マタイによる福音書21章 「イエスと宗教との対立」



アウトライン

1A イエスの挑戦 1−22
   1B エルサレム入城 1−11
      1C ろばによる入城 1−7
      2C 入城に伴う賛美 8−11
   2B 宮きよめ 12−17
   3B いちじくの木の呪い 18−21
2A 宗教者の挑戦 23−46
   1B 権威 23−27
   2B ふたりの息子 28−32
   3B ぶとう園の農夫 33−46
      1C 内容 33−41
      2C 結論 42−46

本文

 マタイによる福音書21章をお開きください。ここでの主題は、「イエスと宗教との対立」です。

 イエスと弟子たちは、ガリラヤ地方における宣教をやめて、エルサレムに向かう旅を始めました。イエスはその旅の途中、弟子たちに、エルサレムに入ったら、ご自分が十字架につけられて、3日目によみがえられることを話されました。そして、この21章からは、エルサレムにおけるイエスの活動が書かれています。そして、イエスと宗教指導者たちとの間で激しい戦いがあります。なぜなら、彼らが持っていた宗教はイエスの教えと真っ向から対立していたからです。

 でも私たちは、これら宗教指導者と無関係ではありません。人間はみな、非常に宗教的な存在です。最初の人間であるアダムとその妻工バが、恥をおおうために自分たちでいちじくの木の葉をつづりあわせましたが、それが宗教の始まりです。そのアダムの性質を人間は引き継いでいます。宗教指導者たちが持っていた自己中心性は、私たちの中にもあります。したがって、キリストと宗教指導者との対立は、キリストと私たちのうちにある宗教性との対立でもあります。そのことを踏まえて内容に入りましょう。

1A イエスの挑戦 1−22
1B エルサレム入城 1−11
1C ろばによる入城 1−7
 それから、彼らははエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた、「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」

 イエスは、すべてのことを細かいところまで知っておられました。それは、キリストがすべてのことを知っている神だからです。

 
これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」

 これは、ゼカリヤ書9章からの引用です。シオンとはエルサレムのことです。キリストはろばによってエルサレムに入られることが預言されており、それはキリストの柔和さが示されていました。世の王であれば、大抵、勇ましく馬に乗って来るようなものです。人々はその力強さとカリスマ性にあこがれ、彼らの国を救ってくれる者として王をたたえます。しかし、キリストは違いました。キリストが初めに来られたとき、へりくだった柔和な王として来られたのです。イエスには目を見張るような姿はなく、政治的な活動をなさらず、ただひたすら、病んでいる者、弱った者に奉仕されました。そしてここでは、ろばの子に乗っておられたのです。徹頭徹尾、柔和な方だったのです。

2C 入城に伴う賛美 8−11
 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうちの大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「タビデの子にホサナ。祝福あれ。王の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き方に。」

 この叫びは、詩編118篇にのっています。弟子たちと群衆は、イエスをお迎えするときに、自分たちの上着を脱ぎました。そして、弟子たちはそれをイエスに乗ってもらうようにし、群衆はそれをろばに踏みつけてもらうようにしました。これは、王にひれ伏す姿であります。そして、彼らはイ工スを賛美したのです。ホサナとは、「私たちを今、救ってください。」という意味です。

 けれども、キリストは柔和な王です。この方にひれ伏すことは、自分が柔和への道を進むことです。あるいは、自分がヘりくだる道を歩むことです。イエスは言われました。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5:5)」 彼らは自分の大切な上着をキリストに踏んでいただきましたが、それは、自分の大切なものをキリストに従うために捨てることでもあります。イエスは、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マタイ16:24)」 と言われました。このように、キリストを王とすると、自分を否定せざるを得ません。私たちはもともと、自分の精神的な必要を満たしてくれる人、自分を感動させてくれるような人を王として立てます。

 イエスの奇跡によってパンと魚が与えられた5千人以上の群衆は、イエスをそんな王にしようとしました。けれども、そのような王を立てるのに、自分を否定する必要はありません。自分が変わる必要がありません。キリストはその反面へりくだった方なので、私たちは自分のあり方を捨てなければ、この方に従うことはできません。それに、この方に従えば、人間的には損をします。けれども、本当の意味で生きることができるのです。

 こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。

 こうしてイエスは、エルサレムに入られました。

2B 宮きよめ 12−17
 次にイエスは、宗教指導者たちに戦いの挑戦状を突きつけます。 それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「わたしの家は祈りの家と呼ばれる。」と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」

 イエスは、宗教指導者が管理していた神殿を荒らし回りました。それは、彼らが神殿を強盗の巣にしているからだ、と言われています。彼らは過越の祭りと呼ばれるユダヤ人の祭りのために、世界中からエルサレムに来ていました。そのときに、神から自分の罪を赦していただくため動物をいけにえとしてささげます。律法によれば、その動物に傷や欠陥があってはいけませんでした。

 そこで、神殿にいる祭司たちは、人々が持ってくる動物の体を調べて、「ここに傷があるから、あなたの持ってきた動物はだめですね。私たちがすでに調べた、傷のない羊を買ってささげなさい。」と言ったのです。 しかし、神殿で売られている牛や羊は、ものすごく高い値がつけられていたのです。また、神殿では、ローマ帝国で使われていた貨幣を使うことができませんでした。神殿に使うための特別な貨幣を使わなければなりませんでした。そのために両替人がいたのですが、その通貨レ−トがべらぽうに高かったのです。例えば、1ドル130円のところが、1ドル300円になっていたような感じです。こうして、宗教指導者たちは、人々が神を礼拝したいという思いを利用して、お金もうけをしていたのです。

 残念なことに、教会の中でそのようなことが起こります。信仰者の書いた本とか、ゴスペル・シンガーのCDなどが売られていますが、そうしたものを買わなければいけないようなプレッシャーを人々にかけるならぱ、私たちは宗教指導者と何ら変わらないことをしています。イエスは、このことについて激怒し、両替人の台を倒したり、売り買いする者たちをみな追い出されたのでした。

 また、宮の中で盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。

 彼らが行なっていた売り買いとは、実に対照的です。イエスが神殿の中で行われたかったのは、このことだったのです。弱っている者、病んでいる者が来て、いやしを受けるような場が本当の神殿の姿です。しかし、人間はそれをいつのまにか、弱い立場にいる人々を隅に追いやって、能力のある者、富のある者、目立つ者たちが集まってしまいます。教会も例外ではありません。私たちは本当は、力強さ、富、表面的な美しさを求めますが、柔和さや、へりくだりを求めたくはないんです。ですから、キリストを自分の王とすることは戦いです。自分の内側での戦いです。けれども、キリストを王として初めて、弱い者を受け入れることができるのです。

 ところが祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった、驚くべきいろいろなことを見、また宮の中で子どもたちが「タビデの子にホサナ。」と叫んでいるのを見て腹を立てた。そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているかお聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちのロに賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」

 イエスは、子どもたちの賛美を受け入れられました。けれども、当時の社会では、子どもは大人よりも劣った存在と見られていました。そして、祭司長や律法学者たちも例外ではありませんでした。 私たちも同じようなことをしてしまいます。心の中で、ある人がよりすぐれていて別の人はより劣っているというように階級をつけてしまいます。例えば教会では、牧師が他の信者たちから仕えられて、信者よりも身分が上のように扱われます。ところが、牧師なんていうのは地位でも何でもなく、人々をみことばによって養う働きをしている一人の兄弟なのです。けれども、私たちは無意識のうちに、教会の指導者は信者よりも高いレベルにいると思っています。それは、私たちのうちに祭司長や律法学者たちと同じものを持っているからです。でも、キリストはむしろ小さな者たちを尊ばれました。

3B いちじくの木の呪い 18−21
 イエスは彼らあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいていかれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。

 イエスがこのいちじくの木をのろわれたのは、お腹が空いているのにいちじくの木に実がなかったので頭に来たからではありません。そうではなく、葉が生い茂っているのに、実を結ばせていなかったからです。これは、ユダヤ人たちの宗教の姿を現わしていました。外見は、いかにも神に仕えているようでしたが、内実がともなっていなかったのです。葉は生い茂っていても、実がーつもなかったのです。ヘロデが建てたその神殿は実に豪華なものであり、過越の祭りも大規模に行われ、一見、人々は神に仕えているようでした。しかし、実がなかったのです。それもそのはず、彼らは、実を結ばせるいのちであるキリストを拒んだからです。

 このように、神はイスラ工ルの民から実が結ばれることを望まれましたが、神の願いは、私たちクリスチャンからも実が結ばれることです。イエスは弟子たちに言われました。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。(ヨハネ15:1−2)」 その実とは、愛であり、愛は、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制によって現われます。もし実がなければ、私たちがクリスチャンであることの意味は全くありません。私たちが聖書を読んだり、教会に通ったり、祈ったり、伝道をしたりしますが、そうした外側の活動によって自分は神に仕えていると思ってしまいます。しかし、実際の生活の中で実を結ばせているでしょうか。キリストの性質が私たちのうちから現われているでしょうか。そうした実がなければクリスチャン生活は無意味なのです。

 それでは、私たちが実を結ばせるにはどうすればよいのでしょうか。次を見てください。弟子たちは、これを見て驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、「動いて、海に入れ。」と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

 私たちの生活から実が結ばれる方法は、信じて疑わない信仰を持つことです。私たちが、自分たちの事情をいつも神に持っていくのであれば、実を結ばせる事ができません。けれどもイエスの言われることを信頼して、それに聞き従うときに、はじめて実を結ばせることができます。イエスは38年間足のいうことが利かない男に、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。(ヨハネ5:8)」と言われましたが、自分が歩くことができない1000という理由を、その男は言うことができたはずです。けれども、その男は立ちました。それは、キリストの命令に信仰をもって従ったからです。私たちが疑わずこみことばを信じるとき、神はその命令に従うことが出来る能力を備えてくださいます。こうして、キリストにつながり、キリストのみことばを心から信じるところから実が結ばれます。

2A 宗教者の挑戦 23−46
1B 権威 23−27
 それから、イエスが宮にはいって、教えられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」

 この質問は、裏返すと「私たちにすべての権威が与えられているのに、なぜあなたはこんなことをしているのか。」と言っているのと同じです。神の宮で行われることは、すべて私たちの許可の下で行われなければならない、と彼らは考えていたのです。神殿は神のものであるのに、それを自分たちのものにしていたのです。これは、私たちが常にぶちあたる問題です。キリストの教会であるはずのものが、「私の教会」になってしまいます。そうすると私たちはキリストにあって自由な存在なのに、人間関係によって互いをしばったり、逆に自分と気が合わない人を排除してしまいます。これは教会に限ったことではありません。例えば、「私の子ども」とかもそうですね。親が子どもを自分の所有物のように考えます。その他、「私の学校の生徒」 「私の妻」 「私の友達」など、何でもかまわないのですが、私たちは何かを自分のものにしようとします。その関係は一見、深く,結ばれた麗しいつながりのように見えるのですが、実は相手を自分に従わせようとしているにしか過ぎません。それはみな、神とキリストが権威であることを忘れてしまっているために起こっています。

 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているか話しましょう。ヨハネのバプテスマはどこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。

 バプテスマのヨハネを信じることは、そのままイエスをキリストとして信じることにつながります。なぜなら、ヨハネは、イエスがキリストであることを宣べ伝えたからです。もしヨハネが神から遣わされた預言看であれば、彼の言っていることは本当こなり、イエスはキリストであるということは真実になるのです。

 すると彼らはこう言いながら互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったのか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネが預言者だと認めているのだから。」そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません。」と言った。

 宗教指導者たちは、もともとヨハネを信じていませんでした。しかし、彼らは群衆の目を気にしたため、ヨハが人から来たとは言わなかったのです。こうして、彼らは「わかりません」と言って、自分の心で思っていることと自分の言っていることが違ってしまっています。つまり、本音と建前ですね。

 
私たちは、人に害を与えるようなことを言ってはいけません。それは、その人を愛しているからです。けれども、本当に愛しているなら、時には言わなければいけないことをはっきりと言う必要があります。しかし、私たちは、人の目を気にするという恐れを強く持っています。そこで、自分が心に思っていないことを話すことがあるのです。これは嘘をついているのと同じです。嘘なのですから、教会から取り除かなければいけないのに、逆に尊ばれることがよくあるのです。ある友人から聞いた話ですが、ある教会が、聖霊の超自然的な働きがあるかないかで意見が分かれました。そこの牧師は、分裂を起したくないため、聖霊に関する主題を話さないようにしていました。その牧師は一見、教会の一致を保とうとしているように見えます。でも、それは教会員の半分が離れてしまうのを恐れていたとしか思えません。なぜなら、パウロが、「御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていただきたいのです。(1コリント2:1)」と言って、聖霊についてはっきりさせているからです。このように、宗教指導者たちは、本当はヨハネを否定しているのに、わかりません、と答えました。

 イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」

 人の目を気にした結果、彼らはイエスから答えをもらうことができませんでした。けれども、もちろんイエスは彼らの本心を知っておられます。次からたとえを2つ話されます。1つめはヨハネを信じなかったことについてであり、2つめは彼らがイエスを殺すことについてであります。

2B ふたりの息子 28−32
 ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、「今日、ぶどう園に行って働いてくれ。」と言った。兄は答えて、「行きます。おとうさん。」と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。弟は答えて、「行きたくありません。」と言ったがあとから悪かったと思って出かけて行った。ふたりのうちどちらが父の願ったとおりにしたでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取払人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」

 取税人や遊女たちは、神の戒めを無視したような生き方をしている典型的な人物です。今で言うと、ピンクサロンで働いている人とか、サラ金で働いている人などを指すでしよう。そして、宗教指導者たちは神の戒めを守っていたとされた典型的な人物です。しかし、前者の多くがヨハネによって悔い改めて、後者が結局悔い改めませんでした。彼らの問題は、取税人や遊女のようなものを見下して、自分は彼らよりも先んじていると思っていたことです。そのことを意識してイエスは、「あなたがたより先に神の国にはいっているのです。」と言われています。私たちはどうでしようか。 私たちは他の人と比べて自分はほどほどの人間だ、と思うときに、宗教指導者たちと同じ間違いを犯しているのです。確かに外側は私たちのほうがきれいに見えるかもしれませんが、神の目からは、全く違っている場合が多いのです。

 こうして、イエスは、ぶどう園のたとえを話されましたが、実は、旧約聖書にはイスラ工ルがぶどう園にたとえられています。イザヤ書5章をお開きください。「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが酸いぶどう酒ができてしまった。」7節に飛びます。「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植え付けたもの。主は公正を望まれたのに、見よ、泣き叫び。」 神がイスラ工ルを愛して、実にきめ細かい世話をしてくださったのに、出てきたのは流血や泣き叫びだけだ、というものです。こうしたたとえが聖書の中にあるので、イエスがぶとう園のたとえを話し始められたとき、宗教指導者はピピッときたのでした。

3B ぶとう園の農夫 33−46
1C 内容 33−41
 次のたとえは、さらに直接的です。もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。」

 これは、今読んだイザヤ書がほとんど引用されています。

 さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ううとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。

 このしもべは、預言看たちです。旧約聖書を見ると、さまざまな預言者が神から遣わされています。

 すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。

 イスラ工ルの先祖たちは、預言者たちを迫害しました。

 そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたがやはり同じような扱いをした。

 イスラ工ルが神に反抗して、危機的な状況に置かれたとき、多くの預言者が遣わされました。旧約聖書にある預言書と呼ばれているもののほとんどは、イスラ工ルが敵国に敗れて、捕囚になる直前や直後に書かれたものです。

 しかし、そのあと、その主人は、「私の息子なら、敬ってくれるだろう。」と言って、息子を遣わした。」

 これはまさしく、イエス・キリストのことです。預言者は神のしもべでありましたが、キリストは神の御子です。性質も立場も異なっていました。

 すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。」 そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。

 この農夫は当然、当時の宗教指導者たちです。彼らの指導の結果、ぶとう園には何の実も結ばれていませんでした。そこで神が預言者を遣わして、イスラ工ルに実が結ばれるようにしても、彼らは預言者を滅ぼし、最後に御子を遣わされても御子を滅ぼしした。その動機が興味深いです。「あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。」彼らがイエスを殺す真の動機は、自分が手にしている名声、地位、財産を脅かされたくなかったことなのです。

 「このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」 彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を治める別の農夫たちに貸すに違いありません。」

 面白いですね、自分自身のロで、自分に死刑宣告しています。

2C 結論 42−46
 イエスは彼らに言われた。「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。」

 これは、先ほどの「タビデの子にホサナ。」が載っている詩編118篇からの引用です。家を建てる者が宗教指導者で、彼らは礎の石であるキリストを見捨てました。そこでイエスは、結論を話されます。

 「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」

 キリストは、イスラ工ルlことって最後のチャンスでした。イスラ工ルが神に立ち返って、神に従う最後の機会でした。だから、イエスがエルサレムに来られたとき、群衆は、「タビデの子にホサナ。」と叫び、詩編118篇には「この日は主が造られた。」と預言されているのです。その機会を失ってしまった今、彼ら自身が結論づけたように、イスラ工ルの民ではない者に神の国が与えられるようになります。つまり、私たちユダヤ人以外の異邦人です。イエス・キリストは異邦人に宣べ伝えられ、キリストを証しする多くの人が現われました。

 また、この石の上に落ちるものは、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。

 この石は、イエス・キリストのことです。聖書では、神がよく石や岩にたとえられています。例えば詩編61篇では、「私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。(2節)」とあります。

 
これは、私たちが神に対面するときどのようになるかが書かれています。私たちは、神によって自分の心が砕かれるか、もしくは、心をかたくなにし、後に神によって滅ぽされるかのどちらかしかないのです。柔和な王キリストを受け入れることは、心砕かれることです。「心の貧しい者は幸いです。」とあるように、キリストと対面すると私たちの心は貧しくなります。しかし、このキリストを拒んだとて、キリストから逃れられることはありません。キリストは今度は、さばき主として地上に来られるのです。今度は、ろばの子に乗って来るのではなく、白い馬に乗ってきます。そして、ご自分のみことばをもって反抗する者たちをことごとく滅ぼし、地上はイエスに殺される者たちの血の海となります。このように、キリストの上に自分が落ちて砕かれるか、キリストが自分の上に落ちて、滅ぼされるかのどちらかしかないのです。

 祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさしておられることに気づいた。それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。

 ここから、宗教指導者たちはイエスを捕らえる具体策を考え始めます。しかし、イエスの彼らを打つパンチは、まだ終わりません。来週は、その部分である22章を読みましよう。


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