「終わりは近い」 2001/09/24

今回のテロ事件で、終わりの時についての関心度が高くなりました。ハルマゲドンがやってくるのか、とか、携挙で私は取り残されるのではないか、という声も聞きました。また、主がすぐにでも来られることについて、「その日は私たちには分からないのだから、そのような強迫を行なうべきではない。」という意見も聞きます。そこで、終わりの時について、また携挙について、その誤解を解いていきたいと思います。

第一に、「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。(マタイ24:36)」とイエスさまがおっしゃられているのだから、終わりは近い、というのは間違っている。時間を設定しているではないか、という意見があります。しかし、これは、イエスさまの御言葉を誤解です。その後で、イエスさまは、主人の家にいるしもべの話をされています。主人がいつ帰ってくるか分からないのだから、「いつでも」来られても良いように、忠実に任されたことを行なっていなさい、と勧めておられます。

主が、「その日がいつであるかは、だれも知らない」と言われたのは、「何時来るか分からないのだから、ずっと後かもしれない。」と反応することでは決してなく、むしろその反対に、「今すぐにでも来るかもしれない。」と思うことなのです。このエッセイを読まれている方が、読み終える前に主が来られるかもしれない、という切迫性を主がお語りになっています。したがって、主人のしもべたちが、どの時間に主人が戻って来ても良いように、きちんと任された仕事をこなして、また、いつでも来ても良いように用意しなさい、というイエスさまの言葉につながって来るのです。

すぐに来られるかもしれない、と思っていたしもべが、何時間たっても戻って来ないので、途中で怠けてきて、それで自分勝手なことをし始めます。その時に、主人が戻ってきたらどうするのですか?とイエスさまは問い掛けておられます。したがって、「終わりが近い」と言うのは、一回性のものではなく、実際に主が来られるときまで続けられる、継続性のあるものなのです。今回のテロ事件が起こって、終わりのことを意識するのではなく、その後、一時期的に平穏に戻っていても、同じように終わりが近いことを思っていることができるかどうか、いや、テロ事件が起こる前に、どれほど終わりが近いことを意識していたかが、問題なのです。

実に、「終わりの時」は、主が昇天され、聖霊が弟子たちに臨まれた時からすでに始まっていました。使徒ペテロは終わりの時のヨエルの預言を引用し、イスラエルの回復についても語り、そして、使徒たちの書簡は、自分たちが生きているときに主イエスが来られることを前提にして、その手紙を書いています。イエスさまが十字架につけられる前に、オリーブ山で語られたことばをそのまま信じて、生きていました。主が語られたことの一部は、紀元70年の神殿破壊によって成就しました。しかし、使徒ヨハネはその約20年後に、その福音書と手紙、また黙示録を書いており、その書物は、同じくイエスさまのことばが将来のものであることを示唆する構成となっています。主が来られるのは今すぐである、自分が生きているうちに来られるかもしれない、という切迫性は、何十年たっても決して弱められたり、途切れたりすることはなかったのです。

多くの人は、「もう二千年経ったのに・・・」と考えます。しかし、これは、聖書の時間空間の、把握の仕方を誤っているから起こっていることに過ぎません。聖書は、完成から現在を見るように促しています。終わりから始まるのです。このことは、私たちがまだ救われた姿を見ていないのに、「救われた」と完了形を使って、クリスチャンになったことを言い表わすのと同じです。まだ、自分のからだが贖われておらず、天において神とともにいないからと言って、「まだ救われてもいないのに、救われたというのは間違っている。」という人がいるでしょうか?永遠のいのちの希望を現在にまで先取りしているのと同じように、私たちも主の来臨の希望を、現在生きている私たちにまで先取りしているのです。だから、主が来られる、という霊的出来事を、現在のこの時点で保っているというのは、決して間違った態度ではなく、むしろ主によって命じられている態度であります。このように、主は今すぐにでも来られる、と思うことは主のみこころにかなったことなのです。

第二に、「終わりが近い」と言っている人々に、これまで行なってきた継続的な働き、長期的視野に立たないとすることができないプロジェクトをやめてしまう人たちがいます。これも、また同様に、主が意図されていることと正反対のことです。

イエスさまが、ご自分が戻って来られることをお話になったとき、すぐに、主人のしもべのこと、またタラントの話をしていることを思い出してください。主人が戻って来られるまでに、自分が任されたものをしっかりと果たすように命じられています。つまり、主が来られることが差し迫っていることを知れば知るほど、自分は多くの働きをするのです。仕事をやめてしまうどころか、ますます仕事に励むようになります。「今は救いが私たちにもっと近づいているのです。(ローマ13:11)」と言ったパウロが、「私はほかの使徒たちよりも多く働きました。(1コリント15:10)」とも言っているのです。これは矛盾していることではなく、むしろ当然のことなのです。

パウロは、主がすぐにでも来られることを曲解して、仕事をせずに怠けている人たちのことを戒めています(2テサロニケ3章)。むしろ、しっかりと働きなさい、と勧めています。

ただし、主が来られることを意識していると、長期的なプロジェクトに対して、私たちはゆだねる心が与えられます。主は、「一日の労苦で十分なのです。」と言われました。今日、主が戻ってくるかもしれないと思うときに、自分が考えれば良いことは、今日、主から与えられた仕事をしっかりこなすことに集中していることなのだ、だから、その他のことは主にお任せしていればよいのだ、と考えることができます。また、長期的なプロジェクトに対して私たちの心から生じてくる貪欲から守られます。ある金持ちの畑が豊作になって、「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。」と思っていたら、神が、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」と言われました(ルカ12:13−21)。またヤコブもその手紙の中で、このように、自分の考えや思いで次々と計画を立てていくことを戒めて、「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。(ヤコブ4:15)』と言いました。計画を立てるときに、自分の思いや考えで立てることから守られて、いつも、「主のみこころは何ですか。」と祈りつつ前に進んでいくことができるようになります。

したがって、主がすぐに来られることは、自分たちの立てている計画を捨てることではなく、主にお任せし、主のみこころを求めつつ、計画を立てることができるようになるのです。

第三に、「今、携挙になったら、まだ救われていない家族はどうしよう。携挙はまだ来てほしくない。」と思う人が多いです。携挙のことについて、だれが救われ、だれが失われるか、ということを考えることはあまりしないほうがよい、というのが私の考えです。というのは、パウロが携挙について語っているとき、それは「クリスチャン」に対して語られており、救いが完成することについての希望について語っているからです。

クリスチャンになると、必ず苦しみがやって来ます。苦難を受けることはクリスチャンに定められており(1テサロニケ3:3)、苦しむために召されているとまで使徒ペテロは言っています(1ペテロ2:21)。しかし、苦しみも、それが永続せず一時的なものであることが分かるとき、私たちには希望が与えられます。その苦しみの中で忍耐することができます。ですから、主の再臨を待ち望んでいたテサロニケの人たちは、「主イエス・キリストに対する望みの忍耐(1テサロニケ1:3)」があったのです。

さらに、携挙は、主を信じたけれども死んでしまった人たちと再会することができる、という死者の復活を教えてくれます。テサロニケの教会の人たちは、先に死んでしまった人たちが、復活を見逃してしまったのではないか、と思って悲しんでいました。けれども、パウロは、その眠っている人々が先によみがえり、それから私たちが引き上げられて主にお会いする、と教えました(1テサロニケ4:13−18)。したがって、私たちは「死」という不条理から、究極の慰めを得ることができるのです。

このように、携挙は主に、取り残される人々ではなく、引き上げられる人々に語られる希望であり慰めなのです。取り残された人たちも、福音を聞き、救いに至る機会は残されていることは聖書の中に暗示されています。しかし、それほど明瞭に描かれていません。したがって、やはり、教会が地上にあるときに、人はイエスを信じることがはるかに安全であります。

第四に、「自分は取り残されてしまうのではないか」と考えることです。このようなことを考えるのは、「自分は、〜のことをしている。」とか、「〜のことをしていない。」と思うからでしょう。その時点で、その人は、「信仰ではなく、自分の行ない」によって生きてしまっているのです。

パウロが携挙される人々として挙げている条件は、「キリストにある(1テサロニケ4:16)」ということだけです。そしてパウロの手紙の中には、「キリストのうちにいる」ことがいかにすぐれたことであるか、霊的祝福に満ちていることであるかを語り続けています(エペソ1:3など)。携挙とは、救いの完成であり、自分が救われていると確信しているなら、携挙で引き上げられることも確信すべきです!

それでは、肉に従っているクリスチャンはどうなるのか、という意見があるかと思います。いろいろなところで「目をさましなさい」と書いてあるところはどうなるのか、という質問もあります。これは、「救いは失われえるのか、それとも永遠に堅持されているものなのか。」という昔からの神学論争と同じ類のものです。私たちは、目をさましていること、また主のうちに堅くとどまっていることが勧められている一方で、永遠に救われていることも保証されています。これを頭の中で理解しようとすると、矛盾しているように聞こえ混乱してきます。しかし、どちらも真理なのです。口では説明できないかもしれません。けれども、真理とは知的に理解することではなく、体験することなのです。だれが三位一体の奥義を語りつくせる人がいるでしょうか?けれども、クリスチャンならば、三位一体の奥義を、霊によって知っています。このことと同じことです。主が来られることを思って、目をさましていて、用意していなければならないと同じように、自分がキリストのうちにいるのだから必ず引き上げられると確信するのです。

自分が「キリストのうちにいる」という霊的真理から、決して離れないでください。私たちクリスチャンの務めは、唯一、キリストのうちにいる自分を、信仰をもって保ち続けることなのです。その中で、携挙の希望も抱くことができます。


「聖書の学び 新約」に戻る
HOME