マタイによる福音書28章 「王なるキリストの力」

アウトライン

1A イエスのよみがえり  1−10
   1B 御使いの証言 1−8
      1C イエスの力と栄光 1−4
      2C イエスのみわざ 5−7
   2B イエスの現われ 9−10
   3B  番兵の告白  11−15
2A イエスの宣教命令  16−20
   1B 弟子の礼拝 16−17
   2B 弟子の輩出 18−20
      1C 土台 18
      2C 方法 19
      3C 約束 20

本文

 マタイによる福音書28章をお開きください。最後の章になりました。ここでのテーマは、「王なるキリストの力」です。マタイの福音書は、「ダビデの子」という言葉から始まり、この書全体のテーマが「王なるキリスト」であることを私たちは学びました。前回まで私たちは、キリストの十字架を見てきましたが、それは王なるキリストが無力であったことの証拠ではなく、王なるキリストが私たちを愛されていた証拠でありました。十字架の前後にあった一つ一つの出来事は、すでに神によって設定され、支配されていたのです。そのことをユダヤ人たちは誤解し、自分たちがキリストを殺すことに成功し、彼を葬り去ることができたと思って勝ち誇りました。しかし、それでも不安は残り、墓に番兵を置いたのです。弟子たちも、イエスに仕えた女たちもまた、イエスの十字架を誤解しました。キリストであるべき方がなんと犯罪人と同じようにして殺された、と思ったのです。この方にすべての希望をかけていたのに、宗教指導者やローマの総督の前では無力であったのか、という驚きと失望に満たされていました。

 私たちもとかく、キリストの愛や、キリストのへりくだりを無力さであると誤解してしまいます。日々の生活の中で、際立った神のみわざを見ることはない、キリスト教が世に対して影響力を持たない、などと言った焦燥感を抱いてしまいます。しかし、イエスは、弟子たちを失望の中で埋没させることはなさりませんでした。ご自分が実に、王なるキリストであることを力をもって示されました。そのことをふまえて、本文を読んでいきましよう。

1A イエスのよみがえり  1−10
 まず、イエスはご自身がよみがえることによって、王としての力を示されました。

1B 御使いの証言 1−8
 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。

 このふたりのマリヤが墓を見に来ています。マタイ27章56節を見てください。ふたりは、イエスが十字架につけられているのを見ました。61節を見てください。彼女たちは、イエスが墓に葬られるのを見ました。弟子たちは、27章の初めの裏切り者ユダを最後にして、当の昔に逃げ去っています。けれども、彼女たちは、イエスがたどられた道のそばにすべて付いて来て、今は墓を見に来ました。なぜでしょうか。それは、イエスのそばにいること以外に、彼女たちは生きる方法を知らなかったからです。弟子たちはそれぞれ、自分の職業を持っていました。ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブは漁師、マタイは取税人、シモンは政治団体に加入していました。したがって、イエスにつまずいても、生きることはできたのです。しかし、彼女たちは違いました。マグダラのマリヤなんかは、職業と言ったら、悪霊にとりつかれていることだったのです。このように、ふたりは、イエスのそばにいること以外に生きる方法を知りませんでした。それゆえ、彼女たちがイエスの復活の最初の証人となるのです。私たちも、自分が生きているのがキリストだけだという状況に自分を置いているとき、イエスの復活を経験します。「なぜ、ここにいるのか。なぜ、こんな事をしているのか。」と尋ねられたら、キリストしか理由を見出せないとき、私たちはイエスの復活を体験するのです。

1C イエスの力と栄光 1−4
 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきにころがして、その上にすわったからである。

 イエスの復活を、まず最初に天使が証言しています。地上では大きな地震が起こりましたが、それは天の御使いによるものでした。私たちはとかく、霊の世界はほんわかしたもの、ぼんやりしたものと受け止めてしまいますが、実は目に見える世界が、目に見えない世界に支配されているのです。そして、この御使いは石をわきにころがしました。人間が行なう最善のことを、彼はいとも簡単に取り除けました。彼らは、イエスを証しする御使いの前で無力だったのです。そして、石の上にすわった、というのが私は気に入っています。神のユーモアを感じます。「主は島々を細かいちりのように取り上げる。(イザヤ40:15)」 とイザヤ書にはありますが主の使いにとっては、その石はちりのように取り扱っています。

 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。

 御使いは、主の力だけではなく、主の栄光も反映しています。黙示録1章には、イエスご自身の栄光の御姿が描写されています。「 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。・・・また、・・・顔は照り輝く太陽のようであった。(1:14、16)」とあります。御使いは、この栄光を映し出していました。

 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

 聖書を読むと、多くの人が似たような反応をしています。神に愛されたダニエルが御使いの姿を見て、意識を失って、うつぶせに地に倒れました。また、使徒ヨハネは、イエスの栄光の御姿を見て、その足もとに倒れて死者のようになりました(黙示1:17)。聖徒でさえ恐ろしく倒れるほどなのですから、不信者である番兵はなおさらのことだったでしょう。復活のイエスに出会ったパウ□は、3日の間、目が見えず、ものが言えなかったとあります。

 なぜ、栄光の御姿がそのような影響を与えるのでしょうか。私の考えるところですが私たちには神の啓示を受け入れられる容量があります。信仰をもって、神の啓示を受け入れるのですが、信仰には量りがあって、通常、神はその量りにしたがってご自分のことを現わされます。しかし、時に、一度にご自分のことを現わします。すると、受け入れられる容量をはるかに超えてしまうので、いわばブレ−カーが下りてしまうのです。それで死人のように倒れてしまうのではないのかと思うのです。主の栄光の御姿を見るとは、主のご性質のすべてを一度に見てしまうことです。ちょうど、私たちは太陽の光線の恩恵を受けていますが真っ暗な部屋から出てきて太陽そのもの見たらたちまちショックを受けるでしょう。同じように、主の御姿を見ることはショツクが伴います。

2C イエスのみわざ 5−7
 しかし、御使いは、二人のマリヤを励まします。すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。」

 御使いは、イエスのみわざを伝えています。まず、イエスが十字架につけられたことを伝えています。イエスは、仮死したのではなく、十字架につけられて完全に死亡ました。

 「ここには、おられません。前から言っておられたように、よみがえられたのです。来て、納めてあった場所をごらんなさい。」

 次に、イエスがここにおられないことを話しています。復活のイエスに出会うとは、逆に言うと、場所を特定しないことです。私たちは、自分の思いの中で、このような経験をしたら主に出会っているという固定概念を持っています。それは、不思議な神秘的な体験であったり、自分が何もかも捨てて伝道をする姿であったりします。しかし、それらは、墓を見ていることなのです。そこにはイエスはおられません。それでは、どこにおられるのでしょうか。御使いは、「前から言っておられたように」と言いました。つまり、イエスのみことばに、復活のイエスはおられます。その言葉を正しく受け止めたときに、私たちは復活のイエスにお会いするのです。

 そして、この「前から言っておられたように」というのは、イエスのみことばが、死をも滅ぼす力を持っておられることを示しています。神は、「光よあれ。」と仰せられて、光ができました。イエスは、「わたしはよみがえります。」と言われて、死を滅ぼされました。イザヤ書には、「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(55:11) 」とありますが、イエスの言い送った事は成し遂げられたのです。

 ですから、急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえれらたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

 御使いは、女たちのしなければならない使命を伝えています。弟子たちに、イエスの復活を知らせることです。また、ガリラヤに行って、イエスに出会うことです。なぜ、ガリラヤなのでしょうか。そこは、イエスが最も多くみことばを語られて、最も多くみわざを行われたところです。彼らがそこに行くことによって、イエスのみことばとみわざを思い出します。そして、よみがえられたイエスが、彼らをとおして、同じみわざを行われることを彼らに知ってほしかったのです。

 私たちにもガリラヤがあります。この聖書の学び場はガリラヤでしょう。なぜなら、ここで、イエスの語りかけを受けているからです。また、自分の部屋で祈っているのもガリラヤでしょう。そこで、イエスに語りかけているからです。自分の失望している場、自分が無力感を抱く場から出て行って、私たちは生きたイエスに出会えるガリラヤに向かう必要があります。

2B イエスの現われ 9−10
 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。

 彼女たちも御使いの姿を見たので、恐れがありました。しかし、御使いのことばを聞いて、喜びがみなぎり始めました。死んだイエスがよみがえったことを、彼女は信じはじめたのです。

 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。

 御使いの次は、イエスご自身が復活の証しをされています。「おはよう。」というギリシャ語の言葉は、「喜びなさい。」と言い換えられます。イエスは、彼女の心から恐れを完全に取り除きたいと願われています。彼女の恋慕う主がよみがえられたのですから、その事実を心いっぱい受け止めてほしかったのです。

 彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

 彼女はイエスを拝みました。そして、彼女たちらしい拝み方です。近寄って御足を抱いています。彼女たちは、ただイエスとの関係を望みました。イエスに期待する野望も希望も何もなく、ただイエスのそばにいたかったのです。だから、ここで大事なのは、イエスのよみがえリに対する彼女たちの最初の応答が、礼拝だったということです。イエスは、礼拝を受けるにふさわしい王キリストであります。世界を動かす人物も、また、世界を動かす技術や知識も、死というものを決して支配することはできませんでした。だれも、死に対して力を行使することはできませんでした。 しかし、イエスは、今、王なるキリストとして死を滅ぼされたのです。この方こそまことの王であり、礼拝を受けるに値する方です。

 すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

 イエスは、御使いに託したみことばを、ご自分でも語られています。「恐れてはいけません。」と言われて、彼女たちを励まされています。また、イエスは弟子たちのことを、「わたしの兄弟たち」と呼ばれています。ヘブル書では、「 主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥じとしない 」とあります。(2:11)。それは、 「神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため」 でした。(2:17)。 イエスは、私たちの弱さを知っておられます。すべてを共有して、ご自分に従うように私たちを促されます。何も理解してくれない、ただ命令するだけの主人ではなく、むしろ、すべてを理解し、また、ご自分の考えておられることを心を開いて話してくださり、愛をもって命令してくださるのです。こうして、イエスは、ガリラヤで弟子たちに会うことをくり返し語られました。

3B  番兵の告白  11−15
 女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が墓に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。

 御使いがイエスのよみがえりを伝えて、イエスがご自分のよみがえりを示されましたが、今度は番兵が復活を告白しています。

 「そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士達に多額の金を与えて、こう言った。「夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。」と言うのだ。

 彼らは、番兵にわいろを与えました。そして、嘘をつかせています。でも、よく考えてみてください。眠っていたら、なんで盗んだのが弟子だとわかるのでしようか。この嘘には無理があります。そうです。多くの人がイエスの復活を信じずに、いろいろな説を作り上げました。しかし、どれも無理があるのです。素直にイエスがよみがえられたことを信じるのが最も筋が通っています。

 もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたに心配かけないようにするから。

 兵士たちは、自分が番をしている囚人が逃げた場合、自分たちのいのちが取られることになっていました。それで、彼らは総督にうまく説明すると言っています。でも、彼らによるとイエスはすでに死んでいるのですから、そんなことを心配しなくてもいいはずです。祭司長たちは、動揺しながらも、イエスの復活の事実を認めているのです。

 そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まっている。

 このように、御使いを見た番人によって、嘘が広がりました。私たちは、奇跡的なわざを見るとき、目に訴えるものを見るとき、イエスが生きて働いていると考えがちです。しかし、ここに、あまりにも確かな証拠があるのに、お金によって嘘を言い触らしている人たちを見ます。現象的なことが人に信仰を与えるのではないのです。あくまでも、イエスのみことばを信じることによって、その人は復活のイエスに出会えるのです。

2A イエスの宣教命令  16−20
 こうして、王なるキリストの力はそのよみがえりによって示されました。次に、この章のクライマックス、また、マタイの福音書全体のクライマックスが書かれています。つまり、王なるキリストのカがその宣教命令で宣言されています。

1B 弟子の礼拝 16−17
 しかし、11人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

 彼らもまた、復活のイエスを礼拝しました。この「礼拝」というギリシャ語(προσκυεω)は、4つの福音書の中でマタイに最も多く出てきます。もともとは、「ロづけをもって接する」という意味です。当時の文化では、□づけがあいさつ代わりになっていました。そして、自分と相手の立場の違いによって口づけの仕方が違いました。同等の場合は唇にし、少しだけ違う場合は頬にしました。そして、自分がずっと劣っている場合は、ひざをかがめて、額を地面につけて、ひれ伏してロづけをしたのです。ちょうど、先ほどの女たちの姿が、この言葉がもともと意味していた姿です。したがって、これは普通、権威をもった王に近づくときに行われます。

 ですから、イエスが復活されたことによって、弟子たちはイエスを、王の王、全能の御子として拝んだのです。パウロは、イエス・キリストを紹介するとき、「死者の中からの復活により、大能の神の御子として公に示された方 」 と言っています(ロ−マ1:4)。弟子たちは、イエスに従ってから、数多くのしるしと不思議を見ました。そして、数多くの教えを聞きました。そして、この方こそ、待ち望んでいたメシヤであると信じて疑わないようになりました。しかし、イエスが、「わたしは十字架につけられます。」と話されてから、何が何だかわからなくなったのです。でも、イエスは、十字架につけられることを強調されたのではなく、十字架につけられて殺されても、よみがえるほどの力と権威をもっていることを強調されていたのです。でも彼らは「こんなに数多くの証拠を見たのに、この方がキリストではないはずがない。でも、殺されてしまった。」と思ったのです。彼らは、どん底に落とされたと言えるでしょう。しかし、今は理解しています。病人を治したり、風を制するだけでなく、死をも支配し、死そのものを滅ぼしたということを。まさしく、イエスは神に油そそがれた者、メシヤだったのです。彼らは、そのことに畏敬を感じ、イエスにひれ伏しました。しかし、

 ある者は疑った。

 と挿入されているところが面白いですね。彼らも普通の人間です。これは、私たち人間が根っから疑い深い存在であることを示しています。でも、その「ある者」も、その後、悔い改めてイエスに従い続けたと思います。私たちも、イエスを疑うことは多々ありますが、それでも、悔い改めてイエスに従えばよいのです。

2B 弟子の輩出 18−20
 次にイエスの宣言が始まります。

1C 土台 18
 わたしは、天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

 イエスの宣教命令の土台は、イエスに与えられた「いっさいの権威」にあります。これが、マタイの福音書のテーマの一つでした。イエスは、ダピデの子として血筋に権威があり、東方の博士から拝まれ、山上の垂訓では、「しかし、わたしはあなたがたに言います。」と言われて権威のある者のように話し、それが病人を治したり、悪霊を追い出したりしてその権威を示されました。その権威は、律法学者やパリサイ人のさまざまな詰問にあっても、ゆるぐことなく堅く立っていました。いっさいの権威というのが、マタイの福音書のテーマです。

 そして、その権威は、「天においても、地においても」与えられている権威です。先ほど、天におけるもの、目に見えないことが、目に見える世界を支配していると話しましたが、イエスは、以前にこう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。(18:18)」 イエスによって、天のこと、つまり目に見えない世界と、他のこと、目に見える世界が連動しています。なのに、私たちは、その2つの世界を別々に考えることが多いのです。

 私たちは、信仰を精神的なもの、目に見えないものだけにします。政治や経済はそれはそれとして考え、聖書はまた別の問題である、あるいは、家のことと聖書はまた別のことである、となります。なぜでしょうか。この地上における、イエスの権威を認めていないからです。私たちは、実際の場面において、どちらの権威に従うかの決断を迫られます。親戚に、キリストのことを語るなと言われるとき、それに従うべきでしょうか。会社で日曜日に旅行に行くとき、それに付いて行くべきでしょうか。いや、イエスは、天だけでなく、地においても、いっさいの権威を与えられているのです。このことをしっかりと認識した上で、私たちは次の宣教命令を聞くことができます。

2C 方法 19
 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

 ここには4つの命令が書かれています。「行きなさい」「弟子としなさい」「バプテスマを授けなさい」「彼らを教えなさい」です。けれども、ギリシャ語を見ますと、実は1つの命令しか書かれていません。「弟子としなさい」だけの命令が書かれています。その他の3つは、弟子にしていく方法であります。

 弟子とするのは、「あらゆる国の人々」であることに注目してください。イエスは、かつて12弟子を遣わすときに、「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。」と言われました。けれども、今は、あらゆる国の人々になっています。それは、ユダヤ人が、神のご計画を究極的に拒んだからです。神はアブラハムに言われました。「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。(創世記22:18)」神は、イスラエルを祝福して、イスラエルによってすべての民が祝福される計画を立てられていました。そのためには、イスラエルから救い主キリストが現われて、その方をイスラエルが信じることが必要だったのです。しかし、ユダヤ人は、イエスがメシヤであることを拒みました。そこで、イエスは、異邦人であっても、直接、神の祝福にあずかるようにするように命じられたのです。

 それは、まず、「行」くことによって行われます。弟子たちが、ユダヤ人以外の人々に救いのメッセージを語ることは、到底、考えられないことでした。彼らは、他のユダヤ人と同じように、異邦人は神の契約からはずされており、汚れており、交わりをもってはいけないと信じていました。ペテロがお腹がすいて、お昼が出てくるのを待っていたときのことを思い出してください。うとうとした時に、幻を見ました。食事が出てきたのは良かったのですが、地上の4つ足の動物や空の鳥などだったのです。主は、「ほふって食べなさい。」と言われましたが、ペテロは、「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。(使徒10:14)」 と言ったのです。しかし、彼は聖霊の導きによって、ようやく、異邦人コルネリオに福音を語ったのです。けれども、異邦人が救いにあずかることが教会として公に認められたのが、使徒行伝15章まで出て来ません。ですから、弟子たちにとって、「行って」というみことばは、自分の常識や信念、そういった枠組みから出て行きなさい、ということでした。私たちにも、いろいろな常識や信念を持っていますね。イエスは、そこから出て行きなさいと命じられているのです。

 次に、「バプテスマを授け」ることによって、弟子にします。バプテスマとしては、福音書ではヨハネのバプテスマがあります。悔い改めのバプテスマですね。真に悔い改める者が、イエスの弟子になることができます。ただ、ここで、「父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授け」るとあります。バプテスマに新しい意味が加えられました。ヨハネのバプテスマは、行ないを改めることに強調点が置かれていました。 しかし、今は、関係を改めることに強調点が置かれています。なぜなら、三位一体の神に対して悔い改めをするからです。つまり、こう考えます。「今まで自分が歩んできた道は、神に敵対した道であった。けれども、今、方向を変えて、神に服従する道を歩まなければいけない。」自分がイエスに敵対していた、という認識が必要です。私たちも、祭司長や群衆のように、「十字架につける」と叫んでいたことを認めなければいけません。そのことを悲しんで、イエスに従うことが悔い改めることです。このように、2つめの方法は、バプテスマを授けることでした。


 そして3つめは、「教え」ることによって弟子とします。イエスのみことばに聞く態度を持つ者が、真の弟子になれます。マルタとマリヤの話を思い出してください。マルタは、イエスをもてなすために多くのことをしましたが、一つ大事なことを忘れていました。その大事なことをマリヤはしていまいた。イエスのみことばに聞き入ることです。彼女は、イエスの口から出る一つ一つのことばを、自分の呼吸の息のようにして受け止めていました。それがなくては、生きていくことができないから聞いていたのです。ですから、イエスのみことばに聞くとは、教授の講義を聞く学生ではなく、墜落しそうになる飛行機の乗客であります。その人は、救命道具の装着の仕方を注意深く聞きます。その一言一言を、自分を死から救う言葉として聞くでしょう。ですから、弟子になるには、イエスの命じられたみことばを、それほど真剣になって聞き入ることが必要なのです。つまり、イエスのみことばを教えることが、3つめの方法でした。

3C 約束 20
 このような大きな使命を、イエスは弟子たちに課されわけですが、到底、自分ではできません。それで、イエスは約束を与えられます。

 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

 弟子たちの使命は、イエスがともにいてくださることによって果たされます。そのイエスは、死をも滅ぼされた力あるイエスです。また、天においても、地においても、いっさいの権威を与えられたイエスです。ですから、弟子たちの宣教は、王なるキリストの権威を世に知らしめて、多くの者をキリストの主権の下に置くことであります。そして、その使命は、世の終わり、つまり、キリストが再び来られるときまで続きます。私たちの生きている目的は、この生きているイエスのそばにいることです。イエスと交わりをすることです。二人のマリヤのようにイエスを慕い求めて、常識から出て行き、真に悔い改めて、みことばに真剣に聞き入ってください。そうしたら、復活のイエスが約束された、「あなたがたとともにいます。」というみことばを、身をもって体験するでしょう。


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