施しをしたりする事によって、神から正しいものと認められる。逆に、そうした行いをしなければ神との関係はもてない、と考えました。ところが、イエスは、口から出る物が人を汚すと言われました。外側では正しいことを行っていても心の態度が悪ければ、救いを得ることはできないのです。 

「心」というのは不思議な存在です。ある牧師が言いましたが、「正しい態度だったが、誤った行動を取ってしまった。」というのと、「正しい行動だが、心が間違っている。」のとどちらが良いのか、ということです。正しい心であれば、間違ったことを行なってもそれを正すことができます。けれども、心が曲がっている時は間違っていると分かっている時もそれを変えることはできない、と説明しています。なるほどです。

12そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みこ とばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」13 しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。14彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

 これは大事な実際的な指導です。パリサイ人は、簡単に言えば偽教師です。福音ではない異なるものを教える者たちです。彼らの相手をする必要のないことを、「わたしの天の父がお植えにならなかった木」と言われています。神が植えておられないのですから、私たちが何を言っても変わりようがないのです。ここには知恵があります。確かに、私たちは例えばエホバの証人など、異端の教えを信じている人々にも時間を取って伝道していくべきでしょう。けれども、相手が初めから聞く耳を持たず、私たちをむしろ自分たちの信念に引き寄せようとするなら、放っておくのです。

15そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」16イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。 口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。17しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。19悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」

 イエス様は、前に「実によって偽預言者かどうかを見分けなさい」ということを言われました。実は必ず結ばれます。それは心から出ているからです。表面的に正しい者の装いをしても、行ないとして現れて、その本性が露になります。人が語る言葉の中に、その人の心の内が表れています。けれども外側を直そうとしても、心からあふれる悪い思いはどうすることもできません。 

だから、福音は単なる規則や律法主義よりも、はるかに自分との対決が必要になるのです。表面ではない自分の心が探られるのです。そして新しい契約には御霊によって肉の心にするという約束があります。御霊によって、またキリストが流された血によって心から変えられます。「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。(テトス3:5-6

2A イエスにくっついた心 21−39
1B 原因 りっぱな信仰 21−28
21それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。

 イエスは、ガリラヤ地方から離れておられます。そして、今のレバノンの南部にあるツロとシドンの地方に行かれました。ガリラヤにはユダヤ人が多くいましたが、ツロとシドンは完全に異邦人の地です。けれども、ヘロデの件があり、またパリサイ人などの件があり、イエス様は弟子たちを連れて異邦人の地へ来て、彼らだけになっていました。けれども、それはまた新たな、イエス様の将来的な弟子たちに対する訓練の時でした。

22すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
 
この女はカナン人でした。私たちがこの前、創世記でカナンが最初に出てきた部分を読みました。ノアの息子ハムは、父ノアの裸を見たので、父は彼の息子であるカナンを呪いました。「のろわれよカナン、兄弟たちのしもべとなれ(11:25)」 このカナンの子孫がカナン人ですが、彼らは不品行と不法の行いで非常に汚れている人々でした。神はイスラエルの民に対して彼らを全滅するように命じられたほどです。したがって、カナン人は神にのろわれた、神から離れた代名詞のような人々だったのです。だから、彼女が神から何かを願う事は、非常に不利な立場にいたのです。ところが彼女は、「ダビデの子よ。」と叫びました。これはメシヤの称号です。彼女は、自分は神の祝福を受けるのに値しない者であることを認識しながらも、必死になってイエスにすがりついています。

23a しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。 

イエスは、彼女を完全に無視されました。ものすごくひどいと思われるかもしれませんが、この後を読み進めますと、イエスが彼女を試されていたことがわかります。

23b そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。24しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。  

弟子たちは本当に彼女が嫌だったのでしょう。しかしイエスは、ご自分の使命を告げられました。イエスは、イスラエルの民を罪から救う支配者として来られました。だから異邦人はその救いには入らないことを告げられました。まだ異邦人への救いの時は来ていません。けれども、彼女はあきらめませんでした。次を見て下さい。

25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。  

先ほど、彼女は、イエスを「ダビデの子」と呼びましたが、今度は、「主よ。」と個人的な呼び名で呼んでいます。つまり彼女の心は、さらにイエスに接近しているのです。イエスが彼女に一言も言われなかったのはこのためでした。彼女の心がイエスに近づくためだったのです。

26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。

 イエスは再び、ご自分がイスラエルのために来られたことを話されています。子供たちとは、イスラエルの民のことです。子どもは、父からの資産を受け継ぐ権利がありますが、イスラエルの民は、神の資産を受け継ぐ特権を持っていました。そして子犬とは、ペットのことです。子供たちのパンを父親が取り上げてペットに与えないように、キリストにある祝福を異邦人に与えるのはよくない、とイエスは言われています。

27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。 

これはものすごい答えです。主も、「あなたの信仰はりっぱです。」と言われています。女は、「主よそのとおりです。」と言って、自分が置かれている立場を理解していました。自分はカナン人であり、キリストにある祝福にあずかるような資格はない、ということです。ここで普通ならあきらめてしまいます。しかし、彼女はイエスについてさらに深いことを理解していました。それは主のあわれみと恵みです。自分は神から離れている身分であるが、神はそのような者にもあわれみを施して下さり、恵んでくださるのだ、という事です。イエス・キリストの奥義をここまで理解することは、私たち人間には難しい事です。 

私たちは自分自身を見てしまい、主が与えようとされている祝福をどうしても受け取りません。「私はだめだから。」と言って、頑固に神の祝福を受け取らないのです。それか反対に、自分の立場や行いを神の前に持っていって、「私は、これだけのことをしているのだから、あなたの祝福を受ける資格があります。」と訴えます。「私はこれだけ、人に親切にしてきたし、特に悪い事もしてこなかった。でもなぜ主よ、私を祝福してくださらないのですか。」という感じですね。しかしこれもまた、主から祝福を受ける方法ではないのです。なぜなら、心が高ぶっているからです。私たちにとって難しい事は、自分が神の祝福を受ける立場にいないこと、神にのろわれて、さばきを受けるのが当然の存在であることを認めると同時に、それでも主の祝福を願う事です。 

彼女の娘はその時から治りました。パリサイ人、律法学者は、伝統と外側の行いをイエスに持っていったため、心が遠く離れましたが、カナン人の女は、自分の信仰をイエスに持っていったため、心がイエスにぴったりとくっつきました。このように、私たちとイエスとの関係は、私たちが主の恵みを大胆に受け取ることによって確立されるのです。

2B 結果 イエスの近づき
ここから、異邦人に対するイエスの関わりあいが始まります。

1C いやし 29−31
29それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。30すると、大ぜいの人の群れが、足なえ、不具者、盲人、おしの人、そのほかたくさんの人をみもとに連れて来た。そして、彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをおいやしになった。31それで、群衆は、おしがものを言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て、驚いた。そして、彼らはイスラエルの神をあがめた。 

いつもと変わらないみわざでありますが、「イスラエルの神をあがめた。」とあります。ここから、この群衆は異邦人であったことがわかるのです。イエス一行は今、デカポリス地方にいます。そこはギリシヤ時代から続く十の自由都市連合であり、ローマはその町々に独自の貨幣も許していました。そこは圧倒的に異邦人の多い地域です。このように、イエスがユダヤ人に行われていた力あるみわざ、人々を解放するすばらしいみわざと同じものを、異邦人が受け取る事が出来たのです。まさに、主人の食べる食卓から落ちるパンくずをいただいているわけです。 

2C  養い  32−39
32イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」33そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょう。」34すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」  

前回の奇跡とここでの違いは、前回は弟子たちが率先してイエスに聞いたのに対して、ここではイエスが率先して弟子たちに聞かれていることです。もしかしたら、弟子たちは群集が異邦人なので、彼らを助ける事に気が進まなかったのかもしれません。しかしイエスは、カナン人の女の信仰を皮切りとして、異邦人への奉仕をされているのです。弟子たちは、イエスが方針を変えられたのに気付いていません。

35すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。36それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。37人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった。 38食べた者は、女と子どもを除いて、男四千人であった。

 前回と同じように、イエスは、弟子たちに与えられて、弟子たちは群衆に配りました。私たちの奉仕は主から受けたものを分かち合う事です。そしてこの「かご」が、この話を理解するカギになります。というのは、1420節にでてくる「かご」と、ここの「かご」は違うギリシヤ語が使われているからです。14章に出てくる「かご(κοφινοs)」は、ユダヤ人が旅をする時に使っていた類のものです。そこに食べ物を入れていましたが、異邦人の多くいる土地を歩く時にそのちりがかごに入らないように、覆いが付いてました。しかし、ここの「かご(σπμριs )」は、人間でも入ってしまうような、大きなかごで覆いはありません。異邦人が持ち歩いていたかごであると推測できます。したがってこれは、イエスはユダヤ人に行われた奇跡を、異邦人たちに行われていることの証拠です。 

39 それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。

マガダン地方は、ガリラヤ湖の西岸にある町で、マグダラのマリヤが出てくるところです。再びユダヤ人の世界に戻ります。 

主はまだ十字架につけられ、復活しておらず、イスラエルへの働きは終わっていないのですが、それでも先取りするようにして異邦人への関わりを弟子たちに与えられました。弟子たちの消極性に注目すべきです。自分たちとは異なる人々、自分たちの信仰の世界とは異なる外部の人々に対してイエス様は重要な指針を与えられました。一つは「信仰」です。たとえ異なっていても、信仰については純粋であり、むしろ私たちよりも偉大であるかもしれません。もう一つは「積極性」です。相手が自分に近づくまで待つのではなく、自分から相手に近づいていくことです。 

私たちは、絶えず外を向いていなければいけません。自分たちとは異なる人々を受け入れ、いやむしろそうした人々に近づいていかなければいけません。そこにある財産は「信仰」です。どんなに異なっていても信仰については完全に一つなのです。そして私たちは、常に御言葉の本文をしっかり見ていくべきです。そして、自分で設けた規則や人から言われたことで自分を埋めて、福音によって自分が変えられることを拒否してはいけません。

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