マタイによる福音書27章1−31節 「イエスを十字架につける」

アウトライン

1A ピラトヘの引き渡し  1−10
   1B 死刑への陰謀 1−2
   2B 銀貨30枚 3−10
      1C ユダの返金 3−5
      2C 祭司長の取得 6−10
2A 十字架への引き渡し 11−26
   1B 総督の尋問 11−14
   2B 総督の赦免 15−26
      1C イエスの釈放 15−19
      2C バラバの釈放 20−26
3A 十字架剤への引き連れ 27−31
   1B からかい 27−28
   2B 暴行 29−31

本文

 マタイによる福音書27章を開いてください。今日は、27章の前半部分1節から31節までを学びます。ここでの主題は、「イエスを十字架につける」です。私たちは、前回の学びで、ペテロがイエスを3回否定したことを読みました。彼は、「 たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。(マタイ26:35)」と言いましたが、その意欲は、3人の詰問によってもろくも崩れ去りました。ペテロはまさに、「心は燃えていても、肉体は弱」かったのです。 しかし、それは、ペテロにとって必要なことでした。なぜなら、もはや自分にたよることをせずに、イエスにより頼むことを学ぶため でした。パウロは言いました「 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)」 自分が十字架につけられて死んでいるとみなすことによって、私たちは信仰によって生きることができるのです。キリストが自分のうちに生きて働かれるには、自分が死んでいなければいけません。また、自分を生かそうと思えば、キリストが死んでいるのです。私たちには、自分を生かすか、キリストを生かすかどちらかの選択があります。

 今から読むところは、このことと対照的であります。自分を十字架につけるのではなく、イエスを十字架につけることを読みます。それは、いったいどういう意味なのかを念頭に置きながら本文を読んでいきましよう。

1A ピラトヘの引き渡し  1−10
 さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。それから、イエスを潜って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。

 イエスが、総督ピラトに引き渡されます。ピラトは、ローマ帝国によって派遣されたユダヤの総督です。彼についての歴史的な評価は、冷酷、残忍でありました。聖書において、それが確認されており、ルカ書13章1節には、「 ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。」 とあります。

1B 死刑への陰謀 1−2
 ところで、祭司長、民の長老たちはなぜ、イエスをローマの総督に引き渡さなければならなかったのでしょうか。彼らは、律法にしたがって、イエスを石打ちの刑にすることができたのです。しかし、彼らはイエスが十字架によって殺されることを望みました。当時、ユダヤ人には死刑を執行する権限がなかったので、それで、ローマにイエスを引き渡さざるを得なかったのです。イエスを十字架につけたいという願いが、ピラトにイエスを引き渡す理由となりました。それほど、彼らはイエスをねたみ、イエスが血を流すのを見たかったのです。

 これは、実は、聖書全体に貫かれているテーマです。正しい者が悪い者のねたみにより、血を流されるという原則が聖書にはあります。アベルとカインの話を思い出してください。神は、人間がご自身に近づく方法として、羊をほふってその血を流させることを示されました。羊をほふって血を流すということは、自分が神に対して罪を犯したことを認めることです。なぜなら、その血は、自分の罪のために取られたいのちを象徴しているからです。アベルはこのことを信じ、主に受け入れられました。しかし、カインは、自分が罪を犯したことを認めませんでした。その反対に、自分はこれだけのよいことをしているのだから、神よ、私を受け入れてくれ、と言っていたのです。つまり、自分の行ないによって生きようとしたのです。そのような態度を忌み嫌うべき高慢として取り扱っておられます。(箴言6:16−17、イザヤ64:6)。そして、彼はアベルをねたみました。そのねたみ、彼が血を流して死ぬのを見たいと願うまで発展しました。ある人は、「ねたむのはわかるけど、殺すまでのことはしなくても良かったのに。」と言いました。しかし、もし今、ひとりひとりが神のさばきの御座に立って、自分のしたすべてのことが、すぱっと否定されるとします。そして、いろいろな過ちを犯した人々が、なぜか神に受け入れられています。その人は、受け入れられた人々を心から憎むのではないでしようか。特に、自分は正しいことをしてきたと強く思っている人ほど、その増しみは激しいのではないでしょうか。このことがカインに起こったのです。

 このように、自分の罪を認めないで、自分の行ないによって生きる者が、自分の罪を認めて、信仰によって神に正しい者と認められた人たちを、迫害します。羊に血を流させるのではなく、信仰による義人の血を流させるのです。イエスはパリサイ人、律法学者に言われました。「義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。(23:35)」 そして、ステパノは言っています。「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。 (使徒7:52)」 彼らは、信仰によって義と認められた者だけではなく、神の義そのものであるキリストさえも殺しました。したがって、自分の罪を認めず、自分の行ないによって生きることは、私たちが想像する以上に罪深いことなのです。いや、それが白い大きなさばきの御座において問われる唯一の罪です。行ないによって生きることは、まさにイエスを十字架につけて殺しているのです。イエスをあがめ、イエスに仕え、イエスを喜ばせて生きるのではなく、イエスを憎み、イエスをねたましく思い、イエスの血を見たいと願うようになるのです。したがって、ユダヤ人の宗教指導者たちは、石打ちではなく十字架によってイエスを殺すことを願いました。

2B 銀貨30枚 3−10
1C ユダの返金 3−5
 そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨30枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。

 ユダは、イエスが死刑に定められたことを後悔した理由を、彼が罪のない人であるとしました。ユダは、イエスとともに3年以上の月日をともにしました。その彼が、イエスに何の罪も見出さなかったことを証言しています。実に、イエスは罪のない方だったのです。このように、ユダは、祭司長や長老たちとは違って、イエスを悪者にすることを拒みました。イエスが正しい方であることを認めました。けれども、彼は、イエスを罪に定めるよう手引きをした張本人となったのです。なぜでしようか。イエスを裏切るとき彼が何を考えていたか、具体的なことは知らされていません。ただ、ある計画をもって裏切ったことは確かです。彼はいろいろ頭で計算して、その思惑を実行するにはイエスを裏切らないといけないようになっていたのでしょう。それで、自分の良心に反してまでも、イエスを裏切る行為に出ざるを得なかったと言えます。彼は良心を持っていましたが、その良心に従って歩まなかったのです。それで、もともと良心を持っていない者たちと全く同じことを行なってしまったのです。

 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。

 彼は自殺をはかりました。彼は自分のしたことを後悔して悲しみましたが、悔い改めはしなかったのです。彼は、祭司長と長老には、自分が罪を犯したことを話しましたが、イエスご自身に対して罪を犯したことを認めませんでした。そして、イエスが悔い改める者を豊かに赦してくださることを受け入れずに、自殺したのです。パウロは言いました。「 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7:10)」  事実、彼の悲しみは死をもたらしました。悔い改めと、後悔は大きく違います。悔い改めと、反省も大きく違います。悔い改めは、神に対して罪を犯したことを認めて、神の豊かな赦しを受け入れることです。そして、もう同じ罪を犯さないことです。ユダは、そのいずれをもしませんでした。

2C 祭司長の取得 6−10
 祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。

 ここでは、ユダがイエスを売った銀貨がどうなったかが書かれています。陶器師の畑を買ったとありますが、形造った粘土を焼くかまどの隣に、その畑がありました。焼いている際にひびが入ったりした陶器をそこに捨てていたのです。その場所を祭司長たちが買って、身寄りのない旅人たちの墓地にしたのです。そして、次が大切です。

 そのとき、預言者工レミヤを通して言われた事が成就した。「彼らは銀貨30枚を取った。イスラ工ルの人々に値積もりされた人の値段である。彼らは、主は私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。」

 このように、旧約において、銀貨の枚数、それが陶器師の畑に使われることなど、詳細にわたり預言されていました。祭司長たちは、ねたみによってイエスを十字架につけるように仕向けましたが、神はそれをも用いて、ご自分の計画を定めておられたのです。つまり、私たちすべての者の罪のために、ご自分の御子を死に渡されるという計画を、神は予め定めておられました。

 ところで、この預言は、ゼカリヤ書11章からの引用です。エレミヤが預言したとありますが、確かにエレミヤ書には陶器師の預言が書かれています。マタイは、エレミヤ書の預言を基にしてゼカリヤ書の預言を引用したのですが、その時は、大預言書であるエレミヤの名前を記していると考えられます。

2A 十字架への引き渡し 11−26
 こうして、イエスは祭司長たちの手からローマの総督に引き渡されます。

1B 総督の尋問 11−14
 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに、「あなたはユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に、「そのとおりです。」と言われた。

 総督が、イエスがユダヤ人の王であるかどうかを聞いたのは、イエスに対する起訴状がそうだったからです。ローマには王がいました。皇帝力工ザルですね。祭司長たちは、カ工ザルのみが主であり、王であるのに、このイエスは自分はユダヤ人の王であると主張し、ロ−マヘの反逆と転覆を謀っていると訴えたのです。イエスを死刑にするために、でっち上げた起訴状です。

 しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」それでも、イエスはどんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。

 イエスは、ユダヤ人の王であること以外に、一言も話されませんでした。これは、前回も引用したイザヤの預言が成就するためです。「 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 (イザヤ53: 7)」 このようにして、神のご計画が着々と進んでいます。

2B 総督の赦免 15−26
1C イエスの釈放 15−19
 ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやった。そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕らえられていた。 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。

 ピラトは、イエスが何も悪いことをしていないことに気づいていました。それは、祭司長たちのねたみであることに気づいたのです。それで、彼は何とかしてイエスを十字架に引き渡さないようにすることを考えました。過越の祭りの日には註、特赦によって囚人を釈放することができました。ピラトは、格別、極悪で知られていたバラバを引き合いに出しました。バラバは、社会にとっての危険分子です。このバラバを釈放するくらいなら、イエスを釈放したほうがましであろうと彼らが考えることを期待しました。このように、彼もイエスを正しい人であると認めて、自分の良心からイエスを十字架から救い出そうとしました。

 それを考えたのは、彼だけではありませんでした。次を見てください。また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの、正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しい目に会いましたから。」

 ピラトの妻が、必死に自分の夫を引き止めています。夢で苦しめられたのですが、単なる悪夢ではないことは想像できます。ピラトが裁判の席についているときに、つまり公判中のときに、妻は入り込んできています。裁判の法廷で、裁判官の妻が入り込んで夫に話しかけるのと同じことです。相当な鮮明さをもって、本当に苦しんで、ピラトのところに来たのでしよう。

2C バラバの釈放 20−26
 こうしてピラトは、自分の良心からも、自分の妻からも、イエスを十字架につけるべきではないと考えました。でも、次を見てください。しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説き伏せた。

 ここから、大きく流れが変わります。釈放されようとしているイエスが、十字架につけられるように動きが変わりました。

 しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」ピラトは彼らに言った。では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。


 群衆は、祭司長たちに説き伏せられて、イエスを十字架につけるように叫びました。ピラトは、バラバか、イエスかどちらがいいのか、と聞きました。また、イエスは何も悪い事をしていないのではないか、と言いました。人殺しをして、社会を荒らしたバラバと、愛を説き、人々の病を治されたイエスと、どちらが良いのかと言ったのです。群衆は、バラバを選びました。愛よりも、罪を選びました。平和よりも争いを選びました。正義よりも、不義を選びました。こんなことはおかしいと思うかもしれません。しかし、アダムのときから、人間は同じことを続けているのです。「この木の実を食べたら死ぬ。」と言われている木の実を食べました。人は、良いことよりも悪いほうをあえて選びます。それはキリストの時代も、今の時代も続いています。

 このように、「十字架につけろ」という叫びは、自分は光よりもやみを愛していることを表しています。イエスは、こう言われています。「 光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネ3:19)」多くの人が、今の社会が良くなることを願っています。そのために、奉仕活動をしたり、政治を変えようとしたりします。しかし、そこには「自分」が入っていません。世の中のやみを追い払おうとしますが、自分がやみの一部であることを認めていません。イエス・キリストが光として来られたとき、それは、社会や他の人の暗やみではなく、自分の暗やみが明らかにされます。そのときに、神は恵みをもって彼らを悔い改めに導かれます。しかし、多くの人は、光よりもやみを愛するので、イエス・キリストよりも自分の悪い行ないを愛するので、キリストのもとには来ないのです。そして、この群衆のように、自分の心の中でバラバを選んでいるのです。

 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」

 ピラトは、イエスに十字架の判決を下すことを選びました。彼は、自分の無罪を示すために手を洗いました。しかし、彼も本当は有罪なのです。他の福音書には、群衆がこう叫んでいるのが記されています。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。(ヨハネ19:12)」 ピラトは、前々からカイザルに対して自分に悪い評判があるのを知っていました。 それで、このことで自分が総督の地位から下ろされるかもしれないと考えたのです。彼は、自分の立場が危ぶまれるのを恐れて、群衆の言うことを聞きました。彼の良心も、妻の訴えも、イエスを十字架につけてはならない、と言うものでした。しかし、彼は自分の立場を守るために、良心と妻の助言に反して死刑の判決を下したのです。

 このように、ピラトも、ユダと同じように、イエスを十字架につけることに加担しました。私たちは、神から与えられた良心があっても、立場や外見を守るために、良心に反することはしていないでしょうか。会社において、家族において、学校において、または教会においてでも、体裁を保つために良心に反することをしていないでしょうか。たとえ、良心があっても、もしそれに従わないなら、まったく良心のない人々と同じことをしているに過ぎません。ヤコブは、「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)」と言いました。また、私たちは、イエス・キリストについて、中立な立場を取ることはできないことを知ります。パウロは、「あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり。」と同時に「否。」であるような方ではありません。この方には「しかり。」だけがあるのです。(2コリント1:19)」 と言いました。イエスを自分の主として受け入れるか、さもなければ、イエスを十字架につけるしかないのです。ピラトは、イエスを十字架につけました。

 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもよい。」

 この言葉は驚くほど的確に成就しました。彼らの子どもたちは、紀元70年ローマによって滅ぽされたのです。

 そこで、ビラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 このむち打ちもまた、旧約聖書によって預言されています。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5) 」イザヤは言いました。イエスが受けられたむちは、私たちのいやしのためだったのです。

3A 十字架剤への引き連れ 27−31
1B からかい 27−28
 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。それから、いばらで冠を編み、頭にかぶせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざますいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ぱんざい。」

 彼らは、今のことばでいうとハラスメントを行ないました。虐待、いじめですね。これが、総督の兵士たちであることに注目してください。ピラトはイエスを守るつもりでしたが、その直属の部下たちがイエスをいじめています。ですから、やはりピラトには、イエスの血に対する責任がないということではないのです。自分の立場を犠牲にしてでも、神に与えられた良心を貫くときにはじめて良心が良心として認められるのです。

2B 暴行 29−31
 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。

 ここでの記事も、聖書に預言されています。イザヤ書50章5節です。「 私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。 」イエスは、抵抗しませんでした。そのため、イザヤ52章14節には、「その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。」とあります。このように、神のご計画は、着々と実行されていたのです。

 こうして、私たちは、「イエスを十字架につける」とはどういうことかを見てきました。イエスを十字架につけるとは、祭司長たちのように、自分の罪を認めず行ないによって生きることを示しています。また、十字架につけるとは、群衆のように、光よりもやみを愛することを意味します。また、十字架につけるとは、ユダやピラトのように、良心はあるのだけれども、自分の計画や立場を優先させることを示していました。このように、人のあらゆる醜さと悪い行ないが一つに集約されているのが、イエスを十字架につけることです。

 しかし、忘れてはならないことが一つあります。神がその出来事が起こるようにされたという事実です。世がはじまる前から、これらの出来事が神によって予め定められていたことです。その計画は、ご自分の愛を私たちに示す計画でした。神が私たちを愛されていること、神が私たち罪人のためにキリストを死に渡されという真実です。私たちが、今読みましたイエスの苦しみは、私たちが受けなければならないものです。しかし、イエスは、御父に従い、また私たちを愛して、それをみな受けてくださいました。イエスを十字架につけるそれは、人間の醜さがもっとも良く現れていると同時に、神の私たちに対する愛が、完全に示されているところです。


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