マタイによる福音書3章  「公に現れた王キリスト」


アウトライン

1A  バプテスマ・ヨハネの説教
   1B  悔い改めの備え
   2B  説教者の紹介
   3B  説教の詳細
     1C  罪の告白
     2C  実
     3C  さばき
     4C  来るべき方
2A  イエス・キリストの受洗
   1B  正しいことの実行
   2B  御霊と御父の確証


本文

 今日はマタイによる福音書の3章を学びます。私たちは前回から、キリストが王として来られたことを学んでいます。2章においては、世に現れたキリストについて学びました。すなわちキリストの誕生です。3章からは、人々の前に公に現れたキリストについて学びます。それでは早速、1節から読んでいきましょう。

1A  バプテスマ・ヨハネの説教
1B  悔い改めの備え
 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 キリストが公に現れる直前に、バプテスマのヨハネという人が、 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 と宣言しました。まず彼は、人々に悔い改めることを呼びかけました。「悔い改める」とは、ギリシャ語で「思いを変える」という意味です。けれども、日本語でも、「悔いて改める」とありますから、その意味がわかります。つまり、自分が今まで行ってきたことを悔いて、思いを変えて、行いを改めることを言います。

 悔い改めなければいけない理由としてヨハネは、「天の御国が近づいたから。」と言いました。この「天」とは、神がおられるところです。聖書では第三の天とも言われますが、神の御座がある場所です。つまり天の御国とは、神が完全な支配をしている場所であると言えます。神が主権を持っておられる場所や状態を言います。ヨハネは、「天の御国が近づいたから。」と言っていますが。それは、天の御国の王、神の国の主権者であるキリストが、間もなく来られようとしているということなのです。したがって、キリストをお迎えするために、悔い改めなさい。自分の過去を悲しんで、思いを変えて、行いを改めなさい、と宣言しているのです。

 逆に言えば、私たちは、天の御国に、神の支配に反逆していたことを意味します。神の言われることに背き、自分勝手に歩んでいたのです。この状態を聖書では「罪」と言いますが、私たちは皆、キリストを受け入れるために、自分の罪を悔い改めなければいけません。このように、バプテスマのヨハネは、王であるキリストをお迎えするために、悔い改めなさいと宣言しました。

2B  説教者の紹介
 次に、説教者であるバプテスマのヨハネの紹介が書かれています。この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。

 ここに、悔い改めの説教者であるバプテスマ・ヨハネの説明が書かれています。彼は、旧約聖書で預言されていた人物でしたが、その役目は 「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにする」ことです。王がある地域を通られる時、その前に先駆者として走る人物がいます。昔、将軍を乗せた籠が或る地域を通れば、その前に将軍が来る事を布告して、将軍の来られる準備をせよ、という人がいたはずです。それがここで預言されている人物ですが、バプテスマのヨハネがキリストの来られることを前もって布告する先駆者でした。彼は、人々の心をまっすぐにしなければならなかったのです。悪の道から立ち返って、主の道を歩むために、彼らが悔い改めなければいけませんでした。

 そして次に、ヨハネの生活様式が紹介されています。このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。

 これは2列王記1章に出てくるエリヤの姿に似ています。「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした。」とあります。ヨハネもエリヤのように、単刀直入の妥協のない説教をして、腐敗していた支配者に対峙しました。また、いなごや野蜜を食べるなど野外で生活を送っています。1節を見ると、説教もユダヤの荒野で行われており、社会で認められているユダヤ人の宗教指導者とは対象的です。事実、6節から退廃していた宗教者たちを糾弾しているのを読むことができます。

3B  説教の詳細
 そして次に、悔い改めの説教の内容にはいっていきます。

1C  罪の告白
 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

 ヨハネの悔い改めの説教の結果、彼らは自分の罪を告白してバプテスマを受けました。悔い改めには必ず罪の告白が伴ないます。「告白」のもともとの意味は、「神が見ているように見る。」ということです。神が罪だと言われているものに、自分も罪であると認めることが告白です。

 例えば、今まで電車のキセルをしてきた人が、聖書にある、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」という戒めを読むとします。そこで彼が、「私は、今まで駅員の人に、嘘をついてきました。」と神に申し上げる時、罪の告白をしたことになります。キセルは盗みでもありますから、「私は泥棒をしました。」と言ってもいいかもしれません。ところが、「誰でもやっていることなんだから、今さら何を。」と考えるのであれば、それは告白ではありません。聖書には、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者は、あわれみを受ける(箴言28:13)」とあります。

 また、「口で、言い表わせばいいんでしょう。『私は嘘をつきました。』」というのも、告白ではありません。罪を言い表している相手は、神という人格をもっておられる方なのです。それは、真実のこもったものでなければいけません。聖書にはこう書かれています。「罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。 あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。(ヨハネ4:8−9)」 彼らは、ヨハネの説教を聞いて、悔い改めて罪の告白をしたのです。

 また、そのとき彼らは、水に浸かるバプテスマをヨルダン川で受けました。ヨルダン川の中に浸かることは、霊的には、死ぬ事を意味します。バプテスマの儀式では、水が墓であり、その中に自分が入る事によって、罪に支配されていた古い自分が葬られることを象徴します。クリスチャンにとっては、こうした意味のほかに、キリストにつながれることも意味します。こうして、彼らはバプテスマを受けることによって、自分が悔い改めたことを公に示しました。

2C  実
 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。

 文が、「しかし」で始まっています。パリサイ人とサドカイ人が、罪を告白している人々とは対照的に描かれています。つまり悔い改めていない集団に対して、ヨハネは話し始めています。どちらもユダヤ教の宗派ですが、パリサイ人は、聖書の一字一句を厳格に守っている人たちとして知られていました。しかし現実は、外面だけの行いになっていて、内実がともなっていなかったのです。ヨハネも、後にイエスも、彼らの形式主義を非難しています。またサドカイ人は、投じの物質主義者です。復活や天使など、目に見えないものや超自然的なものを否定しました。イエスは彼らに、「あなたがたは、聖書も神の力も知らないからです。(22:29参照)」と言われました。

 しかしどちらも、宗教者として人々に認められていました。そうした彼らに対するヨハネのことばは何でしょうか。彼はこう言っています。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

 彼らは、宗教を持っていましたが、悔い改めていなかったのです。それでヨハネは、彼らが悔い改めていないことをどのようにしてわかったでしょうか。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と彼は言っています。変えられた生活と人生が、悔い改めたことの証拠です。もしそれらがなければ、いくら宗教を持っていると言っても、悔い改めた事にはなりません。クリスチャンはとかく、イエスを主と口で言い表した人々を、「救われた。」と表現しますが、その後の生活が変わっていない人たちが多くいます。それでは、救われたと言っても、まったく意味がありません。私のようなペーパー・ドライバーは自動車を運転できないので、免許を持っていてもどうしようもないですが、行いが伴なわないでイエスを信じていると言っても、どうしようもありません。ヤコブ書には、「行いの伴なわない信仰は、死んでいるのです。(2:26)」と書かれています。悔い改めにふさわしい実を結ぶ必要があります。

 そしてヨハネは、パリサイ人とサドカイ人の持っている、誤った確信を指摘しています。「われわれの先祖はアブラハムだ。」と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

 彼らは、民族的な救いを信じていました。確かにイスラエル民族は、終わりの日に皆が救われます。けれども、あくまでも、悔い改めをする残りの者と呼ばれる人々が救われるのです。けれども彼らは、アブラハムの子孫であるなら、自動的に天の御国に入る事ができると信じていました。

 日本人はどうでしょうか。普通は死んだ人を仏教式で弔います。お坊さんにお経を唱えてもらって、私たちが定期的に供養します。けれども、そのことを行って死んだ人の魂が浄化されると、どれほどの人が信じているでしょうか。事実は皆がやっているから、私も同じ事をしておけば、死んだ後も何とかなるだろう、とぐらいしか考えていません。これは、「われわれの先祖はアブラハムだ。」とパリサイ人やサドカイ人が言っているのと同じレベルの確信です。けれども聖書は、救いは個々人の決断にかかわっており、悔い改めてキリストを信じなければ救われない、とはっきり告げています。

3C  さばき
 それでは、悔い改めなければどうなるのでしょうか。10節を見ましょう。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

 ここでの火は、「ゲヘナ」と言われる神のさばきの場所を示しています。黙示録には、「火の池」と書かれています。「悔い改めない者たちは、この火の中に投げ込まれます。」とヨハネは宣言しているのです。けれども、誤解しないで下さい。「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富」んでいると聖書に書かれています。神はあなたが悪いことをするのを待っていて、鞭をもって打つような、サディスティックな存在ではありません。むしろ、どんなに悪いことをしていても、その人が悔い改めて悪から立ち返ろうとするなら、あわれみを豊かに施してくださる方です。そしてキリストが来られたのは、まさにこの救いのためなのです。さばきのためではありません。

 イエスはこう言われました。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなくて、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)」神は誰もが救われて、この恐ろしい火によるさばきを免れてほしいと願われています。そのために、御子を十字架の死に明け渡し、あなたの罪を彼の上に負わせたのです。けれどもパリサイ人やサドカイ人のように、いつまでも悔い改めないのなら、その人にはかみのさばきしか残されていません。

4C  来るべき方
 次にヨハネは、実際にさばく方が間もなく来られることを宣言しました。私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

 ここでヨハネは、自分自身とキリストとを比較しています。まず、自分よりも力ある方と言いました。ヨハネは神のことばを語る預言者ですが、キリストは神ご自身です。そしてヨハネは、その方のはきものを脱がせてあげる値打ちもない、と言いました。当時、ユダヤの教師ラビの弟子達は、先生のしもべのようになることが期待されていました。けれども、弟子であっても、はきものを脱がせることはいやしいものとされました。けれどもヨハネは単に謙虚だということではなく、キリストが私たち人間の次元をはるかに超えた存在であることを示しているのです。そして、「その方は、あなたがたに聖霊と火のバプテスマをお授けになります。」と言っています。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、イエス・キリストは聖霊と火でバプテスマを授けられます。

 この「聖霊と火のバプテスマ」とは何でしょうか。2つの意味が含まれますが、1つ目は、この話を聞いているパリサイ人やサドカイ人に対するものです。つまり、悔い改めていない者に対するバプテスマです。12節を見て下さい。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

 再び「火」が出てきましたが、悔い改めない者に対するバプテスマは神のさばきです。収穫された麦は、空中に舞い上がらせます。そして、そのまま落ちるのが麦でそれは倉に入れられますが、殻は火によって焼かれるのです。つまり、私たちは悔い改めている者とそうでない者にわかれますが、今はどちらも同じようにこの世に生きています。しかし、キリストが来られる時、悔い改めた者は倉の中に、その他の者は消えない火で焼かれるのです。永遠に、火の中において苦しみを味わいます。

 2つ目の「聖霊と火のバプテスマ」は、悔い改めてキリストを信じ、この方に従っている人々に対するバプテスマです。イエスは復活されたあと、弟子たちに話されました。「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。(使徒1:5)」これは、イエスの証しをするための聖霊の力が、私たちに臨むことを意味します。聖霊が臨まれるとき、私たちは、心にある汚れた部分がきよめられるのです。怒り、ねたみ、争い、情欲などの肉の汚れが、火によって燃え尽くされるのです。こうしてヨハネは、王なるキリストが公に現れることと、この方をお迎えするために悔い改めなければならないことを宣べ伝えました。

2A  イエス・キリストの受洗
 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」

 キリストが人々の前に公に現れるとき、まず最初に行われたのはこのバプテスマです。しかし、ここでヨハネが拒否しているように、キリストは悔い改める必要のない方です。むしろ、バプテスマを授けているヨハネ自身が、自分の罪を告白してイエスからバプテスマを受けるべきなのです。なぜイエスは、ヨハネからバプテスマを受けることを、まず初めに行ったのでしょうか。

1B  正しいことの実行
 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」

 イエスは、ヨハネからバプテスマを受けることを「正しいことを実行する」と言われました。キリストは、ご自分に従う者たちの模範になるために、このことを行いました。つまり、キリストにつく者たちが水のバプテスマを受けることの大切さを、身をもって示されたのです。そして面白い事に、イエスは後に教えを始められますが、何も教えないうちに実行されました。人々に教えてから、ご自分でも実行されたのではなくて、実行されてから教えたのです。これと正反対なのがパリサイ人たちですが、イエスは弟子達にこう言われました。「彼らが言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らのまねをしてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。(マタイ23:3)」

 クリスチャンたち、特に教える奉仕に携わっている人たちが気をつけなければいけないことです。人々に教えておきながら、また、キリストのことを宣べ伝えておきながら、それを実行しない者になってはいけません。むしろ、教えることを実行して、人々の模範とならなければいけません。イエス・キリストは、黙示録で、「忠実な証人」と呼ばれています。父なる神を忠実に証しされたのです。したがって弟子たちに、「私を見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:7)」と言われました。キリストを見れば、神を見ることが出来ました。同じように私たちは、「イエスの証人」と呼ばれています。私たちを見れば、キリストを見ることができるようにしなければいけないのです。

2B  御霊と御父の確証
 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

 こうしてイエスはバプテスマを受けられました。ここから、公の働きが始まります。このことを御霊と御父が確証しています。御霊は、鳩のように下って、イエスの上に来られました。そして、御父は天から、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と言われました。三位一体の神が、イエスの公の働きにおいても、ともに働かれるのです。

 以上、王なるキリストが公に現れるときの話を読みました。私たちは悔い改めをもって、この方を受け入れなければいけないことと、キリストの模範に従わなければならないことを学びました。次回は、王なるキリストご自身が、試みをもって公の働きの備えをされる部分を学びます。


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