マタイによる福音書17章 「御国の栄光」

アウトライン

1A キリストの変貌 1−13
   1B 御子への傾聴 1−8
   2B エリヤの到来 9−13
2A 追い出せない悪霊 14−21
   1B 不信仰な曲がった世の中 14−18
   2B からし種のほどの信仰 19−21
3A 納税 22−27

本文

 マタイによる福音書17章です。イエス様の公生涯は、ついに十字架への道へ進むところにさしかかりました。弟子たちをピリポ・カイザリヤに連れていき、ご自身が生ける神の御子キリストであることを明かされました。そして将来、ペテロを初代教会の指導者とする教会を立てることを約束されました。その教会の岩は、まさにペテロの告白、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」であります。

 そして、主はご自身が十字架につけられること、そして三日目によみがえるという核心部分を語り始められます。それがあまりにも弟子たちの知っている姿と異なったのです。彼らは神の御子そしてキリストであるならば、これから力と栄光をもってエルサレムに向かわれるはずだと思っていました。そこでペテロが、「そんなことはあってはならない。」と言いました。しかしイエス様は、「下がれ。サタン。」と言われました。それは、イエス様が以前、荒野で悪魔から誘惑を受けて、世界の栄華を見せられた時に語られた言葉です。イエス・キリストの栄光は、十字架の苦しみを経て初めて得られる、というものです。

 そこで主は、御国の栄光について教えられます。イエスは初め、父なる神のふところにおられました。その栄光から人の姿になりご自身を卑しくされました。そして十字架の死に至るまでその姿勢を貫かれました。それゆえに、ピリピ2章によると、キリストは引き上げられて、すべての名にまさる名を与えられたのです。このように栄光と苦しみは密接な関わりがあります。主は弟子たちに、「自分を捨てて、自分の十字架を背負い、わたしについてきなさい。」と言われました。キリストにあっては苦しみがあるのです。しかしそれは、栄光に変えられるものです。それを教えるために、これから三人の弟子を高い山に登らせます。

1A キリストの変貌 1−13
1B 御子への傾聴 1−8
17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。

 主が十字架と復活のことを語られてから、およそ一週間経っています。おそらく弟子たちは、主が語られたことの意味合いを議論していたに違いありません。主は待たれる方、良き教師です。弟子たちに考えさせる時間を与えておられます。

 そして三人だけを、連れていかれています。三人だけを連れていかれたのは、この他に、ヤイロの娘を生き返らせる時、それからゲッセマネの園においてであります。主が彼らを連れていかれた三つの出来事に共通するのは「死」であります。ヤイロの娘の死がありました。そして、ゲッセマネの園でもご自身が死ぬにあたって、父なる神に祈っておられました。そして今、主は栄光の姿変えられますが、モーセとエリヤと語るのは、ルカの福音書によるとエルサレムに行き、十字架につけられることであります。

 興味深いことに、この三人は、二人は殉教、一人は生き残りましたがパトモス島で流刑にされていました。ヤコブは、ヘロデ・アグリッパ一世によって殺され、ペテロは逆さはりつけで死んだと言われています。

 そうしたことを考えるとペテロの第一の手紙は、興味深いです。そこには、苦しみとその次にある栄光について多くを語っています。すべてを読まれるとよいと思いますが、512-13節を読みます。「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。(1ペテロ4:12-13」キリストの苦しみは必ずその後の栄光が伴っているのだから、あなたもその栄光にあずかるようになるのだ、ということです。

 それからヨハネの福音書も興味深いです。主ご自身が何度も「わたしの栄光」という言葉を使っておられますが、それがやはり十字架の苦しみを経た後の栄光について主に語っておられます。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」(12:27-28」「この時」とは、十字架につけられ、よみがえり、栄光のうちに上げられることを言います。

 そして「高い山」に登られます。イスラエルに行くと、伝統的に変貌の山と言われているのがイズレエル平野にあるタボル山になっていますが、彼らはピリポ・カイザリヤにいたころからヘルモン山に登ったものと思われます。なぜ、主が高い山をご自分の栄光の姿を表すのに選ばれたのか?それは、主が再臨されて御国が地上に確立するときに、ご自身が高くされたシオンの山にある神殿に着座されるからです。「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。(イザヤ2:2

17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

 この御姿は、ヨハネが記録した黙示録の一章に現れ出るものです。「それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。(黙示録1:13-16

 主はこの栄光の姿でヨハネに対して、「見よ、わたしは死んだが、よみがえった。七つの教会に対してわたしが語ることを聞きなさい。」と命じられました。教会がよみがえられた主の手に入っていること、この方の栄光がまもなく臨むということを知りながら、生きているかどうかが黙示録2章と3章を読むと、試されます。

17:3 しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。

 モーセは律法を神から授かった預言者です。実にモーセは、「わたしのような預言者があなたがたの間から出てくるから、あなたがたは聞きなさい。」と命じていました。その預言者が現れているのです。そしてエリヤがいます。彼は預言者としての代表です。イエス様は、ご自身が律法と預言者を成就するために来たと宣言されましたが、旧約聖書全体がキリストご自身を指し示しているのです。

17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

 ペテロが口出ししています。彼は、先にも口出ししました。主が十字架について語られた時に、「そんなことがあってはなりません」と言いました。今も、自分がしゃしゃり出て何かをしていこうとしています。それだけでなく、彼は過ちを犯しています。モーセとエリヤはあくまでも神のしもべです。モーセとエリヤは、キリストが来られることを待ち望んでいた者たちです。その信仰の対象である方がイエスです。三つの幕屋を造ることで、御子を他の預言者と同列にしてはならぬのです。

17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。

 天からの声、すなわち父なる神の声です。弟子たちが恐がっていますが、思えばモーセ率いるイスラエルの民も、シナイ山からの神の声に震えおののいていました。そしてこの方が言われた言葉が、「これは、わたしの愛する子」であります。ペテロは傾聴すべきです。この方のみが選ばれたキリストであり、唯一の神の独り子です。そして、ペテロが指図するのではなく、「彼の言うことを聞きなさい」であります。

 このようにして、父なる神ご自身が御子を認証されたのは、他に公生涯が始まる時にバプテスマを受けられた時です。その時は公生涯における油注ぎを示していましたが、主がこれから十字架の栄光、また復活と昇天にある栄光を示す使命を与えられました。

17:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。17:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。

 このように一時のことではありますが、ご自身の栄光、そして御国の栄光をお見せになりました。ペテロはこのことを第二の手紙で細かく証言しています。「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(2ペテロ1:16-19

 ペテロにある信仰は、「これからの御国の栄光が臨むのだ。私がその威光の目撃者なのだ。けれども、預言の言葉のほうが私の体験よりもさらに確かなもので、それを心のともしび、懐中電灯としなさい。」ということです。

 私たちが御国の栄光を知るということは同時に、この地におけるキリストにある苦しみを耐える力を与える、またその望みを与えるということです。キリストに近づく、キリストとの交わりをする時にその苦しみにもあずかり、それゆえ栄化されることを意味します。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8:17-18」そして、ローマ5章にもこうあります。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、(ローマ5:2-3」キリストにある苦しみを知るには御国の栄光の幻が必要だし、また御国の栄光を知りたいと思うならば、その人の道は自分の十字架を負うものとなっていくことだ、ということです。

2B エリヤの到来 9−13
17:9 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられた。

 主のよみがえりを持って、初めてこの方の栄光を語るときに人々に理解が与えられます。もしそうでなければ、「十字架なしの栄光」でしかありません。そうではなく、まず人は自分に死に、そしてよみがえりの力にあずかり、栄化されるのです。

17:10 そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」17:11 イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。17:12 しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」17:13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。

 三人は、高い山でエリヤを見ました。もしや、これをもってエリヤが前もって来るという預言が成就するという律法学者らの話通りになるのか、弟子たちはいろいろ考えあぐねていたのだろうと思われます。それに対するイエス様の答えは明快です。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。」エリヤが来るのです。マラキ書、旧約聖書の最後に主の到来の前のエリヤの到来を教えています。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。(4:5-6」したがって、主が再び来られる時に、エリヤが来ます。黙示録11章に出てくる、患難時代のエルサレムで預言を行なっている二人の証人の一人がエリヤではないかと思われます。

 けれども、「しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。」と言われました。これは、エリヤに働かれた御霊が同じようにバプテスマのヨハネに働かれたのだ、ということです。「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。(ルカ1:17」ですから、ユダヤ人たちがバプテスマのヨハネを受け入れなかったのに、再臨の主が来られる前にエリヤ本人がやって来て、どうして受け入れられようか、ということであります。

 私たちは神の将来の約束は強く信じることができても、今の約束について信じることが難しいです。千年王国の至福は、もちろん主が戻って来られて実現するものですが、その初穂であられる御霊を私たちは受けているのです。その前味を得ることはできるし、またそうしなければいけないのです。例えば、私たちは天に行くことは喜んでも、今いる兄弟を愛さないでいるのであれば、どうやって天において一つになって主をほめたたえることができるのでしょうか?

2A 追い出せない悪霊 14−21
 そこで次にある教訓があります。「栄光の山体験から、必要の谷体験」へと移ります。

1B 不信仰な曲がった世の中 14−18
17:14 彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。17:15 「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。17:16 そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」17:17 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」17:18 そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。

 しばしば起こることですが、主にある喜びの至福の時があると、しばしばこのように悪霊の仕業や暗闇の力の働きを見ることがあります。今、弟子たちが苦しんでいるだけでなくこのままでは瀕死してしまうのではないかと思われる状態から、悪霊を追い出すことはできませんでした。けれども、弟子たちは汚れた霊どもを制する権威を与えられていました(マタイ10:1)。

 イエス様が言われている言葉は、この弟子たち個人に対するだけではありません。この弟子たちを含めて、世にただよっている全体的な不信仰について怒られています。主ご自身が地上におられて、御国の力を現してくださいました。それでも信じられないでいて、このような苦しみに対してその権威を行使する信仰を持っていないことに、やりきれなさを霊において感じられたのです。これは、私たちに対するイエス様の言葉でもあります。主が備えておられる力は信じる者に用意されています。それを信仰によって働かせなければいけないのに、それを怠っています。

2B からし種のほどの信仰 19−21
17:19 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。17:21 〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」

 イエス様が言われている「信仰が薄い」というのは、「信仰が貧弱」と訳すことのできるものだそうです。それに対して、「からし種ほどの信仰」というのはこれから大きく成長するものです。その生きた信仰さえあれば、この山をさえ動かすことができる、と言われました。そこにあるヘルモン山なのでしょうか。これはすごいことです。けれども、御国がこの地上に臨むにあたって、その災いの一つがすべての山と島が動き、あとかたもなくなるような大地震が起こるところで終わっています。このような力を神がお持ちなのです。その神を信じるというところで、信仰に命を持ちます。

 なぜ、弟子たちがそうなってしまったのか?それはちょうど、山の上にいるモーセを待っていたイスラエル人と同じです。彼らは少しずつ、自分のことに溺れていきました。主が言われたように、祈りをもって、また断食とありますが、実際の断食に限らず、あらゆる霊的鍛錬を用いて、信仰を生きたものとして保っていなければいけませんでした。それを怠っていたのです。

 ところでイエス様が行なわれた悪霊追い出しは、御国という観点から眺めますと再臨の主が来られる時に悪霊を縛り付け、底知れぬ所で鎖にかけるところにつながります。

3A 納税 22−27
17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。17:23 そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。

 主は、もっとも大切な使信を何度も何度も弟子たちに送りました。もはやペテロは、「そんなことはあってはならない。」とは言いませんが、それでも分からずに非常に悲しい顔つきになっています。彼らには、「三日目によみがえります」という言葉が意味を持たない、あるいは聞こえていなかった可能性さえあります。「十字架」というのは、彼らはよく知っています。ローマが反逆罪に対してしばしば執行しているものです。十字架という言葉はここでは使っておられませんが、「自分の十字架を負いなさい」と言われた時に、すでに十字架刑であることは予測できました。大通りに人の目たけよりも少し高いところに、あのむごたらしい姿を見せるのです。これがあまりにも衝撃的で、よみがえりの言葉までに耳が開いていないのです。

17:24 また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」17:25 彼は「納めます。」と言って、家にはいると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」17:26 ペテロが「ほかの人たちからです。」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。17:27 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

 興味深い逸話です。宮の納入金とは、出エジプト記30章に出てくる、神殿運営を維持していくために二十歳以上の男が納めなければいけないと定められていたものでした。まずペテロの直情的な性格がよく現われています。「納めます」と言いましたが、彼は手元にお金がありませんでした。そしてイエス様はペテロが話す前に話を切り出しておられます。すべてをご存知の神のご性質が現れています。

 そして主は、とてもユーモアを込めてペテロに対して、本来は納める必要はないことを説明しておられます。そこは神の家ですが、神とは誰ですか?イエス・キリストの父の家です。すなわち、そこはご自身の家です。そこに将来は、御国において王たちが貢物を主にお捧げします(イザヤ60:5)。そしてイエス・キリストにあって御国の子どもになる弟子たちも同じように、捧げるのではなくて、受け取るようになるのです。

 けれども、「つまずきを与えないために」とあります。彼らを怒らせるのに、ご自身がユダヤ人の議会で死刑に定められる時に、ご自身が神の子でキリストであることを明言する時に取っておきたい、他の些細なことでつまずきを与えるのは賢くないと判断されたのでした。これはとても大切ですね、パウロがこう指導しました。「ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。(1コリント10:32-33

 そして、ペテロに漁をさせて納税させるのも、ユーモアに富みます。主が硬貨を特定の魚に加えさせるというところに、その神のご性質が現れています。自分が困った時、主がそばにいて助けてくださいます。納税できないほどお金がなかったようですが、主は私たちに教えているのは、「あなたがたは金持ちなのだよ。」ということです。御国の子なのですから、事欠くことはないのです。主が必要を満たしてくださいます。余裕をもって生きるべきです。パウロがピリピ書で語った言葉を見てみます。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13」そして、「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19

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